5月5日は端午の節句。
男の子の成長を願い、鯉のぼりと共に飾られるのが“武者人形“の甲冑ですが、実はこれ、なかなか日本的だったりします。
滝を登る鯉(龍)のように、立派な武士のように……と込められる親の願い。
同じ東洋でも、中国語圏や韓国では
「科挙に合格できますように」
「状元(科挙の主席合格)になれますように」
といったように、学問、つまりは“文”の頂点だった科挙が験担ぎに用いられていて、“武”に重きが置かれるわけではありません。

科挙の合格者発表/Wikipediaより引用
かつての日本は、中国大陸をロールモデルとしてきたはずなのに、どこでどう目指す道が異なったのか?
日本に文士(文官)は存在しなかったのか?
そこで注目したいのが大河ドラマ『鎌倉殿の13人』です。
大江広元や中原親能、あるいは二階堂行政など、源頼朝が成立させたばかりの鎌倉幕府では文士も大いに重用されました。
むろん武士あっての政権ではありましたが、そもそも政務の運営なくして政権の維持など不可能ですから、文士たちもまた重要視されたのです。
では、その後の彼らはどうなったのか?
武士と文士の差は?
日本史ではあまり聞き慣れない、しかし重要な「文士」たちを確認してみましょう。

大江広元/Wikipediaより引用
文官制度の不備:血筋重視の歴史
「文武百官」という言葉があります。
内外政を司どる文官と、軍事を司どる武官。
彼らが勢揃いして、国家に仕える官僚が揃った様をあらわす言葉であり、文官は学び、武官は武芸を磨く――かつての日本は中国のそんな姿を学んだはずでした。
しかし、実態はどうだったか?
例えば『源氏物語』は当時の貴族社会が反映された作品ですが、そこでは主人公である光源氏の教育方針が周囲の者たちに驚かれています。
光源氏は、長男の夕霧が12歳で元服した際、六位という低い官位を任命させ、さらには大学で学ぶようにしたのです。
名門の父を持つ子であれば、いきなり四位を得てもよいはず。
しかも大学で勉強とは!
と、今では真逆ですが、当時の大学は「勉学でしか出世できない下級貴族が行くところ」と認識されていて、周囲が光源氏の厳しい教育方針に驚いたのですね。
※以下は「大学」の関連記事となります
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平安時代の大学寮とは?『光る君へ』まひろの弟・惟規が入って出世できる?
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こうした風潮に対しては、みなさんも疑問を感じることでしょう。
下級貴族たちが大学でマジメに勉強する一方、生まれついてのボンボンたちがいきなり高い位を得るとは何事か。
実力よりも血筋を重視する世界なんてあんまりだ。
しかも、仮に血筋が良くても、その途中の政争に敗れれば、出世ルートを外され苦難の道を歩むしかない。
それが平安時代の貴族社会でした。

平安京/wikipediaより引用
遣隋使や遣唐使を派遣してきた日本は、前述の通り、中国をロールモデルとしました。
しかし、実力よりも血統を重んじるという風潮は、中国を手本にできていません。
他ならぬ中国でも、魏晋南北朝は血統の時代だったものです。
上品に寒門なく、下品に勢族なし。
上流貴族に貧乏人はいないし、下級貴族が出世することはない。
そんな言葉が苦々しく語られ、弊害の打破が求められ「科挙制度」が導入されたのです。
科挙が導入されたばかりの唐代までは、それでも貴族重視でした。
その気風が宋代以降、実力重視の傾向となってゆきます。
実は日本でも科挙制度を導入しながら結局は定着しませんでした。学の面でそれを補うようにして大学が設置されましたが、結局は血筋がものを言う世界。
あなたが、もしも賢い下級貴族だったらどんな気持ちになるでしょう?
どれだけ真面目に勉強したって、自分よりアホな名門のボンボンが上司になる。
ストレス溜まるわ、やってられん!
と、なるのが普通の感覚ですよね。
実際、不満で爆発寸前の人は当時から存在していました。
武力と戦乱の世から苦い教訓を得た中国
『三国志』において人気の高い人物といえば、諸葛亮、字は孔明があげられます。
彼が現代日本に現れるマンガ『パリピ孔明』も人気ですね。
では日本人はずっと彼のことが好きだったのか?
というと実はそうでもありません。むしろ江戸時代は、こんな川柳が詠まれています。
煤払(すすはらい) 孔明は 子を抱いて居る
みんなが大掃除をしているのに、アイツは子守だけして体をろくに動かさねぇ!
そう突っ込まれているのです。

