長宗我部元親にはどんな家臣団がいたのか。
土佐の一国衆から、四国の大半を制する戦国大名になるまで――わずか20年ほどで偉業を成し遂げたのですから、それはもう有名武将が勢揃い!
と思ったら、その逆ですよね。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では谷忠澄が目立っていましたが、それ以外の武将といえば嫡男の長宗我部信親ぐらいしか登場せず。
そもそも谷忠澄も生来の武家生まれではなく、土佐神社の神職だった人物です。
いったい長宗我部元親のもとにはどんな家臣たちがいたのか?

長宗我部元親/wikipediaより引用
有力どころを見てまいりましょう。
家臣団の代表メンバー
長宗我部元親にはどんな家臣がいたのか?
主な武将は以下の通りです。
◆長宗我部元親の家臣団
【嫡男】長宗我部信親
【一門】吉良親貞(弟)・香宗我部親泰(弟)・香川親和(次男)・津野親忠(三男)
【三家老】久武家・桑名家・中内家
【外交と内政】谷忠澄(元神職)・非有(僧侶)・栄音(僧侶)
信親を除く一門は、全員が他家の名字。
譜代の筆頭は三つの家。
そこに神職と僧侶が食い込んでいる。
特に外交と内政で要職にいたのが、元神職の谷忠澄、現役僧侶の非有と栄音というのは、なかなか異色のように思えます。
確かに他家にも大名に仕えた僧侶はいます。
例えば、大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目された宮部継潤も元僧侶であり、ほかにも毛利家には安国寺恵瓊、今川家には太原雪斎、北条家には北条幻庵などの協力者や身内の者がいました。
当時の寺社は最高レベルの教育水準だったため、幼いうちに我が子を仏門入りさせる戦国大名が多数いたのです。
しかし、一代で成り上がった長宗我部家の場合は事情が少々異なります。

長宗我部元親の銅像
順に見て参りましょう。
長宗我部一門
まず一門で目を引くのが苗字でしょう。
長宗我部元親の嫡男である信親以外、誰ひとりとして長宗我部を名乗っていない。
すぐ下の弟である吉良親貞は、土佐七雄に数えられた名族・吉良氏を継承。
親貞の下の弟である香宗我部親泰は、安芸家の攻撃に苦しんでいた香宗我部家へ婿養子に入りました。
二人には、それぞれ役割が与えられています。
元親は東西に長い土佐国を、中央の五郡と東西両端の二郡に分けて管理し、東端の安芸城を香宗我部親泰、西端の中村城を吉良親貞に預けたのです。
こうした状況を『元親記』では「親貞は海より西の軍代、親泰は東表の軍代を拾う」と記しており、東西の攻略をそれぞれ任された立場でした。
※左右の黄色い拠点が「安芸城」と「中村城」で、中央の紫色が元親の本拠地である「岡豊城」
しかし、天正五年(1577年)後半、親貞が病死してしまいます。
残された中村城代の職には重臣の桑名藤蔵人が就き、軍代の役割は筆頭家老の久武親信が引き継ぎました。
軍記に描かれる吉良親貞は兄や弟より積極的な性格で、元親にとっては良き相談相手になっていた可能性も考えられ、その喪失は手痛いことだったでしょう。
もう一人の弟・香宗我部親泰は、長宗我部の外交を引き受ける立場にもなり織田信長や柴田勝家、徳川家康との交渉にあたり、天正八年(1580年)には安土城へ出向くこともありました。
一門で、残る二人は、元親の息子です。
香川親和は次男で、讃岐西部の守護代だった天霧城主・香川信景の養子となりました。

天霧城があった天霧山/wikimedia commons天霧山
津野親忠は三男で、高岡郡の津野家を継いでいます。
弟が二人、息子が二人。
四人が四人とも、他家の名前を名乗っているわけですね。
服属させた家を潰さず、血縁を送り込んで内側から押さえていく――長宗我部の拡大は、この方法で進められました。
次に譜代の家臣を見てみましょう。
譜代の三家老
長宗我部家の重臣は「三家老」と呼ばれた久武・桑名・中内の三家です。
なかでも久武家は軍代を務める家柄であり、吉良親貞の死後に西側の軍代を継いだ久武親信が、伊予攻略を担当しました。
ところがこの親信も、長くは続きません。
天正七年(1579年)6月、長宗我部方へ通じてきた宇和郡の岡本城を拠点にしようと、親信は軍勢を率いて向かいました。
ところが、その途上で周囲の城の敵と戦になり、多くの将兵と共に討死してしまうのです。
『長元記』は、敵将・土居清良が伏せた鉄砲隊にやられたと伝えています。
立て続けに軍代を失った長宗我部。
久武親信の跡を継いだのが、後に長宗我部家を傾けた佞臣(ねいしん・国を傾かせる家臣)として軍記に描かれる、弟の久武親直でした。
桑名家からは、桑名藤蔵人の婿養子となった桑名吉成が出ています。
豊臣期では幡多郡の最重要拠点である中村城の城代を務め、戸次川の戦いでは敗走する元親に付き添いました。
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顔ぶれとしては、いかにも戦国大名の家老らしい面々です。
ところが彼らの下にいるはずの地元の有力者たちが、少々おかしな扱いを受けていました。
家臣団に組み込まれていなかった「御やとい衆」
注目していただきたい史料があります。
長宗我部元親が土佐神社を造営したときの人夫割帳です。
帳簿の中には「御やとい衆」と呼ばれる一群が記されていました。

