慶応4年(1868年)4月25日は近藤勇が亡くなった日です。
誰もが知るように、新選組を率いた局長。
今なお人気の新選組を語る上で、当然ながら筆頭に来なければならない存在ですが、どうにも捉えどころのない印象もあるかもしれません。
機敏な土方歳三と比較すると、素朴で物事を深く考えていないようなイメージと言いましょうか。
『新選組血風録』にせよ。
『燃えよ剣』にせよ。
フィクションでも一番目立つのは、No.2であるはずの土方歳三です。
フィクションを楽しむことは自由です。
とはいえ、史実を楽しむ上でこれは誤解を呼びかねないことも確かでしょう。
そこで本稿では、史実の近藤勇について迫ってみたいと思います。

近藤勇/Wikipediaより引用
豪農三男坊から、天然理心流剣術家へ
天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村辻(東京都調布市)にて、男児が生まれました。
父は農家の宮川久次郎、母はエイ。その三男にあたり、四人兄姉の末っ子です。
多摩川のそばにある豪農で生まれたこの男児は、勝五郎と名づけられました。
川で泳ぎを覚えた勝五郎は、遊び仲間を率いて魚取りをめぐる争いをして、必ず勝利をおさめていたと伝わります。
勝気でリーダーシップのある少年――士官学校時代に雪合戦をして勝利をおさめたという、ナポレオンを思わせるものでもあります。
そんな勝五郎はある日、原田忠司の天然理心流道場を訪れます。
入門を申し出るわけでもなく、じっと剣術を見つめている奇妙な少年は、どこか人目を引きました。
原田が師匠である近藤周助にその少年を会わせると、才能があり実戦向きではないかと目をつけられ、入門することとなります。
幼くして自宅に忍び込んだ賊と戦い、そのことが評判になったとも伝わります。

近藤周介は嘉永元年(1848年)幼くして両親を失った勝五郎を養子としました。
農家の三男坊の宮川勝五郎は、剣術家の嶋崎(※近藤周助の旧姓)勝太となったのです。
新選組を率いる近藤勇は、かくして天然理心流を使いこなす剣術者としての人生を歩むこととなるのです。本稿では以下、近藤勇で統一します。
そんな近藤には髑髏が織り込まれた黒い稽古着が伝わっています。
万延元年(1860年)に結婚した妻・ツネが刺繍したものですが……近藤は道場主の妻が美女であるとかえってよろしくないと考え、美貌とはいえないツネを選んだとされます。夫婦には娘のタマがおりました。
髑髏の模様は「骨になるまで戦う」という、不屈の意思の表れでした。
近藤は穏やかで、声がはっきりとしていて、冗談を言う時は笑顔を見せながら膝を叩いていたと、彼を知る人は語り残しています。
道場に沖田や土方が
元号が嘉永になったばかりのころ、白河藩足軽の子・沖田宗次郎(のちの沖田総司)が道場に顔を見せるようになります。
土方という美形の商人は「石田散薬」を箱に入れて売り歩いておりました。
幕末前夜の多摩で、何かが芽吹いていたのです。
話を先へ進める前に、近藤勇の教養について補足したいと思います。
近藤勇は武士としてのプライドが高く、教養面でもかなりのものがあります。天然理心流を引き継ぐ誇りゆえに、智勇を磨き上げていったことが想像できるのです。
彼の憧れた英雄として『三国志演義』の関羽があげられます。
父の久次郎は幼い我が子に『三国志演義』を読み聞かせており、近藤も「関羽はまだ生きているのか?」と尋ねるほど、義にあふれる人柄に憧れを見せていたのでした。

三国志展・関羽像
近藤勇は、漢籍の知識があります。筆跡もしっかりしています。
彼の教養からも、武士でありたい、義に生きたいという願いは伝わってきます。
一方、土方歳三は俳句を趣味としていました。
当時は、俳句は町民のもの、漢詩は武士や学者のものであるという認識があったものです。この点からして、近藤勇はかなり知的エリートなのです。
とはいえそれも、あくまで豪農や、永倉新八のような勉強嫌いの武士と比較すればの話。
山南敬助はじめ、本物のインテリエリート武士には及びません。
ただ、頭の回転という意味では、近藤にせよ土方にせよかなりのキレ者でした。
幕末という時代、ナポレオンに憧れる人物が多くいたことはよく知られています。
近藤以下の新選組隊士たちは、ナポレオン戦争の英雄たちに似ている部分があります。
彼らはどちらも、血統的に見ればさほど上でもない。実力でのしあがった、武勇にたけた人物たちでした。
素朴で器がでかいだけではなく、知恵も周り、時に策も弄する――。
近藤たちは、存在そのものが革命的でした。
「八王子同心」が活躍する時代
いくら義に憧れ、元気で、剣術ができるとはいえ、あくまでも出身は多摩の豪農三男坊。
そんな人物がやがて幕臣となり、名を残したことこそが、近藤勇という人物の特徴です。
当時の日本のみならず、世界には身分秩序があります。
農民のような支配される側は、原則、武装や武器からは遠ざけられる。数で勝る彼らが武装すると、支配する側にとってはおそろしいことなのです。
しかし、当時の多摩では、農民に武力と知恵がありました。
注目すべきは「八王子同心」です。
八王子同心のルーツは、徳川 家康が幕府を開く前にまでさかのぼります。
豊臣 秀吉の画策により、後北条氏の関東に移された家康にとって治安維持は大きな悩みでした。

徳川家康/wikipediaより引用
まだ後北条の残党がいる。
風魔忍者の忍術すら悪用し、盗賊として治安を乱している――そんな伝説的な話も残されています。
有名な伝説的な盗賊としては、「三甚内」(向坂甚内・庄司甚内・鳶沢甚内)がおります。
彼らの存在はフィクションで誇張されておりますが、治安が悪かったことは確かです。それゆえ家康は、武田氏残党をはじめとして、半農反士の治安維持部隊を組織させました。
これが八王子同心のルーツとされています。彼らは身分秩序の中でも例外的な存在でした。
時代が進み、太平の世が実現。
真剣での切り合いもない。切腹もできないから、扇で真似をする。
そんな江戸時代では、この役職もただの名誉職となり、火災対策をすることくらいしか役目がなくなりました。
そんな中で、八王子同心は、売買できる権利としての“株”になってゆきます。
金に困って売り出すものがいれば、買い取るものもいる。
時代も変わってゆきます。
19世紀はじめ頃から、幕藩体制そのものにひずみが生じ、治安が悪化。
八王子同心によって生み出された天然理心流は、そんな厳しい時代を生き抜くための実戦剣術でした。
※以下は天然理心流の関連記事となります
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幕末最強の剣術は新選組の天然理心流か?荒れ狂う関東で育った殺人剣の真髄
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関東を生きる八王子同心、そして豪農たちは、新たな力を持つ存在として、目立つようになってゆきます。
彼らには、身分社会から逸脱できる要素がありました。
・経済力
→株を買い取った豪農となれば、当然、経済力がある。
・知力
→経済力を背景にして、教養を学ぶ機会にも恵まれる。
・武力
→天然理心流は、幕末最強の剣術となってゆく。
家康公以来の肩書きだけでなく、金もあるば知恵もあり、そして武力も備えている。当時、多摩の豪農とは、日本でもかなり上位のエリートでした。
後に浪士組が上洛した際、散々批判されたものです。
「太平の世をぬくぬく生きて、道場で稽古しただけの武士が警護って。何か役に立つんですか?」
そんな厳しい目線があった。対極に位置するのが近藤勇たち豪農出身者です。
ちなみに剣術ではなく、抜群の知性とセンスで名を残した豪農出身者もおります。
渋沢栄一や松浦武四郎あたりが有名ですね。

