大河ドラマ『西郷どん』で鹿賀丈史さんが演じて話題になった、薩摩藩主の島津斉興――。
その横に座る側室・お由羅(小柳ルミ子さん)とセットで、『あぁ、あのダメなお父さんね~』とイメージしてしまう人が増えたと言います。
無理もありません。
主役の西郷隆盛(西郷吉之助)も、そしてその吉之助が尊敬する次藩主の島津斉彬(渡辺謙さん)も、揃いも揃って島津斉興を軽く扱っており、なんなら薩摩藩のお邪魔虫ぐらいの扱いでした。
不人気になって仕方ない話ですが、かといって史実までそう受け止めてしまうのも妙な話でしょう。
実はこの島津斉興、ボロボロになった薩摩藩の財政を建て直した人物と言える。
正確には、彼の重臣が中心となって改革を進めたのですが、その結果なくして、島津斉彬の幕府に対する影響力も、西郷隆盛の台頭も、大久保利通(正助・一蔵)の明治政府もなかった――そう断言して差し支えないほどに、薩摩藩に影響を与えています。
安政6年(1859年)9月12日はその命日。
ドラマでは窺い知れなかった島津斉興に注目してみましょう。
「江戸生まれめ!」←自分も江戸生まれです
島津斉興は寛政3年(1791年)、江戸で生まれました。
大河ドラマ『西郷どん』では、折り合いの悪い我が子・島津斉彬(渡辺謙さん)に対し
「江戸生まれめ!」
なんて悪態をついておりましたが、そもそも彼自身も江戸生まれだったんですね。
というか、それだけでなく彼の父・島津斉宣も江戸生まれ。
参勤交代制度で江戸暮らしを課されていた当時の藩主一家としては、むしろ一般的な話です。
ただ、斉興の場合は、生母の実家がなかなかのトラブルメーカーでした。
斉興の生母・八百は、浪人である鈴木甚五郎の娘です。
後に斉興自身が、同じく身分の低いシンデレラガール・お由羅を側室にしており、ドラマ等では異例だのなんだの言われますが、実はそこまでおかしな話ではありません。
ただし、八百の実家・鈴木家の場合は、別の問題がありました。
「うちの娘が薩摩のお殿様の子を産むなんて、大変なことだよ!」
そう浮かれた八百の母や家族が「生活費くださいよ~」と島津家にねじこんできたのです。今で言えば、いわゆるDQN一家的な香り……。
島津家としても、これには相当困ったことでしょう。
とりあえず、一代に限り、生活費と住居を与えることで済ませております。
祖父・重豪が金をバンバン使ったせいで……
文化6年(1809年)、斉興は藩主に就任します。
キッカケは、父・斉宣の藩政改革挫折のあおりを受けてのこと。
当時の実権は、コワモテの祖父・島津重豪が握っていたため、若き藩主として藩政に取り組む――そんな爽快感とは無縁のスタートでした。
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息子の島津斉彬が藩主に就任する際にゴタゴタが起きたり、その斉彬が死んだ後に、斉興が再び島津家の実質トップに返り咲いたり、彼らの周囲が何かとお騒がせな政治体制だったのも、斉興自身が過去にストレスフルな藩主生活を体験していたからかもしれません。
そんな祖父・重豪が亡くなったのは天保4年(1833年)のこと。
やっと俺の時代が始まるぜ!
