大山格之助(大山綱良)/wikipediaより引用

幕末・維新 西郷どん特集

大山格之助(大山綱良)修羅の剣!寺田屋で大暴れした薬丸自顕流の達人

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西郷が幼き頃に修練を積んだ下加治屋町には、実に個性的なメンツが揃っておりました。

大久保は言うまでもなく桐野や村田……そして今回取り上げる大山格之助大山綱良)は、薬丸自顕流の使い手として恐れられた一人であります。

2018年大河『西郷どん』では、尖った演技が真骨頂の北村有起哉さんが演じましたが、史実の大山もまた、実に尖った人でした。

 

薬丸自顕流の名人は初太刀を外しても……

文政8年(1825年)生まれの大山格之助は、西郷隆盛大久保利通と同じ加治屋町の郷中仲間でした。

年齢的には、西郷よりも3つ上。
幕末の激動の最中には「精忠組」の一員として、大久保のもとで動きました。

大山は、はじめ茶坊主として島津家に仕えておりました。

茶坊主というと軟弱なイメージを持たれるかもしれませんが、そこは何と言っても薩摩隼人
横木打ちで鍛え上げた薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)は、藩内でも屈指の腕前です。

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幕末において薬丸自顕流は、新選組幹部が習得していた天然理心流と並んで、強烈な強さを持ち、超実践向けの流派でした。
他流試合をして、簡単にあしらってしまった話が残されているほど。

そして、薬丸自顕流といえばともかく初太刀で倒すというイメージが強いのですが、大山の場合は小太刀も得意としておりました。

「初太刀さえ外せば何とかなる」
という新選組のような対処を念頭に置いていても、大山の修羅の剣は撃退が困難だったことでしょう。

 

寺田屋ではあわや西郷弟と斬り合いに

文久2年(1862年)。
薩摩藩内で「寺田屋事件(寺田屋騒動)」が起きました。

過激な尊皇攘夷思想に駆られた若手藩士たちが、京都の寺田屋に立て籠もったのです。
実質、最高権力者であった島津久光は、これを鎮圧しようと考えました。

そこで鎮撫使として選抜されたのが腕に覚えのある剣士8名。
大山も選ばれておりました。

捕縛される側の過激派藩士の中には、西郷の実弟・西郷従道や、西郷のイトコ・大山巌も含まれていました。
身内同然の者達と斬り合う危険性にあったのです。

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というより、この騒動を扇動していたのは、そもそも大山や西郷らと同じ加治屋町で育った有馬新七らのメンバーなのです。

ドラマでも序盤から青い着物を着て、ほぼ毎回出ているのでピンと来られる方も少なくないでしょう(ただしドラマにあるような西郷の幼馴染という設定については微妙なところも)。

この事件、かつての同士だけでなく、双方ともに「薬丸自顕流」等の殺人剣の使い手たちが、屋内で斬り合うという相当な修羅場でした。

そこで大山は弟子丸龍助(でしまる りゅうすけ)を殺害。
橋口伝蔵にも手傷を負わせます(橋口は事件で死亡)。

鎮撫使側は、死亡1名、重傷1名、軽傷4名、負傷なし3名。
大山は負傷なしでした。

西郷従道や大山巌らは、投降したため無事で済み、帰藩して謹慎処分となります。

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泥沼と化した戊辰戦争

次に大山の名前が知れるのは、慶長4年(1868年)の戊辰戦争です。
このときは奥羽征討軍下参謀として、東北諸藩の鎮定に向かいました。

大山が請け負ったのは、秋田藩です。

秋田藩には、奥羽列藩同盟加入を勧める仙台藩からの使者が来ていましたが、大山はこの使者を殺害。
秋田藩は西軍につくことになりました。

このときの大山は、長州藩の世良修蔵とセットで語られることが多いようです。

仙台に向かった世良は、傍若無人な振る舞いをして反感を買います。
しかも大山宛に送った密書の内容が、仙台藩士たちに知られてしまったのです。

「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」
「奥羽は皆敵だからぶっ殺す」
とまぁ、なんとも物騒な内容。
激怒した刺客によって殺されてしまい、奥羽の戊辰戦争は泥沼へと突き進んでゆきます。

庄内方面を転戦した大山は、庄内藩の反撃にあい苦戦。
戊辰戦争においては数少ない、西軍としての敗北を喫しました。

どうにも戊辰戦争での大山は、世良とセットで語られるためか、評価が辛くなるようです。

当初の予定では、下参謀は大山と世良ではなく、黒田清隆と品川弥二郎でした。そのため、
この二人ならもっとマシだったのでは?
泥沼に陥られなかったのでは?
と思われてしまうのです。
おまけに味方からも「大山と世良は駄目だよなあ」と言われていた部分がありまして……。

大山も世良も、誇張されて悪く言われている一面があり、そこは冷静に考えた方がよさそうです。

 

鹿児島県令として西郷らに協力を続け……

明治維新後の明治7年(1874年)、大山は鹿児島の初代県令となりました。
県令は、その県とゆかりが深い者以外が選ばれていましたが、鹿児島だけは例外。この例外措置を、政府は悔やんだことでしょう。

県令時代、大山は薩摩藩時代の公文書を焼却してしまい、歴史研究に打撃を与えます。
しかも大山は、政府から県令に任じられていたにもかかわらず、政府の意向を無視しました。

その心情は、新政府に批判的であった西郷寄りであったのです。

西郷の私学校の費用は、ほとんどが県費でまかなわれました。

大山は、中央から任じられた県令というよりも、桐野利秋と並ぶ西郷の幕僚のような状態。
鹿児島の士族の状況もよく把握しており、西郷から信頼されていたのです。

そして、西南戦争以前の鹿児島県は、ほぼ独立王国のような状態となってしまい……それが、西南戦争へつながる大きな要因となります。
実際、戦争の最中も、彼は資金を提供し続けました。

むろん敗戦に終わったからには、彼とて無事では済みません。
西郷に味方した罪に問われ、斬首。
享年53でした。

文:小檜山青

【参考文献】

『明治維新人物辞典 幕末篇』奈良本辰也編(→amazon link
国史大辞典

 



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