豊後の戦国大名・大友義統(おおともよしむね)をご存知でしょうか?
九州の大友家と言えば、鎌倉時代から続く超名門。
同じく九州の島津家とは同等の歴史があると言えますが、江戸時代を通じ、大名としての大友家の名前は聞きませんよね。
なぜなら関ヶ原の前に滅亡へ追い込まれてしまったから。
その原因は、この大友義統が「愚将」だったから――と、そんな評価が広がっていますが、果たして義統は本当にダメな武将だったのか?

大友義統/wikipediaより引用
大友義統の生涯を振り返ってみましょう。
傾き始めた大友家の家督を継承
永禄元年(1558年)、大友義統は大友家当主・大友宗麟の長男として生まれました。
母は大友家臣・奈多鑑基(なだ あきもと)の娘。
凡将として知られる義統ですが、幼少期や青年期にそれを示すようなエピソードは残されていません。
家督継承も特に問題なかったようで、天正4年(1576年)になると、嫡男として第22代・大友家当主となりました。
しかし、彼の前途は決して明るいとは言えません。
九州覇者として君臨していた大友家は、天正元年(1573年)前後から国力に翳りが見え始め、宗麟の躍進を支えてきた重臣も相次いで亡くなっていました。
大友家屈指の勇将と評価される吉弘鑑理が元亀2年(1571年)。
「宗麟の知恵袋」と称された吉岡宗歓が天正元年(1573年)。
これに対し義統がどんな対策を打ったのか、あるいは何も手を打たなかったのか?
と、ツッコミどころを探したくなりますが、そもそも家督継承は形式的なものに過ぎませんでした。
大友家では代々、隠居した前当主と現当主が一定期間は共同で治世を行い、その例に漏れず宗麟と義統の二頭政治が敷かれていたのです。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用
同様のシステムは伊達家でも導入されていますね。
特に伊達輝宗と伊達政宗の代は印象的な最期だったこともあり、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
以下に輝宗の記事を掲載しておきますので、ご興味ある方はどうぞ(本記事末にもリンクあります)。
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伊達輝宗の生涯|外交名人だった勇将はなぜ息子の政宗に射殺されたのか
続きを見る
とりあえず大友義統や大友宗麟が愚かだから、という理由で二代による治世が実施されたワケではないことをご理解ください。
彼らにとって最大の問題は“外”にありました。
耳川の戦いで惨敗
大友義統が家督継承した当時、九州で最大の勢力を誇っていたのは、紛れもなく鎌倉以来の名門・大友家でした。
しかし、彼らを脅かす勢力が台頭してきます。
薩摩で力を蓄えていた島津氏。
大友氏と同じく鎌倉時代から続く名門であり、島津貴久と息子たち四兄弟の活躍で、

島津貴久/Wikipediaより引用
天正4年(1576年)までに薩摩・大隅・日向国の三州を統一、さらなる北上の機会をうかがっていました。
「島津の侵攻、これ以上は許さぬ――」
当然ながらその脅威を認識していた義統父子は、島津に敗れて亡命を余儀なくされた日向の有力者・伊東義祐を匿い、領地奪還という名目で日向遠征を決行します。
いくら重臣が立て続けに亡くなっていても、依然として強大な軍事力と将兵を有する大友氏。
義統と宗麟は意気揚々と日向へ向かったことでしょう。
なんせ大友軍は約5万といわれる大軍であり、高城に籠る島津軍の包囲に取り掛かった大友軍は、これを阻止するために動こうとする島津家久の救援軍を撃破。
優勢な形で戦を進めていました。
しかし、だからこそ弛緩してしまったのでしょう。
高城を攻めあぐねているうちに、島津軍のお家芸【釣り野伏】によって文字通り釣りだされ、大友軍は【耳川の戦い】にて歴史的敗北を喫してしまうのです。
詳細は以下の記事に譲りますが、
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耳川の戦い1578年|島津軍が釣り野伏せで大友宗麟に完勝!九州覇者へと躍り出る
続きを見る
大友軍の被害は凄まじいもので、一説に戦死者は三千余りに達したとも。
田北鎮周・佐伯宗天といった家老や中心的な武将の多くを失い、その後の大友家衰退を決定的なものとしてしまいます。
歴史に残るほどの大敗ともなれば、影響は家中だけにとどまりません。
家臣らの反逆が続いて国力が疲弊し、島津氏だけでなく龍造寺氏といった勢力拡大を許してしまうのです。
そもそも【耳川の戦い】直前、キリシタンとなった大友宗麟がキリスト教への傾倒を強めるあまり、息子の義統と確執が生じていたことからして緊張感の無さが見て取れます。
亡くなった重臣の穴を埋めるどころか、親子喧嘩してる場合じゃねーだろ! だから負けんだよ……。
とは後世の我々が思うだけでなく、当時の大友家臣や周囲の国衆も感じたはずでしょう。
ですので、耳川の戦いがあろうとなかろうと、いずれ大友家は衰退する運命だったのではありませんか?
一説によると、耳川の戦い直前ですら重臣クラスの意見がまとまらなかったとされます。
意思統一が共有なされないまま戦本番を迎えたらどうなるか――結果は火を見るよりも明らかであり、実際、惨敗となったのです。
家中の反乱が続発!
耳川での敗北が周辺諸国にも伝わると、反大友勢力は一気に勢いづきます。
龍造寺隆信や毛利輝元の介入により、有力家臣だった田原宗亀・秋月種実らが敵対。
離反者たちの間でも、さらなる分裂が生じてアチコチで戦闘が実施され、まさに収拾がつかない状況へと陥ってしまうのです。
大友義統は、龍造寺と組み筑後で暴れまわる秋月種実を打倒するため、自ら出陣を決意します。

