藤原定子

枕草子絵詞/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

なぜ藤原定子は自ら髪を切ったのか?一条天皇に愛され一族に翻弄された25年の生涯

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
藤原定子
をクリックお願いします。

 

一条天皇の皇子を産むも周囲の視線は厳しく

一条天皇による寵愛は衰えず、藤原定子はその後も再び懐妊。

長保元年(999年)、一条天皇にとって初めての皇子である敦康親王を産みました。

しかし、相変わらず、出家した身で再び参内したことや懐妊したことに対する周囲の視線は厳しいものでした。

藤原実資の日記『小右記』や藤原道長の『御堂関白記』には、出産に関する記述がほとんどないのです。

道長は全く触れず、実資にしても何とも素っ気ない記述。

「卯の刻に中宮(定子)が男子を産んだ。世に『横川の川仙(かわひじり)』という」

「横川の川仙」というのは、当時、風変わりな僧侶として知られていた行円のことです。

彼は“頭に仏像を戴き、鹿の皮を身にまとう”という、僧侶にしては奇特なファッション。

マリー・アントワネットはヘアスタイルの一環として頭にミニチュアの帆船を飾ったそうですが、なんだか似たようなものを感じます。

実資は前例のないことには厳しいタイプですので、出家姿での懐妊・出産というだけで眉をひそめていたことは間違いありません。

藤原実資
『光る君へ』でロバート秋山演じる藤原実資とは一体何者なのか?

続きを見る

そうは言っても”中宮の皇子出産”は皇室にとって最大の慶事です。

それでも道長の日記が無視するような真似をしたのは、定子の出産した11月7日に娘の藤原彰子が女御となっていたからでしょう。

彰子の入内以前ならともかく、道長が定子の皇子出産を喜ぶはずはありません。

書き留める気にならなかっただけでなく、「負けてなるものか」とばかりに策が巡らされます。

長保元年の末(新暦では1000年1月)、冷泉天皇の中宮だった昌子内親王が崩御しました。

冷泉天皇は「奇行があった」という理由で若いうちに位から降ろされ、昌子内親王は子供もないまま身位だけ保たれていたような状況でしたが、太皇太后とされていました。

その彼女が亡くなったということは、道長の兄・道隆が無茶振りして作り出した「4つの后」の椅子が一つ空いたことになります。

さっそく道長は、一条天皇に彰子の立后を打診すべく、天皇の側近である蔵人頭を務めていた藤原行成に意図を伝達。

行成は、一条天皇に彰子立后について進言したとされています。

その内容はいくつかありますが、定子に直接関係するところだけ抜粋すると、

「今の藤原氏出身の后妃たちは全員出家していて祭祀を務められないので、彰子様を立后することには問題がない」

というものです。

ここでも定子の衝動的な行動や、その原因である長徳の変(伊周・隆家の行動)が尾を引いているんですよね。

あるいは、定子の立后自体も道隆によるゴリ押しだったので、今さら反論できる状況ではない――こうして長保二年(1000年)2月、彰子が中宮になり、中宮だった定子は皇后と改められました。

しかし一条天皇による定子への寵愛は衰えません。

3月ごろに三回目の懐妊を迎えるのですが……。

 

定子の血は繋がったのか?

