西郷隆盛が幼き頃に修練を積んだ下加治屋町には、実に個性的なメンツが揃っておりました。
そして今回取り上げる大山綱良(格之助)は、薬丸自顕流の使い手として恐れられた一人であります。
2018年大河『西郷どん』では、尖った演技が真骨頂の北村有起哉さんが演じましたが、史実の大山もまた、実に尖った人。
明治10年(1877年)9月30日に亡くなられたその生涯を振り返りましょう。
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薬丸自顕流の名人は初太刀を外しても
文政8年(1825年)生まれの大山格之助は、西郷や大久保と同じ加治屋町の郷中仲間でした。
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年齢的には、西郷より3つ上。
幕末、激動の最中には【精忠組】の一員として、大久保のもとで動きました。
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大山は、はじめ茶坊主として島津家に仕えておりました。
茶坊主というと軟弱なイメージを持たれるかもしれませんが、そこは何と言っても薩摩隼人。
横木打ちで鍛え上げた薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)は、藩内でも屈指の腕前です。
幕末において薬丸自顕流は、新選組幹部が習得していた天然理心流と並んで、強烈な強さを持ち、超実践向けの流派でした。
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他流試合をして、簡単にあしらってしまった話が残されているほど。
薬丸自顕流といえば、初太刀で倒すというイメージが強いですが、大山の場合は小太刀も得意としておりました。
「初太刀さえ外せば何とかなる」という新選組のような対処を念頭に置いていても、大山の修羅の剣は撃退が困難だったことでしょう。
寺田屋ではあわや西郷弟と斬り合いに
文久2年(1862年)。
薩摩藩内で「寺田屋事件(寺田屋騒動)」が起きました。
過激な尊皇攘夷思想に駆られた若手藩士たちが、京都の寺田屋に立て籠もったのです。
実質、最高権力者であった島津久光は、これを鎮圧すべく指令を出しました。
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そこで鎮撫使として選抜されたのが腕に覚えのある剣士8名。
大山も選ばれておりました。
捕縛される側の過激派藩士の中には、西郷の実弟・西郷従道や、西郷のイトコ・大山巌も含まれています。
身内同然の者達と斬り合う危険性にあったのです。
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というより、この騒動を扇動していたのは、そもそも大山や西郷らと同じ加治屋町で育った有馬新七らのメンバーです。
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双方ともに「薬丸自顕流」等の殺人剣の使い手たちであり、それが屋内で斬り合う修羅場となりました。
大山は、弟子丸龍助(でしまる りゅうすけ)を殺害。
橋口伝蔵にも手傷を負わせます(橋口は事件で死亡)。
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結果、鎮撫使側は、死亡1名、重傷1名、軽傷4名、負傷なし3名で終わりました。
大山も負傷ありません。
西郷従道や大山巌らは、投降したため無事で済み、帰藩して謹慎処分となります。
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