一方、中国での諸葛亮人気は不動です。
読めば泣いてしまう『出師表』は名文とされ、教材や書道の題材としても人気でした。
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孔明が上奏した名文『出師表』と『後出師表』には何が書かれているのか?
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そして日本人が「怠惰だ」として突っ込んだ「体を動かさない点=文官であるところ」が、中国では高く評価されています。
「文官が忠義を尽くす、しかも戦においては強い! 嗚呼、これぞ理想ではあるまいか!」
羽扇を持ち、甲冑を身につけず、馬にすら乗らない、あくまで文官の佇まい――そんな知恵に強いところが、諸葛亮の際立った美点であり、理想像とされたのです。
なぜ、そんな考え方になったのか?
理由はあります。
中国は、武力の暴走による戦乱の世から、苦い教訓を学んできました。
「シビリアンコントロール(文民統制)」の大切さを噛み締めてきたのです。
そして……。
武ばかりに頼ることはよろしくない、文官と武官ならば文官が優位であるべきだ、という考えが定着したのです。
文官上位が崩れる日本史
それならば武官にも試験を課せばよいではないか?
そこで本人の資質を見極めればよかろう……ということで、実際に、武官選抜の試験である「武科挙」が宋代に実施されています。
ただし、難易度は科挙よりも低く、文官と武官の官位が同じであれば、文官が上位となり命令を下します。
戦場でも同様。
とにかく文官による統制が徹底されていたのですね。
しかし、日本では、どうにもその認識が甘かった節があります。
文官上位は、日本にも当初はありました。
律令制では官位で差をつけ、武官である武士は「昇殿ができない」といった制限をつけていた。
それがだんだんと崩れていきます。
背景にあったのは、政治闘争でした。
権力争いにおいて武力を用い、その行使者として武士を味方につける。
その最たる動乱が【保元の乱】とか【平治の乱】であり、こうした闘争の論功行賞が行なわれていく過程で、絶大な力を有したのが平清盛です。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
摂関家がそうだったように、平家の血を引く娘を入内させ、権力を握る。
日宋貿易を独占し、経済力を確かなものとする。
こうした歴史の流れの中で、日本の「文官上位」「文民統制」は崩壊しました。
行政能力に関して何もかもが不足
我が世の春を謳歌する平家。
一方、それに対抗すべく立ち上がった源氏の源頼朝。
頼朝は鎌倉に坂東武者たちを住ませると、朝廷の影響力から離れて土地の分配を始め、かくして鎌倉幕府は芽生えます。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
しかし、武力で土地を支配しても、それだけでは到底足りません。
行事の手順はどうなっているのか?
莫大な富を産む外交手順はどうなっている?
文書の管理は?
裁判は?
と、統治・行政能力に関して何もかもが不足していたのです。
当時の坂東武者は、戦の場面では怖いもの知らずだった反面、そうした実務を学ぶ機会はなかなかありませんでした。
たとえ京都で仕える機会はあっても、行政能力を研鑽するかどうかは個人の努力や力量次第。
梶原景時のように知識を蓄えた者もいれば、そうでない者もいます。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の劇中でも、上総広常が文字を練習しているシーンがありました。
あまりに拙い字であり、頼朝に嘲笑されているのは、見ていて胸が苦しくなったものです。

上総広常/wikipediaより引用
京都から鎌倉へ
北条義時は、このままでは「行政を担えない」として、頼朝に能力のある人材を増やすよう依頼しました。
そして三善康信の推挙を受け、京都から鎌倉に到着した文官出身者は以下のメンツです。
彼らが揃い、鎌倉にもようやく行政能力が備わったのです。

