「夏は終わった……わしの夏は……十兵衛、また会おう」
そう光秀に告げた将軍・足利義輝。その将軍が、永禄8年(1565年)5月、三好長慶の子・義継の手の者に襲われました。
この【永禄の変】の場面は、美しいようで不気味で、これまでの先入観を変えるものでした。
夜間の襲撃でもない。刀を突き立て、雄々しく戦う【剣豪将軍】ともちがう。
確かに義輝は敵を討ち果たす。
その間、こう読まれます。
敢えて暴虎せず 敢えて馮河せず
人その一を知って その他を知るなし
戦々恐々として 深淵に臨むがごとく 薄氷を踏むがごとし
『詩経』小雅「小旻(しょうびん)」
敢えて虎とは戦わない 敢えて急流を渡らない
人はその一を知ることはできても その他を知ることはできない
戦々恐々として 深淵を覗き込むようなもの 薄氷を踏むようなもの
「剣豪将軍」という呼び方が、どれほど残酷で、そして滑稽であることか。
将軍なりその側近は本来、これがあるべき姿です。
「謀を帷幄の中に運らし勝つことを千里の外に決す」
(計略を陣営の中で決めて、千里離れた場所で勝敗を決める)
御側衆すらいないだけで、これがどれほど悲惨であるか。その悲惨さと滑稽さを「剣豪将軍」という名前は消してきたのかもしれない。
敵と戦う義輝は、こんな言葉が響いていきます。
強い子になれ 声は大きく よく学べ
さすれば立派な征夷大将軍となろう 世を平かにできよう
さすれば 麒麟がくる この世に麒麟が舞い降りる
この世の誰も見たことがない 麒麟という生き物がいる
穏やかな世を作ることができるものだけが連れてくることができる 不思議な生き物だという
そんな理想が語られる中、義輝は追い詰められてゆきます。
三枚の障子越しに刺され、倒れる将軍。
30年の生涯を閉じたのでした。
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「将軍の器」に非ず
この場面は、あまりに美しい義輝のせいか。
わかりにくいといえばそうなのですが、義輝を免罪しているわけではない。むしろ、彼がここに至るまで、無策であったのではないかという問いかけも感じるのです。
「将軍の器」ではないということです。
責任回避――無気力になるほど辛い事情はあっただろうし、こんな酷い殺され方をするほどの悪人でもない。
けれども、彼が逃げて背を向けたことは確かであるとは思う。
それが先ほどの『詩経』にも込められていると思います。
殺陣がともかく絶品でした。
かっこいいとか見ためのことだけではなく、酷く、観る側の胸を抉ることを、演出からカメラワーク、何から何まで考え抜かれているとわかります。
そんな今週は、池端氏だけでなく、河本瑞貴氏も担当。脚本家がチーム制だと明かしたことで、NHKが盤石さを見せてきました。
池端氏は将軍で、それ以外の名を連ねる方はいわば御側衆でしょう。体制は安定していた方がよいに決まっている。幕府でも、ドラマでも、それは同じことです。
あまりに美しく儚いようで、この場面には別の人物の影もちらつきます。
「暴虎馮河」というのは無謀なことを指す。あまりよろしくない意味で使われますが。対義語もあります。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」(『漢書』「班超伝」)
敢えてチャレンジしなければ、何にもならんだろ! そう言い出しそうな人が本作にはいます。
織田信長が筆頭格。
「人その一を知って その他を知るなし」
これにも対義語があります。
「聖人は微を見て以て萌を知り、端を見て以て末を知る」(『韓非子』「説林上」)
ちょっとした兆しを見ただけで、これから起こることや全体像を察知できる――今川義元の顔を見ると幼い頃から言い切っていた徳川家康です。彼はじっくり観察して、先を見通す特技があります。
誰もが信長や家康になれるわけもないし、そこを責めるだけ酷と言えばそうなのですが、義輝を完全免罪しない。そういう恐ろしさを感じます。
ただただ綺麗で神々しかった場面は先週にまとめて、今週は生々しい残酷さが際立っていた。
けれどもこれはハッキリと言っておきたい。
義輝がおかしいのではなく、むしろ際立って変わっているのが三英傑と光秀なのです。そしてそういう変わった人の隣にいることは、実は幸せとも限らない。
ビッグな人とお近づきになりたい! 人間そう思いますけどね。そういう単純な話でもないのでしょう。
誰かを貶めるのではなく、変わったところを強調する作劇です。
義輝の母と弟まで討たれてしまった
越前では、塾の子どもを見送った光秀の元に、明智左馬助が走ってきます。
そして義輝が二条御所でお討ち死になされたと告げます。
「何故じゃ!」
光秀は声を荒げます。彼は感情を露わにします。
三好の軍勢が御所に押し入ったと聞き、光秀は唖然としています。
足利義輝は形骸化していたとはいえ、討たれたとなれば困り果てる。ポスト義輝を見据えていた細川藤孝と一色藤長は、松永久秀の元へとやって来ました。
二人は激怒しています。なにせ……
・義輝母の慶寿院
・末弟の周暠(しゅうこう)
ここまで犠牲になっている。足利将軍家を根絶やしにする気かと、困惑と怒りを見せているのです。
これには、相手を責める気持ちだけでなくて、自分たちの不甲斐なさへの怒りもあるかもしれない。
だって前回、この二人は覚慶を護衛に行っていました。そういう甘さがあると自覚しているからこそ、より怒りが激しくなるというのはあると思うのです。
本作のよいところですが、ハッキリと久秀もコントロールできない事態であり、手落ちだと反省していることを描いています。
ここで久秀を毒々しい悪党にした方が、話を作る側も、見る側も楽でしょうけどね。そうして、ネチネチ文句垂れるクソレビュアーが現れても、「小うるさい陰キャ歴史マニアは文句つけているが」とネットニュースであたりで流せばいい。
でも、そうはならないのが本作。
松永久秀の三大悪事といえば?
