藤原顕光

藤原顕光/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

使えない右大臣・藤原顕光は史実でも無能だった?悪霊左府と呼ばれた無念の生涯

2025/05/24

治安元年5月25日(1021年7月7日)は藤原顕光の命日です。

大河ドラマ『光る君へ』にも登場していまして、“使えない大臣”といえば覚えていらっしゃるでしょうか?

劇中では宮川一朗太さんが演じられ、何も決められない、己の意思がない――そんな風に描かれるだけでなく、伊勢守就任で揉めた平維衡の一件では自らの側近に権力を誘導する姿が描かれました。

言葉遣いや振る舞いなど、上品な行いは得意なのかもしれない。

しかし、あそこまで“無能”だったのはどれだけリアルなのか?

史実を振り返ると、実はかなり波乱に富んでいて、何かと興味深い事象やエピソードもあるのが藤原顕光です。

道長の権勢のもとで右往左往させられた、その生涯を振り返ってみましょう。

藤原顕光/wikipediaより引用

 


父は兼通(兼家の兄)母は親王の娘

藤原顕光は天慶七年(944年)、藤原兼通と元平親王の娘の間に生まれました。

兼通とは、藤原兼家の兄。

つまり顕光は、藤原道長の伯父に当たるわけで、藤原北家かつ母は皇族という、かなり恵まれた出自です。

祖父の藤原師輔が政治の主導者でしたので、

藤原師輔/wikipediaより引用

当然、出世も早く、最初のうちは順調そのもの。

しかし、持病や疫病の流行などにより、藤原北家の中でも早く他界する人々が現れます。

皮切りは、師輔の長男・藤原伊尹(これただ・顕光にとっては伯父)が天禄元年(970年)に亡くなったことで、これにより顕光の父である兼通(師輔次男)と、兼家(師輔三男)が権力争いを繰り広げるようになりました。

当初は、兼通が関白となり、息子の顕光も恩恵を多大に受けていくことになります

しかし、弟の朝光には官位を越されており、何やら不穏なものも漂っていました。

朝光は人付き合いが上手だったようなので、その辺も昇進に影響したのかもしれませんね。

そして貞元二年(977年)、父の兼通が病死すると情勢は一気に傾きます。

ドラマ『光る君へ』で描かれたように、道長らの父である藤原兼家が権力を一手に握るのです。

藤原兼家/wikipediaより引用

かつての顕光と同じように、今度は兼家の息子である藤原道隆・藤原道兼・藤原道長の三兄弟がどんどん昇進。

さらに正暦元年(990年)に兼家が亡くなると、今度はその長兄である道隆が関白を次、彼の弟や息子たちが……というように、同じ流れが繰り返されていきました。

 


棚ぼたで右大臣に就任

長徳元年(995年)、都で大規模な流行病が起こり、公家の人々にも亡くなる人が出てきました。

藤原顕光の弟・朝光もこのとき亡くなっています。

また、道隆も同時期に大酒などが祟って亡くなり、その弟である道兼も関白就任間もなく病死。

道長に権力が委譲されると同時に、顕光も権大納言へ出世しました。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

この時点で

兼家

道隆

道兼

道長

というラインができてしまっていますから、この先、顕光が父方の血筋をアテにして巻き返していくのは至難の業です。

道長が、道隆の長男・藤原伊周との政争を繰り広げた後、実姉で皇太后である藤原詮子の後押しを得て勝利を収たことはドラマで描かれていましたね。

伊周は若すぎた上に、道隆の生前からの横暴発言が影響し、一条天皇や他の貴族たちからも反感を買いまくっていましたので、当然の流れかもしれません。

決定打になったのは長徳の変(恋敵と勘違いして花山法皇に襲いかかった事件)ですが、いずれにせよ道長には勝てず、その結果、おこぼれを拾ったのが顕光でした。

棚ぼた的な流れで右大臣の座が巡ってきたのです。

 

出産したが子供が出てこない……

藤原顕光が右大臣として適任かどうか。

ドラマでは「自分で判断できない、要は“使えない”右大臣」の烙印を押されていましたよね。

この状況、史実でも同様で、大事な儀礼などで粗相が目立ってしまうような記録が残されています。

こうなった顕光が、苦境を巻き返すには、もはやアノ手しかありません。

天皇の外戚です。

幸い顕光には、無事育った娘の元子がおり、既に一条天皇へ入内させていました。

一条天皇/wikipediaより引用

ドラマではそのことまで描かれていませんでしたが、一条天皇も元子のことをそこそこ気に入っていたようで、複数回通っていたことが記録されています。

そしてめでたく長徳三年(997年)に元子は懐妊。

顕光が喜んだのは言うまでもなく、僧侶を集めて男児誕生の祈祷をさせるのですが……待てど暮らせど元子は出産せず……これは一体どうしたことか?