再び宿下がりをした藤原定子は長保2年12月15日(1001年1月12日)、第三子の媄子内親王を産みました。

しかし出産の際に後産が下りず、数日後に崩御してしまいます。

まだ数えで25歳の若さ。

彼女の崩御後、辞世の句といえる歌が三つ見つかりました。

最も有名なのは『後拾遺和歌集』哀傷の巻の最初にある、この一首でしょうか。

夜もすがら 契りし事を 忘れずは こひむ涙の 色ぞゆかしき

【意訳】夜通し契ったことを覚えていらっしゃるのであれば、あなたは私を恋しく思って涙を流すでしょう。その涙の色を知りたいものです

詞書(ことばがき・内容を説明するまえがき)によると、定子が崩御した後、御帳台の帷子(かたびら)の紐に手紙が結び付けられていて、その中に書かれていたといいます。

この歌は後年に編纂され、小倉百人一首の原型となった『百人秀歌』にも採られました。

手紙には、他にも二首の歌が収められていました。

知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも いそぎたつかな

【意訳】死出の旅路には誰一人知り合いもおらず心細いですが、今は急いで発たなければ

煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それと眺めよ

【意訳】火葬されないので煙や雲にはなれませんが、草葉の露を私と思って眺めてください

いずれも一条天皇に宛てての歌だと思われますが、後の2つは兄弟や子供たち宛と解釈しても良さそうですね。

その後、彼女の子供たち(脩子内親王・敦康親王)は定子の末妹・御匣殿に、媄子内親王は東三条院詮子(藤原詮子)に預けられました。

さらに御匣殿と詮子が亡くなった後は、敦康親王が中宮の藤原彰子に、両内親王は中関白家に引き取られたといいます。

一条天皇の意向を受けた彰子は、敦康親王を後押しするつもりでいたようですが……結局、彰子が二人続けて皇子に恵まれたため、后腹の皇子であるにもかかわらず皇太子になれません。

次女の媄子内親王は幼くして病死。

長女の脩子内親王だけは、独身のまま54歳まで長生きし、天寿を全うしています。

なお、敦康親王には一人娘の嫄子女王(げんしじょうおう)がいて、後朱雀天皇(彰子の次男)に入内し、二人の皇女に恵まれましたが、二人とも生涯未婚。

つまり、男系女系ともに定子の血を繋げた人はいないということになります。

内親王は基本的に

「生涯未婚」

「伊勢斎宮か賀茂斎院を務めた後に未婚を通す」

「降嫁」

「入内」

いずらかの道しかないので、致し方ないところですが。

定子の宮中における住まいは、登華殿と梅壺(凝花舎)のどちらか、あるいは両方だったとされています。

梅は春の訪れを告げる花であり香り高いことから、一条天皇最初の后かつ、自身の崩御後も色濃く存在感を残した定子にはピッタリのようにも思えます。

彼女が健在だった頃にそのような意図はなかったでしょうけれども……。

あわせて読みたい関連記事

◆ドラマや平安時代など全ての関連記事はこちら→(光る君へ

◆以下、名前をクリックすると各人物伝の記事へ飛びます

紫式部
まひろ
藤原為時
まひろ父
藤原惟規
まひろ弟
藤原宣孝
まひろ夫
藤原道長
兼家三男
藤原兼家
道長の父
藤原道兼
道長の兄
藤原道隆
道長の兄
藤原時姫
道長の母
藤原寧子
道綱の母
藤原道綱
道長の兄
高階貴子
道隆の妻
藤原詮子
道長の姉
一条天皇
66代天皇
藤原定子
道隆の娘
藤原彰子
道長の娘
源倫子
道長の妻
源雅信
倫子の父
藤原穆子
倫子の母
赤染衛門
女流歌人
藤原公任
道長の友
藤原斉信
道長の友
藤原行成
道長の友
藤原実資
ロバート
藤原伊周
道隆嫡男
藤原隆家
道隆四男
清少納言
ききょう
清原元輔
藤原頼忠
公任の父
安倍晴明
陰陽師
源明子
道長の妻
円融天皇
64代天皇
花山天皇
65代天皇
藤原忯子藤原義懐
朱仁聡
宋の商人
周明
宋の医師
三条天皇
67代天皇
藤原顕光
兼家の甥
藤原頼通
道長嫡男
藤原為光
忯子の父

◆配役はこちら→光る君へキャスト

◆視聴率はこちらから→光る君へ全視聴率

◆ドラマレビューはこちらから→光る君へ感想

コメントはFacebookへ

長月 七紀・記

【参考】
『国史大辞典』
『後拾遺和歌集』
倉本一宏/日本歴史学会『一条天皇(人物叢書)』(→amazon

TOPページへ

 



-飛鳥・奈良・平安, 光る君へ
-, ,

×