「将軍殺したよね!」
→わざとじゃない。制御できなかっただけです。
「大仏焼いたよね!」
→故意ではない。大仏殿近辺で戦った結果であるし、対戦相手にも責任がある。
「裏切ったよね!」
→その顛末は、本作でも描かれます。しっかり見据えましょう。
確かに松永久秀はキングメーカーだし、清廉潔白でもない。
ただ、不当評価されていると最新の研究を反映させて来ますから、本作は素晴らしいものがあります。平蜘蛛爆死は期待しない方がよいでしょう。
いいんですよ、久秀本来の魅力を取り戻すのだから。
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三好一派は義栄を擁立
三好一派は、傀儡として足利義栄を立てるべく動いています。
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事態は誰もが予想しない方向に動いているし、無計画さも見えます。
そのために、義輝の弟・覚慶を興福寺一乗院に幽閉したのでした。
歴史を見るときの基本的な注意点として、後世の人間は結果ありき、神の目を持ってしまうことがある。
「こんなに賢い人だから、きっとわかっていてやったんだろうな」
そうバイアスをつけてしまいますが、目の前で起こっていることですから先のことなどわかるはずもない。当時の人も無茶苦茶に焦りつつ動いていたと思う方が、後世の我々としても理解できやすいことがあると思います。
コントロールできていない状況での事件だから、覚慶幽閉も困ったことにはなっている。
残酷な話ですが「あの時、覚慶を殺しておけばよかった」という嘆きは、いろいろな所から出てくるのです。
ともあれ、キングメーカーとしては駒を抑えなければならない。松永久秀は、お悔やみを言うと称し、一乗院へ面会に向かいます。
これも、汚い話といえばそうですけど、戦国大名、特に東北では、冠婚葬祭にかこつけて暗殺しまくる。
フランスでも、結婚式大虐殺が起きていましたね。
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それに現代社会でもありえること。ヤクザ映画で葬式がやたらと出てくるのは、死人が多いだけでもなくて、パワーゲームの場になるからなんですね。
久秀は義輝を弔いつつ、覚慶の品定めをしています。
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兄上のことは痛恨の極みと切り出し、心中を察すると言いつつ、本音を切り出します。
「こちらの御門跡様は、将軍におなりあそばすお気持ちは、ありますでしょうか」
筋から申せば、覚慶が一番ふさわしいと迫る久秀ですが、もうこの時点でキングメーカーのふてぶてしさを見せています。
盤石の君主制度とは、暗君が立とうが揺るがないもの。玉座に人形を置いても国が回るのが理想です。
その形態が立憲君主制ですが、徳川幕府も統治能力のない将軍がいました。
本作は将軍の器を周囲が考えている時点で、いろいろと不安定です。
悟りにほど遠いゆえ、死にとうはない
覚慶は不安な表情を浮かべます。
6歳で仏門に入った。争いを避けるために、足利家は嫡男以外の男子は全て出家させるのです。
だから刀を持ったことも、弓を引いたこともない。その私に武家の棟梁など務まるはずがない――そう弱気なのです。
君主教育は大事なものでして。
例えばイギリス国王。エリザベス2世のあと、不人気のチャールズを飛ばして孫に継がせるべきだという意見もあります。
が、これは可能性が低そうです。チャールズはずっと太子として長すぎる教育を受けています。いつ母が亡くなろうが準備万端。一方でウィリアムはまだ準備不足ということになる。
覚慶は将軍になれるとウキウキするどころか、重圧を感じています。久秀はそこで、脅しを出してくるのです。
出家していた周暠(しゅうこう)まで、三好一派に討たれていると。
「このままここで、座して死をお待ちになりますか? それとも……」
戸が開き、槍が二本、覚慶の前で重なります。
「死にとうはない。私は悟りにほど遠いゆえ、死にとうはない……」
そんな覚慶を気遣うどころか、さらに重圧をかけていく久秀。亡き兄上の御側衆である藤孝や藤長も、御門跡を深く案じていると言うのです。
「そのことをお忘れなく。失礼つかまつりました」
お前はもう、身ひとつでないぞ。家臣ができているんだぞ。その期待を裏切るのか? そういう脅しだ。
丁寧なようで、人間の心理を追い詰める久秀。
ここで、覚えておいた方がいい二人がいます。
