戦国一の人気武将・織田信長。
その足跡を追っていると、上洛(1568年)の時期から、なんだか正体がよくわからないけれど、ちょいちょい織田家に絡んでくるなぁ……というグループに出くわします。
【三好三人衆】です。
・三好長逸(ながやす)
・三好宗渭(そうい)
・岩成友通(いわなりともみち)
彼らを一言で表せば、三好義継(よしつぐ)を支えた三人。
三好長慶の死後、松永久秀・松永久通父子らと共に、当初は三好政権を支えたのですが(後に袂を分かつ)、彼ら三人衆に対しては、こんなマイナスイメージを持つ方も多いのではないでしょうか?
松永久秀・久通と共に足利義輝を暗殺した悪の小者――。
実はここには誤解があるのですが、ともかく同時代の松永久秀や三好長慶などと比べるとモブ扱いでしかない。
そんな三好三人衆のうち、本稿では岩成友通に焦点を当て、彼らの事績を振り返ってみました。
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岩成友通は出自不詳の実力者
そもそも三好家がなぜ京都で権勢を振るっていたのか?
簡単に説明しますと……。
応仁の乱後、畿内では主に細川家と足利将軍家の争いが続いておりました。
そこへ割って入ったのが、細川晴元に引っ張り上げられた三好元長。
信長の前の天下人・細川晴元はなぜ長慶に敗れたか 50年の生涯まとめ
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さらにその元長の息子だった三好長慶が幼い頃から秀才として知られ、成長と共に三好政権を樹立します(詳細は以下の記事をご参照ください)。
信長より先に天下人だった三好長慶~畿内を制した43年の生涯とは?
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では、岩成友通は?
「三好じゃないから、なんか違うよね」
そう思うかもしれませんが、実際、何者か?と問われると、これが正直よくわかりません。
他の三好三人衆2名と違って、出自すら曖昧なのです。
そんな曖昧な身分でありながら名を残したからには、三好家臣団でも光るものがあったと推察できましょう。
将軍義輝の殺害事件
「三好三人衆」従来のイメージといえば、多くが信長や足利将軍家との争いになります。
例えば上洛直後の足利義昭に襲いかかった【本圀寺の変(1569年)】。
将軍になった直後の義昭が襲撃される! 本圀寺の変で何が起きた?
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あるいはその2年前に起きた【東大寺大仏殿の戦い(1567年)】などで、三好義継&松永久秀らと揉めた争いもよく知られています。
岩成友通の事績というより「三好三人衆」としての行動が記録されております。
そして、最も有名なのがさらに2年さかのぼって【永禄の変(1565年)】でしょう。
三好義継と共に将軍・足利義輝を1万の軍勢で囲み、討ち死にさせた事件。
世間では松永久秀主導のように思われてきましたが、実際はさにあらず。当日、久秀は大和国にいて事件には参加しようがありませんでした。
真相は、三好義継や松永久通らがデモ行動を起こして、そこから突発的に殺害事件へ発展してしまったのでは?という見方があり、三好三人衆にしても、事件後に事態の収拾に動いた三好長逸と違い、岩成友通の場合はどれだけ関与したのかはっきりしません。
その辺の事情は以下(三好長逸)の記事にお譲りして、その後の動きに注目してみたいと思います。
三好長逸―三好三人衆の長老格は信長の力を読めずに消えていく
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そもそも「三好三人衆」はなぜ結成されたのか?
最大の要因は【永禄の変】後に彼らが松永久秀・久通父子と勢力争いを繰り広げた結果だと読み取れます。
三好三人衆が足利義栄(よしひで)を担ぎ、松永父子に対抗しようとしたのです(そのため三好義継とも決別しています)。
これが戦国期最弱の将軍か!14代足利義栄が京都に入れなかった理由が切ない
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三好一族の出身なのかどうか? 出自不明な岩成友通が、この三人衆に選ばれたのは、政治&軍事センスに恵まれたからでしょう。
彼を語る上で欠かせない、こんな経歴があります。
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