貞治6年・天平22年(1367年)12月7日は足利義詮(よしあきら)の命日です。
『義詮とは、一体どんな人なのよ?』
瞬時にそんな疑問符が頭に浮かんできそうですが、足利尊氏の息子であり、室町幕府の二代将軍……と言っても、やはりイメージは湧きづらいかもしれません。
義詮が将軍となった室町幕府の草創期は、父・尊氏の時代に起きた南北朝問題など、諸々の困難が続いていた時期でした。
そんな時代に幕府のトップをやっていたのですから、いくら義詮が無名でも、愚将というはずはありません。
彼がやっていたことを見ると「実はコレすごくね?」ということも多く、しかし同時に影が薄い理由も浮かんできます。
では足利義詮とはどんな人物でどんな功績があるのか。
その生涯を振り返ってみましょう。

足利義詮/wikipediaより引用
🛕 中世日本|源平・鎌倉・室町時代における武家政権や文化を解説
実は二人の兄がいた
足利義詮は尊氏の長男ではありません。
それでも最初から嫡男(跡継ぎ)として扱われたのは正室・赤橋登子の子供だったため。
母・登子の曾祖父が鎌倉幕府六代執権・北条長時ですので、義詮には北条氏の血も入っていることになります。

北条長時/wikipediaより引用
もっというと、室町幕府の将軍は全員、義詮の子孫ですので、「足利将軍は全員、北条氏の女系子孫である」と見ることもできます。
そんな義詮には二人の異母兄がいました。
一人は足利竹若丸。
側室生まれながら彼の母親は足利氏の一族であり、順調に行けば義詮の側近や、それに準じる立場になっていたでしょう。
竹若丸は長庶子という難しい立ち位置のためか、尊氏の手元ではなく、伊豆山神社(静岡県熱海市)に居たとされています。
そして鎌倉幕府打倒のため尊氏が六波羅探題を攻撃した際、母方の叔父に伴われて上洛しようとしたものの、途中で幕府方の刺客に討たれてしまいました。
このとき山伏の姿をしていたといわれていますので、元服前ながらそれなりの年齢になっていたと思われます。
義詮のもう一人の異母兄は、【観応の擾乱】でも名前が出てくる足利直冬です。
直冬の母親は身分が低かったようで「尊氏が若い頃にお忍びで通っていた」ことくらいしかわかっていません。
また、その女性のもとに他の男性が通っていたフシもあったのか、
”尊氏が直冬を冷遇したのは「コイツ本当に俺の息子か?」と疑っていたからだ”
という説もあります。
この複雑な関係が後の【観応の擾乱】や【南北朝問題】のこじれに繋がってきますので、尊氏がわざわざ敵を増やしてしまったような感がありますね。
「庶子だから厚遇はできないけど、一門の中に席を与えるよ」くらいの扱いにしておけば、もうちょっとマシだったかもしれません。
かくして足利義詮は、生まれ順としてはおそらく三男ですが、母の身分が一番良かったので嫡子になりました。
倒幕の混乱期 いきなり人質にされる
足利義詮が生まれたのは元徳二年(1330年)のことです。
鎌倉幕府を倒すかどうかの瀬戸際であり、父の尊氏も一家団欒を楽しむような状況ではありませんでした。
しかも尊氏は当初幕府軍にいたので、後になって倒幕軍についた際、義詮と母は人質として鎌倉に押し込められてしまいます。
実に幸先の悪いスタートですね。
それでも足利家は源氏きっての名門ですから、忠実な家臣には事欠きません(少なくともこの時代は)。
義詮は、そうした人々によって救出され、下野国にいた新田義貞と合流し、行動を共にします。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用
上記の通り、義詮は(1330年)生まれで、鎌倉幕府滅亡が(1333年)ですから、倒幕までの戦で前線に立つことはありません。
倒幕の後は鎌倉に留まり、細川和氏・頼春といった家臣に支えられて育ちました。
この頃には幼いながらに父の代理として軍中状(武士が功績を報告してくる手紙)にサインをしていたり、跡継ぎの自覚を持った行動をしています。
実際には家臣の誰かが義詮(当時は幼名・千寿王)の名で発行したのでしょう。
まだ花押(かおう・名前などを崩した本人証明のサイン)などは書けなかったでしょうし。
鎌倉を追い出され、そしてすぐに戻る
後醍醐天皇方の勢力がまだ強かった建武四年(1337年)。
天皇方で陸奥の大軍を率いてきた北畠顕家により、足利義詮は鎌倉を追い出されてしまいました。