無邪気で愛くるしい顔をしながら、生首を差し出した織田信長。
弟に毒を飲めと迫ってもいた。彼は必要とあらば、目的のためならば、自分の手で殺すことを厭わない。
そして、明智光秀。
彼は自分の頭で考えて、周囲の意見を気にしないで決断ができる。自分の大事な人がどう思ったところで、彼の意見は揺るがないことがあるのです。
この作品は、顔が見えていない人物の影すらゆらめく、そういう何かがあります。
安定感抜群の吉家が登場
さて、そうと決まれば、覚慶の奪還作戦です。
細川藤孝が人足に扮して、人夫とともに一乗院から荷物を運び出します。
警備の兵が荷を改めると止められますが、荷物は仏像でした。不審者がでたということで、警備兵はそちらに向かいます。
覚慶は、人夫に扮していたのでした。
簡単なトリックといえばそうです。でも、なかなかこれはうまいと思う。
単純で、馬鹿げているとは思うのですが、人間って割と簡単に騙せるんですよね。一見どうでもよい場所に、大事なものを隠す。そんなトリックで、人は騙されるのです。
越前では、光秀が朝倉家家老・山崎吉家に掛け合っています。
榎木孝明さんは、時代劇にいるだけで安定感が出てきます。『柳生一族の陰謀』でもよかった。
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光秀は大和に行くと言う。多聞山城で松永久秀に会うと言うけど、なんでなのかと吉家は問いかける。
光秀は理由をハッキリと言えません。彼自身、整理がつかず、激情に突き動かされています。
光秀は平和主義者として描写されているようで、激情の持ち主としても表現されています。怒る時は激しいし、感情が顔に出ます。
だからこその長谷川博己さんなのでしょう。
知的で優しいけれども、怒ると激しい。こうした表現を同時に出せる役者として、彼が選ばれたと。
吉家は、困惑気味に朝倉義景に報告するのですが、義景は「行かせておけ」と促します。彼は京都のことを聞いていて、泳がせる方が得策であると判断しました。
美濃を追われ、越前に流れ着き、浪人として寺子屋の師匠に甘んじている。かと思えば、京都に行き来し、将軍の覚えもめでたい。
「使える刀か、なまくらか? 明智十兵衛、おかしな男よのう」
そう言う義景は、決して愚かではないのでしょう。
ただ、これも普通の範囲内。来週の予告では、ずばり信長が光秀に仕えないかと言い切ります。
「千里の馬は常にあれども伯楽は常にはあらず」(韓愈(かんゆ)『雑説』)
人を見抜くという意味で、信長はずば抜けたものがある。義景はそうでもないと。
くどいようですが、信長がぶっ飛んでいるだけです。義景が愚かなのではない。
松永を問い詰めるため多聞山城へ
光秀は馬を走らせ、多聞山城へ向かいます。
お待ちください! お待ちください!
そう止めようとする家臣を突破し、強引に松永久秀に迫る光秀。日頃の穏やかさと、この激情の対比が素晴らしいものがあります。
「来たか、やはり」
久秀は来訪を察知していました。
そのうえで、初めて会った時のことを言い出します。
子どものように鉄砲を欲しがっていた。これを見るたび、お主のことを思い出す――。
思えばあれから時代は変わりました。
鉄砲は普及し、信長が大量に使うようになっている。あのとき対立していた将軍家の家臣が、久秀を頼りにしている。
そんな時代に光秀は変わったのか、それともそうではないのか?
光秀は鉄砲ではなく、将軍を討った理由を求めています。京から追い出すだけ、義輝様は決して討たぬと誓ったのに!
ある意味、子どものまま止まったようなところのある光秀。こうもまっすぐになかなか言えませんよね。
相手の本拠地だし、えらい人です。そこに押しかけて理由を問う光秀は、純粋でまっすぐであります。道三にも「はぁ?」と言っちゃってましたね。義龍にも露骨な拒否を示すし、自分の感情を隠し通せない。
だからこそ、久秀は本音を言えてしまう。彼は責任回避はしない。
「わしの読みが甘かった。息子たちがしでかしたこととはいえ、わしも責めを負わねばならぬ。腹が立つか? わしが憎いか?」
「憎いッ!」
光秀は絞り出すように怒りを見せる。久秀は静かに、手にした鉄砲の火縄をつけます。
「撃て。これでわしを撃て。玉は込めてある。撃て」
銃口を額に当て、久秀は光秀に迫ります。
「うわあ〜!」
光秀の銃口は逸らされ、外を撃つ――実弾入りでした。
久秀は本気で命を懸けていた。2年前の雑な大河で、わけわからんロシアンルーレットを見た記憶がありますが、それとは違うんです。
幕府あっての我ら?
