明治10年(1877年)9月24日は西南戦争が終結した日です。
2018年の大河ドラマ『西郷どん』の西郷隆盛は、庶民のことを第一に考える現代的人格者であり、
「民が腹いっぱい食える世の中にしたい!」
と常々叫んでいましたが、現実問題、西南戦争はドラマのように甘くはありません。
なにせ規模の大きな内戦です。
戦場ではバラバラになった肉体や死体が散乱し、疫病も蔓延。
それを官軍兵士が日本各地へ持ち帰って全国規模で流行する――国内でパンデミックの様相まで呈したほどです。
ドラマでこそ現代的な人格者として描かれてきた西郷ですが、史実では好戦的な性格でも知られており、西南戦争もリアルで見ると悲惨極まる戦いでしかありません。
多くの「民」も巻き込まれ、犠牲になりました。
「腹いっぱい食える」どころか、巻き込まれて死んでいったのです。
本日は、西郷という英雄を今一度考察しながら、ほとんど注目されることのない【西南戦争・負の一面】にフォーカスしてみましょう。
東京の江戸っ子たちには娯楽だった
明治10年(1877年)。
鹿児島で西南戦争が勃発すると、東京では西郷に声援を送る人々が続出しました。
「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまが今にまたお帰りになるに決まってらァな」
「そうよ、そうよ」
江戸っ子は熱く語り合っておりました。
西郷贔屓というよりは、反明治政府というスタンスだったのです。
西郷は、いわば「敵の敵は味方」であり、彼らは西南戦争の結果に一喜一憂、戦争の情報が掲載された新聞を我先にと買い漁りました。
和紙中心の瓦版から西洋紙での新聞需要が上回る――。その背景には、こうした新聞の過熱報道があったのですね。
西南戦争を題材とした錦絵(多色刷りの版画)も、毎日のように発行、飛ぶように売れました。
それだけではありません。日本全国で、西南戦争を題材とした歌舞伎が上演され大ヒットします。
ちょっとした戦争フィーバーであり、西南戦争とは人々にとって娯楽にもなっておりました。
「火星の中に見える」といった西郷隆盛生存説も、こうした肩入れや興奮から生まれたものでしょう。
戦争を娯楽として楽しむ――そんな様子を聞いて皆さんはどう思われます?
現代では無人機が敵拠点を爆撃して、その映像は、もはや別次元のものとして流され、「まるでテレビゲームのようだ」なんて批判されることがあります。
被害者の血すら見えない。ゆえに娯楽感覚で楽しんでしまうというのは、実は西南戦争当時の江戸っ子たちも同じだったのですね。
人々は、血しぶきや死体と無縁であり、それでいて華麗で派手な錦絵や歌舞伎を通じて、娯楽を享受していたのです。
戦争の惨禍を、リアルとして認識できるかどうか。
それはメディアの責任というよりも【距離感の問題】でしょう。
江戸っ子だって、ほんの十数年前には、他ならぬ西郷隆盛の指示による薩摩御用盗で江戸を荒らされ、あるいは上野戦争では多くの幕臣たちが酷い殺され方をしています。
そのときには、生々しい死がありました。
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しかし、今日、皆さんが抱く西南戦争のイメージっていかがでしょう?
西郷隆盛が、己の信念に従って死を選んだ――。
そんな印象の方が少なくはないでしょう。とても聞こえのいい言葉でありますが、それはあくまで戦地から離れいてた江戸っ子の感覚と同じ。
戦場あるいはその付近はまさしく地獄でした。
二度にわたる内戦を引き起こす
西郷隆盛という人物を考える上で、重要な点があります。
それは【戊辰戦争】と【西南戦争】という大きな内戦を、10年以内に2度も起こしたということです。
言うまでもありませんが、戦争とは人々の命を奪い、生活の場を破壊し、モラルまで荒らすものです。
そして内戦とは、同国民同士が殺し合う、最悪の事態と言えましょう。
幕末以来、外国からの脅威を感じ、国内が一致団結して困難に立ち向かうべき――そんな場面で二度の大きな内戦を起こした西郷。
いくら綺麗事が並べられようと、この事実だけは曲げられません。西郷という大人物を振り返るときに、避けては通れないところです。
では、一度目の戊辰戦争とはどんな戦いであったか?