松浦武四郎/wikipediaより引用
幕末とは、黒船が来る前から煮えたぎる時代であったのです。
幕末は大志を抱くものの時代
千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず――。
才能がある人材はいつもいるけれども、それを見抜く人である「伯楽」がいるとは限らない。そんな意味です。
前述の通り、智勇に自信をつけた青年たちは、どうすればこの才知を誰かに認められるのか?
当時まだ一青年であった近藤勇に、そんな嘆きを噛み締める出来事が起こります。
幕末という激動の時代の中、天然理心流は伸びゆく力でした。
所詮は「べえべえ」と訛る田舎者の剣法、“肥溜め道場”と陰口を叩かれながらも、江戸の牛込柳町に道場を開いたのです。
幕府も、激動の最中に無策だったわけではありません。
血統や伝統だけではない斬新な人材を登用し、幕政を刷新すべきであるという考えが生まれています。
例えば曽祖父は検校である貧しい旗本であった勝海舟は、提案した政策が目に留まり、老中・阿部正弘が大抜擢をしました。
阿部正弘が急死したあとの後任者である井伊直弼の場合、もっと切迫した事情が生じております。
【黒船来航】のせいでただでさえ忙しいにも関わらず、徳川斉昭が幕政に口を挟んで無茶苦茶な攘夷を促すうえに、13代・家定の後継ぎとして一橋慶喜をねじ込もうとする【将軍継嗣問題】を引き起こしておりました。
井伊直弼はこの騒動に大鉈を振るった結果、【一橋派】とみなされた幕僚は処分せねばならなくなりました。ただでさえ人材不足だというのにさらに悪化した結果、大抜擢されたのが小栗忠順になります。
小栗は名門旗本で頭脳明晰、出世は確実と思われますが、性格に癖がありすぎます。平時ならばあそこまで大役を果たしたかどうか、判断が難しい人物なのです。
2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』で“ライバル”とされる二人は、そんな経緯で世に躍り出た人材といえます。
そしてこのムーブメントは、旗本御家人にとどまらず、さらに拡大されてゆきます。

勝海舟/wikipediaより引用
年号が嘉永から安政に変わった1854年に「講武所」が開かれます。選ばれた武士を勝海舟らが鍛える、画期的な軍事教練機関でした。
自分もこの講武所に選ばれるのではないか?
そう期待していた近藤でしたが、実際は不採用。いかに武勇に優れていようとも、身分の壁に当たったのか、それとも別の理由か。
世に出る機会に恵まれず、試衛館に集まる血気盛んな者たちと共に「異人を斬ろう!」と気炎を上げる近藤。されど現実にはそのチャンスは無し……。
幕末の「志士」と言いますと「維新」と紐づけられ、結果的に倒幕した側のみのように誤解されがちです。
しかし実際は多くの「志士」がいました。
子育てを終えた豪農出身の女性が、尊王攘夷に燃え。教養溢れる女流学者も、また燃える。

松尾多勢子/wikipediaより引用
近藤勇と似た関東の豪農出身の青年だって熱く滾っておりました。
なんだか暴発しそうで、危なっかしい。幕末から明治にかけては、こんな人物が時に危険な状況をも生み出したものです。
幕末を語る言葉として「尊王攘夷」があります。
倒幕した側が掲げたような誤解がありますが、それは正しくはありません。幕府を守る、将軍に忠誠を誓う立場の者でも掲げておりました。
攘夷の非を早くから悟っていた者は、極めて少数です。
近藤勇もそんな一人。
彼の和歌を見てみましょう。
事あらばわれも都の村人と なりてやすめん皇御心
何かあれば上洛し、天皇のために尽くすという志がそこにはあります。
浪士組を京都に送りこめ
大志を抱く者をどうするか?
結局は使いようだろう。燃えたぎる連中に首輪をつけてうまいこと利用すれば、ものすごく大きなことができるのではないか――。
幕末においても、そう考える知恵者も出てきます。
安政3年(1856年)に講武所剣術世話係として採用されたのが山岡鉄舟です。
旗本御家人といえども、すべてが堕落していたわけでもありません。この山岡鉄舟と、その妻・英子の兄にあたる高橋泥舟は、古武士の風格を持つ高潔な人物です。
後に、この義兄弟と勝海舟をあわせた「三舟」と新選組は皮肉なめぐりあわせをすることになるのでした。

山岡鉄舟/wikipediaより引用
鉄舟は翌安政4年(1857年)に、清河八郎と共に「虎尾の会」を結成。
当時は大志を抱えたこの手のサークルが多数ありました。
清河という人物は、新選組ファンを中心に、口のうまい詐欺師のような扱いもされてしまいがちですが、そう単純な話でもありません。
庄内藩の郷士という、これまた経済力と教養はあっても、身分が伴わない階層の出身者でした。
彼はこう提案します。
浪士組を結成し、山岡を取締としてはどうか?
これが通りました。文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂について上洛することとなるのです。
この浪士組に、どうやって試衛館の面々が参加したか?
実は不明点も多く、例えば永倉新八は、自分が情報を持ち込んだと書き残しています。
近藤勇が鈴ヶ森刑場で野犬を斬り払う様子を見て、清河がスカウトしたという説もあります。
動機も不明。将軍を警護したかったのか。あるいはもっと別の何かか? ハッキリとはしません。
当時の青年が世直しに燃え、募集をかければ応じたことこそが、問題の本質ではないでしょうか。
かくして、京都情勢が大きく動き出します。
将軍が上洛するから護衛をさせるというのは、あくまで理由の一側面。
文久年間の京都は、三勢力が拮抗する状態でした。
薩摩藩
長州藩
土佐藩
非常に難しい状況です。
幕府が開国論議に天皇と朝廷を引き込んで以来、政治と権力争いの舞台が京都になりつつありました。将軍がわざわざ上洛するという時点で異常事態であり、幕府としては巻き返しをはかりたい。
ここが清河の策のうまいところです。

清河八郎/wikipediaより引用
幕府の思惑を受けて浪士を集め、自分が目指す尊王攘夷の手駒とする。それに気づいた幕府が、浪士を江戸に呼び戻す。
しかし、近藤勇と芹沢鴨の一派が京都に残った。
こういう流れで説明され、それはそれで間違ってはいないのですが、実情はもっと複雑なものがあります。
浪士組は上洛したものの、江戸に帰ろうとする。
なぜ、わざわざ上洛したのか?
文久2年(1862年)、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)にて【生麦事件】が発生していました。
薩摩藩士の犯行であり、イギリス側は同藩に対して犯人の引き渡しを要求。
その際、いくつか誤解が生じました。
◆イギリス側が求めたのは実行犯だった
それを薩摩側は、国父(藩主の父)である島津久光、藩主・島津忠義の身に危険が及ぶため譲歩できないと考えた。
結果が【薩英戦争】となり、関東諸州は治安悪化を警戒する。
幕府は関八州の大名・旗本に対し、いつでも合戦に対応できるよう非常宣言を出しました。
将軍が京都にいては、関東がどうなることかわかりません。
くどいようですが、当時は智勇を身につけた者たちが全国規模であふれており、どのエリアも火薬庫状態なのです。
幕末とは、黒船来航による外圧によって危機感を募らせた時代であった――。
確かにそうかもしれませんが、それだけでもない。
フランス革命が起こった18世紀末期とは、世界史的にみて激動の時代でした。黒船来航は確かにその流れを加速させたとはいえ、世の中が変わりつつあったのです。

