六角義賢

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikipediaより引用

戦国諸家

近江の戦国大名・六角義賢の生涯~将軍家に翻弄され信長に滅ぼされる一部始終

慶長3年(1598年)3月14日は六角義賢の命日です。

戦国ゲームなどでは剃髪後の「承禎」という名で登場していることも多いかもしれません。

南近江の戦国大名であり、言い方は悪いですが“噛ませ犬”的な立場で現在は知られることが多い方かもしれません。

というのも北近江の浅井氏ならびに同盟を結んだ織田氏の上洛に際して、ちょうどよい負け役のような展開を迎えてしまうのです。

義賢が決して無能なわけではなく、京都に近く、常に将軍家の影響を受けやすいという土地柄も影響していました。

そんな中で地元の武士たちからは支持を得ていた六角義賢、その生涯を振り返ってみましょう。

六角義賢(六角承禎)の錦絵/wikipediaより引用

 

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将軍に接近していた六角氏

六角義賢は大永元年(1521年)、近江の名門・六角氏に生まれました。

父は14代投手の六角定頼、母は土岐氏出身の呉服前とされています。

六角氏は宇多源氏の血を引く家の一つで、その中でも佐々木氏の嫡流とされる家です。

しかし本拠・近江が京都に近いため、庶流の家が六角氏を飛び越えて直接室町幕府に仕えることも多く、血筋の割には権力が……という状態が続いていました。

義賢が天文二年(1533年)に元服した際には、当時、桑実寺(近江八幡市)に着ていた足利義晴が出席してくれており、帰京のお供をしたり、積極的に幕府へ食い込もうとしています。

足利義晴/wikipediaより引用

まあ、この時期になると将軍は京都に出たり入ったりし続けていて、権威も何もあったものではなかったのですけれども。

六角氏からすると、

「この機会に公方様とお近づきになって、権威を高めたい!」

と思うのもまあわからなくはない話です。

義晴の方でも六角氏を味方につけておきたい気持ちがあったようで、通字である”義”を与えています。

その後、義晴は、父と共に近江内の京極氏や浅井氏との戦に臨んだり、能登畠山氏から正室を迎えたり、武家の次期当主としてのノルマをこなしていきました。

天文九年には伊勢北部の領主たちの間で争いが起き、義賢が干渉しています。

叔父(定頼の弟)が伊勢の梅戸氏に養子に入っていたのです。

このとき自軍側についた国人には義賢から感状を出しており、積極的に勢力を伸ばそうとしているフシがあります。

また、姉の嫁ぎ先である細川晴元に味方し、戦に加わったことも度々ありました。

細川晴元像/wikipediaより引用

戦の主な相手は三好長慶であり、その関係からも将軍の足利義晴、そしてその子の足利義輝を庇護しています。

しかし天文十八年(1549年)の摂津江口の戦い(江口合戦)で晴元方が敗北して以降、なかなか京都へ入れない状態が続きました。

 


家督継承

天文二十一年(1552年)1月に父の六角定頼が亡くなると、予定通り六角義賢が跡を継ぎました。

すると早速、苦難に襲われます。

北近江の浅井久政が、坂田郡以南の奪還を図ってきたのです。

浅井久政/wikipediaより引用

この地域は、浅井氏からすると享禄四年(1531年)の箕浦合戦で六角氏に奪われていた土地でした。

義賢は浅井軍の侵攻を撃退しましたが、浅井氏は次第に六角氏から離れて敵対する動きに傾いていきます。

弘治年間(1555~1558年)になると義賢は、本拠の観音寺城の石垣を整備したり、再び伊勢に侵攻したり左大臣・三条公頼の娘を養女として本願寺の顕如に嫁がせたり、足元を固めていきました。

こうした内政・外交活動が終わるか終わらないかの永禄元年(1558年)には、三好長慶と和睦を結び、将軍・足利義輝が京都に戻れるよう計らっています。

しかし例によって長くは続かず、再び義輝は近江に逃れることになりました。

義賢はそのころ近江で京極高広や浅井久政と戦っていたので、義輝のために動けなかったようです。

毎回こんな調子なんですよね。もういっそのこと、幕府そのものを六角氏の勢力圏に作り直したほうが早いような状況でした。

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