幕府サイドの佐幕派は言うまでもなく、薩摩藩や岩倉具視ですら「武力倒幕は下策である」と認識しておりました。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
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なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めたのか?岩倉や薩摩藩は“下策”に反対
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実はこの内戦、事前に阻止すべく動いていた赤松小三郎が、桐野利秋に殺害されています。

赤松小三郎/wikipediaより引用
赤松は、元々薩摩にゆかりの深い人物だったのに、そんな彼が殺害されてまで、この内戦は引き起こされたのです。
このとき、西郷が相楽総三らを使嗾(しそう・けしかけること)してまで、江戸を戦火に巻き込もうとしていたことは紛れもない事実。
江戸っ子は、薩摩の暴虐から人々を守ろうとした庄内藩に対して声援を送っておりました。
本意じゃなかった?江戸無血開城
おそらくや「江戸無血開城」のイメージが現代人の目を曇らせてしまうのでしょう。
まるで西郷隆盛が率先して「流血を避けた」ようにすら描かれたりしますが、その背景にはイギリスの圧力や、勝海舟・山岡鉄舟など幕臣の努力がありました。
決して彼自身の功績でも考えでもありません。
実際、江戸が戦火に包まれなかっただけで、関東から北海道まで、日本中で戦争は起きています。
特に新政府軍の侵攻で東日本の民は苦しまされ、北海道の防衛はがらあきとなり、アイヌの人々にまで悪影響を与えました。
それがいかに悲惨だったか。ご興味のある方は以下の記事をご覧ください。
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戊辰戦争のリアルは悲惨だ|生活の場が戦場となり食料を奪われ民は殺害され
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とはいえ西郷自身も、戊辰戦争では苦しみを味わいました。
弟・西郷吉二郎と妹・琴子の子、つまりは甥にあたる市来嘉納次を失っているのです。
精神の荒廃と政治への不満の中で
こうして苦しみながらも勝利した明治維新。西郷隆盛が満足感と安心感を得られたか?というと、そうではありません。
むしろ精神は荒廃してゆくのです。
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あの西郷も倒幕の重圧でメンタルはボロボロ?いつだって中間管理職は辛いよ
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そんな不安定な精神のまま迎えた対立が明治政府内での「征韓論」であり、そしてそれが「明治六年の政変」へと繋がっていくのでした。
西郷の心身不調は、周囲から見ても異常なほど。
朝鮮半島に身一つで出向き、自ら殺害されることで、朝鮮半島と戦争をしたがっている――ように見えるときもありました。
この辺りのエピソードにも西郷特有の性格が見えてしまいます。
「江戸城無血開城」でもあったような、身一つで相手の懐に飛び込む――よくいえば豪胆、悪くいえばギャンブラー的な気質。
こうした危うい状況の中、真偽すらハッキリしない暗殺疑惑等を経て、西南戦争は勃発してしまうのです。
本当の生き地獄がそこにあった
では、西南戦争が起こった結果、殺された兵隊の遺体はどう処理されたか?
人々の暮らしはどうなったか?
凄惨な過去に蓋をせず、当時の記録を振り返ってみたいと思います。
死屍累々
諸外国からの銃が導入されるなど。
激しい戦争が起き、当然ながら、周辺は死屍累々となりました。
そこには「官軍、薩軍ともに死体損壊をした」という記録が残されております。
試し切りの跡があるもの。
追い詰められて絶望していたせいか、捕虜をバラバラにして木に縛り付け放置したもの。
捕虜殺害の禁止は徹底されていたはずですが、薩軍はそんなことも言っていられませんでした。
当時の銃弾は鉛製です。
鉛製の弾丸は摘出できなければ、手足ごと切断するほかありません。戦場には切り落とされた四肢がそこら中に転がっています。
内臓がはみ出した死体。
脳みそがこぼれた死体。
……見るに堪えないほど無残な死体があふれ、埋葬すら間に合わず、海に遺棄されるものも大量にありました。
薩軍は敵への憎しみのあまり、官軍警視隊の埋葬を一時禁止したこともあるほどです。
放置された遺体は?
