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夫の戯言に機嫌を損ねてその場を立ち去る
源倫子の夫である藤原道長は、悪ふざけが好きだったのか――紫式部日記には、こんなエピソードもあります。
敦成親王の誕生50日の宴で、酔った道長が
「私は中宮の父として恥ずかしくないし、中宮も私の娘としてはまずくない。中宮の母(倫子)も良い夫を持ったと思っているようにみえる」
などと戯れ、倫子が機嫌を損ねた(恥ずかしかった?)ため、その場を立ち去ってしまったというのです。
道長は言い訳をしながらその後を追いかけ、女房たちに微笑ましく見守られたようで……。

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)
人間のやることって、今も昔もあまり変わりませんね。
また、敦成親王の誕生に伴い、倫子には従一位が与えられました。
当初は道長に与えられる予定だったのですが、辞退したため彼女へ。
従一位は女性の最高位階であり、宮仕えをしていない女性が賜るというのは当時で史上初のことです。
たしかに道長の代わりという経緯はありましたが、倫子は彰子の入内以降に宮中へ参上することも多かったので、実質的には宮仕え同然と考えられたのかもしれません。
日記の中では道長のことを厳しく書く藤原実資も、倫子の振る舞いについてはあまり記しておらず、目に余るようなこともなかったのではないかと思われます。
90歳の長寿
万寿四年(1028年)、夫の藤原道長が亡くなりました。
源倫子は以降もしばらく元気に長生きします。
長元六年(1033年)には70歳の御賀が行われ、お祝いに和歌屏風が作られると、その清書を三蹟の一人・藤原佐理の娘が見事に書き上げています。
倫子と佐理の娘はおそらく同世代。
数は少ないながら、この時代にも矍鑠(かくしゃく)とした老人がいたことがわかります。
しかし、元気で長生きするというのも、実は辛いものです。
前述の通り、道長とも死に別れていますし、倫子の産んだ子供のうち、
嬉子が万寿二年(1025年)
妍子が万寿四年(1027年)
威子が長元九年(1036年)
と、三人の娘に先立たれていました。
流行り病も多い時代ですし、公衆衛生や生活習慣などによって寿命が縮まる要因が積み重なったのでしょうか。
彰子と頼通・教通は長生きしていますので、この三人が後半生の倫子を心身ともに支えていたのでしょうね。
当時は、夫の死後にすぐ出家する女性も珍しくない中、倫子が出家したのは長暦三年(1039年)。
倫子は自らの日記などを残していないため、10年以上の間隔があった理由は不明です。
おそらく彰子を始め、入内させた娘たちのことが気にかかっていたのでしょう。
法名は清浄法と言い、彼女は出家後もさらに長生き。
亡くなったのは天喜元年(1053年)6月11日――なんと90歳という長寿でした。
京都仁和寺の北に葬られたとされています。
仁和寺が、彼女の先祖である光孝天皇と宇多天皇によって創建されたためです。

光孝天皇/wikipediaより引用
★
大河ドラマ『光る君へ』では黒木華さんが演じた源倫子。
エピソードも多く、主人公たちにも近い存在のため、最後までかなり重要なポジションでした。
ドラマのおかげ彼女に興味を持たれた方もかなり多かったでしょう。
今後も各種記事やフィクションで彼女の知名度が上がってゆけば楽しいですね。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
紫式部/山本淳子『紫式部日記』(→amazon)
藤原道長/繁田信一『御堂関白記』(→amazon)
ほか