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西南戦争・城山を取り囲む帝国陸軍の要塞/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 明治・大正・昭和時代

西南戦争 リアルの戦場は悲惨そのもの~食は奪われ、死体は放置、全国規模で疫病広まる

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「民が腹いっぱい食えるよう! 民のため!」

2018年の大河ドラマ『西郷どん』の西郷隆盛は、常に庶民のことを第一に考える【現代的人格者】の姿で描れておりました。

クライマックスは明治10年(1877年)。
いわゆる西南戦争です。

が、その現実、さすがにドラマのように甘いものではありません。

なにせ規模の大きな内戦です。

戦場ではバラバラになった肉体や死体が散乱し、疫病も蔓延。
それを官軍兵士が日本各地へ持ち帰って全国規模で流行する――国内でパンデミックの様相まで呈したほどです。

ドラマでこそ現代的な人格者として描かれてきた西郷ですが、史実では好戦的な性格でも知られており、西南戦争もリアルで見ると悲惨極まる戦いでしかありません。

多くの「民」も巻き込まれ、犠牲になりました。
「腹いっぱい食える」どころか、巻き込まれて死んでいったのです。

本日は、西郷という英雄を今一度考察しながら、ほとんど注目されることのない【西南戦争・負の一面】にフォーカスしてみましょう。

西郷の倒幕で民は腹いっぱい食えるようになった?明治維新のマイナス面あれこれ

東京の江戸っ子たちには娯楽だった

明治10年(1877年)。
鹿児島で西南戦争が勃発すると、東京では西郷に声援を送る人々が続出しました。

「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまが今にまたお帰りになるに決まってらァな」
「そうよ、そうよ」

江戸っ子は熱く語り合っておりました。
西郷贔屓というよりは、反明治政府というスタンスだったのです。

西郷は、いわば「敵の敵は味方」であり、彼らは西南戦争の結果に一喜一憂、戦争の情報が掲載された新聞を我先にと買い漁りました。

和紙中心の瓦版から西洋紙での新聞需要が上回る――。
その背景には、こうした新聞の過熱報道があったのですね。

西南戦争を題材とした錦絵(多色刷りの版画)も、毎日のように発行、飛ぶように売れました。

鹿児島暴徒出陣図・月岡芳年画/wikipediaより引用

それだけではありません。
日本全国で、西南戦争を題材とした歌舞伎が上演され大ヒットします。

ちょっとした戦争フィーバーであり、西南戦争とは人々にとって娯楽にもなっておりました。

「火星の中に見える」といった西郷隆盛生存説も、こうした肩入れや興奮から生まれたものでしょう。

西南珍聞 俗称西郷星之図/wikipediaより引用

戦争を娯楽として楽しむ――そんな様子を聞いて皆さんはどう思われます?

現代では無人機が敵拠点を爆撃して、その映像は、もはや別次元のものとして流され、
「まるでテレビゲームのようだ」
なんて批判されることがあります。

被害者の血すら見えない。
ゆえに娯楽感覚で楽しんでしまうというのは、実は西南戦争当時の江戸っ子たちも同じだったのですね。

人々は、血しぶきや死体と無縁であり、それでいて華麗で派手な錦絵や歌舞伎を通じて、娯楽を享受していたのです。

フランス人が想像で描いた「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」/wikipediaより引用

戦争の惨禍を、リアルとして認識できるかどうか。
それはメディアの責任というよりも【距離感の問題】でしょう。

江戸っ子だって、ほんの十数年前には、他ならぬ西郷隆盛の指示による薩摩御用盗で江戸を荒らされ、あるいは上野戦争では多くの幕臣たちが酷い殺され方をしています。
そのときには、生々しい死がありました。

【関連記事】
相楽総三と赤報隊
彰義隊と上野戦争

しかし、今日、皆さんが抱く西南戦争のイメージっていかがでしょう?

西郷隆盛が、己の信念に従って死を選んだ――。

そんな印象の方が少なくはないでしょう。とても聞こえのいい言葉でありますが、それはあくまで戦地から離れいてた江戸っ子の感覚と同じ。

戦場あるいはその付近はまさしく地獄でした。

 

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二度にわたる内戦を引き起こす

西郷隆盛という人物を考える上で、重要な点があります。

それは【戊辰戦争】と【西南戦争】という大きな内戦を、10年以内に2度も起こしたということです。

肥後直熊筆「西郷隆盛像」/wikipediaより引用

言うまでもありませんが、戦争とは人々の命を奪い、生活の場を破壊し、モラルまで荒らすものです。
そして内戦とは、同国民同士が殺し合う、最悪の事態と言えましょう。

幕末以来、外国からの脅威を感じ、国内が一致団結して困難に立ち向かうべき――そんな場面で二度の大きな内戦を起こした西郷。

いくら綺麗事が並べられようと、この事実だけは曲げられません。
西郷という大人物を振り返るときに、避けては通れないところです。

では、一度目の戊辰戦争とはどんな戦いであったか?

