敦康親王

枕草子絵詞/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

定子の長男・敦康親王の不憫すぎる生涯 一条天皇の第一皇子は二十歳にして散る

一条天皇に愛され、その第一皇子も産んだ藤原定子

大河ドラマ『光る君へ』で描かれたように、父や兄にプレッシャーをかけられながら、若くして亡くなった彼女に対して不憫な気持ちを抱く方は少なくないでしょう。

しかし、もっと哀れでならないのが、その第一皇子である敦康親王かもしれません。

ドラマでは藤原彰子に懐く姿が微笑ましくもあり、同時に切ない思いに駆られてしまう。

一条天皇の大切な男児であった彼は、生まれたタイミングがほんの少し違えば、天皇の座に就けた人物だったはず。

しかし、実際はそうなりません。

本人とは関係ないところで、しかも巻き込まれるようにして不遇な道を歩み続け、最終的には20歳の若さで亡くなってしまうのです。

藤原定子の長男・敦康親王が辿った、その不憫な生涯を振り返ってみましょう。

 

生まれた日に道長の長女・彰子が入内

敦康親王(あつやすしんのう)は長保元年(999年)11月7日に生誕。

前述の通り、母は当時中宮の地位にあった藤原定子です。

一条天皇にとっては最愛の后妃との間に生まれた待望の男子でしたが、その瞬間から不憫な一生が始まったとも言えます。

全くの偶然ながら、この日は藤原道長の長女・藤原彰子が一条天皇に入内し、女御になった日だったのです。

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そのため貴族たちは敦康親王と、彰子へのお祝いを両方こなさなければならず、てんやわんやだったようです。

しかも母后の定子は、翌長保二年(1000年)に三人目の子・媄子内親王を出産した後、亡くなってしまいます。

媄子内親王はもちろん、敦康親王も母の顔を覚える前に死に別れてしまうのです。

そのため敦康親王は、定子の妹で道隆四女の御匣殿(みくしげどの)母親代わりとして養育にあたりました。

御匣殿という名は女官の官職名であって実名ではありません。官職としての御匣殿は天皇の衣服を仕立てる役職で、側近くに仕えることから次第に后妃候補とみなされていきました。

御匣殿は定子と似たところがあったのか、やがて一条天皇が彼女のもとに通うようになります。

そしてめでたく懐妊したのですが、経過が良くなかったようで、長保四年(1002年)6月に御匣殿も若くして亡くなってしまいます。

当時3歳の敦康親王がこのことをどこまで覚えていたか不明ながら、あまりにも不憫な生涯の始まりでした。

 

政敵に庇護される複雑な立場

敦康親王はその後、道長の長女である中宮・彰子の手元で育てられることになります。

つまりは道長の庇護を受けるということですね。

なぜそんな展開になったか?

と言えば、定子の兄である藤原伊周と弟の藤原隆家が、周囲の貴族や、他ならぬ一条天皇の反感を買っていたからでしょう。

花山院に矢を放った【長徳の変】により地方へ飛ばされていた二人は、このときすでに罪を許されて京都にいましたが、一条天皇にしてみれば

「(従兄弟である)花山法皇に横暴を働いた連中に、大事な息子である敦康親王を任せたくない」

と考えても不思議ではありません。

それに、この時点での彰子は、まだ皇子を産んでいなかったので、道長としても、一条天皇の第一皇子である敦康親王を放っておくことはできませんでした。

道長から見た敦康親王は兄の孫ですし、この辺の複雑な人間関係は、絶妙なバランスの上に成り立っていますよね。

彰子にしても、定子は従姉妹であり、残された敦康親王を不憫に思っていたのではないでしょうか。

前述の通り、敦康親王が生まれた日は彰子が入内した日でもあり、数奇な縁を感じて憐憫の情が増したかもしれません。

敦康親王と彰子は、しばらく別居していましたが、のちに彰子の御殿である飛香舎(=藤壺)で同居をはじめました。

これは一条天皇の意向でもあったようです。

一条天皇にしてみても、第一皇子の敦康親王が不憫でならなかったらしく、右腕の藤原行成をつけてやり、事あるごとに御修法(みしほ・密教の祈禱)などを言いつけていました。

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行成も同じ気持ちだったようで、彼の日記である『権記』には、敦康親王に関する記述が多く登場します。

方違えに出かけた先やら、姉の脩子内親王と何処其処へ出かけた、などなど。行成のマメさが伺えますね。

敦康親王の読書始(勉強を始める儀式)は寛弘二年(1005年)11月、彰子の御在所で行われました。

一条天皇もこっそり御簾の陰で見ていたとかで、道長にしてもこの時点で唯一の皇子に、以下のような気配りをしています。

・賀茂祭の見物で敦康親王に車を提供した

・敦康親王が体調を崩したときには、自邸で行おうとしていた作文会(漢詩を作る会)を中止して参内した

彰子が敦康親王を気遣っていた話はまだあります。

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