龍造寺隆信/Wikipediaより引用
しかし、種実と内応していた田原親貫も挙兵し、まずは親貫を攻めなければならなくなりました。
さらには、耳川以後、宗麟を強く非難していた田北紹鉄も蜂起し、気がつけば絶体絶命のピンチに追い込まれてしまった義統。
田北紹鉄勢については、ひと月足らずでどうにか鎮圧できましたが、大友家臣らは現当主・義統を一切評価せず、このような提言をします。
「宗麟が復帰しなければ、親貫討伐戦に協力できない」
義統にとっては屈辱的な話でしょう。
愚将という評価は誇張でもないようで、宣教師のルイス・フロイスも義統のことを手厳しく非難しています。
「凡庸である」
「人の助言なしには何も成し遂げられない」
他にも「態度に一貫性がない」とか「危機に直面したとき動揺を隠せない」など、大将の器でないメンタル面も指摘されています。

ルイス・フロイスイメージ(絵・小久ヒロ)
一方、現場に復帰せよと催促された大友宗麟も微妙な心境だったでしょう。
引退後は体調を崩していただけでなく、対立していた息子をなぜ助けなければならない?と疑問を感じてもおかしくない。
それでも「あくまで義統を補佐する立場」という条件のもとで現場に復帰すると、家臣たちの心は結束します。
勢いに乗った大友軍はたちまち親貫の拠点を落として反乱鎮圧に成功するのです。
その後、宗麟と義統は家臣の反乱に加担した宇佐宮・彦山といった神社仏閣を焼き討ちにし、反乱勢力の弱体化を目論みました。
天正8年(1580年)には、龍造寺隆信の脅威に対処したい島津氏と、内乱の鎮圧を最優先としたい大友氏の間で、和議の話が持ち上がりました。
和睦そのものは不成立に終わりますが、両者はいったん中立の関係となり、大友家は国内統治に専念できるようになったのです。
こうして宗麟の復帰後は勢力を回復させつつあった大友家。
内乱の鎮圧に集中していたため、徐々にその支配地は島津氏や龍造寺氏に領有されるようになってゆきます。
島津と龍造寺が争っている間はよい。
しかし、どちらかが倒れたり、あるいは両者が手を組み、大友へ攻めかかったら?
そんな危険すぎるバランスのもと大友家は生き永らえていましたが、天正12年(1582年)に龍造寺隆信が【沖田畷の戦い】で戦死すると、九州の勢力図がまたもや大きく動き始めます。
四面楚歌だった大友の前に天下人
龍造寺隆信の戦死を知った大友軍は、ここぞとばかりに彼らの支配地・筑後へ攻め込みました。
かつて大友軍が【耳川の戦い】で大敗した後、龍造寺軍に攻め込まれた記憶も新しいところ。
義統と宗麟は「倍返しだ!」と言わんばかりに、立花道雪・高橋紹運らを中心にした面々で攻め込んでいきます。

立花道雪/wikipediaより引用
しかし、この進軍によって、島津との関係が再び悪化。
種実の仲介で島津義久と龍造寺政家の間が取り持たれると、残された大友家は島津・龍造寺・秋月、さらには毛利勢に包囲され、彼らの侵攻に遭うのは時間の問題となってしまいます。
しかも、です。
大友家にとって望ましくない出来事が二つ、立て続けに発生します。
一つは、義統・宗麟を見限って島津に内通する家臣らが現れ始めたこと。
もう一つは、家中の大黒柱として君臨していた立花道雪が病死したこと。
事ここに至り、鎌倉以来の名門・大友家も、ついに滅亡の危機に直面。
孤立無援の状態で、もはや打つ手はなし……という局面で、大友にとってこれ以上ない助っ人が登場します。
天下人・豊臣秀吉です。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
天正13年(1585年)に四国を平定したことで九州への進出を目論んでいた豊臣秀吉。
大友義統と毛利輝元の和睦を斡旋すると、大友と島津の間では停戦を命じた上、従わない場合は武力行使も辞さないと宣言します。
大友家にしてみれば願ってもない最大の援軍です。
戸次川の戦い
宗麟はさっそく大坂へ上って、豊臣政権との関係構築に全力を傾けました。
一方、九州制覇の悲願をあと一歩のところで妨害された島津は反発心を隠そうとせず、
「関白を名乗っている成り上がりサルの言うことなど構うものか」
として引き続き大友家攻略を継続します。
義統と宗麟は、圧倒的劣勢の中で防衛戦を構え、ただひたすら秀吉の援軍を待つ、苦しい戦いを強いられました。
島津に攻められた岩屋城では、高橋紹運を中心とする城兵が戦史に残るほどの激闘を演じ、最終的に壊滅しながら一筋縄での攻略を許しません。

