文化14年(1817年)4月17日は杉田玄白の命日です。
インパクトある肖像画で多くの日本人にとってお馴染みの方であり、大河ドラマ『べらぼう』にも登場。
主人公の蔦屋重三郎が須原屋市兵衛のもとを訪ねているときに医師として登場していましたが、史実の杉田玄白と言えば、やはり前野良沢と共に取り組んだ『解体新書』がド定番のトピックでしょう。
しかし、その一方で意外と知られていないのがその人物像です。
杉田玄白とは一体どんな人物だったのか?というと、すぐさまお答えできる方は少ない印象であり、誰もが知っているようで、実は触れられてないことも多い――。

杉田玄白/wikipediaより引用
そんな玄白の生涯を振り返ってみましょう。
小浜藩医の三男として生まれる
杉田玄白は享保18年(1733年)、江戸の牛込(現・新宿区)にて、小浜藩医・杉田玄甫(2代目甫仙)の三男として生まれました。
難産のため、母はこのとき死亡。
居合わせた人たちは産婦を救おうとして右往左往し、生まれたばかりの赤ん坊は布に包まれたまま放置されていました。
それが生きていると判明して、ようやく世話をされたと言います。
この享保年間は徳川吉宗が幕政の改革に挑んでいた頃でした。
徳川吉宗は進歩的な気質であり、それまで禁じられていた蘭書を解禁。

徳川吉宗/wikipediaより引用
そんな時代に生まれた玄白は、父から愛されつつも厳しく育てられました。
元文5年(1740年)から延享2年(1745年)まで、一家は父について小浜へ移り、小浜では長兄と父の後妻を喪っています。
玄白は家業の医学修行に取り掛かります。
医学は西玄哲に、漢学は儒者・宮瀬龍門に学び、この医学の師である西家には、オランダ流外科術が伝わっていました。
日本の【漢方】は、江戸時代から蘭学が混在しており、東洋医学だけでもありません。
オランダの医術に触れた玄白であればこそ、後の業績につながる好奇心湧いてきたのでしょう。
罪人の腑分け(人体解剖)をしたらしい
私達が何気なく使っている言葉に「五臓六腑」というものがあります。
実はこれ、東洋医学の考え方。
思想と深く結びついていて、五行説と人体構造が結びつけて捉えられていました。
しかし時代がくだると、医者たちは疑念を覚えます。
理論と実際は、果たして一致するのかどうか?
学問を修めた過ぎた玄白は、宝暦3年(1753年)、5人扶持の小浜藩医となります。そしてその翌宝暦4年(1754年)、同僚の医者が持ち込んだ知らせに、玄白は驚きました。
「京都の山脇東洋が、罪人の腑分け(人体解剖)をしたらしい」
これが日本初、公儀の許可を得た上での腑分けでした。
結果、東洋は蘭書の記述が正しいことを知り、『蔵志』を執筆。
嗚呼、私も、腑分けをしたい――日本各地の医者がそう熱望し、腑分けブームが到来しました。
宝暦7年(1757年)になると、玄白は小浜藩医でありながら、日本橋で町医者を開業します。
そこへ出入りしたのが本草学者の田村元雄や中川淳庵、平賀源内などでした。
蘭学に沸く江戸の学者たち
本草学では薬物の原料を研究します。
主に扱われるのが植物であり、それだけでなく鉱物や動物の臓器も含まれます。
医学とも近いため交流が生まれ、その中の一人である平賀源内は、マルチな才能を持つ野心家であり、蘭学に傾倒しました。
彼がにぎにぎしく開催した「物産会」には、外国の珍しい物産が並び、そこへ足を運ぶうちに、玄白は蘭学への興味が高まっていきました。
源内ともすっかり意気投合します。