ペリー来航/wikipediaより引用
身分秩序の変動、経済体制の限界、不安定な治安……。
もはや幕府は抑えきれない状態なのに、朝廷を政治に引き込んだことにより、事態はさらに複雑化していました。
変革の時代の申し子たる近藤勇は、家茂が東帰となると、老中の板倉勝静の元にまで押しかけ、反対意見をきっぱりと述べます。
そして浪士組たちを、冷静な目でみつめていました。
「なんと軟弱な連中なのか。来たと思ったら、すぐに東帰を言い出すとは! 国家の大事もわからぬ、軟弱な者ばかりである。旗本八万旗というが、勇敢な者なぞ一人もおらぬではないか……」
こういう胸中を、きっちりと漢文で残しているのです。
豪農の三男坊が、これほどの自信、教養、勇気、そして国家への幻滅と世直し願望をたぎらせている。
まさしく幕末の象徴でしょう。
新選組は幕府を守るために戦ったため、保守的で頭が固いと思われがちです。
義にあつく、誠を掲げ、思想はなく、ただただ素朴に生きていたようにも誤解されやすい。
そうではなく極めて政治的で革命的、智勇と大志を抱いた集団であった――この点を意識せねばならないのではないでしょうか。
近藤勇の考えるビジョンは【公武合体】。
幕府と朝廷が一致して、国難に当たっていくことを考えていたのです。
こうして思想面に注目していくと、芹沢鴨一派の暗殺と放逐、長州藩士を粛清した理由も見えてきます。
浪士組から新選組へ
文久3年(1863年)が終わるまでに、近藤勇一派は浪士組を変えました。
その象徴が、芹沢鴨と一派の排除。
そして長州藩出身者の粛清です。
新選組の歴史を考えるうえで、厄介な状況があります。
新選組とは、明治維新を成し遂げた側にとっては野蛮で凶悪な宿敵であり、フィクションでその像が増幅され、実像が分かりにくいものがありました。
永倉新八らが新聞記者の取材に応じて記事になったこともあれば、彼自身が証言を残してはいるものの、断片的な像しかわからなかったのです。

永倉新八/wikipediaより引用
新選組のことを知るには、生存者が絶える前にせねばならない――そんな思いがあったのか、新聞記者であり作家であった子母沢寛氏が聞き取り調査を行い、まとめあげました。
その著作は現在においても重要であり、一読の価値はあります。
ただ、問題点がないわけでもありません。
証言は生々しいものの、断片的な情報となってしまいます。
隊士のおもしろエピソードや性格は確認できますが、心の奥底に隠していた思想や策略まで表に出てくるわけではない。
こうした断片的な情報をもとにして、司馬遼太郎はじめ、多くの作家がフィクションを作り上げてゆき、それが読者にとっての史実として定着することとなるのです。
芹沢一派の暗殺や隊士の粛清は、血湧き肉躍り、かつサスペンス要素のあるエンタメとして消費されます。
他の隊士記事でも取り上げましたし、扱われることが多いので、ここは近藤勇の思想を考えてゆきたいと思います。
近藤一派は、思想をまとめあげねばなりません。
思想に着目すれば、芹沢鴨ら水戸藩が排除される理由はわかってきます。
水戸藩は、徳川家定の死後に生じた【将軍継嗣問題】において、一橋派として団結していました。
この結びつきが【桜田門外の変】の背景にあります。
水戸藩の尊王思想の強さは、徳川斉昭の子・慶喜が将軍になってからも、幕末の政局に影響を与えております。
それのみならず、諡の「烈公」の通り苛烈極まりない斉昭の影響なのか。血の気の多かった幕末の人士の中でも、突出して凶暴凶悪であったのが水戸藩士でした。
勤王の思想を学ぼうと水戸藩に足を踏み入れた清河八郎は、その地の志士の猛悪さに嫌気がさして足早に立ち去ったほど。
芹沢鴨の凶悪さはよく知られておりますが、あれは彼が特殊な水戸藩士であるというよりは、むしろあれが平均的な水戸藩士気質ではないかとすら思われます。
そんな危険人物を組織内に置いていては危険です。
芹沢一派粛清は、幕末の危機管理としてはむしろ「あり」とも思えてきます。なにせ水戸藩は、【天狗党の乱】を経て人材が枯渇してしまったほど荒れ果ててしまうことになります。

徳川斉昭/wikipediaより引用
長州藩も尊王を掲げており、その特徴としては朝廷との結びつきの強さがあげられます。
公武合体を掲げている近藤からすれば、朝廷側だけにバランスが傾きすぎることは避けねばなりません。将軍と幕府の権威を守るためにも、将軍家茂の東帰に断固反対し、建白をしているのです。
近藤勇にとっては、清河八郎のみならず、他にも己の意に背く者たちがいました。
話し合いで解決できれば、それに越したことはありません。が、時代は急旋回している最中。近藤らが上洛する前から、攘夷の嵐が吹き荒れる京都は暴力が解決手段でした。
志のある浪士が集まる。
しかし、思想的に一致しない。
ゆえに、暴力で排除する――。
実はこの傾向は明治維新以降も長く引きずられ、【不平士族の反乱】というカタチでも噴出しています。
廃刀令への反発や武士の誇りといったものではなく、当時の日本人は、暴力による解決という禁断の味を覚えてしまっていました。
政治家の暗殺もそうした手段の現れでしょう。
大久保利通は凶刃に斃れ、大隈重信は脚を失いました。

大久保利通/wikipediaより引用
比較的治安が安定していた頃の一揆を例示し、日本人はデモする時でも大人しいとする意見も見かけますが、そう話は単純でもありません。
江戸時代中期あたりまでがむしろ例外。
江戸時代後期から明治大正にかけては、暴力的な解決手段が荒れ狂った時代です。
新選組や近藤勇だけが特別だったわけではなく、一つの典型例でした。
会津藩御預新選組
新選組が屯所としていた前川邸(→link)の雨戸には、近藤が書いたと思われる落書きが残されています。
「勤勉努力」
「活動発展」
「隊長近藤勇」
「会津新選組」
養子の近藤周平が書いたという説もありますが、ここは近藤勇が書いたものとして、その気持ちを探ってみたいと思います。
武士として忠義を見せる――そんな決意を表す近藤が微笑ましいものです。
近藤は他人には酔態を見せず、大声で怒鳴ることもなく、周囲からは生真面目な印象をでした。
折り目正しい人柄だったのでしょう。にっこりと笑うと笑窪ができ、隠し芸に拳を入れられるほど大きな口をしていて、地味なファッションセンスであったと伝わります。
生真面目で醜貌とされた妻・ツネがいたとはいえ、近藤も美女とのロマンスを楽しんだという話も残されています。
それでも、証言の数々から折り目正しさが伝わってきます。
そんな真面目な近藤にはやるべきことがありました。
芹沢一派や長州藩士の粛清前、近藤らは自分たちと思想面で合致する後ろ盾を得るべく、きっちりと活動をしておりました。
それが京都守護職となった会津藩への嘆願です。松平容保は、近藤らが披露する武芸の腕前を見て驚いていたと伝わります。

松平容保/wikipediaより引用
会津藩はどうして京都守護職に選ばれたのか?
納得のできる理由はあります。
日新館では、文武両道に秀でた藩士育成をめざしていました。特に槍術は「東の会津、西の柳河」と呼ばれたほどに有名。
幕末に活躍した山川浩は、弟の健次郎がはっきりと記憶しているほど、激しい槍術の稽古に励んでいました。
2013年大河ドラマ『八重の桜』初回でも登場した「追鳥狩」のような軍事教練もありました。
武勇のみならず、知識でも当時有数の藩でした。
幕末ですと秋月悌次郎が名高く、あの吉田松陰も日新館を視察すべく会津藩に立ち寄ったことがあります。
そして、何といっても松平容保の律儀さと、保科正之以来の幕府への忠誠心も……。
と、褒めてきましたが、ここから先は不適切であった理由をあげてゆきます。
結論から言いますと、会津藩を京都守護職としたことは貧乏クジそのものであり、会津藩のみならず京都にとっても不幸なことでした。
そもそも、徳川幕府では井伊家彦根藩が京都守護を担う役目とされておりました。それが【桜田門外の変】で井伊直弼が討たれ、彦根藩はそれどころでなくなってしまったのです。
誰もが家中の栗を拾いたくない中、遠く離れた会津藩が任じられたことは悲劇的でした。
まず、知識に偏りがあったこと。
日新館のカリキュラムにはフランス語やフランス式の教練も加えられますが、幕末も切羽詰まってからのことでした。
山川健次郎は、掛け算九九すら習えなかったカリキュラムには問題があったと、のちに振り返っています。

