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大坂夏の陣で幸村や又兵衛が戦死して豊臣滅亡~各地で行われた戦闘の結果は?

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慶長二十年(1615年)5月7日は大坂の陣で大坂城が陥落した日です。

大坂の陣と言えば、皆さまご承知の通り2度行われていて、陥落したのは1615年の【大坂夏の陣】。
最初の戦いは、前年1614年の【大坂冬の陣】となります。

◆1614年 大坂冬の陣
◆1615年 大坂夏の陣

真田幸村真田信繁)が【真田丸】で活躍したのは冬の陣ですね。

そして夏の陣でも徳川家康に死を意識させるほど劇的な展開を迎えるワケですが、実は、このとき活躍したのは真田だけでなく、他にも複数の戦闘が行われ、そして別の物語も語り継がれていきました。

後藤又兵衛
毛利勝永
片倉重長
松平忠直
などなど、豊臣方も徳川方も双方に名を売った人物を輩出しましたが、それは一体どんな戦いだったか?

あまり振り返られることのない細かな戦いも含めて、今回は【大坂夏の陣】を振り返ってみましょう。

 

六日 道明寺の戦い(道明寺・誉田合戦)

大坂方からは
後藤基次又兵衛
・真田信繁(真田幸村)
・薄田兼相(かねすけ)
・明石全登
・毛利勝永
などが参加。
厳密に言えば道明寺村と誉田村の二ヶ所で行われた戦闘ですが、非常に近いのでまとめて扱います。

まずは人物からおさらいしておきましょう。

薄田兼相は元浪人で、浪人仲間を集めて参戦していました。
結構な女好きだったのか、冬の陣の際は遊郭に通っている間に担当の砦を落とされるという大失態をしています。

そのため「橙武者(だいだいむしゃ)」=「見た目は派手だけど使えないヤツ」というイヤなあだ名をつけられてしまっています。
自業自得だけど。

明石全登(あかし たけのり)宇喜多秀家に仕えていたのですが、関が原の戦いで主君・秀家が八丈島への流刑になってしまったため、やはり浪人になっており大坂城へ入っています。
名前の読みは他にもあり、ハッキリ確定したものはわかっていません。

一方、徳川方は、家康六男・松平忠輝とその舅・伊達政宗を本陣に置き、水野勝成を先鋒としていました。

水野勝成は、小説「天を裂く」(著:大塚卓嗣)の主人公ですね。徳川家康のイトコで、とにかく戦闘能力が高すぎるがあまり様々な戦場で一番槍の功績を得ており、暴れん坊がすぎるがゆえに父親から勘当され、各家を放浪していたリアル傾奇者です。

さすがにこの頃は落ち着いた年齢ですので、家督を継いで大名をやっていました。

 

後藤又兵衛、散る

双方かなり豪華なメンツですね。
それゆえか大坂夏の陣の話だと道明寺の戦いは割と知られているかもしれません。

しかし、大坂方で当初布陣していたのが後藤又兵衛基次のみの手勢だったため、この戦いは早くもお昼ごろにはクライマックスを迎えてしまいます。

後藤又兵衛/Wikipediaより引用

徳川方は、ほぼ総攻撃といってもいいような陣容で圧倒していたからです。

基次の軍は高所に位置していたため、地の利を生かしてしばらくは持ちこたえました。
しかし、被害の大きさを重く見た徳川方が後方からの銃撃で前線を援護し始めると、少しずつ天秤が傾き始めます。

そして「もはやこれまで」と覚悟を決めた基次は、最後の突撃を敢行し敢え無く敗れ去りました。

では他の大坂方は何をやっていたのか?
というと、簡単に言えば遅刻していました。

遅参の理由は現在もはっきりわかっていません。

「霧が濃くて時間がわからなかったから」
「天候が悪かったので行軍が遅れた」
「元から後詰としてつく予定だったが、予想以上に遅れてしまった」

理由は複数ありますが、そんなに離れた距離でもないので、いずれにしてもちょっと無理があるような気がします。
このあたりは古墳が多く行軍に支障をきたし、それで遅れたというのはありそうですが。

豊臣方が混乱の最中に、マトモな連携を取れなかった可能性も考えられますね。

 

六日 真田幸村 vs 2代目片倉小十郎

基次らの部隊で辛うじて生き残った人々は信繁(幸村)らの隊に収容され、二回戦目が始まりました。

徳川方から前線に出てきたのは、伊達家の重臣・片倉重長。
伊達政宗の教育係だった片倉景綱の息子で、同じ通称”小十郎”を使っていました。二代目小十郎と呼ぶこともありますね。