北畠顕家/wikipediaより引用
そして翌年、顕家が京都へ向かった隙に鎌倉へ戻ります。
この「危ないときは土地にこだわらず、いったんその場を離れ、早めに戻る」というスタイルが性に合っていたのか。義詮の生涯で何回かやることになります。
松井優征氏の漫画『逃げ上手の若君』では、北条時行を”最高の逃げ上手”として描いていますが、周りの家臣たちがそうさせた可能性も含めて、義詮の足もなかなかのものです。
そして今度は混乱の南北朝時代を迎えました。
義詮はしばらく鎌倉周辺の統治をしていたものの、室町幕府ができた直後に重臣・高師直と叔父・足利直義の間で揉め事が発生。
今日では【観応の擾乱】と呼ばれている
尊氏・師直
vs
直義・直冬
のキッカケとなったあたりです。
貞和五年(1349年)、師直が尊氏に「直義殿が職務に関わるのをやめさせてください!」と訴えて尊氏がその通りにしたため、直義のやっていた仕事を誰かが請け負わなければならなくなりました。
そこで鎌倉で政務に慣れていた義詮が呼び出され、叔父の後を引き継ぐことになります。
このあたりになると、義詮も既に20歳くらい。
師直からも尊氏からも及第点を貰えたようで、義詮の言動に関するトラブルは伝わっていません。
貞和六年(1350年)には朝廷から参議と左近中将の官職も授けられ、「尊氏の後継者」として顔を覚えられたのではないかと思われます。
程なくして、直義方の上杉能憲により師直が暗殺されると、直義と尊氏の関係は一時的に改善しますが、それも束の間。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
観応二年(1351年)、直義が京都から北陸経由で鎌倉へ去り、その後、尊氏が東下して薩埵山(静岡市)で勝利を収めました。
直義は観応三年(1352年)2月に鎌倉で亡くなり、観応の擾乱は幕を閉じます。
気前が良すぎて無責任な父
こうして高師直・足利直義の二人がいなくなったことにより、室町幕府は尊氏と足利義詮によって采配されていきます。
薩埵山で勝利を収めた後、尊氏は一年半ほど鎌倉に留まりましたので、この間の京都は義詮主導でうまくやれていたことになりますね。
もちろん有能な吏僚がいたからこそですが、当時の義詮がまだ20代前半の若者であることを考えると、なかなかの才覚ではないでしょうか。
武働きを覚える前に政治に携わったのが良かったのかもしれません。
それを示す逸話として、こんなものがあります。
尊氏から義詮へ以下のような手紙が送られてきました。
「この前、とあるヤツに恩賞として関東の土地をやるって約束したんだけど、そこが赤松則祐の土地だったんだ。
でも恩賞を取り消すわけにもいかないし、赤松が『代わりの土地をください!』って泣きついてきたから、お前が京都で適当なところを見つけておいてくれ」
数ある尊氏伝説の中に「物に執着がなく、もらったそばから別の人にどんどんあげてしまう」というものがあり、それが悪い方向に出た感じですね。
手紙を受け取って後処理をした義詮の心境たるや、想像するだけで辛いものがあります。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
他にも”尊氏が同じ土地を寺社と一般人に与える約束をしてしまった”なんて事件もあり、やっぱり義詮が解決に動いている。
ちなみに、直義が尊氏と決裂する前は、こういった仕事は直義の担当でした。
直義と義詮の関係については詳細な史料が見つかっていないながら、義詮は叔父のやり方から学んだことも多かったでしょう。
直義は先例を重んじ理想を追い求めるタイプの人で、土地についても「公家や寺社など、元々の持ち主の権利を守るべき」と考えていました。
しかし、武士の価値観は「手柄を立てて土地をもらい、一族を養っていくこと」を最も重視します。
これらがぶつかると「旧来の領主の権利を守りすぎて、武士に与えるべき土地がなくなる」ということになりかねません。
もっといえば、元寇で恩賞を与えられず、武士からの反感を招いていった鎌倉幕府の轍を踏んでしまいます。
もしも義詮が叔父の破滅の経緯をそのように分析していたとしたら、
「父(尊氏)はああいう人だから仕方がない。しかし、叔父(直義)のように理想を求めるだけでは角が立つ。私が皆にうまく計らってやっていかなくては」
と思い、我欲を出さずに仕事をしていたのではないでしょうか。
こういう立場になると賄賂その他よからぬことを考えることも多いものですが、その気配もなさそうです。
亡くなってからも尻拭いは続く
観応三年/正平七年(1352年)、足利義詮は「観応の半済令(はんぜいれい)」を発布しました。
◆近江・美濃・尾張の三カ国に限り、寺社の領地から得られる年貢半分を守護の兵糧米にして良い
◆この法律の有効期間は一年間
「お寺や神社から兵糧を取るなんてひどい!」ともとれますが、こういう枠組みを定めた法律がないと好き放題に年貢を取ろうとする輩も出てくるので、制限をかけた形ですね。
義詮はこの後にも「寺社や貴族などの土地所有者vs武士」という構図の問題を解決するべく奔走しています。
若い頃に尊氏の口約束を処理し続けた結果、「これ、前もって制度を決めておかないと無限地獄だわ」と思ったからなのかもしれません。
時系列を少し戻しまして、観応三年(1352年)閏2月。
南朝方が京都に攻め入り、北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇と三種の神器を奪うという大事件が起きます。
義詮はこれに対し、新たに崇光上皇の弟を即位させて後光厳天皇とし、「北朝の守護者」の体面を整えました。
しかしこれを受けて、九州にいた足利直冬が挙兵し、南朝方として京都に攻め込んできます。