山川健次郎/Wikipediaより引用
こうした教育は、藩の体制硬直化にもつながっていると思われます。
それ以上の決定打は、資金不足です。
幕末は、徳川藩閥体制が限界に近づいてました。
どの藩でもほぼ例外なく財政難。武士が商業に関わることが恥ずかしいという思想があり、それだけでなく人口増大や度重なる飢饉、天災への対応でもはやパンク寸前だったのです。
時代やテクノロジーが変わり、生活環境に変化が生じれば、社会そのものの構造を変えねばなりません。
しかし、それが停滞していた。
地域の差もあります。
会津藩の場合、海がないためどうしても物流面での不利があります。寒冷な気候ゆえに凶作の影響も受けやすい。そもそも会津藩から上洛するだけでも相当な金がかかるのです。
財政難を理由として、家老はじめ藩の首脳部は何度も京都守護職を辞めるよう訴えておりました。
それでも律儀な松平容保。となると藩士が倹約せざるを得ません。
会津藩の意を受け、新選組が強引な金の取り立てをしたこともあります。
新選組はその横暴さ、汚い金の強奪取によって京都の人々から憎まれたものです。筆者も京都で「新選組な。ほんまはご先祖がえらい目にあったから嫌いや」と聞いたことがあります。
会津藩はこのことに苦い顔をしていたようで、実はそうでもありません。
新選組はむしろ会津藩の金策のために、暴力を駆使したことがあります。
隊士がたばこを無断で商家からもらったところを見て、近藤が叱り付けたという目撃談はあります。
そんなところもありながら、暴力金策をしていたのですから、京都の人々は厳しい目で見るわけです。
そうして得た金がなければ、会津藩は活動ができなかったのですから、ことは深刻。
年貢の取り立ても厳しくなり、会津藩内の領民も生活苦にあえぐこととなるのでした。
薩摩藩、長州藩、ビジネスセンスのある坂本龍馬の「亀山社中」は明朗会計で気前がよかったといえばそうではあります。
ただ、薩摩藩の強引な借金帳消し、長州藩の特殊な会計事情を他藩が真似できたかどうかは別問題です。
彼らの攘夷活動が、損害賠償として要求され、幕府から明治政府まで財政を悪化させた経緯もあります。
明治政府となりますと、財政問題については疎く、由利公正や渋沢栄一を起用することとなるわけです。

由利公正/wikipediaより引用
程度の差はあれ、どの藩にも、財政については厳しい状況がありました。
幕末という時代は、どこがよいとか悪いとか、物事を単純に考えず、全国規模で直面した困難と改革についても注目しなければ見えてこないものもあるのでしょう。
そんな会津藩のお預かりとなることを選んだ新選組には、ロマンあふれる理由が推察されます。
◆甲州ルーツの結びつき
→会津藩士の格式として「高遠以来」という言葉がありました。保科正之が高遠を治めていた頃から仕えてきたという意味です。
プライドがあるといえばそうですが、こうした意識が新島八重の夫・川崎尚之助のような新参者にとっては高い壁となったことは考えなければならないでしょう。
八王子同心も甲州を治めた武田遺臣をルーツとする集団です。そうした共通点あってこその結びつきというものです。
近藤が名乗った大久保大和と、土方が名乗った内藤隼人という名は、ルーツをたどると武田旧臣の名から取られているとわかります。
◆義と誠
→会津藩の忠義。幕臣として忠誠を尽くしたい新選組。そのことそのものを否定するわけではありません。
松平容保にせよ、近藤勇にせよ、律儀で誠実であろうと志していたことに疑念の余地はありません。
だからこそ「誠」の旗を掲げたのです。
会津藩と新選組の関係は、なかなか難しいものがあります。
「新選組」という組織名からして、会津藩にあった選抜エリート部隊名と一致するためという説があります。松平容保が授けたという説も。
いずれにせよ、会津藩に同名組織があるからには、無断でつけていいとは思えません。どんな経緯だったのか、特定は困難とはいえ、松平容保の厚意あっての組織であることは明らかです。
厚意の表れとして、土方歳三の愛刀・和泉守兼定があります。
11代目作と推定されており、会津に移住した刀鍛冶が作ったとされているものです。
会津藩士が佩刀として使用することが多かったため、幕末まで流通しており、そのため美術刀としてそこまで高級であるとはいえません。薩摩藩士にとっての波平のようなものです。
ただ、会津とのゆかりを考えるとなかなか味があります。
猪苗代湖畔で採取した鉄も使われていたとされるのです。
まさしく会津の誇りが詰まった刀。会津兼定は会津藩士に広く普及していたためか、美術品として高値はつかないものの、展示機会も多いものです。出来れば本物を御覧ください。
会津藩士が愛用するものと同じ刀ですから、これもやはり松平容保の配慮あってのものでしょう。
それがどういうわけか“ノサダ”、二代のものとされ、認識されていた時期があります。司馬遼太郎氏の創作です。
安値の会津兼定よりも、レアで大名でも持っているようなものにしたいという、ロマン願望ゆえでしょう。
近藤勇の虎徹、沖田総司の菊一文字、斎藤一の鬼神丸、討幕派の村正にせよ、新選組隊士がそんなレアものを所有していたとは考えにくいものがあります。
ましてや美術的に高い刀剣を、実戦では使用しない。ロマンはロマンとして楽しみましょう。
むしろ、会津兼定をふるう土方からは、会津藩との繋がりを感じられるものです。
運命の【池田屋事件】そして「一会桑政権」の懐刀として
会津藩の御預となったとはいえ、近藤以下、隊士には不満が渦巻いていました。
京都の見廻りという任務は、同心と同じもの。尊王攘夷と言い切れるのか? そう鬱屈してしまうのです。
隊内では同性愛をめぐるトラブルもあり、近藤は焦りを感じていました。
薩摩藩の男色は結束を高めるものでありましたが、関東出身の近藤らにとっては頭痛の種なのです。
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日本が「男色・衆道に寛容だった」という説は本当か?平安~江戸時代を振り返る
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そんな隊の状況を変える事件が起こります。
新選組について考えてゆくと、ややこしいことがあると散々書いてきました。
そのひとつ【池田屋事件】です。

池田屋跡
なまじフィクションで盛り上がるため、この事件のみを取り上げて、前後の状況が疎かにされてしまいがちではあるのです。整理してみましょう。
この事件は文久3年(1863年)から元治元年(1864年)、【八月十八日の政変】と【禁門の変】の間に挟まるもの。
【八月十八日の政変】
↓
【池田屋事件】
↓
【禁門の変】
近藤らが組織を作り始めた頃から、種は撒かれていたのでした。
そこには、孝明天皇をめぐる各勢力の抗争がありました。
幕末において、天皇の意思を握るという点において、イニシアチブを取ったのが長州藩です。
毛利家は地理的にも、血統的にも、歴史的にも、天皇家に近い大名であるというプライドと認識がありました。
松下村塾生が藩内で活躍すると共に京都で活動を行い、【奉勅攘夷】(=天皇の意思を掲げて攘夷をする)という大義名分を得て、勢力を増していたのです。
ただ、この路線には大問題がありました。
掲げる“勅”が、孝明天皇本人の意思と関係ないものだったのです。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
なんてことを申し上げれば、頭が混乱してしまうかもしれません。
勅とは天皇の意思であるはず。
それが関係ないとは、もしや勅は偽造できも可能ということか?
そうです。長州藩は、公家を抱き込めば偽造も可能だと理解していました。
確かに孝明天皇は海外情勢に疎く、攘夷に賛同してはおりました。
しかし【公武合体】が功を奏したこともあり、幕府と協調路線を歩んでいきたいというのが本音。和宮本人も、孝明天皇も、家茂には好感を抱いておりました。
孝明天皇は、松平容保のことも大層気に入っておりました。
そんな折、覚えのない勅が出されるのですから不愉快きわまりないこと。
そこで会津藩と薩摩藩に発生源である長州藩の排除を頼んだ結果が【八月十八日の政変】であり、それに納得できない長州藩士らが武力で訴えたのが【禁門の変】でした。
【池田屋事件】は両事件の合間で発生、新選組が武力討伐に動いた事件です。
【禁門の変】で大火災が発生したことを考えれば、新選組側の事件予防という釈明も筋が通っているとはいえます。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用
土方歳三の「残虐な拷問が行われた」という話も有名ですよね。
これは何も【池田屋事件】だけで起きた話ではなく、そもそも新選組の容赦ない取り調べが史実なのです。連行された人物の遺書も残されてます。
沖田総司が昏倒するほどの激戦。天然理心流の剣は、容赦ないほどの殺戮をもたらしました。
薩摩ジゲン流による屋内戦闘でも、凄惨な結果が出ております。
幕末最強の剣術は、
・東の天然理心流
・西のジゲン流
という認識でよいのではないでしょうか。
【池田屋事件】と【禁門の変】の出動を経て、新選組の印象が決定的となったことは確かなのです。
得体の知れない、柄の悪い浪人ども。壬生をうろつく狼。野暮ったい浅葱色の羽織を着た、貧乏くさい関東訛りの連中。洗練された長州藩士の対極にある、忌々しい連中。
そんな新選組像は、変貌してゆきます。
隊士すら嫌がっていた浅葱色の羽織は完全廃止されたわけではありませんが、元治元年(1864年)ともなれば黒装束がむしろ定着していました。

