島津に暗君なし

上段左から初代島津忠恒・9代斉宣・8代重豪・下段左から10代斉興・11代斉彬・12代忠義/wikipediaより引用

江戸時代

島津に暗君なし(バカ殿はいない)はどこまでマジなのか?薩摩藩主全12代まとめ

戦国期の島津家当主だった島津貴久

その貴久から生まれた島津四兄弟をご存知でしょうか?

島津義久(よしひさ)

島津義弘(よしひろ)

島津歳久(としひさ)

島津家久(いえひさ)

彼らの何が凄いのかって、全員が総じて能力(武力ときには知力)が高く、他国から恐れられていた点でしょう。

例えば織田信長の息子・織田信雄が、大友宗麟の息子・大友義統が「ダメ息子」のレッテルを貼られるように、各大名家には、一人ぐらい無能とされる人物が生まれがちです。

しかし、島津家では、常に優秀な主君を輩出してきたとして

なんて言葉で称えられることもあります。

2018年大河ドラマ『西郷どん』では、島津斉彬と比較してその父・島津斉興や、異母弟・島津久光が、あまり優秀では無いように描かれていました。

が、実際、そんなことはありません。

本稿では、江戸時代の薩摩藩主・全12代の足跡をマトメてみました。

1代 島津忠恒(ただつね) 1576-1638

2代 島津光久 1616-1695

3代 島津綱貴(つなたか)1650-1704

4代 島津吉貴 1675-1747

5代 島津継豊 (つぐとよ) 1702-1760

6代 島津宗信 1728-1749

7代 島津重年 1729-1755

8代 島津重豪(しげひで) 1745-1833

9代 島津斉宣 1774-1841

10代 島津斉興(なりおき) 1791-1859

11代 島津斉彬(なりあきら) 1809-1858

12代 島津茂久(もちひさ) 1840-1897

国父 島津久光 1817-1887

なお、10代島津斉興、11代島津斉彬、番外島津久光の3名については、それぞれの個別記事で大きく取り上げておりますので、詳細はそちらをご覧ください(本稿末に記事リンクあります)。

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初代藩主 島津忠恒 1576-1638

島津の退き口】で知られ、鬼島津とも呼ばれた島津義弘。

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その実子が島津忠恒となります。

忠恒については多くの悪評も聞かれますが、薩摩藩にとっては重要だった「琉球」「奄美諸島」などを直轄するという功績があります。まぁ、琉球や奄美の方々には非常に迷惑な話でしょうけど……。

戦国&真田ファンにとっては「真田日本一の兵(つわもの)」と評したことで知られますね。

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2代藩主 島津光久 1616-1695

島津忠恒の実子で江戸生まれ。

薩摩は米があまりとれず、しかも武士の数が他藩と比べて突出して多く、とにかく出費がかさむ――。

それを「貿易」で賄うスタンスでした。

ところがこの島津光久の代で江戸幕府による「鎖国政策」がカッチカチに固められ、薩摩でも急遽、方針転換。

光久は、金山開発はじめ新田開発、土地開発に伴う治水などに取り掛かります。

名園として知られる仙巌園も光久によって築かれました。

 


3代 島津綱貴 1650-1704

父は島津綱久(光久の嫡男)。

綱久が42才で早世したため祖父・光久の次に藩主に就任します。

4代将軍・徳川家綱から偏諱を賜り、綱貴となりました。

地震の影響で崩れた江戸の修繕や、寛永寺造営を幕府から命じられるばかりか、本拠地の鶴丸城(鹿児島城)が焼失して、それら再建のために藩の財政が急激に悪化。

しかし、父に似た徳のある性格で善政を敷いていたため、領内の民たちからは支持を得ておりました。

悪化した財政建て直しのため櫨(はぜ・はぜのき)の栽培や、茶葉の改良などに取り組みます。

 

4代 島津吉貴 1675-1747

鹿児島城(鶴丸城)にて生誕。

3代藩主・綱貴の子供でしたが、父が再婚間もない頃だったため、曽祖父・島津光久の子供達と共に育ちます。

大藩・薩摩が跡取り問題で断絶などのことがないよう、

・四男の忠紀に越前家(重富島津家)

・七男の忠卿に今和泉島津家

を継がせる。

 


5代 島津継豊 1702-1760

4代藩主・島津吉貴の嫡男。

島津家には

・加治木島津家
・垂水島津家

の分家がありましたが、吉貴・継豊の代で、新たに

・越前家
・今和泉島津家

の2家が追加。

計4家が御一門(一門衆)となって、もしも本家に跡取りがいない場合、この分家から輩出できるように整備しました。

徳川の御三家・御三卿に似たシステムですね。

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なお、後に篤姫が、今和泉島津家から本家の娘(斉彬の娘)→近衛家の養女→徳川家定の妻として輿入れしております。

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