高橋紹運/wikipediaより引用
ギリギリのところで粘り強く戦っていた大友軍。
そのもとに秀吉配下の仙石秀久や四国の長宗我部元親ら援軍が到着したのは天正14年(1587年)冬のことです。
どうにか最大の危機を回避した……と思いきや、事態は思わぬ方向へ進んでゆきます。
秀吉から「勝手に島津と合戦をするな」と命令されていたはずの仙石秀久が周囲の制止も振り払い島津軍へ攻撃を仕掛け、その結果、屈辱的な大敗へと追い込まれてしまうのです。
【戸次川の戦い】と呼ばれる戦いですね。
この大失態に怒り狂った秀吉は、秀久の領地を召し上げました。
大友義統もこの時には責任を問われませんでしたが、後年の厳しい処置に直結していたと考えられています。
ともかく秀吉の軍に矢を向けた島津は、大友を相手にしている場合じゃありません。
黒田・毛利ら中国勢が大軍を率いて九州に乗り込んでくると、彼らに遅れる形で総大将の秀吉本人も渡海。
島津は、全国有数の大名に囲まれてしまいます。
「戦上手」で知られた島津軍とて、もはやここまで。
天正15年(1587年)に島津義久が降伏し、戦は終結と相成りました。

島津義久像/wikipediaより引用
大友家は豊臣政権に組み込まれることで存続が決まり、滅亡という最大の危機を乗り越えた……かに思われました。
度重なる失態で改易処分
豊臣政権下で生き残ることができた大友義統は、豊後一国に加えて豊前の一部を与えられました。
島津に滅ぼされかけていた状況を考えると、あまりにも幸運な処遇でしょう。
しかし、天正15年(1587年)に父の宗麟が亡くなると、義統はいくつもの失態を重ねるようになっていきます。
まず、肥後国で発生した一揆に際し、国人衆の一角をなしていた阿蘇惟光の赦免を申し出て、成敗する気マンマンだった秀吉の気分を害します。
具体的な処分には至ってませんが、戸次川における失態と重ねて秀吉の心証を悪化させたことでしょう。
そして文禄元年(1592年)、義統は決定的なポカをやらかしてしまいます。
【文禄の役】において敵地で危機に陥った小西行長を救わず、

小西行長/Wikipediaより引用
敵前逃亡と判断されかねない兵の引き方をしてしまったのです。
知らせを耳にした秀吉は「豊後の臆病者へ」と題して、次のように容赦のない言葉を並べました。
「敵地でのあまりに臆病な振る舞いは、私が幼少のころから耳にしたことがないほどだ」
「本来ならば一族もろとも成敗したいところだが、国の没収だけで済ませてやる」
「ぶっちゃけ、九州征伐の時から成敗してやろうと思っていた」
かくして領地を召し上げられ、戦国大名としての大友家は滅亡。
毛利輝元に預けられた義統の家臣らは他家に離散していき、やがて佐竹義宣のもとへ身柄を寄せるなど、諸家を転々とします。
関ヶ原の戦い
領国を奪われ、失意の日々の大友義統に、大きな機会が訪れます。
慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなり、処分が解かれると、西軍への誘いに乗ることにしたのです。
ご存知、関ヶ原の戦いです。
一説によれば、戦勝の暁には「豊後一国の恩賞」が保証されていたと言いますが、彼の息子・大友義乗は家康に従っていて、東軍に属する選択肢もあったはず。
あるいは、どちらが勝ってもいいように、あえて親子で東西に分かれたのかもしれません。
義統は本戦に参加せず、九州で見せ場を作りました。
【石垣原の戦い】で黒田軍と互角に渡り合うばかりか、家臣・吉弘統幸の活躍もあって一時的に優勢な局面を作ったともされます。

吉弘統幸/wikipediaより引用
しかし、見せ場もそこまで。
数度の合戦を経て兵力が底をつくと、義統は敗北を認めて開城しました。
戦後、義統は西軍に属したとして流刑に処されてしまい、そのまま名誉を回復することなく慶長10年(1605年)に亡くなっています。享年48。
★
大友義統の能力や人柄については、再評価することが難しいほどに残念な証言が残されています。
何か格別な新史料でも発見されない限り、評価が変わることはないでしょう。
ただし、誤解があることも確か。
彼が家督を継承する以前から大友家は大量の問題を抱えており、彼の失態についても、実権を握っていたのは父・宗麟だったという例もあります。
再評価は難しい。されど実態以上に暗君とされている。
それが実態ではないでしょうか。
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【参考文献】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
外山幹夫『大友宗麟』(→amazon)
竹本弘文『大友宗麟』(→link)