光秀は気が抜けたように座り込んでしまう。優しいようで、実はしばしば危うさを見せてきます。
なんとかここは逸らしたけれど、実弾入りの銃をここまでギリギリにならねば逸らせないほど、激情の持ち主ではある。本能寺へ向かう心境は、散りばめられているのです。
そんな光秀に、久秀は淡々と語ります。
「十兵衛、このまま将軍がいなくなれば、幕府は滅ぶぞ。幕府あってこその我らなのだ。近頃そう思うのだ」
光秀はここで、松永様のお言葉とは思えないと返します。
美濃の道三様同様、身一つで旗をあげて、将軍畏れるに足らずと階を駆け上がったのではないか。それが幕府あっての我ら? そう問いかけます。
光秀はつくづく容赦というものがない。
鉄砲以来お世話になっているし、慰めてもよさそうなもの。秀吉だったら、それができそうな気もしますが。
久秀は、自分でも半分はそうだと認めます。
この十年、京都で政治を行い、大和を預けられ、身に染みていることがある。幕府というものの威光が、人を、武士を動かすのだと。
あとの半分は迷うておる。まことにそうなのかどうか――。
「答えが出ん……」
また今週も、業の深さに突っ込む。それが今年の大河の恐ろしさだ。
わかりやすいので何度でも例えますが、これもワインとラベルの関係です。
瓶の中身は所詮ぶどうの酒。どうでもいい、味なんか大して変わらない。でも……実際にソムリエがなんか言うと、高くなっちゃうんだよな。そういうワインを飲むと、気分はよくなる。
こんなラベルのせいでそこまで左右されるなんて、カラクリがわかればむしろ不愉快なのだけれども、利用しちゃえという気持ちも当然沸いてはくる。
松永久秀も、信長ほど吹っ飛んでいない。
義輝を前に官位のことを持ち出されて、むしろしらけた顔を出してしまった、そんな信長にはそうそうなれないのです。
下克上だ、革命だ! そうは言っても、簡単な話じゃないんですね。
覚慶の見極めは光秀に任せた by義景
そして久秀は、一乗院覚慶の名に聞き覚えがあるか、と光秀に問い掛けてきます。
義輝の弟君だと光秀が答えると、甲賀・和田惟政の館にいると久秀は言います。
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武家育ちでもなく、ゆくゆくは徳の高いお坊様になられる方だけれども。世俗に戻れば、次の将軍に最も近い方だと……。
久秀の言葉に、チラッと何かが滲んでいます。
徳の高い坊様だからって、よい将軍になれるかな? そういう疑いが、また出てきた。
これもスッキリする話といえば、そうです。
大河の善悪の描き方も、駄作は本当に酷いものでした。大麻ドラマ『草燃ゆ』では松下村塾生がおにぎりを食べたり。西郷どんが子どもと戯れるアピールをしたり。
はっきり言って実務能力と無関係、しょうもない人柄アピールをするものがあったものです。
しかし、本作はそんなユルさはない。
性格が極悪非道、やたらとピーキー、いわば乱世の奸雄でも仕事ができればいい。性格がよかろうが、乱世では埋もれるだけなら、それまでのこと。
そういうキッパリした人物評が出てきました。
そのうえで、朝倉様からも書状が届いているとか。
甲賀の和田の館に向かうよう、光秀に勧めろというのです。覚慶を引き受けてもよいと、朝倉は思っているとか。この狡猾な日和見が滅びのもとになると、伏線が貼ってある気がします。
行くかどうかは光秀次第。そうボールを投げつつ、覚慶がどのような方か知りたいだろうと誘いをかける。
そのうえで、路銀は朝倉が出すとも保証。まあ、当たり前じゃ。そう添えます。そうそう、光秀はお金を気にするからさ。
そして、こうも持ちかけます。
「なあ十兵衛。このまま越前で、世が変わるのを座して待つつもりか? 今、武士の世は大きな曲がり角に来ておる。それをどう拓いていくのか? おぬしもわしも正念場じゃ」
この光秀への問いかけは、深いものがあります。義輝は、光秀に妻子と共に静かに生きるべきだと投げかけていた。それとは真逆の事を投げかけている。
このあと、光秀は覚慶の器も確かめるけれど。久秀の器も、信長の家臣としてはかることになります。
魔法の鏡のような光秀は、時に極めて残酷になる。
本能寺に向かう彼の姿だけではない。その前に、信長の家臣・光秀として、彼は敵を倒す刃や玉の側に回ります。
本当に人を殺せないかどうか?
それは必ずしも善性に依るわけでもない。流血こそが最善の道だと割り切ったら、突き進む人だっている。
光秀はまっすぐ飛ぶからこそ、そこが恐ろしいと見えてきます。
光秀は、甲賀へ馬を走らせるのでした。
駒の丸薬が売れに売れて
さて、京では。
東庵が丸薬を数えています。
伊呂波太夫がそこへやって来ます。
700袋限定が、販路拡大の方向へ進み始めてしまったようで。東庵の怪我が治るまでのとりあえずの収入手段のはずが、売れて売れてしょうがない、メインになってしまった模様です。
伊呂波太夫はホクホク顔で、駒に相談があると奥へ向かいます。
駒には助手として、茶の振り売り父娘もいる。センブリを干して、駒に渡しています。
なるほど、センブリね。安く手に入るし、胃によいし、納得のいく材料です。
駒は「また注文ですか!」と大忙し。
次の晦日までに満福寺に200袋、亀岡八幡宮に200袋だそうで、調合するのは私一人だと駒はぼやきます。米も味噌も買ったのに、もう十分だと困り果てています。
「はあ? 何言ってるのよ。世の中の貧しい人、病に苦しんでいる人を助けたいって言ったの、駒ちゃんじゃないの。どんどん作って助けてやりなさいよ。これはね、駒ちゃん、ひょっとすると、あんたが思っているよりずっと大きな、大変な仕事になるよ、きっと。やっぱり人を増やそうよ、ね、そうしよ!」