国立国会図書館蔵
源頼朝の母である由良御前は、朝廷と関わりの深い人物でした。
叔母が頼朝の乳母であった三善康信も、重要な役割を果たしますが、頼朝には最初から朝廷との人脈があったんですね。
頼朝が幸運だったのは、それだけではありません。
冒頭の光源氏の話を思い出してください。
・当時の平安貴族は、実力ではなく血縁重視
・大学で学んで出世を狙うなんて、所詮は下級貴族だけ
・能力高い下級貴族は、当然ながら不満が溜まる
そんな苦境にあり才能を持て余していた者たちが、鎌倉という場所で羽ばたいた。
彼ら文官も、のびのびと実力を発揮していったのです。
『吾妻鏡』において、彼らは武士に対する「文士」と称されます。
現在「文士」という単語は作家やライターを指しますが、当時は彼らのような文官を指し、京都から持ち込まれた制度や知性が御家人にも広がってゆきました。
しかし武士政権の中で、文士は消えてゆきます。
武士が文武両道となってゆく最中に、消えたというより融合していったのです。
中国や李氏朝鮮では重要視されていた「文官武官の区別」と「文官上位」の法則。
日本では溶け合いながら頂点に立ちました。
扇子にみえる文武両道
幕末に来日した外国人は、男性の和服正装には「扇子が含まれている」と書き記しています。
若き日の福沢諭吉ら幕臣たちも、扇子を手にした写真を残しました。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用
扇ぐための道具ではなく、マナーとして定着していたのです。
再び『鎌倉殿の13人』を思い出してください。
扇子を手にしている京都からきた文官たち。
この扇子は当時高級品であったのか、しばしば当時の贈り物の目録に登場します。
かくして坂東にも扇子が到達するのです。
主役である北条義時は、初めの頃は腰に矢立(やたて・筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記道具)を、腰刀の横にさしていました。
それが出世と共に扇子をさすようになります。
木簡で米を数えるような実践的な雑事ではなく、もっと責任の重い業務を担うようになったことのあらわれでしょう。
では、扇子とはそもそも何か?
文官の持ち物は、中国を手本にしておりました。
束帯の文官が持つものは「笏」(しゃく・本来の読み方は“こつ”)。
この笏には、儀式の手順といったメモが書かれていて、カンニングペーパーのような使われ方をしていたのです。
そのうち誰かが『どうせなら何枚にも重ねておけば、もっと色んなことが書けるんじゃないか?』と考えたのでしょう。
笏は檜扇に変化し、さらに檜扇が扇子となり、かくして文官が手にするものとして扇子が定着したのです。
これが中国に伝わり、宋代から明代ともなると主に男性向けのアイテムとして定着し、朝鮮にも伝わりました。
扇子を手にして仰いでいる男性は、自らの教養や知性に自信を持つ人物として描かれます。
武勇が自慢――そんな元気お兄ちゃんとは異なる人物像をアピールしていることが定番です。
そして日本でも、男性の正装アイテムとなりました。
本来は文官のものであったにも関わらず、広く社会全体に取り入れられていきました。
文武両道が定着した証がこんなところにもあります。
融合していく文武
武士が統治していた江戸幕府が終わり、明治時代が訪れると、さらに日本の文武は融合してゆきます。
武士の時代が終わり、四民平等とされる明治において、皇族や公家も表舞台に立ちました。
明治政府は西洋こそ文明国であるとみなし、なんとかして追いつこうとしています。
彼らはヨーロッパの王侯貴族を参考にしました。
西洋では文武の区別が明確でなく、王侯貴族は武力行使をして正統性を獲得していた。
イギリスの貴族は狐狩り楽しんでおりましたが、こうした娯楽も軍事教練の名残と言えます。
これを日本に適用するとどうなるか?
文において人の上に立っていた皇族や公家が、西洋を真似て、武を司どることとなりました。
皇室は大きく変わります。
孝明天皇までは薄化粧をするなど、御簾の奥にいるもので、女性的な面もありました。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
それが明治以降になると、皇族が馬にまたがり、軍服を着て、写真におさまるようになり、最終的に軍人として戦場に立つようになります。
男性性こそが近代国家で重要だと見なした明治政府にとって、西洋流の王侯貴族こそが正しい道とされました。
かくして、武家政権の成立後も、かろうじて京都に残っていた文官の残り香は消え去ります。
★
日本史の特徴といえば、武士の存在が挙げられます。
彼らは武勇に優れていただけではなく、文士も取り込み融合していった歴史を踏まえて、文武両道を是とする存在となった。
他ならぬ大江広元が最たる例でしょう。
安芸毛利氏――知略で知られ、中国地方を制覇した大大名の毛利元就は、大江広元の子孫です。
文士の血脈は文武両道の武士として残り、幕末を牽引した長州藩まで続きました。
文武が溶け合う日本の歴史。
その根源である鎌倉幕府の文士たちが登場する『鎌倉殿の13人』――再放送の折にはそうした一面に注目されると、より楽しみが増すかと思われます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
田中大喜『図説 鎌倉幕府』(→amazon)
野口実『図説 鎌倉北条氏』(→amazon)
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
小島毅『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流 宋朝』(→amazon)
他