例えば動物の餌食となるなり、見るに堪えかねるほど無残な有様と化していきました。
人肉食
映画『野火』では、太平洋戦争下での人肉食を描いたことで話題をさらいました。
戦場における人肉食は、戊辰戦争や西南戦争でも記録が残されています。
田原坂の戦いで苦戦した官軍では、敵兵の死体を斬りつけ、肉を口に運ぼうとしているものもいたとか……。
あるいは牛肉があったと称して、人肉を運んでくる者がいたとか……。
恐ろしいほどの戦場の狂気。
信じられない話かもしれませんが、残念ながら記録にも残されていることです。
同じような人肉食の話は、戊辰戦争のときにもありました。
犠牲となった子供たち
会津戦争で屈指の悲劇といえば、白虎隊の集団自刃が必ず挙げられます。二本松少年隊の悲劇も知られております。
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白虎隊にありがちな三つの誤解~例えば全員が自刃したわけではありません
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西南戦争でも、幼い少年たちが従軍しました。
西郷隆盛の長男である菊次郎と甥・市原宗介もそうした者にあたります。

西郷菊次郎/wikipediaより引用
菊次郎は脚の切断という悲運に見舞われましたが、それでも他の少年よりは恵まれていたかもしれません。
兄弟そろって命を落とすような少年兵も、西南戦争ではおりました。
南洲神社の墓地(→link)には、「少年烈士」の墓があります。ここに葬られている少年は14歳です。
犠牲となったのは、こうした少年兵だけではありません。
戦地となった場所では学校が閉鎖され、子どもたちの心も荒れ果てました。当時、石をぶつけ合い暴れる目撃談が残されています。
女性たちも平然と遺体を見るようになった、と記録されています。人の心はこれほどまでに荒廃しきるものなのか……と、当時の記録者は書き残しております。
動員、虐殺、暴行される民衆
少年たちの平穏な日常すら、一変させてしまった西南戦争。
大人となれば、さらに過酷な運命が待ち受けておりました。
軍夫
戦争というものは、兵士だけでは成立しません。
食料や弾薬を運搬する軍夫が必要となって来ます。映像化作品では省かれることも多い存在です。
薩軍、官軍共にこうした人員を【強制的に徴募】しました。
人員が不足するあまり、数あわせのために老人、病人、女性すら動員されることもありました。
一応は給与が出るとはいえ、支払われたとは限らなかったようです。
最初のうちこそ定められていた基準も、時間経過とともに守られることなく、無給で酷使されることもあったわけです。
たとえ給与が出たとしても、死傷してしまってはどうしようもありません。
軍夫は兵士より一段下として見られ、扱いがよいとは言えないものでした。
一方、働き手が奪われた地域では、農作業の停滞を招くことにもなります。
軍夫供出を拒む地域、くじ引きで決める地域もありました。
徴募すら、戦争長期化にかけてどんどん困難となっていったのです。
アウトローである博徒が軍夫となり、近隣住民に危害を加えることもありました。いろいろな面において、大迷惑をかけた話なのです。
女性の動員
徴募されたのは男性だけではありません。
女性も、食料調理のために徴募されることがありました。
食料・物資徴発
西郷隆盛の軍勢は、武器弾薬や食糧不足のまま挙兵した一面があります。
官軍も物資が豊富とは言えません。
ゆえに両軍ともに、地域から食料や物資を徴発しました。
戦場となった地域には、焦げ付いた飯が投げ捨てられていたという目撃談もあります。本来は地域住民が食べるはずのものが、時に無残な扱いをされたのですね。
しかも、です。
農作業の停滞と食料の徴発は、戦後まで食糧難として影響を与えることになります。
こうした徴発の際、官軍は料金を支払いましたが、ロクな準備をしなかった薩軍は支払う気なんてありません。
要するに、掠奪したわけです。
奪われる土地と家屋、焼かれる町や村
田原坂には当初、住民がおりました。
しかし「戦うためだ」として追い出され、別の村へ。
と思ったら、今度はそこで入ってくるな、と追い払われたりします。
家屋も接収されてしまいます。