伊呂波太夫よ……おそろしい性格してるな。
キッチリと言質を取った。駒はお人好しだから「人助けをしたいの?」と言われれば「はい」と答えるしかない。論点をずらしていますが、こういう方向へ持ち込めます。
「駒ちゃんは人助けをしたい。そんな駒ちゃんの願いを叶えるために、丸薬を売ろうと私、伊呂波太夫が提案しました」
これだと、実際に売って儲けたいプロデュースした側、仕切っている存在は伊呂波太夫なのに、駒が望んでいるように思えますよね。
実際はこうなのに。
「私、駒としては人助けをしたいのです。けれど、人助けのために金を儲けることは違うと思う。とはいえ、恩人である伊呂波太夫、それに東庵先生の頼みは断れませんし……」
東庵邸へ関白もやってきた
そのころ、近所にお忍びで近衛前久がやって来ています。
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彼も三好一派の工作で、難しい立場だそうです。
「このあたりと聞いていたが……」
そう探している前久。気品はあれど、警護の武士が脅しをかけていて傀儡であるとわかります。
それにしてもNHKは、『柳生一族の陰謀』の強い麻呂こと烏丸文磨といい、お公家様の描き方に磨きをかけて来ました。
2010年代のベスト麻呂は、悪左府こと藤原頼長・山本耕史さんだと思えます。
あれよりも人間臭く、生々しく、キャラクター性もある。そういう麻呂像の模索を感じます。
やはり、時代ごとに麻呂も更新していかないと。
そういう麻呂を描くうえで、本郷奏多さんは「どうだ、これぞ2020年代ニュー麻呂だ!」と自信を持って出して来た感はある。
あと本郷さんは、出身地である仙台の人物も向いていると思います。といっても、伊達政宗ではなく、幕末あたりの方ですね。
その前久は、東庵の家に入って来ます。
「頼もう! こちらに伊呂波太夫はおるか?」
「ん、どなたかな」
東庵に問われ、前久はこう返すしかない。
「私はあの、宮中から参ったもので……」
タジタジとして、伊呂波太夫に見つけられるまで、どこか頼りないところを出しています。
これが本郷さんの多彩な演技。ふてぶてしい時はとびきり生意気。で、弱った時は、まるで仔犬のよう。
伊呂波太夫がこんな所までどうして来たのか驚いていると、駒は挨拶をします。東庵は置いてけぼりだ。さっさと密談体制に入る伊呂波太夫と前久、前久を知っている駒にイライラしています。
駒に問いただすと、なんと関白だと言われるわ。太夫とは小さい頃から姉弟のようだと明かされるわ。東庵は困るしかないと。
次の将軍を決める宣下は、巡り巡って
前久は、三好一族がとんでもない奴だと伊呂波太夫にぶちまけます。
「太夫、どう思いますか?」
姉の前で、すっかり弟になっちゃったな。尾野真千子さんがドーンとでかい風格があるから、ぴったりとはまります。
伊呂波太夫は、見れば見るほど、尾野真千子さん以外にできる人はいるのかとひきつけられます。横顔、ちょっと傾けた顔の輪郭がなんともいえない。人をひきつけてる魔の淵といったところ。
こういう相手だから、前久が姉に頼る情けない奴とも言い切れない。蛇や狐にたとえたくなるような、あふれんばかりの妖気が伊呂波太夫にはある。
次の将軍を決める宣下は、帝によるもの。
その宣下は、政所の意向を反映する。
政所の意見を決めるのは、関白だ。
「前様はどう思うの?」
伊呂波太夫は問いかけて来ます。前久は、覚慶でなければおかしいと思っている。
「じゃあそう言えば?」
前久はそう言ったのです。でも、それではダメだと反対された。義栄、だから「諾(うん)」と言えと。断ったら斬る。
おっと、これは不都合な史実だ! 意見の決定には、反対意見もないと危険なのです。
「諫言耳に逆らう」(『孔子家語』)
アンチの意見は読んでいてムカつくよね! そういうこった。でも、貶す意見も時には必要なんですよ。
クソレビュアーは散々罵倒されているけど、推しの動きにペンライト振るばかりじゃ、大河がダメになるばかりだと思うから敢えてキツい球を投げる。嫌われるのも、織り込み済みです。
にしても、もう幕府は腐り切ってますな。
地球儀をぐるっと回すと、折しもヨーロッパは宗教改革です。国王と教皇の権力があればこそ、バランスが保たれていた部分はある。それをこのころ、教会権威にかまわず君主が決定できるよう、パワーバランスが変わっていきました。
近衛前久は、政治に目を光らせる異色の関白と紹介されてはおりますが、さてどうでしょう。
誰が将軍だろうと痛くも痒くもない
伊呂波太夫は、迷っているという彼の心を低い方へと導きます。
「いいんじゃないですか。三好のお侍方が四国の方(義栄)を将軍にしたいというのなら、そうしてさしあげれば?」
このあとの理由の説明がすごい。
「四国のお方だろうが、もう一人のお方だろうが、私たちは痛くも痒くもない。前様も本心はそんなところでしょう?」
妖婦の極みですな。姉と弟のようなものだから、そういう関係にはならない。けれども、堕落へ導くという点において、伊呂波太夫はそういう存在になった。
しかも、これは駒にも使った手ですが、「あなたも本心はそうだ」と誘導しているのですね。
人の心は、案外弱い。
今日はラーメンを絶対食べると決めて、どの店で食べるかスマホのナビに入れて、割引チケットまで用意したのに……カレー屋のかぐわしい香りに釣られて、そちらへ向かってしまう。そういうことって、ありませんか?