「ようやく破水かと思ったら、水が出るばかりで子供が出てこなかった」

そんな記録が残されているので、現代では「想像妊娠あるいは生理不順だったのではないか」と考えられています。

出産への強い恐怖、もしくは強い願望が原因になるものなので、彼女に大きなプレッシャーがかけられていたのは間違いないでしょう。

状況を考えると、致し方ないことですよね。

しかし、当時はそういった心因的な症状があるとはわからない時代です。

この件は世間に「単なる勘違い・早とちり」だと受け止められて、顕光と元子は物笑いの種となってしまいました。ひどい……。

 


伊勢で平維衡と平致頼が衝突

娘の出産騒動を経て、藤原顕光は右大臣という高官でありながら人望も薄くなってしまい、いよいよ厳しい状況へ。

彼が主導する会議には出席者が激減するなど、仕事もやりにくくなっていきます。

具体的には、長徳四年(998年)に伊勢で平維衡と平致頼が衝突を起こしたときのことです。

平維衡と平致頼は官位を持った武士でしたが、私戦を咎められることになりました。

その罪を問う会議を顕光が担当すると、たった三人しか公卿が参加しなかったのです。

正しい裁定などもはやできない状況ですので、顕光もそのように考えて発言しましたが、参加者は増えず。

この事件後のことが、ドラマでも取り上げられましたね。伊勢守に推挙された平維衡について、道長が「暴力に訴える者を国司にするなど危険。今後も次々にまかり通ってしまう」として却下しようとしたシーンです。

かくして、顕光とは対照的に、存在感を強めていった道長。

長保元年(999年)に長女・彰子を入内させると、翌年、ゴリ押しで中宮に。

まだ幼い彰子はすぐに懐妊する可能性が低く、顕光と元子が巻き返すチャンスもありましたが、現実は厳しいものでした。

彰子は、寛弘五年(1008年)に敦成親王(後の後一条天皇)、翌年に敦良親王(後の後朱雀天皇)と立て続けに皇子を生むのです。

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用

これで道長と顕光の勝敗もほぼ確定しました。

紫式部日記』では、敦成親王誕生の五十日祝いの席で、「酔った顕光が戯れて几帳の綴じ目を引きちぎったり、女房の扇を取り上げた(≒顔を見た)」と書かれています。

権力争いに敗れてだらしない人だな……と言ってしまえばそれまでですが、自身や娘の不運ぶりを考えると、やりきれない気持ちもあったのでしょう。

 

娘の元子が源頼定と恋仲に

寛弘八年(1011年)一条天皇が重体となり、三条天皇に譲位。

そして敦成親王が皇太子に立てられました。

顕光は道長についたものの、三条天皇は道長の外孫ではないため、道長と三条天皇の仲は不穏なものとなってしまいます。

三条天皇が頼りにしていたのは『小右記』の著者である藤原実資

藤原実資/wikipediaより引用

つまり顕光は、道長からも三条天皇からもアテにされず、宙ぶらりんのような状態になってしまうだけでなく、この頃、娘の元子が源頼定という公家と恋仲になってしまいました。

源頼定は村上天皇の孫でしたが、藤原伊周らと親しかったため、彼らが【長徳の変】で失脚した際に連座して罰を受けています。

変の当事者ではなかったこともあり、頼定はすぐに許されたものの、あまり先が明るいとはいえません。

また、頼定は三条天皇がまだ皇太子だった頃、尚侍の藤原綏子(道長の異母妹)と密通して解任させるという事件を起こしており、三条天皇の在位中は昇殿すら許されておらず、当然出世は不可能な状態でした。

そうした諸々の理由で、顕光は大激怒。

元子の髪を無理やり切って尼にさせようとしたものの、頼定との仲はむしろ燃え上がってしまったようで……。

手に余った顕光は元子を家から追い出し、元子は頼定の家へ身を寄せたそうです。

その後、彼らの間には二人の娘が生まれました。

髪を落とされた元子を見捨てなかったのは頼定の良いところだったかもしれませんが、かつては従二位を与えられた女御である元子が妾のような扱いになってしまったわけですから、顕光にとっては屈辱だったことでしょう。

ある程度時間が経ってからは、頼定の正室よりも身分が高かった元子のほうが正室扱いをされるようになっていたらしいのですけれども。

 

もう一人の娘・延子は敦明親王の妻となり

藤原顕光にはもう一人の娘・延子もいました。

彼女は三条天皇の第一皇子である敦明親王の妻となり、

敦明親王
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男子にも恵まれますが、道長との血縁が遠いことから先々の状況は期待薄。