元が田畑であった場所では、当然のことなばら農作業ができなくなります
熊本城下はじめ、作戦と称して焦土と化した市街地もありました。
拷問、惨殺、婦女暴行
両軍ともに地域住民を苦しめた内戦。
突発的な残虐行為は薩軍に目立ったようです。
スパイ容疑だと地域住民を引き立て、残虐な見せしめ暴行殺害まで行われました。
官軍と比べて薩軍は、かなり不利な状況。
残虐さによる恐怖支配を行うほかなかったのです。
薩軍の婦女暴行は、はじめのうちこそ抑制がなされていました。
しかし追い詰められてゆくと、そうもいかなくなってゆきます。
敗戦の憂さ晴らしをするかのように、大分県南の女性に暴行を加えた記録が残されています
巻き添え
避難できず、戦場の巻き添えになる住民もおりました。
この西南戦争は、官軍の海軍力が大きな役割を果たしたものでもあります。
艦砲射撃に巻き込まれて命を落とす住民もおりました。
農民一揆
西南戦争の影に隠れているかのようですが、呼応した農民一揆も、戦場となった地域の阿蘇等で発生しています。
農民兵が自主的に薩軍に加わることもありました。
しかし温かく受け入れられたのか?というと、そうではありません。
士族より格下の扱いを受けた挙げ句、戦争後は忘れられたかのような扱いを受けています。
一方で戦争バブルも
「戦争はプラスになる」と考えた――たくましい民がいなかったわけではありません。
焼きとうもろこしを売って一儲け狙うもの。
落ちた弾丸を拾い集め、小銭稼ぎをするもの。
戦場見物をする者。
そうした人々もおりました。
戦場では、薬莢、肥料となる牛骨、時計が落ちており、住民はこうしたものを拾っては商人に売り払ったのです。
彼らのことを、単に『タフだなぁ』と笑うことはできないでしょう。
農業も商売も、停滞していたのですから、日頃の作業に従事することもできません。
需要が高まるものもありました。
軍装に使われるメリヤスや、新聞の大量発行に必要となる西洋紙。
戦地では物価が上昇し、ちょっとしたバブル状態も迎えました。
こうした戦争バブルは、日本近現代史を語る上で見逃せないものです。
1894年~の日清戦争で多額の賠償金を得た日本は、戦争バブルを実感しますが、その十年後の日露戦争では一応の勝利としながらも経済面ではアテが外れ、
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市民の暴動や不満へと繋がりました。
戦争パンデミック
西南戦争の戦地から離れた人々は、錦絵や新聞を見ては手に汗を握っていた――それは確かなことです。
では、何の被害もなかったか?
というと、実はそうではありません。
幕末から明治にかけて見落とされがちなこととして、パンデミック時代だったことがあげられます。
世界的に流行したコレラや麻疹は、容赦なく人々の命を奪いました。
屯田兵や入植者が移り住んだ北海道では、彼らの持ち込んだ病が、抵抗力の低いアイヌの人々に流行拡大し、多数の犠牲者を出しております。
西南戦争も、こうしたパンデミックを引き起こしております。全国から人々が集められるとなると、その中に保菌者がいてもおかしくないわけです。
そんな保菌者がいたであろう戦場で戦った兵士が地元へ帰国し、病気がドンドン広まります。
遺体が放置されるだけでも相当危険。
特に、5月頃から戦地となった場所では天然痘の集団感染が確認され、負傷ではなく病に苦しむ兵士も続出しました。
夏になると、コレラの患者も多数確認されるようになってゆきます。
西郷隆盛が自刃する9月には、長崎、鹿児島、横浜でコレラが急速に広まりつつあり、原因不明の嘔吐や下痢症状も猛威をふるいました。
更に戦争から2年後の明治12年(1879年)には、全国的なコレラ大流行が発生します。
こうなったら、もはや勝者も敗者もありません。
官軍の第一旅団長であった野津鎮雄(のづ しずお)少将は、鹿児島でのコレラ流行を目の当たりにしました。
彼の見ている目の前で、親族の女性二人がコレラで死亡。傍らでは、母の死を理解できない幼子が遊んでいました。
さしもの勇将も、あまりのことに胸がつぶれて、足早にその場から去るほかありません。
野津は西南戦争前、同郷の西郷の暴走をみかねて戦争回避に尽くしていた人物です。
その無念がいかばかりであったか。
心中察するにあまりあるものが……。