頭ごなしにそうしろと言われたら、人間抵抗できるけれど、うまい具合に誘導すれば、本心からそちらへ向かったと思ってしまう。
水を流すためには、流れる水路を低い方向へ掘り進めばよい。そういう技術を伊呂波太夫は即座に使えます。これをお手玉ポンポンしながら演じる尾野さん……。
「次の神輿に誰を担ぐか。命がけでこだわっているのは武士だけ。そのことで関白が命を落とすなんて馬鹿馬鹿しい。そう言っているのですよ」
「しかし太夫、私が四国の方を押せば、戦になるかもしれません」
「したけりゃすればいいのです。戦って、とことん戦って、どっちも滅んでしまえばいい。武士がいなくなれば、戦はこの世から消えてなくなる。結構なことじゃありませんか。私が言いたいのはね、前様も私も、武士じゃないってこと。それだけのこと」
「……わかりました。太夫が仰りたいことは」
前久はそう言ってしまう。伊呂波太夫はここまで導きました。
この場面で厄介なところは、伊呂波太夫は何も説き伏せたわけではないということです。
前久の中にある、責任回避感情を引き出したこと。感情の尻尾を見切って引き摺り出す。そういうことができる。
三英傑では、秀吉もこの達人であることでしょう。光秀には通じにくいのでしょうが。
妖婦というと、積極的に堕落を促すように思えます。
妲己が典型例で、唆して人を殺し虐待するように思える。
そうではなくて、隣にいる誰かの心にある残虐性や責任回避を引き出すのではないか? そう思える伊呂波太夫です。本音を映し出す光秀とは違う意味での鏡。よくもこんな像を出して来たと思えます。
演じる尾野真千子さん。そしてハセヒロさんは、池端氏の『夏目漱石の妻』で主役夫妻を演じていたのですね。
そこで力量を見抜かれての抜擢だということは、よくわかりましたが……なんだこの大河ドラマ? どういう深慮遠謀ですか? これがあなたにふさわしい役だと台本を渡されて、演じる側はどう反応しろというのか?
おそろしい世界です。
頼りない覚慶に不信感を抱く光秀
目を離した隙に覚慶がいなくなったそうです。日が落ちる前に探せと命じていますが、履き物すら置いて行ったとか。なんだか猫のような扱いをされております。
そこへ光秀がやって来ました。
出迎える藤孝からは、ピュアな笑顔が消えつつある気がします。
実際、藤孝の真っ直ぐな心は疑わしくなって来た。
将軍を神輿として扱っていることは明かされつつあります。兄の三淵藤英ともども気まずそうではあります。
そしてこの兄弟は、出てくるたびに幕府権威が落ちていることを見せつけているようでもある。
覚慶が戻って来ました。
傷ついた足に履き物を履かせてもらっている。大和へ戻ろうとした突発的な脱走のようです。その覚慶に、亡き義輝が目をかけていた者として光秀が紹介されました。
義輝の無念を気遣う光秀。覚慶は本音を語ります。
三淵たちは命をかけて次の将軍にしようとしているが、この大任がわしにつとまると思うか? 私は兄とは違う。そう言い切ってしまう。義輝は己の器を気にかけつつ、やるしかないという気持ちはあった。それすらないわけだ。
ハセヒロさんはやはりすごい。これを聞いているところで、アップになって、無言で、目の動きだけで不信感を見せつける。
何をどうすればこんな目の動かし方をできるのか?
毎週書いているけど、役者って、すごいものです。こういう演技をカメラで撮影する方が羨ましいです。
ハセヒロさんのみならず、こんな将軍を持ち上げる羽目になっている、谷原章介さんと眞島秀和さんもお見事です。で、そういう波を起こす滝藤賢一さんも凄まじい。
血だけでは成り立たないと悟っている
覚慶はこう続けます。
「死にとうない。その一心で大和を出て参った。しかし今は、今の私は、それだけで到底ことたるのだと、ようやくわかりかけてきた。だが私は戦が好きではない。死ぬのが怖い。人を殺すなど思うだけでも恐ろしい」
兄とは違うと嘆く覚慶。
ここで、あの人物の影も見えてくるようではある。必要ならば首を箱に詰め、弟にも毒を飲ませる、信長です。出てこなくとも毎回、信長のことばかり考えてしまう。
そういう将軍としての責任回避ばかりする覚慶を、藤孝は励まします。
お体には、まごうことなき足利の血が流れている。我ら武士の誇り。その矜恃をお持ちになり、御旗を掲げよと。
藤英は、還俗することが決まっていると言います。支度が整えば、すぐにでも。
その様子を光秀は見ている。じっと、見ている。やはり、その目には不信感が宿っています。
その夜――藤英と藤孝兄弟は、こういう態度です。
十兵衛殿がどう思われたか、おおよその察しはつく。そのうえで、藤英はこう切り出します。実のところ、覚英様については迷いがあると。
藤孝は困惑しつつ、その話はとっくに答えが出ていると言い出します。
支える我らがしっかりしていれば、天下は動く、決めたから後には戻れないと。
このあたり、実に人類の進歩過程を感じると言いますか。イギリスがいろいろあって、君主がバカでもどうにでもなる立憲君主制を確立させる時期とそこまで遠くないのです。
もっと昔であれば、王の血を引く君主はともかく神聖で、疑うことすらなかったけれど。
人類は学びました。血が尊くとも、バカはバカだと。
このドラマはいい。戦国時代の人間は私たちとまったく別物のようで、繋がっていると感じられるから。
幕府に恩義があろうと、彼らは血だけでは成り立たないと悟っています。
上杉、武田、朝倉……諸大名の後押しがなければならない。だからこそ、この兄弟は、越前に帰ったらくれぐれも朝倉様によしなに……そう念押しするのです。機が熟せば、ともに上洛をしたいと。
この念押しを、覚えておきましょう。
覚慶、将軍の器に非ず……
光秀は、越前一乗谷へ戻ります。
義景はねぎらい、松永殿はご息災であったかと切り出します。
そして覚慶の話題にうつり、六角の支配下のもとで動いていると語られますが……。
酷いですよね。覚慶はまるっきり駒扱い。山崎吉家も見守っています。
松永殿が息災であったか聞かれ、光秀は義景様にくれぐれもよろしく、と返します。そうして義景の意図を知りつつ、六角家の意向を確認しつつ、覚慶の器について聞かれた光秀は?