あの羽織は当時のデザインセンスとしては最低の部類に入るもので、隊士でありながらも嫌う者が多く、一度も袖を通していない者も少なくなかったとか。
現在はイメージカラーとして定着していますが、当の本人たちからすれば嫌なはずです。
政治権力と武力を持つ組織へ――。
それは近藤勇にとっては、輝かしい達成感を伴ったことでしょう。永倉新八ら隊士は、このときの興奮を記録に残しています。
会津藩にとっても、超法規的な警察組織は使い勝手のよいものではありました。新選組の残虐な行為は、会津藩の許可あってのものです。前述したような麗しい結びつきだけでは、語れないものがあるのです。
ただ、これは京都で暮らす人々と敵対者にとっては、決定的な悪意と結び付けられることでもありました。
【禁門の変】の年というのは、幕末の長州藩にとってはドン底。“薩賊会奸”と草履に書いて踏みつけ歩く、そんな辛い日々。
孝明天皇を政治権力として持ち上げた結果、天皇の好悪によって政権が動き始めます。
これが決定打となるのは、若く純粋な家茂が病気がちである中、政治力抜群である徳川慶喜が政治的な要職についてからのことです。

徳川慶喜/wikipediaより引用
長州藩によって【禁門の変】が起き、その結果の大火災「どんどん焼け」にしたってこうなります。
「会津のせいや、壬生狼のせいや!」
2013年大河ドラマ『八重の桜』では、焼け跡を見回るヒロインの兄・山本覚馬が罵倒され、呆然とする場面がありました。
一方、2015年大河ドラマ『花燃ゆ』では、京都に大火災をもたらしたヒロイン夫・久坂玄瑞が悲劇の象徴として描かれていました。
それと共に「それでも京都の人々は長州贔屓だ!」とも描かれていたのです。
ドラマそのものの出来はさておき、当時の京都を象徴する出来事ではあります。
加害者である長州をかばう京都の民は何なのか?
これも財力問題なのです。
前述の通り、会津藩と新選組は慢性的に資金がありません。飲み会や芸者遊びなんてもってのほか。
一方で長州藩はそれができる。
金払いがよいし、西日本であるし、なんだか熱気もある。そうなれば、応援したくなるのが人の性というものでしょう。
人間の好意と、それが正しいものに対するものであるかどうかは、分けて考えねばならないということです。
【長州征討】の空転
この歳の秋から冬にかけて、近藤勇は江戸へと戻っています。単純な里帰りと捉えると、話がわかりにくくなります。
政治的な目覚めがありました。
近藤は、周平という養子を取ろうとします。この周平は谷家の出身で、谷三十郎の弟にあたります。老中・板倉勝静(備中松山藩・第7代藩主)のご落胤(私生児)を谷家が引き取って育てていたという説も。
真偽はさておき、谷家と板倉家には何らかの関係があったようです。
近藤としては、養子縁組により、有力政治家である板倉家と縁故を結びたい気持ちがありました。
【禁門の変】を受けて、孝明天皇は長州藩に同情するどころか激怒。
長州の武力討伐を願ったものの、政治的な齟齬が生じて失敗に終わります。
二度目はない、絶対にやらねばならないという認識が、生まれつつありました。
幕府も混迷の政局に、天皇や朝廷を引き込んだことを悔やんだことでしょうが、やらないわけにはいかなかったのです。
近藤は、ブレーンである武田観柳斎らを伴っていました。永倉新八も同行しています。

永倉新八/wikipediaより引用
剣術は強くとも、政治的な発言力はなさそうな永倉がどうしてそうなったのか?
これには彼が松前藩出身であることに関係があります。
松前崇広が幕閣にいたからなのです。

松前崇広/wikipediaより引用
もはや、孝明天皇の怒りは収まらない。将軍を上洛させ、長州を叩きのめすことなくば、事態は収まらないだろう。そう説得にあたらねばなりません。
ここにも不幸な状況がありました。
孝明天皇の怒りは、長州藩だけに向けられているわけではありません。諸外国に対し軟弱な対応をし、条約を結ぶ幕府には攘夷をするつもりがないと、怒りを募らせていたのでした。
しかし、幕府からすれば冗談ではありません。
もう、攘夷だのなんだの言っている余裕はないのですから。
せめて長州をなんとかせねばならない。そういう大事な使命を帯びて、近藤らは東へ向かったわけです。
幕閣で存在感を見せていた永井尚志は、近藤のことを高く買っていました。それゆえ、大役が回ってきたのですが、近藤にとっては荷が重い。失敗したという面もあることは確かでしょう。
ただ、それ以上に新選組のイメージが悪化しすぎていました。もう、長州藩は新選組の意見を聞くことはありえないのです。
そんな役目を帯びている近藤は、武田のようなブレーンの助けも得ながら、それだけ教養や政治力もあったのでしょう。そういう知性を無視されて、狡猾な悪役扱いをされる武田も気の毒なのです。
近藤の政治力には限界がありました。
いや、幕府そのものが方向性を見失っていったとされるのが【長州征討】の失敗です。
外様大名をおとなしくさせられない。幕府権威は崩壊した――そんな転機がそこにはありました。
長州征討の失敗は、高杉晋作らの活躍が強調され、ともかく電撃的なドラマとして描かれます。
しかし、そんな単純な話でもありません。
【長州征討】の失敗の背景には、薩摩藩の西郷隆盛らが露骨にやる気を見せなかったことが原因としてあります。
それはなぜなのか?
孝明天皇の信任を背景にした【一会桑政権】から、島津久光率いる薩摩藩は後退を余儀なくされました。