幕府サイドの佐幕派は言うまでもなく、薩摩藩や岩倉具視ですら「武力倒幕は下策である」と認識しておりました。
詳しくは以下の記事をご覧ください。

武力倒幕は岩倉や薩摩藩ですら「下策」としていた!なのにナゼ西郷は強引に?

実は、この内戦。
事前に阻止すべく動いていた赤松小三郎が、桐野利秋に殺害されています。

赤松は、元々薩摩にゆかりの深い人物だったのに、そんな彼が殺害されてまで、この内戦は引き起こされたのです。

赤松小三郎の名はもっと広まるべき!人斬り半次郎に殺された幕末の“知られざる英雄”

このとき、西郷が相楽総三らを使嗾(しそう・けしかけること)してまで、江戸を戦火に巻き込もうとしていたことは紛れもない事実。

江戸っ子は、薩摩の暴虐から人々を守ろうとした庄内藩に対して声援を送っておりました。

【関連記事】酒井了恒(鬼玄蕃)

 

本意じゃなかった?江戸無血開城

おそらくや「江戸無血開城」のイメージが現代人の目を曇らせてしまうのでしょう。

まるで西郷隆盛が率先して「流血を避けた」ようにすら描かれたりしますが、その背景にはイギリスの圧力や徳川慶喜勝海舟の力がありました。
決して彼自身の功績でも考えでもありません。

【関連記事】徳川慶喜(一橋慶喜)の低評価を覆す

実際、江戸が戦火に包まれなかっただけで、関東から北海道まで、日本中で戦争は起きています。
特に新政府軍の侵攻で東日本の民は苦しまされ、北海道の防衛はがらあきとなり、アイヌの人々にまで悪影響を与えました。

それがいかに悲惨だったか。
ご興味のある方は以下の記事をご覧ください。

民と戊辰戦争~生活の場が戦場となり、食料奪われ殺害された知られざる悲劇

幕末の蝦夷地警備は五稜郭だけじゃない!三、四、七稜郭に陣屋を配置!東北諸藩の地味な歴史に光を

とはいえ西郷自身も、戊辰戦争では苦しみを味わいました。
弟・西郷吉二郎と妹・琴子の子、つまりは甥にあたる市来嘉納次を失っているのです。

【関連記事】西郷吉二郎

 

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精神の荒廃と政治への不満の中で

こうして苦しみながらも勝利した明治維新。
西郷隆盛が満足感と安心感を得られたか?というと、そうではありません。

むしろ精神は荒廃してゆくのです。

【関連記事】ストレスに悩まされた西郷隆盛の後半生

そんな不安定な精神のまま迎えた対立が明治政府内での「征韓論」であり、そしてそれが「明治六年の政変」へと繋がっていくのでした。

西郷の心身不調は、周囲から見ても異常なほどでした。
朝鮮半島に身一つで出向き、自ら殺害されることで、朝鮮半島と戦争をしたがっている――ように見えるときもありました。

この辺りのエピソードにも西郷特有の性格が見えてしまいます。

「江戸無血開城」でもあったような、身一つで相手の懐に飛び込む――よくいえば豪胆、悪くいえばギャンブラー的な気質。

こうした危うい状況の中、真偽すらハッキリしない暗殺疑惑等を経て。
西南戦争は勃発してしまうのです。

【関連記事】
西南戦争はナゼ起きた?
西南戦争が起きた本当の理由は?

西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍(1877年)/wikipediaより引用

 

本当の生き地獄がそこにあった

では、西南戦争が起こった結果、殺された兵隊の遺体はどう処理されたか?
人々の暮らしはどうなったか?