平賀源内/wikipediaより引用
明和2年(1765年)、玄白は藩の奥医師となりました。
この年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へやってきた際、定宿の長崎屋を訪問。
オランダ人との交流は当時広まりつつあり、ちょっとしたブームとなっていて、その最中に玄白は通詞の西善三郎からこう聞かされました。
「オランダ語にご興味があるんですか? いやあ、あれは難しい! ちょっとやそっとではわかりませんよ」
いかに難解であるか――西善からじっくりと聞かされた玄白は「なんだ、そうなのか……」と断念してしまいますが、同じ言葉を聞いていた前野良沢の反応は違いました。
二人は後に劇的な再会をしますが、それは後述するとして……明和6年(1769年)、父の玄甫が亡くなると、玄白は30人扶持の家督と侍医の職を継いだのでした。
『ターヘル・アナトミア』を翻訳し『解体新書』を世に出す
明和8年(1771年)、中川淳庵が一冊の蘭書を杉田玄白に渡しました。
医学書『ターヘル・アナトミア』です。

国立科学博物館に展示されている『ターヘル・アナトミア』の複製/wikipediaより引用
オランダ語は全くわからないものの、図版の解剖図に衝撃を受けた玄白。
同年、小塚原刑場にて腑分けをするという知らせが届き、時が来た!と喜んだ玄白は仲間の医者たちに知らせると、その中に前野良沢がいました。
といっても一回り上の先輩であり、そこまで親しくもない間柄です。
こうして玄白たちが、待ち合わせ場所の茶店にいると、前野良沢がやってきました。
おもむろに懐から蘭学書を取り出します。
「去年、長崎で手に入れた蘭書なのだが……」
「あっ、それ、実は私も持っています!」
「なんと!」
本を見て玄白は驚きました。同じ本、同じ版ではありませんか!
手を叩いて感激する二人は、腑分けに立ち会い、『ターヘル・アナトミア』と見比べます。
そして、あまりにも正確な描写に驚いてしまう。
しかも前野良沢は、玄白とは異なり、オランダ語を得意としていました。

前野良沢/wikipediaより引用
通詞の西善三郎からオランダ語習得の困難を聞かされたとき、玄白は断念しましたが、良沢は逆にやる気を出して勉強していたのです。
これは翻訳するしかない――。
そう決意を固めた杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らの、『ターヘル・アナトミア』との格闘が始まりました。
前野良沢は、後に主君の奥平昌鹿が「オランダ語の化け物」と呼んだことから、「蘭化」と名乗ったほどの人物です。
絶対に蘭書を翻訳してやる!
そんなゆるぎない意志があり、アルファベットすら知らなかった玄白は、良沢の語学力に助けられた翻訳に乗り出します。
その際の四苦八苦は、後に玄白自身が『蘭学事始』で振り返っています。
一応の目処がたつまで、格闘すること一年半――艪も舵もない船で大海原に漕ぎ出すような、苦しくとも有意義な日々でした。
翻訳が出来上がった際、挿絵画家として、秋田藩士・小野田直武を紹介してきたのは平賀源内でした。
彼は源内から洋画を学び、秋田蘭画という一派を形成します。
蘭学オールスターズが揃い、一冊の本を世に出す。これぞまさしく、蘭学革命であったといえるでしょう。
みなもと太郎氏による漫画『風雲児たち~蘭学革命篇~』ではこのことを描き、2018年正月時代劇で、三谷幸喜さんの脚本によって生き生きとしたドラマになりました。
安永3年(1774年)、ついに『解体新書』は刊行。
蘭学仲間の桂川甫三(桂川甫周の父)によって、将軍家に献上されます。

解体新書/wikipediaより引用
日本の歴史に名を残した一冊が、世に出たのです。
タイトルの「解体」とは、人体解剖という意味です。それまでの「腑分け」をこう呼ぶようにしたのでした。
多くの弟子たちに蘭学への道を残す
無名の医師であった杉田玄白の名は、世に広まりました。
そのことを嫉妬し、非難する漢方医もいて、玄白は反論しています。
一方で、玄白を慕い、師事する後進の者たちもおりました。
中でも大槻玄沢は、杉田玄白と大野良沢から名をとった新進気鋭の一人。
彼ならば翻訳を任せられると、玄白は大いに期待を寄せ、玄沢もまたそれに応えています。