しかし斉興に待ち受けていたのは借金のそびえ立つ山でした。
「総額いくらの借金があるのだ?」
「500万両でごわす」
「んなっ……!?」
メンタルの弱い藩主なら、プツッと何かが切れ、やけっぱちになって酒池肉林ライフを送るとか、引きこもるとか、そんな現実逃避をしてしまいそうな状況です。
普通に考えれば財政破綻をしている自治体のようなもの。
助けてくれる国もなく、途方に暮れるような状況でした。
経済感覚に優れると同時に冷酷な判断も
そんなとき斉興に心強い味方が現れます。
「殿、こん調所笑左衛門がおいもす。共に、こん借財を何とかしていっもそか。殿のためなら、おや鬼にんもんで」
調所広郷――。
彼は、経済感覚に優れると同時に冷酷な判断もいとわない、デキる男でした。
借金帳消しのためならば、鬼と呼ばれてもいとわない本物の忠臣。西郷どんでは、竜雷太さんが演じられておりましたね。
西郷隆盛(西郷吉之助)とは立場が異なるため、なにやら悪い印象で描かれておりましたが現実はさにあらず。
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斉興と調所は、二人三脚による藩政改革を進め、ついに借金は何とかなりました。※詳細は上記の調所広郷記事をご参照ください
しかし、やっと一息つけると思ったら、今度は別の試練に襲われます。
【欧米列強による外圧】です。
水戸藩でも外国の脅威を感じていたが
1840年代ともなると、薩摩藩領であった琉球、しまいには鹿児島藩にまで、しばしば外国船が訪れるようになりました。
この時期から外国の脅威を感じていたのは、南に位置する薩摩藩と、海岸線が長いため、その機会が多かった水戸藩です。
幕末で、水戸と薩摩がやたらと目立つのは、早くから外敵にさらされ、改革が進んだためなのですね。
しかし、両者は全く異なる道を歩むから、歴史の不思議がここにあります。
水戸藩では、尊皇攘夷思想が発達。外国をトコトン嫌い、排除する思想が藩政にまでおよびました。
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一方薩摩では、斉興と調所が、西洋の技術や学問を取り入れる、富国強兵路線に舵を切ります。
ただし、ここで斉興と嫡子・島津斉彬の政策路線において対立が生じます。
斉興「確かに西洋の技術を学ばなければいけないけれども、財政を悪化させないためにもセーブが必要。セーブしないと、祖父・重豪の代のような借金地獄の再来になる」
斉彬「父上の改革は中途半端で時代遅れ。財政のことなんか気にしていたら駄目だ。金に糸目はつけずに、恐れずにガンガンやるべき」
父子の違いは、たとえばガラス製品の扱いにもあらわれています。
父・斉興はあくまで実用本位。薬品を入れる瓶を作ればいいと考えていたのに対して、子・斉彬は、華美なガラス製品を特産品にしようと考えました。
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質実剛健できまじめな父と、遊び心とアイデアにあふれた子という差ですね。
要は、どれだけ投資をするか?の問題
大河ドラマ『西郷どん』では、単純に、
【保守的で西洋の脅威を知らない父・斉興】
vs
【その反対である子・斉彬】
そんな対立とされています。
しかし、対立軸は西洋化うんぬんではなく、金銭感覚の違いだったのです。
要は、どれだけ投資するか?という問題ですね。
これは現在の会社経営と何ら変わらない話でしょう。結局、始める前はどちらの考えが正しいか不明であり、結果を見て判断するしかありません。
そして、意外かもしれませんが、こと集成館事業に関しては島津斉彬が正しいとは言い切れないところがありまして。
例えば蒸気船を作ろうと大金を投じるも、後に【外国から買った方がよい】と方針転換せざるを得ないケースもあるなど、すべてがすべてOKというワケじゃないのです。
確かに薩摩切子は残り、芋焼酎も今なお同県の名産品になってます。
しかし幕末維新時期においては、それが狙いでないことはご理解いただけるでしょう。
ゆえに、借金地獄を乗り切ったばかりで、膨大な投資は避けたい――そんな斉興の気持ちも理解できるところであります。
みんな不幸になってしまったお由羅騒動
そして嘉永2年(1849年)。
父子の対立が収まらない最中、おそるべき事件が起こりました。
お由羅騒動です。
赤山靭負が切腹させられたり。
大久保利通(正助・一蔵)が謹慎、その父が流罪になったり。
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西郷どんでも取り上げられたこの事件。
そもそもは、度重なる斉彬の子供の夭折(若くして死ぬこと)を、斉興側室・お由羅の呪詛(呪い)のせいだと考えた斉彬一派が、お由羅の暗殺計画を立てたことに始まります。
斉彬派は、斉興追い落としのため、琉球との密貿易の件を幕府に密告。
斉興派では、主君をかばうため、側近の調所広郷が自害する事件も発生しました。
お由羅騒動なんて呼ばれておりますが、実はお由羅本人は関与してないんですね。
呪詛はあくまで噂であり、かなりとばっちりなネーミングです。
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事件は、幕府の耳にも届きました。
そして翌嘉永3年(1850年)、斉興は将軍・徳川家慶から「朱衣肩衝」という茶器を贈られるのです。
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要は、「隠居してこれでお茶でも飲んで、ゆっくりしなさい」という隠居勧告でして。
藩主に就任するときも、隠居させられるときも。何かとトラブル続きで大変苦労の多い人生でした。
★
斉彬と比較され、物語等では暗君扱いされがちな斉興。
実際は、薩摩藩飛躍の土台を築き上げた名君だったと言えましょう。
なお、1858年に島津斉彬が亡くなり、島津久光の息子・島津忠義が藩主の座に就くと、斉興は再び実権を握ります。
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そこで西郷隆盛らを廃し、集成館事業の見直しなどを進め、薩摩を以前の路線へ戻すべくよう働きかけている最中の翌1859年、ついに自らの死を迎えました。
享年69。
最後まで精力的に藩政に尽くした――。
斉興については、そんな評価があっても良いかもしれません。
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【参考文献】
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
『国史大辞典』