凄惨な過去に蓋をせず、当時の記録を振り返ってみたいと思います。

死屍累々

諸外国からの銃が導入されるなど。
激しい戦争が起き、当然ながら、周辺は死屍累々となりました。
そこには「官軍、薩軍ともに死体損壊をした」という記録が残されております。

試し切りの跡があるもの。
追い詰められて絶望していたせいか、捕虜をバラバラにして木に縛り付け放置したもの。

捕虜殺害の禁止は徹底されていたはずですが、薩軍はそんなことも言っていられませんでした。

当時の銃弾は鉛製です。
鉛製の弾丸は摘出できなければ、手足ごと切断するほかありません。戦場には切り落とされた四肢がそこら中に転がっています。

内臓がはみ出した死体。
脳みそがこぼれた死体。

……見るに堪えないほど無残な死体があふれ、埋葬すら間に合わず、海に遺棄されるものも大量にありました。
薩軍は敵への憎しみのあまり、官軍警視隊の埋葬を一時禁止したこともあるほどです。

放置された遺体は?
例えば動物の餌食となるなり、見るに堪えかねるほど無残な有様と化していきました。

人肉食

映画『野火』では、太平洋戦争下での人肉食を描いたことで話題をさらいました。

戦場における人肉食は、戊辰戦争や西南戦争でも記録が残されています。

田原坂の戦いで苦戦した官軍では、敵兵の死体を斬りつけ、肉を口に運ぼうとしているものもいたとか……。
あるいは牛肉があったと称して、人肉を運んでくる者がいたとか……。

恐ろしいほどの戦場の狂気。

信じられない話かもしれませんが、残念ながら記録にも残されていることです。
同じような人肉食の話は、戊辰戦争のときにもありました。

 

犠牲となった子供たち

会津戦争で屈指の悲劇といえば、白虎隊の集団自刃が必ず挙げられます。
二本松少年隊の悲劇も知られております。

白虎隊、自刃す 時代の犠牲になった若者たちの素顔あれこれ

西南戦争でも、幼い少年たちが従軍しました。
西郷隆盛の長男である菊次郎と甥・市原宗介もそうした者にあたります。

【関連記事】西郷菊次郎

菊次郎は脚の切断という悲運に見舞われましたが、それでも他の少年よりは恵まれていたかもしれません。

兄弟そろって命を落とすような少年兵も、西南戦争ではおりました。
南洲神社の墓地には、「少年烈士」の墓があります。ここに葬られている少年は14歳です。

犠牲となったのは、こうした少年兵だけではありません。
戦地となった場所では学校が閉鎖され、子どもたちの心も荒れ果てました。当時、石をぶつけ合い暴れる目撃談が残されています。

女性たちも平然と遺体を見るようになった、と記録されています。
人の心はこれほどまでに荒廃しきるものなのか……と、当時の記録者は書き残しております。

 

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動員、虐殺、暴行される民衆

少年たちの平穏な日常すら、一変させてしまった西南戦争。
大人となれば、さらに過酷な運命が待ち受けておりました。

軍夫

戦争というものは、兵士だけでは成立しません。
食料や弾薬を運搬する軍夫が必要となって来ます。映像化作品では省かれることも多い存在です。

薩軍、官軍共にこうした人員を【強制的に徴募】しました。
人員が不足するあまり、数あわせのために老人、病人、女性すら動員されることもありました。

一応は給与が出るとはいえ、支払われたとは限らなかったようです。
最初のうちこそ定められていた基準も、時間経過とともに守られることなく、無給で酷使されることもあったわけです。

たとえ給与が出たとしても、死傷してしまってはどうしようもありません。
軍夫は兵士より一段下として見られ、扱いがよいとは言えないものでした。

一方、働き手が奪われた地域では、農作業の停滞を招くことにもなります。

軍夫供出を拒む地域、くじ引きで決める地域もありました。
徴募すら、戦争長期化にかけてどんどん困難となっていったのです。

アウトローである博徒が軍夫となり、近隣住民に危害を加えることもありました。いろいろな面において、大迷惑をかけた話なのです。

女性の動員

徴募されたのは男性だけではありません。
女性も、食料調理のために徴募されることがありました。

食料・物資徴発

西郷隆盛の軍勢は、武器弾薬や食糧不足のまま挙兵した一面があります。
官軍も物資が豊富とは言えません。

ゆえに両軍ともに、地域から食料や物資を徴発しました。

戦場となった地域には、焦げ付いた飯が投げ捨てられていたという目撃談もあります。本来は地域住民が食べるはずのものが、時に無残な扱いをされたのですね。

しかも、です。
農作業の停滞と食料の徴発は、戦後まで食糧難として影響を与えることになります。

こうした徴発の際、官軍は料金を支払いましたが、ロクな準備をしなかった薩軍は支払う気なんてありません。

要するに、掠奪したわけです(続きは次ページへ・)。




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