足利直冬/wikipediaより引用
前述の通り、直冬は直義の養子であり、義詮にとっては異母兄弟(尊氏の庶子)です。
義詮は後光厳天皇を連れて京都を逃れ、美濃に落ち延びると、追って尊氏も西上し、久しぶりの父子対面を果たしています。
そこからしばらく京都を巡る戦いが行われ、文和四年(1355年)3月に直冬が兵糧不足で撤退。
翌文和五年(1356年)あたりからは尊氏が病気がちになっていくため、いよいよ義詮の重みが増していきました。
息子の代に問題を持ち越したくなかったのか、尊氏は、直義や直冬方だった武士にこう告げます。
「降伏すれば今まで持っていた土地は認める」
それだけでなく、南朝方に拉致されたままだった上皇たちを京都に迎えたり、戦後処理のような事を進めました。
しかし、尊氏の口約束同然の感状(褒美をやる約束をした手紙)が大量にありすぎて、義詮だけでなく、後々の将軍も頭を悩ませることになります。
地味に仕事をこなして義満の時代へ
父から息子へ、権力の移譲はほぼ問題なく遂行。
尊氏が亡くなると、足利義詮は二代目として将軍の位に就きました。
しばらくは南朝相手に京都の奪い合いを続け、そのたびに天皇を逃したり、公家の二条良基らと連携したりして、北朝宮廷への影響力を強めてゆきます。

二条良基/wikipediaより引用
ちなみに、尊氏と義詮は和歌を得意とする文人でもありました。
義詮は後光厳天皇へ勅撰和歌集(天皇や皇族の命令で作られる和歌集)の編纂を提案しており、天皇がそれを受けて『新拾遺和歌集』の編纂を命じています。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代は、ごく一部の武士しか嗜んでいなかった和歌も、この頃になると格段にレベルが向上していることがうかがえますね。
残念なのは
◆テンションの上下が激しすぎる幕府創設者の父・尊氏
◆ダイナミックすぎる発想の息子・義満
という濃いキャラの二人に挟まれて、義詮個人のインパクトが薄れてしまうことでしょうか。
舵取りが最も難しい「二代目」をこの動乱の中で見事やってのけたのですから、それだけで相当な力量かと思われます。
もう少し後世で認められてよいのではないでしょうか。
死の直前、大量に鼻血を噴き出していた?
足利義詮の印象が地味な理由は、享年38という短命も原因かもしれません。
詳しいことは不明ながら、三条公忠(きんただ)の日記『後愚昧記』(建武の新政をボロクソに書いている日記)では、義詮のことをこう記しています。
「義詮は亡くなる二日前、大量に鼻血を噴き出していた」
急激に病状が悪化してこの通りの出来事が起きたのか。
あるいは「南朝方の怨念が云々」といったたぐいの比喩表現なのか。
判断に困るところですが、義詮は元々体が弱かったわけでもなさそうですし、もしもこの描写が事実ならば、急性白血病などの症状でしょうか。
義詮は子供が少なかったため、わずか9歳の義満へ跡を継がせざるを得ませんでした。
親としては心配が尽きなかったでしょうね。
実際にはこの義満が南北朝問題を解決したり、ド派手な鹿苑寺金閣を建てたり、「日本国王」と扱われたりで、良い方向に転んだのですが……。
★
義詮のお墓は三ヶ所あります。
そのうち宝筐院(ほうきょういん・京都市右京区嵯峨野)のお墓は、かつての敵・楠木正行(正成の長男)の隣にあります。
尊氏が楠木正成を認めていたように、義詮も敵とはいえ、武士の信念を貫いた正行のことを尊敬していたので、そのように言い残したのでした。
もしかすると、他にもよく似たところのある親子だったのかもしれませんね。
それでもやっぱり地味ですが。
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【参考】
清水克行『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon)
国史大辞典