顕光も当時既に70歳を超えており、いつお迎えがきてもおかしくありません。

息子の重家は、はるか昔の長保三年(1001年)に出家してしまっており、顕光の系統はまさに“後がない”状況に陥ってしまいます。

もちろん、顕光も現状を理解しており、自宅の堀河第を延子に相続させる手筈を整えていました。

しかし、です。延子が寛仁三年(1019年)に亡くなってしまい、元子が彰子に訴えて堀河第の継承権を主張したため、顕光も折れざるを得なくなります。

時系列が前後しますが、三条天皇は長和五年(1016年)、道長の圧迫を受けて譲位をしています。

三条天皇/wikipediaより引用

この譲位の儀式の際、顕光は自ら主催を願い出ました。

道長は、老体の上にこれまでも色々としくじっている顕光に任せるのは気が進まなかったようですが、押し切られています。

顕光はカンペを用意して当日に臨んだものの、やはりミスを多発。

道長や実資からはもちろん、他の公卿たちからも失笑されたとか。

ただし実資は、自分の家である小野宮流のやり方しか認めず、相手が顕光以外の公家だった場合でも小野宮流に則っていなければ非難をしているため、

「顕光だけが悪かったわけではないのでは?」

という見方もあります。

 

「一夜にして白髪になった」

それでも藤原顕光が巻き返せる可能性は、わずかながらありました。

敦明親王です。

彼が即位すれば……と思いきや、その敦明親王が、三条上皇の崩御後に自ら皇太子の地位を降りてしまいます。

道長はお礼として、敦明親王に「小一条院」の称号を与え、生活が立ち行くようにし、さらに末娘の寛子を妻として差し出しました。

こうなると、長年連れ添ってきた延子と子供たちは見捨てられたような形になってしまいます。

延子は思い悩んで病気となり、亡くなってしまいました。

このとき顕光は「一夜にして白髪になった」とまでいわれています。

さすがにそれは誇張表現でしょうけれども、唯一望みをかけていた娘にまで先立たれてしまっては、余人に想像もつかないほどの深い悲しみが襲ったとしてもおかしくはありません。

藤原顕光/wikipediaより引用

陰陽師に依頼して道長を呪詛させたとも言われてますが、本人は、道長が左大臣を辞職すると追いかける形で左大臣の椅子に座っています。

左大臣といえば、実質的な政治のトップ。

呪詛は当時重い犯罪でしたが、これだけの目に遭った上に娘を死に追いやられたも同然となると、政治の主導者であっても手を染めたくなってしまったのでしょうか……。

 

「悪霊左府」と呼ばれて

寛仁二年(1018年)、道長の娘・威子の立后の際に藤原顕光は名前を間違え、やはり道長から罵倒されています。

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顕光はこのとき70代半ば。

認知能力などに何か支障が出ていたのかもしれませんが、当時はそういった症状についての理解や認識も薄かったでしょう。

そして治安元年(1021年)の年始では、従一位にまで上り詰めるのですが、それから半年もしない5月25日に亡くなりました。

享年78。

その後、不思議なことに道長の娘たちが次々に亡くなりました。

万寿二年(1025年)に敦明親王妃の寛子と皇太子敦良親王妃・嬉子が、そして万寿四年(1027年)には三条天皇の中宮だった妍子と、訃報が続いたのです。

短期間に三人の娘に先立たれ、さすがの道長も相当堪えたようで……。

この頃になると道長は胸の病や糖尿病らしき症状が進行していましたので、余計に辛かったのではないでしょうか。

特に末娘の嬉子が亡くなった際は、陰陽師に命じて死者蘇生の儀式までさせたそうですから、悲しみようがわかるというものです。

道長の娘たちの相次ぐ死は、「顕光と延子の祟りだ」と考えられ、顕光には「悪霊左府」という不名誉なあだ名までつけられてしまいました。

まぁ、これまでの経緯を考えたら、祟りたくもなろうというものですよね。

 

『宇治拾遺物語』にも顕光の呪い話

悪霊説は長らく信じられたようで、『宇治拾遺物語』にも「顕光が道長を呪った」という話があります。

それはざっと以下の通り。

あるとき道長が無量寿院に参詣しようとすると、連れていた犬がやたらと引き止めるので、不思議に思って安倍晴明に占わせました。

すると寺院の敷地内に道長を呪うための呪物が埋まっており、その犯人は道摩法師という陰陽師であり、依頼主は顕光だった。

無量寿院ができたのは晴明が亡くなった後なので、この話は時系列的に無理があるのですが……。

前述の呪詛をかけていたという噂の件が伝えられていたために、後世の人々も

「顕光は道長に並々ならぬ恨みがあるはずだ」

と考え、このような話ができたのでしょう。

道長本人が亡くなる間際もなかなか壮絶な様子でしたので、余計に祟り説が根強くなってしまったのかもしれません。

ちなみに、顕光には「火事で家を失った家来のために住まいを与えた」という、優しい面もありました。

不運が重ならなければ、あるいはもう少し政治的手腕があれば、悪霊ではなく人格者として語り継がれていたのかもしれません。


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【参考】
国史大辞典
倉本一宏『藤原道長の権力と欲望 「御堂関白記」を読む』(→amazon
繁田信一『安倍晴明 陰陽師たちの平安時代』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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