正直に申し上げてよいかと確認して、自分が見聞きした限りと断りつつ、こう返します。
「次なる将軍の大任、あのお方はいかがかと存じます……私ごときが誠に僭越なれど、今はそうとしか、申し上げられませぬ」
義景、困ります。
「そうか、しかしなぁ……」
視聴者も驚いたかも。
だって、光秀はいい人じゃなかったですか? 親しい藤英と藤孝兄弟から「よしなに!」と念押しされて、これですよ。
光秀は真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、自分に嘘をつけない。見たまま、自我を曲げないで、思ったままに答えてしまう。
純粋といえばそうだけど……光秀も、信長も、純粋すぎて振り切り過ぎた人間は、どれほど酷いか。本作は突き詰めたいようです。
そのころ藤孝は、三好に先を越されたと兄・藤英に告げています。
京の代理では、関白・近衛前久が帝に奏上していました。次なる将軍は、足利義栄がふさわしいと。
この場面も素晴らしいものがある。前久が伊呂波太夫の意をうけたまま奏上することも、もちろん大事ですが。
坂東玉三郎さん演じる正親町天皇。「美しき帝」と紹介されるこの帝ですが……御簾の奥にいて、顔すらはっきり見えないのです。
それでも美しいと、所作だけでわかる。御簾を経た体の動かし方だけで、どれほど美しいか、わかる。
天皇は歌舞伎役者が演じることが定番の大河。その伝統に従い、坂東玉三郎丈が出て来たわけです。
圧巻の美ですね。今、和装を身につけた所作で、最も美しい動きができる方となれば、まさしく彼でしょう。
本作のおそろしいところはきりがないけれども、男性の美しさから逃げないこともあると思えます。
女性はその賢さ、強さを余すところなく伝える一方、男性はその美しさや儚さを描くことに気を抜かない。
高度なジェンダーの飛び越え方を感じます。
女は自分の賢さや強さを隠さなくていい。
男だって、自分の美しさや儚さ、繊細さを隠さなくていい。
人間という生き物が持つ魅力と可能性を突き詰め、本作はまた今週も、独特の突き抜け方をしてゆくのでした。
MVP:伊呂波太夫と近衛前久
彼女について語る前に、ちょっと脱線しますが……。
『皇帝マキシミリアンの処刑』って絵をご存知ですか?
この絵では、皇帝を射殺するために銃を持つ兵士が大勢いるのです。
殺すだけなら、別にこんなに大勢は必要ない。
ただ、これは心理的な措置です。複数名いれば「俺が撃った玉でなく、別の誰かが撃った玉だ」と思えるから、ちょっと楽になる。
光秀と久秀の対峙でもよいですし、信長が松平広忠を暗殺したところでも、道三が娘婿・土岐頼純に毒茶を飲ませたところでも、思い出していただければおもしろいと思いますが。
残酷だのなんだの言われようと、彼らは我が手で殺すという責任感から逃げていません。
『ゲーム・オブ・スローンズ』のスターク家の方針もそう。
一方で、伊呂波太夫と近衛前久の場面は逃避の象徴そのものに思えました。
伊呂波太夫は、誰かを殺せとけしかけてはいない。
ただ、自分たちには関係ないことだからどうでもいい。
そう責任放棄へ誘導する。軽い口調で言う。聡明で野心を持つとされる前久ですら、それに従ってしまったとわかる。
前久に強固な意思があれば、わざわざ危険を冒してまで伊呂波太夫にはすがりつきませんね。
「あの女がああ言ったから……」と、逃避を用意しているように見えるし、卑劣でリアリティのある話なのです。
しょうがない。
自分のせいじゃない。
決めた奴は他にいる。
悪いのは、私じゃなくてあいつらじゃん。
こうやって現実逃避を続けていくことが、どれほど愚かで残酷で狡猾で卑劣か。伊呂波太夫はサラリと示しました。
戦でどれだけ死のうがいいし、武士が滅びればそれでいい。無責任で残酷極まりない伊呂波太夫は、敢えていろいろな論点をすっ飛ばしているとは思えます。
自分だって武士が上客なのに。
戦に自分が巻き込まれないなんて、言い切れないのに。
伊呂波太夫がそこをわかっていないとは思わない。でも、人の心は水。低い方に流れます。
現実や苦難を無視して「楽しければいいじゃない」と堕落を促す。
別の大河ドラマか何かで、主人公が盛んに「楽しければいい」と連呼していました。
それが斬新だと褒める評もたくさん見かけました。
でもそれって、斬新でも何でもない。
子どもが「ブロッコリーよりチョコレートがいいんだもん!」とジタバタするのと大差がない。大人は本来、恥ずかしいと思うべきではありませんか?