見えなくなる赤い星
西南戦争で苦しんだ兵士、そして民衆の実像を見てゆくと、惨憺たる歴史に思わずため息をつくほかありません。
しかし、奇妙なことがあります。
これほどまでの地獄を出現させた西郷隆盛がほとんど全く責められたりしないことです。
彼に対する英雄視はむしろ大きくなり、その一方で、大久保利通や川路利良が責められ、ときには【桐野利秋が暴走したせいで戦争になった】という論調すら見かけます。
おそらくや西郷隆盛が、反政府の星として崇拝されたことが一因でしょう。
中江兆民、内村鑑三はじめ、政府への不満を抱いた人々は、その思想の中で、
「南洲翁すら生きておられれば!」
と、まるで救世主のように西郷を崇拝しておりました。
その理想論こそが「西郷星」伝説でもあります。
ドコか源義経を彷彿とさせるような……西郷隆盛は生きていて、ロシア皇太子とともに来日して国を救う――そんな伝説まで流布されていたほどです。
あるいは
「南洲翁さえ生きていれば、アジア諸国を道徳的に従えることができた」
なんて理想論も見かけます。
明治22年(1889年)。
西郷隆盛は新憲法発布にあわせて名誉が回復され、正三位を追贈されました。
そして明治31年(1898年)、上野公園には銅像が建てられます。
犬を連れて浴衣を着た、どこかノンビリとした「西郷さん」の姿。
夫人の西郷糸子は「ンだども、ンだとも、やどんし(宿主=夫)はこげなお人じゃなかったのに……」と発言したというエピソードがあります。
真偽については諸説ありますが、ともかく明治政府としては銅像を軍服姿にして【軍人・西郷】のイメージを広げたくなかったのでありましょう。
神格化されていく西郷は、あくまで西南戦争を起こした厄介な人物なのです。
銅像で無害化された西郷隆盛
彼が生きていたころ持ち合わせていた【戦闘的な人物像】。
それは上野公園に立つ銅像によって、現代の我々には伝わらないよう上書きされてしまいました。
現在、メディア等で用いられる西郷隆盛のイメージは、あの親しみやすい銅像を元としたものがほとんどでしょう。
しかし……。
西郷隆盛没後140年。
明治維新から150周年にあたる2018年。
2018年こそは、あの銅像とは異なる、実像の西郷隆盛に迫るよい区切りとなるはずでした。
西郷を中心とした大河ドラマ『西郷どん』。
1年約40時間の放映枠で、史実に迫る像を示すことができていれば?
それは素晴らしい業績になったはずです。
しかし、肝心の『西郷どん』ときたら、メインのビジュアルイメージが【トランポリンで跳ね上がり、楽しそうに口を開いた西郷隆盛像】というものなんですからどうしようもありません。
あの銅像を悪化させ、戯画化したようなものです。

西郷どんBlueray完全版/amazonより引用
オープニング映像も、子供とじゃれあいながら微笑む西郷。
番宣では、西郷の実像や史実での偉業よりも「男にも女にもモテる」という軽薄なイメージが強調されました。
この大河ドラマにおいて、西郷隆盛の実像に迫ろう!なんて気概が1ミリもなかったことは言うまでもないでしょう。
★
熊本では、現在に至るまで西南戦争の惨禍が語り継がれています。
西郷の出身地ではなく、巻き込まれた人々の声を伝えることに、何の障害もなかったからです。
しかし繰り返しますように、熊本以外の地域では、西南戦争の惨禍、そして西郷の実像が知られてとは言えない状況です。
死後140年という歳月が流れ、『西郷どん』というあやまちの多いドラマが放映されることで、事態はさらに悪化したかのようにすら思えます。
いつの日か、実像に則した禍々しさも備えた西郷像。
酸鼻(さんび)を極めた西南戦争を描いた作品が映像化される日が来るのでしょうか。
それは随分と先のような気がしてなりません。
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【参考文献】
長野浩典『西南戦争 民衆の記《大義と破壊》』(amazon)
猪飼隆明『西南戦争―戦争の大義と動員される民衆 (歴史文化ライブラリー)』(amazon)
小川原正道『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)』(amazon)
