大槻玄沢/wikipediaより引用
玄白は家庭的にも恵まれ、穏やかで順調な生涯を過ごしています。
一方で友人の平賀源内は、殺人により逮捕され、獄中死を遂げるという不幸に見舞われました。このとき、玄白は精一杯の弔いを行い、墓碑銘を手掛けています。
いくら非常の才を持つからといって、死に方まで非常でなくともよいだろうに――玄白はそう嘆いたものです。
さらに享和3年10月17日(1803年11月30日)には、一回り年長である前野良沢も没してしまいましたが、玄白への評価は高まるばかり。
2年後の文化2年(1805年)には、11代将軍・徳川家斉に拝謁し、良薬を献上しました。
そしてその2年後の文化4年(1807年)、家督を養子の杉田伯元に譲って、隠居するのです。
医者である玄白は長く生きました。
最晩年には回想録『蘭学事始』を執筆し、大槻玄沢に校訂を託し、文化14年(1817年)、息を引き取ります。
享年83でした。
大槻玄沢ら多くの弟子たちに、蘭学は引き継がれてゆきます。
玄白は幸運な世を生きた人物といえるのかもしれません。
彼の生涯は家斉の治世のうちに終わり、それは後世の人々が「天下泰平の世であった」と回想する時代でした。
江戸幕府の諸制度が限界を迎えてきたとはいえ、深刻には表面化していない、いわば最後のきらめきがあったのです。
最後の蘭学者『蘭学事始』を世に出す
杉田玄白の回想録は『蘭学事始』といいます。

明治2年に発行された『蘭学事始』/wikipediaより引用
蘭学がまさに本格的に学ばれ始めた時代――玄白たちの青年時代は前述の通りまだ幕府も安泰であり、幸せな時代といえました。
しかしその後、大槻玄沢の世代を経て、新たな時代を迎えると、西から様々な脅威が押し寄せます。
玄白が亡くなったころ、ヨーロッパでは【ナポレオン戦争】が終結。
西洋列強は東に目を向け、日本にも迫ってきました。そんな状況の中で、国防の重要性を説く蘭学者たちは、むしろ迫害されるという受難の時代が訪れたのです。
さらに時代がくだると、蘭学者たちは嘆きます。
オランダは西洋列強の中ではあまりに小さすぎる。ナポレオンのフランスに学ぶべきではないか? いや、ナポレオンを倒したイギリスか?
ともかく蘭語だけの時代はもう終わった。英語やフランス語を学ばねばならない。
そうして見識を広げ、色々な限界を感じていく者の一人に、中津藩士である福沢諭吉がおりました。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用
幕臣として咸臨丸に乗りアメリカにまで渡った福沢は、幕府が崩壊する様を目撃します。
迎えた明治の世では、攘夷だのなんだの騒いでテロ行為も辞さなかった薩長の連中が大手を振ってのし歩く――福沢にとっては不愉快極まりない状況が待ち受けていました。
あいつらだけが西洋に目を向けていたのか?
いやいや、そんなわけはあるまい!
そう考えた福沢諭吉は、同郷の先人である前野良沢を顕彰し、『蘭学事始』を刊行します。
今の明治の世があるのは、蘭学に目を向けた先人あってのことである――そう世に知らしめたのです。
福沢は実用性から英語を学び、アメリカで大いに見聞を広めました。
しかし彼も、もとはといえば蘭学者です。
オランダを第二の故郷と慕うほど、蘭学に思い入れがあった。
かくして、最後の蘭学者・福沢諭吉の手によって、その道のパイオニアである杉田玄白たちの業績は世に広められたのでした。
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【参考文献】
片桐一男『人物叢書 杉田玄白』(→amazon)
杉田玄白/片桐一男『蘭学事始』(→amazon)
大久保健晴『今を生きる思想 福沢諭吉 最後の蘭学者』(→amazon)
他