島津久光/wikipediaより引用
薩摩藩はかつて【将軍継嗣問題】における一橋派として慶喜を推していたにも関わらず、いざ慶喜将軍が実現すると政権から排除されるという、耐え難い侮辱に見舞われたのです。
となると、薩摩はどうすべきか?
敵対し、険悪な仲であった長州藩と手を結び、イニシアチブを取り戻すしかない。
それが【薩長同盟】でした。
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この同盟は討幕のためのものではなく、薩摩にとってはいかにして権力を取り戻すか、という性質を帯びています。
新選組とて、政治と無縁ではいられません。
けれども、政治にそこまで積極的に関われるわけでもない状態でした。
新選組の分裂と悩み
【池田屋事件】と【禁門の変】を経て、新選組は長州藩から好かれることはありえません。
不倶戴天の敵となりました。
幕末のことを調べていると、新選組がいかに便利な存在であったかがわかります。
志士を支えた女性の逸話を見ていると、お約束があります。
「ある女性が新選組に連行された。しかしその堂々とした態度に、あの近藤勇すら感服し、釈放したという……」
真偽はどうなのか。いくらなんでも志士の彼女は新選組に捕まりすぎなのではないか?
似たような話が多くてもう何がなんだかわからなくなってきます。
徳川 家康が恐れた存在。
豊臣 秀吉が惚れた女性。
こうした逸話のように「新選組に捕らえられた女」もパターンとして定着していると思えるのです。
そういうネタのような前置きから始まりましたが、新選組は“共通した敵”とされるだけの存在感がありました。そもそも警察組織である以上、反権力者にとっては大敵なのです。
しかもその敵は、隊の内部にもおりました。
新選組は、世直しを掲げた浪士組が母体です。
曖昧な動機によって人を集めたため、近藤勇や会津藩と方向性が一致しない隊士が当然出てきてしまいます。
その一人に、山南敬助がおります。
山南の死はフィクションでも見せ場でありますが、それだけではない重要性がありました。山南は試衛館時代からの最古参であり、それが切腹にまで追い詰められるのはかなりの事情が考えられるのです。
新選組の隊規の厳しさは有名です。
尊王攘夷という世直しを掲げた集団ならば、様々な人員が集まる――その覚悟を示すためにも、初期から脱走者を死罪とするほど厳しい規則があったのは、必要悪とも言えました。
ただ、初期の頃は、厳しくとも実態は伴ってはいません。
新選組にせよ、会津藩にせよ、幕末の京都では新参者であり、組織規模としても小さなものでした。隊の初期では、脱走をしても逃げ切れる可能性は結構高かったのです。
それが【一会桑政権】が確立してしまうと、変わってきます。
脱走はできないうえに、しようものならば逃げきれない恐ろしい状況となっていくのです。
新選組は、組織として変貌しました。
なまじ政治力がつき、会津藩と同じ主張をする方向性が強固となったため、それについていけない者が出てくる。
敵も増えすぎてしまった。
隊規拘束力は強まってゆく。
東西の格差。
全国規模で隊士を募ると、意見に温度差が出てきます。
その典型的なものが、将軍への忠義を第一とする東と、天皇や寺社勢力に重きを置く西です。出身地の東西のみならず、どうしたって集団や個々人によって違いが出てきます。
試衛館時代は遠くなりました。
皆で、異人を切って将軍に尽くしてやろうと語り合っていた頃は、もう程遠い。
会津藩と新選組の距離が近づけば近くほど、西国諸藩の思想的な流れを汲む者たちはついていけなくなる。新選組は業務上の欠員が出てくる。
このご時世では、組織の層は厚くしなければいけないのに、そう簡単にはできないのです。
新選組の歴史とは、組織が直面する矛盾を孕んでいます。
力を増すためには、構成員を増やす必要がある。しかし、構成員を増やすと統制が取れなくなる。
彼らの斜陽は、会津藩と一致していました。
会津藩は財力もなく、策謀にも長けておらず、孝明天皇からの信頼だけが頼り。
それが【長州征討】に挫折し、慶応2年(1867年)末に孝明天皇が崩御すると、みるみるうちに会津藩の勢力は衰えてゆきます。
新選組もその影響を受けるのは当然のことでした。
この孝明天皇崩御の直前、新選組の歴史でも凄惨な事件とされる【油小路事件】が発生しています。
近藤勇と対立した御陵衛士の伊東甲子太郎らが殺害される事件であり、伊東は腹黒い描かれ方をされますが、その主張は原点回帰ともいえるものでした。

伊東甲子太郎/wikipediaより引用
彼の掲げた「御陵衛士」とは、孝明天皇を守るべきであるとする理念があります。新選組では古参の部類に入る藤堂平助が賛同したとしても、それはまっとうなことではあるのです。
そしてこのあたりに、ややこしさが出てきます。
伊東らは、長州藩への寛大な措置を願っており、それが近藤と不一致であった――新選組と長州藩の厳しい対立構図を踏まえれば説明できるようで、ややこしいものが出てきます。
繰り返しますが、長州藩を嫌い抜き、討伐せよと訴えたのは孝明天皇です。
本当に孝明天皇の意思を尊重するのであれば、むしろ長州は征伐すべきということになります。
ここは、伊東の国家論を検討しなければならないのですが、残された史料から見えてくるものもあります。
◆伊東甲子太郎の国家論
幕府、朝廷の対立軸を横に置く。
どちらも勢力を保ちつつ、国家が一丸となって困難に立ち向かうべきだ。
そうなれば長州のような一勢力を討伐すべきではない。むしろ長州のような外様も含めて、日本が一致団結していかねばならない!
ゆえに、長州を討伐するのは愚策なのだ!
実は、同様の理論を唱えていた幕末の人物は、他にもいまいた。
坂本龍馬、そして知名度では劣るとはいえ、赤松小三郎です。

赤松小三郎/wikipediaより引用
彼らは武力倒幕に反対し、その過程で暗殺されてゆきます。
幕末から明治にかけての不幸は、後世からすると「正論だと思える理念を掲げた人間が凶刃に倒れている」ことでしょう。
伊東の粛清は、新選組の凶暴性だけでも説明できません。
坂本龍馬暗殺の支持者は、松平容保であると確定しています。
内戦回避の大きな国家論は、会津藩やその傘下の新選組でも受け入れられるものではなかったのです。
伊東と坂本龍馬の思想は、近いものとして後世認識されていました。
龍馬が伊東に助言をしていたという逸話が、真偽不明ながらも明治以降流布されていました。おそらく創作ではありますが、それでも思想的に近いと認識されていたことは重要です。
伊東は、その教養と先進性ゆえに構想が一致せず、粛清の憂き目に……そして彼の同志も、まとめて始末されることになりました。
先に殺害した伊東の死骸を囮にして粛清する。それが凄惨極まりない【油小路事件】でした。
こうした混沌と粛清は、新選組だけでもありません。
薩摩藩を見てみますと、幕末から明治にかけて常に政治の中心にあり、【西南戦争】まで【藩閥政治】でも日本を動かしていた勢力です。
一枚岩でもなく、主張は二転三転。しかもそれが周囲からはわかりません。
前述した通り、【長州征討】の挫折は、薩摩藩が消極的な対応をとったことが大きな原因としてあります。
長州に寄り添っていたことを見抜けないほど、幕府は信頼しきっていたわけです。
かように政治権限を取り戻すことに傾注していた薩摩藩は、幕府を倒すことで新政権樹立ができると考えていました。
そこで武力を用いるのか。
政治交渉だけにするか。
ここが判断の分かれ目でした。
薩摩藩内で指導にあたり、武力に頼らない倒幕路線の提唱者であった赤松小三郎は、暗殺された上にその事実すら厳重に隠蔽されています。
一方、新選組が行った粛清が白日の下にさらされ批判されるのは、薩摩藩や長州藩のように隠蔽ができなかったことも重要でしょう。
敗北し、京都から江戸へ
【油小路事件】は、御陵衛士を始末しきれなかった事件でした。
被害に遭わなかった御陵衛士は、新選組幹部の殺害を計画。標的とされたのは、肺結核を発病していた沖田総司と、局長である近藤勇です。
沖田襲撃は未遂に終わったものの、近藤は違いました。
慶応3(1867年)の暮れのこと。
二条城からの帰り道、屯所を目指していた近藤は狙撃され負傷してしまうのです。
負傷した近藤に代わって土方が隊内をまとめる中、事態は急変してゆきます。