重長と信繁は当初銃撃戦を展開しました。
そして徐々に距離を詰め、重長自身が兵や騎馬武者を切り伏せるほどの激戦になります。

信繁隊の勢いは凄まじく、重長含めた伊達軍は次第に押し返されていきました。

しかし信繁はここで兵を退き、この方面はしばらくにらみ合う状態に……。
結果としては、主な将を失った大坂方の負けですね。

ちなみにこの戦で重長の戦いぶりを見た信繁が
『あの若いヤツやるな!アイツなら、ウチの子供たちをかくまってくれるに違いない』
と見込んで、この晩、子供たちをこっそり送り届けています。

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信繁が重長あてに
「アンタはいい男だ!ウチの娘をもらってくれないか!?ついでに他の子供も保護してくれたら嬉しいな(チラッチラッ」(超訳)
という矢文を送った話もありますね。

女の子本人からならともかく、親父さんからラブレターもらっても嬉しくなかったんじゃないかとか言っちゃいけません。
武勇を見込んでもらえたのですから、感激したでしょう。たぶん。

 

六日 八尾・若江の戦い

道明寺の戦いが上記のようにド派手な経緯だったため影が薄くなりがちですが、別方面でも熾烈な戦いが繰り広げられていました。

以下のような布陣です。

【豊臣方】
長宗我部盛親
・木村重成

【徳川方】
藤堂高虎
・井伊直孝

ただし、木村隊では兵がなかなか言うことを聞かなかったり、道を間違えて沼地に突っ込んだりと決してスムーズな行軍ではなかったようです。この時点で嫌な予感がプンプンしますね。

長宗我部隊のほうは、お家が改易されたとはいえ元家臣たちが何人かいたので、木村隊よりはマシだったようです。

対戦の組み合わせとしては長宗我部隊vs藤堂隊(八尾の戦い)、木村隊vs井伊隊(若江の戦い)。
もちろん他の武将もたくさんいますが割愛しております。

まず八尾方面では、盛親が騎馬隊も全て下馬するように言いつけ、物陰に伏せさせていました。
そして藤堂隊が間近に迫ったところで立ち上がり、一斉に槍を繰り出して混乱させたのです。

この作戦が功を奏し、藤堂隊では先方にいた高刑(たかのり・高虎の甥っ子)が戦死するほどの被害が出ます。
退却中にも藤堂家の人が亡くなり、さらに終始長宗我部隊のほうに勢いがあったため、この戦い(八尾の戦い)は数少ない大阪方の勝利となります。

盛親の代に長宗我部家が滅びてしまったので、彼の評判は戦国武将としてはあまりよくないですが、この戦いを見る限りではさすが長宗我部元親の息子という感じがしますね。

長宗我部盛親/wikipediaより引用

若江方面では、道中のgdgdを振り切る勢いで木村隊が頑張ります。

地形を活かし敵を誘い込んで銃撃しようとすると、その前に井伊隊が転進して、白兵戦がスタート。
重成自身も槍を振るって戦いましたが、この方面では徳川方のほうが圧倒的な兵数だったこともあり、残念ながら敗れてしまいます。

ただ、井伊隊に与えた損害も大きく、翌日の戦いで務めるはずだった先鋒を辞退するほどでした。
これは藤堂隊も同じです。

 

徳川圧勝も遺恨を残す展開に

この方面での戦いでは、さらに徳川方でイヤなオチがついています。
実は徳川方の後方に松平忠直(結城秀康の息子)がいたのですが、彼はこの戦いの家康からこっぴどく怒られているのです。

なぜか?
と言うと「味方が有利になったタイミングで一緒に攻めるべきだったのに、何もしなかったのはどういうわけだ!」という理由でした。

戦の前に家康から「勝手な行動を慎め」と言われていたため、忠直は素直にその言いつけを守っただけなのです。
「言うこと聞いたのに何で怒られなきゃいけないんだよ!」とキレたくもなったでしょう。

戦の経験が豊富とはいえない忠直にベストな時期を見計らえという家康も無茶振りですし、言いつけを素直に受け取りすぎた忠直もそれはそれで問題かもしれません。

こんな感じで、双方翌日の戦に大きな影響を残して6日の戦闘は終わりました。
こうしてみると、大坂方もかなり奮戦していたことがわかりますね。

しかし、翌7日は大坂城の陥落へと繋がってしまいます。

方角としては大坂城の南側二ヶ所。
天王寺口と岡山口でそれぞれ激戦が繰り広げられました。

戦闘が開始されたのはどちらも正午頃、終了も午後三時とほぼ同時進行ですが、ややこしいので一つずつ見てみましょう。
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