顔ぶれは、本来は長宗我部家と同格だった吉良・香宗我部の両家をはじめ、守護代一族の十市・池家、本山攻めで配下に加わった大黒・大高坂家など。
研究者の平井上総氏は著書『長宗我部元親・盛親』の中で、この「やとい」という表現に注目。
「“やとい”という微妙な表現から分かるように、これらの有力領主は自前の家臣団を擁した自立的性格の強い存在」としており、弟の親貞を当主に据えた吉良家であっても、そこは変わらなかったと指摘しています。
同時に国衆たちについても「家臣というより長宗我部家の軍事指揮に従って働く協力者・同盟勢力」と表現するほうが近いとしています。
合戦で兵を出させることはできる。
しかし、家臣団に組み込むまでの権力はない。
つまり長宗我部元親は、意のまま自由に動かせる要員はさほど多くなかったとも考えられます。
そこで目をつけられたのが「異色な顔ぶれ」です。
外交と内政でも働いた神職と僧侶
「異色な顔ぶれ」での筆頭は谷忠澄でしょう。

元々は土佐一宮である土佐神社の神主出身でした。
それが長宗我部に仕えてからは、阿波・讃岐・伊予に通じる白地城を預けられ、後には阿波の一宮城に籠もって豊臣秀長と交渉し、激怒する元親を三日かけて説き伏せたともされます。
いわば重臣中の重臣。
忠澄の働きは軍事・外交・内政と多岐にわたっていました。
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僧侶の非有は岡豊城下にある滝本寺の住職で、忠澄の兄とも弟とも伝わります。
国書、仏典、経書に通じた学者で、元親が上方へ出ることが増えると、跡継ぎの盛親を補佐する役目を負いました。
毛利家の安国寺恵瓊と並べて「一対坊主」と呼ばれたとも『土佐古城伝承記』では伝えています。
栄音も同じ滝本寺の僧で、担当は伊予方面です。
元親の同盟者だった金子元宅との交渉にあたり、伊予戦線で大きな役割を果たしました。
しかも彼らは、末端で使われていたわけではありません。
平井氏は一次史料から、豊臣期の長宗我部家では三家老の久武親直が滝本寺の非有や豊永藤五郎と連署して、国政に関わる文書を数多く発給していたことを確認しています。
僧が家老と名を並べて、国の文書に署名していたのです。
それも神職が一人に、僧侶が二人。
谷忠澄は軍事・外交・内政、非有は豊臣期の領国運営、栄音は伊予方面の外交と、それぞれの持ち場で元親を支えていました。
なぜ宗教者が家中の中枢に入れたのか
ここで、先ほどの土佐神社に話が戻ります。
神社を再興したのは、元親です。
父・国親の代から造営のための段銭徴収に着手しており、元親が永禄十年(1567年)から元亀二年(1571年)にかけて完成。

土佐神社
このとき建てられた入母屋式の社殿は現存し、国の重要文化財に指定されました。
ただし、純粋な信仰心だけから作られた事業ではないでしょう。
寺社の復興活動は、元親にとって様々なメリットがあったと考えられています。
まず一つ目が
「土佐中央部の最大勢力となった長宗我部こそが一宮を復興するにふさわしい!」
とアピールできる点。
もう一つが、先ほどの人夫割帳が示すように「家臣や配下の領主に人夫を負担させることで強められる支配力」です。
そして最後の一つが「戦国大名として住民に期待される公共事業」などの政策でしょう。
当時の寺社は、民にとっても欠かせないものであり、その再建を元親が主導すれば、支配者としての認知度もグッとあがる。
要は、人気取りですね。
人も物も金も注ぎ込むのですから、寺社とは濃い関係も出来上がって参ります。
実際、研究者の平井氏は、土佐神社再興のあたりから谷忠澄が家臣になったと推測しているのです。
神職あがりの外交担当が家中に現れた時期と、元親が一宮を再興した時期は重なっていたようで、しかも彼らには外交に向いた条件が揃っていました。
文字が読めて他国の寺社とも行き来があり、武家ではないぶん敵方とも話を詰めやすい。
一門は他家へ出てしまい、国衆は「やとい」のまま支配力は及ばない――。
そんな長宗我部家中にあって、読み書きや交渉に通じた寺社の人材は、元親が直接動かせる貴重な実務要員になったのでしょう。

長宗我部元親像
一領具足は家臣団の土台だったのか
最後に、家臣団の土台にいた人々にも触れておきましょう。
『土佐物語』などが描くのは、わずかな田地を耕しながら、有事には自ら槍を取って駆けつける在郷の武士――有名な「一領具足」です。
彼らは寄子として、殿の敬称をつけられた寄親に把握され、その指揮下で戦場にのぞみました。
ただし研究者の平井氏は、一領具足の見方については注意を促しています。
四国進出あたりまでは躍進の要因として持ち上げられていますが、豊臣政権に降伏する場面では一転して敗北の原因とされる――そんな都合のよい扱われ方が多い、というのです。
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ともかく……弟と息子は他家へ出し、有力者は「やとい」として扱い、外交と内政は寺社の人間に委ねられている。
長宗我部元親の家臣団は、譜代の重臣を代々積み上げてきた大名家とは、成り立ちがかなり異なっています。
一代で土佐から四国へ手を伸ばした家の限界だったのでしょう。
そう考えると、同じく一代で秀吉が作り上げた羽柴家臣団はなかなか凄まじいメンバーだったかもしれませんね。
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参考文献
- 平井上総『長宗我部元親・盛親 四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(2016年8月 ミネルヴァ書房)
- 山本大編『長宗我部元親のすべて』(1989年8月 新人物往来社)
- 平井上総編『戦国武将列伝10 四国編』(2022年12月 戎光祥出版)※平井上総「長宗我部元親」