土方歳三/wikipediaより引用
慶応4年(1868年)――江戸幕府最後の歳が明けます。
年明けから【鳥羽・伏見の戦い】が勃発して、新選組は大敗。
土方の「もう槍と刀の時代ではない」という言葉が伝わるためか、新選組が洋式調練をしていなかったかのように誤解をされますが、そういうことでもありません。
新選組は洋式調練、豚の飼育等、新時代に向けた体制構築の努力をしていました。
では新選組はじめ、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで大敗した理由は何なのでしょうか?
◆薩長側には【錦の御旗】があった
正統性としては疑わしいとされているものではあります。効果も立場や思想によります。
ただ、勤皇思想にあつい徳川慶喜に対しては効力を発揮しました。
慶喜は朝敵にだけはなりたくなかったのです。
◆徳川慶喜の撤退
総大将に戦意がないからには、勝てるわけもありません。
◆薩長側には資金源があった
→もしも戦闘が勃発したとしても、資金が不足するという見立てはありました。
薩長側は三井家をはじめ、大商人を味方につけることで解決します。
◆薩長側にはイギリスの支援があった
もしも戦闘が勃発したとしても、武器が不足するという見立てはありました。
しかし、薩長側の背後にはイギリスがついていたのです。幕府側にもフランスの支援はありました。
英仏の代理戦争のような側面もあったのが、幕末最終決戦でした。
外国人排除を掲げる攘夷が重大であったはずの局面が、こうした形に落ち着いたのですから皮肉なものです。
来日外交官が親日的であったとか、青い目のラストサムライであるといったロマンチックな評価はあります。
そういう綺麗な話でもなく、英仏代理戦争の側面があります。
幕府側にも、海軍力のような優位点はありましたが、慶喜の戦意喪失という根本的な大問題があってはどうにもなりません。
慶喜は大変なことをやらかしました。
大坂城から脱出し、嫌がる松平容保まで伴って、海路江戸へとひきあげてしまったのです。
このことがどれほど苦く、痛烈な一撃であったか。
会津藩の家老であった山川浩は、若輩者でありながら大坂城代を任されたと冗談めかして後年振り返っております。

若かりし頃の山川浩/wikipediaより引用
しかし当時は絶望しきっており、どうにもならないと嘆いていた姿が目撃されています。
新選組の凋落と、近藤勇の狙撃を結びつける推察もあります。
武士として剣術では戦えない。ただし、これも近藤の将としての過小評価につながりかねないのではないかと考えてしまうのです。
指揮官として立つのであれば、個人的な戦闘力があるかどうかはまた別の話です。
甲府へ出陣せよ
江戸にたどり着いた新選組隊士たちは、傷の療養や休息をすることとなりました。
遊郭に出かけてゆく隊士もおりました。
当時の江戸では、薩長への反感と憎悪を募らせ、将軍様と戦う者を遊女たちも熱心に歓迎しておりました。
京都では嫌われていた新選組ですが、江戸では愛すべき存在であったのです。
ただ、彼らを歓迎しない者もおりました。
「幕末三舟」(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)です。

勝海舟/wikipediaより引用
【無血開城】のイメージが先行しがちであるためか、勝は初めから無抵抗であったかのように思われがちですが、そういう単純な話でもありません。
圧倒的な海軍力がほぼ無傷で残されており、幕府に勝算が全くなかったわけでもないのです。
なかでも主戦派の小栗忠順は、のちに計画を知った西軍が顔色を変えたほどの迎撃策を練っていたとされます。この小栗も、新選組と同じく、江戸からすげなく追い払われております。
西郷隆盛は赤報隊を率いて、江戸を戦火に引き摺り込むべく、強引な策をめぐらしていました。
モスクワでナポレオンを大敗させたロシアを参考にし、江戸の町火消しを動員した焦土戦術を企画していた形跡もあります。
勝は幕臣です。
幕臣であるからには、主君である慶喜の首を守り抜き、その意を実現させなければなりません。
さらに、そんな勝と歩調を合わせる山岡鉄舟と高橋泥舟は、尊王思想の持ち主です。慶喜が手を引き、天皇のもとで日本がまとまることを必然と考えています。
イギリスやフランスとしても、市場となる江戸を壊滅させたくないし、徳川慶喜の殺害も避けたい。
そこで抜群の力を発揮したのが、高橋泥舟と山岡鉄舟です。泥舟が西郷隆盛との交渉に指名されたものの、ボディガード不在は不安だと訴えた慶喜によりかないません。
泥舟は義弟の山岡鉄舟を推薦します。彼が全力を発揮したのです。

山岡鉄舟/wikipediaより引用
ありとあらゆる手を使い、江戸での戦争回避に動く「幕末三舟」、それに同意する西郷隆盛――そうまとめてしまえるようで、その横には悔しがる小栗忠順、榎本武揚、彰義隊、そして近藤勇ら新選組がいたことを忘れてはなりません。
そもそも武力倒幕は、当時の味方からも下策とされていたにも関わらず、西郷らが強引に推し進めたこともありました。
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それでも【上野戦争】は勃発しており、まだまだ流血は続きます。
勝海舟は納得できたとしても、こんな幕切れは恥そのものであると抵抗の意思を見せる幕臣は多数おりました。
抗戦までせずとも、こんな恥ずかしいことがあってたまるかと、明治以降も筆誅を加え続けた人物として、福沢諭吉もあげられます。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用
こうした抗戦を選んだ幕臣の中に、他ならぬ近藤勇も挙げられます。
忠臣の最期
勝海舟にとって、新選組はともかく消えて欲しい存在ではありました。
【池田屋事件】以来、宿敵としての悪名は決定的なものとなっており、彼らがいる限り長州からの敵意は消えません。
そこで編み出された秘策が【甲陽鎮撫隊】でした。
甲府を抑えることを目的としていたことから、そう命名されており、このとき近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と改名しました。武田旧臣由来の名前とされております。
八王子同心のルーツを考えれば、甲府進軍は名目としても成立します。
他にいくつかの変化も出てきました。新選組の指揮系統に、変動が見られるのです。
甲陽鎮撫隊をめぐっては、永倉新八と原田左之助が離脱したことが知られています。
生存した永倉側の証言からは、近藤勇の増長が原因だと解釈されます。永倉は「武士は二君に仕えず」と啖呵を切って袂をわかったとされていますが、ことはそう単純ではないでしょう。
甲府への出兵も、フィクションのイメージにより、わかりにくくなることがあります。
近藤らは、自分たちの故郷に立ち寄ってから甲府を目指します。幕臣になったと浮かれ騒いで無駄な寄り道をしたために、甲府への着陣に遅れが生じたと解釈されるものです。
個人的な話と前置きして書きます。
以前、新選組ファンの方が、苦々しい口調でこう言うのを聞いた記憶があります。
「近藤勇も、浮かれたのか、油断したのか、狙撃で判断力が鈍ったのかもしれないけど。甲府に遅れるなんてガッカリだよ。馬鹿としか言いようがないというか……」
この意見は結果論でしょ……という見方もできるわけですが、それ以外にもっと複雑な事情があったと思われます。
近藤勇は、新選組から甲陽鎮撫隊を指揮する過程において、会津藩の下部組織ではなく、幕臣とされたのです。
ところが永倉たちの意識からすれば、それがわからない。あくまで自分たちは会津藩主を主とするとなるのです。
そうした混乱の中で【甲州・勝沼の戦い】において甲陽鎮撫隊は大敗を喫してしまいます。