作品というのは、結局のところ、作り手や時代の反映です。
バブル期に青年時代を送った年代は「難しいことなんか考えない方がいい。うまいもの食べて、ねるとんでもしていればいいじゃん」と浮かれる青春を送ってきた。
そういうことを刷り込まれた層には「楽しければいいじゃん」と大っぴらに主張するのは、トレンディでリゾラバでバッチグーでナウなのでしょう。
そういうバブリークリエイターの脳天ごとかち割ってくる怒りを本作からは感じる。
伊呂波太夫を露悪的にして、意地悪くそれを見せつけることで、高度な証明をしてきましたね。
ここでの伊呂波太夫と似た思考回路と戦術の持ち主は、三英傑では秀吉であるとみた。
で、ここからが傑作極まりない話なんですけど……そういう声が聞こえない層がいるんですよ。
こういう感想を書いている方だ。
「駒と東庵の場面は、飛ばすといいって大河ファンの集まる掲示板に書いてあったので、そうするようにしました^^ とても快適です」
このありきたりな感想に、危険な予兆があると感じるのです。
少々分析させていただきますと……。
◆駒と東庵の場面は、飛ばすといいって
→飛ばすといい理由が不明瞭です。「あの場面には重要な伏線がない」のであれば、これは過ちである可能性はあります。そういう場面に伏線をしこめば、簡単に騙せます。戦国大名だって、駒や東庵のような人物を使い、散々諜報をしかけましたよね。それと同じ構図を利用できるのです。
→書き込んでいる人には、東洋医学の知識がない。あれば飛ばせないと気づきそうなものです。
◆大河ファンの集まる掲示板に書いてあったので、そうするようにしました^^
→そんな掲示板に集まる人が、何者なのかはわかりません。偽装はいくらでもできますし、混乱させる悪意ある情報を流すこともできる。しかし、この書き手はそんな可能性には思い至らないようです。
◆とても快適です
→結局、雰囲気に迎合することで快適になっている。どうしてそうしたのか、自分の意思なのか、流されているだけではないのか?
ほんとうに自分の頭を振り絞って得た感想なのか?
ハッシュタグで刷り込まれたのか?
ブロガーなり、ニュースなり、掲示板を見て至った意見なのか?
クソレビュアーだって妄想しますよ。
このレビューを読めば大河が十倍楽しめると言い切りたいとか。ドヤ顔で腕組んで写真に映り「あのドラマ通が斬る!」って見出しつけるとか。note時代です。そんなもん、画像ささっとこさりゃいいんですよ。お約束、和服腕組み画像だよ!
ただ、私はそういうことができない。
人の意見を左右したくない。
左右された人の言動まで、責任を負えない。そういう煽動はしたくない。
だから、クソレビュアーと罵倒されても嬉しい感情すら湧いてくる。
それはある意味、とても自由なことなのです。フィクションの剣豪に例えるならば、仕官しないで暴れている柳生十兵衛みたいなもんですね。そういうのがある意味いい。
自分の頭で考えないと、危ない。
誰かに影響を与えることだって、あんまり考えたくない。
自分たちで考えていかないと、とてもおそろしいことになると思います。
そのおそろしさに気づかず、伊呂波太夫の場面はどうでもいいとすっ飛ばした結果、本作の根幹を見落とす。
本作はまったくもって興味深い。
ドラマそのものもおもしろいけれども、人間心理はこうもたやすく操れるのかと、毎週感想までサラリと流しみて、噛み締めております。
総評
大河ドラマよ、そなたには力がある!
そんなニュースから。
◆綾瀬はるか、7年連続『会津まつり』に登場 先人感謝祭に初参加(→link)
綾瀬さんは、大河の前と後ではキャリアや役への取り組みに違いが明確にあるんでしょうね。『獅子の時代』の菅原文太さんを思い出させるものがあります。
この作品にも、明らかにおそろしいような力がある。
本作は、義輝が死の直前でも『詩経』を読むようなところがあり、それで思い至ったのが「鼓腹撃壌」(『十八史略』)に至れない不幸です。
君主がお忍びで民を視察したら、老人が腹を叩き、地面を打ってリズムをとっている。
天下泰平、誰が主君かもわからん!
そう言っていたと。
麒麟がくる世の中って、何でしょう?
誰が国のトップでも、鼓腹撃壌して「政治? 関係ねえし」と言える状態ではないか。そう思えるのです。
「国のトップはあの人じゃなきゃ!」
そう器を問う時点で、泰平から外れてしまっているのかもしれません。義昭の器量を疑う光秀たちを見ていて、そう思ってしまいました。
ほんとうに嫌なドラマといえば、そうかもしれません。麒麟がくる? とは思えないし、そのきっかけをつかませてくれそうな三英傑だって、なんだか怖いし。
でも、そんな苦しみを噛みしめさせてくれるからこそ、本作は今の時代にあっていて、特別だとは思えるのです。
頬をぶっ叩くような力も感じます。
タイトルの『麒麟がくる』からして、ぼーっと待っていてはいけないという問題提起を感じさせる。周回遅れ気味だった日本のドラマを、世界基準2020年代にいきなり乗っけてくる。そういうおそろしい作品です。
そういう作品を、池端氏の名前を出して展開することは素晴らしいけれども。今週のように、河本瑞貴氏の名前が並ぶことも素晴らしい。
次世代につなげる。
絶対に、大河は終わらせない!
そういう気合いを感じます。
本レビューは日記ではない。広く人に読まれる以上、断定することは罪があり、はっきり言って、怖いです。
それでも勇気を出して言いますけど……。
このドラマは、傑作です!
作り手の気合が違う。この作品を受ければいいとか、それだけでなく、十年後を見据えているわかる。特別な作品。そのことはわかった!
だから次回からも、目が離せない。それは言い切れます。
自分は自由と言い切りましたが、そうでもない。noteも励まねば! というわけで、大河記事でも案内しておきます。何とぞよろしくお願いします。
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【参考】
麒麟がくる/公式サイト