『勝沼駅近藤勇驍勇之図』/wikipediaより引用
敗因は何だったのか?
近藤勇の指揮能力が低い、というのも疑念が湧いてきます。
当時の社会情勢は極めて混沌としており、人員も物資も不足。集めたい農兵は離脱する。会津藩は援軍を送るどころでもない。
戦闘があまりにアッサリしすぎているため「ゆかりの地を犠牲にしたくない」という近藤が敢えて戦闘を避けたという伝説も、地元には伝わっているそうです。
兎にも角にも、近藤勇はその後、流山まで落ち延び、陣営を構えます。
しかし、程なくして彼は投降を決断するのでした。
この場面も、フィクションでは劇的に描かれます。土方が必死で止める場面は盛り上がりますよね。
そのために史実がわかりにくくなっている。
大久保大和という名前が、まるで雑な身分偽装の象徴のように思われます。
しかし前述の通り、甲府奪還を目的とし、八王子同心としてのルーツを踏まえての改名であれば、目的は違って見えてきます。そもそも幕末は近藤のみならず、多くの人物が頻繁に改名しています。
騙されての投降ということも、そうとも言い切れないものがあります。
近藤勇は、自らの命と引き換えに隊士の助命嘆願を願っていたということもあるのです。
幕末の助命基準は、実に混沌としています。
戦国時代であれば、総大将が切腹することによって、配下の将兵や民の助命をすることがありました。
それが江戸時代を通して、主君の首を何がなんでも守ることが、武士道として定着していたのです。
近藤勇の首と引き換えにした嘆願は、戦国時代までさかのぼった「武士の意識」という解釈ができなくはありません。
総大将が抵抗を放棄すれば許すということも、慣例としてはあります。
【長州征討】にしても長州藩に一切の損害がなかったわけではありません。
藩主ではなく家老の切腹という処置が取られているのです。責任者の死による処断が当時は当然のこととしてありました。
近藤が、隊士を守るために命を捨てる選択肢があったとしても、何ら不自然ではないでしょう。
しかし、待ち受けていた運命はあまりに過酷でした。
4月25日(新暦5月17日)に板橋庚申塚で斬首処刑されると、首は板橋刑場に晒され、そこに葬られたのです。
享年35。
この近藤勇の斬首は、当時の慣習としてもやり過ぎの感はあり、この先続く【戊辰戦争】への悪影響も見逃せません。
会津藩が徹底抗戦を選んだ理由として、松平容保の首を要求されたことがありました。
容保は既に喜徳に家督を譲り、隠居を願い出ていたにも関わらず、首を要求されたのです。

松平容保/wikipediaより引用
武士の誇りを賭けて戦わねばならない状況に追い込まれた上に、近藤勇の処刑状況もあわせて考えると、混沌とした状況がわかってきます。
会津藩やその会津藩を救うべく動いた【奥羽越列藩同盟】は、愚かさの象徴のように言われますが、そう単純なものでもありません。
主君が斬首された挙句、罪人のように晒し首にされたら、もはや武士としてどうしようもない。
そうなるくらいならば徹底して戦おうと、会津藩の老若男女が思いつめても仕方ないことでした。
ともかく第二の近藤勇になることは、避けねばならない。誰もが徳川慶喜ほど柔軟になりきれず、奥羽を巻き込んで戦火は拡大してゆきます。
肺結核で療養する沖田総司は、死の直前まで近藤勇狙撃犯を斬ると願っていました。そんな彼に、近藤が晒し首にされたとは、決して言えません。
近藤勇の後継者として、幕臣となった土方歳三の戦いは続きます。
大鳥圭介、榎本武揚らと合流して、五稜郭まで駆け抜け、戦死を迎えるのです。
かつて永倉と原田がそうしたように、斎藤一は土方と別れました。

斎藤一/wikipediaより引用
会津藩への忠義であると解釈される斎藤一の行動ですが、幕臣として戦うのか、あくまで会津藩御預かりとして戦うのか、解釈の違いがあったと考えることもできます。
斎藤は明治以降も会津藩士としてのルーツを貫きます。
会津藩士の女性と結婚し、山川浩・健次郎兄弟、佐川官兵衛らと親交を保ち、会津に墓を作らせました。
原田左之助は、彰義隊の戦闘に巻き込まれて戦死。
永倉新八は同志とともに会津へ向かうものの、激しい戦闘のために城まで辿り着けず、無念の思いとともに抵抗を断念します。
新選組は、甲州勝沼へ向かう前に分裂したとされます。
それは近藤勇一人の責任だけでもなく、それぞれが武士道を求めた結果ともいえるのではないでしょうか。
近藤勇の武士としての誇りは、辞世によって現在も伝わっています。
【辞世】
孤軍援絕作俘囚 顧念君恩淚更流
一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔
嘛他今日復何言 取義搭生吾所尊
快受電光三尺剣 只将一死報君恩
孤軍援(たす)け絶えて俘囚となり 君恩を顧念して涙 更(ま)た流る
援軍が尽きて孤立し捕虜となった 君恩を思えばまた涙が流れる
一片の丹衷 よく節に殉じ 雎陽(すいよう)は 千古これ吾が儔(ちゅう)
ただ自分の誠意によって節義に殉じよう 張巡(字・雎陽、【安史の乱】で奮闘し戦死唐の忠臣。南宋の伝説的な忠臣・文天祥の『正気歌』をふまえている)こそ、私の同志であった
他に靡きて今日また何をか言はむ 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶところ
他の勢力に屈したら何を言えるのだろう? 義を選び命を捨てるのは、私が尊ぶところなのだ
快く受く電光三尺の剣 只(ただ)将(まさ)に一死をもって君恩に報いん
斬首の刃を快く受けようではないか この一命を持って君恩に報いるだけである
武士となるべく身に付けた漢文の教養を駆使した、志にあふれる辞世です。
なお、この漢詩はもとは前後に分かれていたものを組み合わせたのか、押印や語句の使い方に少しおかしなところがあります。伝わる際に間違った可能性があります。
関羽にあこがれ、「誠」を掲げた近藤勇らしい志にあふれているのです。
★
様々なフィクションにおいて、集団単位で人気があるといえば、何と言っても新選組です。
大河ドラマからスマートフォンのゲームでまで、彼らは常に取り上げられてきました。
試しに『松下村塾、精忠組、海援隊でゲームはないのかな?』と調べたこともありますが、所属員がキャラクターとして登場することはあっても、集団そのものはテーマにならないようです。
新選組は、幕末フィクションにおける象徴となりました。
そして皮肉にも、彼らの青春群像路線は、彼らの敵である側に流用されるようになっていきます。
大河ドラマ『花燃ゆ』は「幕末男子の育て方。」と掲げました。『西郷どん』も、ボーイズラブを推奨すると宣伝されたものです。
しかし、どちらも狙いを外しています。
こうした状況を見ていると、新選組という集団は、人々の心を惹きつけるという点では勝利を収めております。
福沢諭吉は、戦ってこそ、痩せ我慢してこそ、三河武士の忠義は保たれたはずだと嘆きました。
【無血開城】は、武士そのものを破壊したことだと怒りをこめたのですが、福沢のこの思いは本人ではなく、新選組によって叶えられたのではないかと思えるのです。
太平洋戦争敗北まで、新選組を肯定的に描くフィクションはありえないことでした。そんな長い年月と政治状況を経過しても、彼らは色あせることなく、現在までその生き方を見せつけています。
土方が会津・天寧寺に建てた近藤勇の墓。
永倉新八が板橋に建てた近藤勇の墓。
どちらも参拝客が途切れることはありません。板橋の墓にはノートが置かれ、新選組の生き方に感銘を受けた人々が熱い思いを書き込んでいます。
彼らを突き動かすフィクションの力は偉大です。
新選組の記事が読まれるのは、偉大なフィクションありきであることは、決して否定できないところではあります。
しかし、功罪もあると痛感したのが、近藤勇の記事でした。
フィクションの印象を取り払うことを、近藤勇以下、常に意識せねばならなかった。
この長い本稿を書いて痛感したのは、近藤勇はフィクションのイメージにより、過小評価と誤解をされているということです。
智勇にあふれ、豪農三男坊から幕臣にまで到達した近藤勇。
彼も幕末の典型的な一青年であり、確かな才能に恵まれておりました。
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【参考文献】
宮地正人『歴史のなかの新選組』(→amazon)
松下英治『新選組流山顛末記』(→amazon)
平野勝『多摩・新選組紀聞』(→amazon)
大石学監修『新選組の時代』(NHK出版)
『図説新選組クロニクル』(→amazon)
『新選組大人名事典』上下(→amazon)
他









