鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

戦国大名はどうやって戦国大名となった? 守護や国人・十八武家の成り立ち

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【○○の乱】や【✕✕の変】が続き、なんだかとっつきにくい室町時代。
その終盤となると途端にテンション上がりますよね。

そうです。
戦国時代です。

織田信長武田信玄毛利元就伊達政宗など。
個性に富んだキャラクターや激しい合戦譚は子供から大人までワクワクさせてくれるものです。

しかし、彼ら戦国武将も突然、降って湧いたように現れたのではなく、ここにも歴史の流れが見えます。

有力大名や国人たちは、いかにしてのし上がったのか?
名門はなぜ名門と呼ばれるのか?

今回は、守護大名と戦国大名に注目です。

 

言葉そのものは戦後に生まれた

守護大名」にせよ「戦国大名」にせよ。
これらのワードは、実は戦後に生まれた学術用語です。

明確なラインは定まっておらず、定義はフワフワしています。

もともとは鎌倉幕府にも室町幕府にも設置されていた【守護】が守護大名の語源です。

守護地頭の役割や違いがバッチリ分かる!なぜ頼朝は設置したのか?

鎌 ...

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鎌倉時代の守護・地頭は、朝廷から派遣された国守とうまくやっていくことも仕事のうちでした。
が、室町時代にもなると国守の力はほとんどなくなり、守護が国守の仕事も実質的に行っています。

これによって収入も軍事力もUP!
そもそもが武士ですから家臣団もおり、武力と経済力が伴った小国家みたいな組織となりました。

鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、室町幕府の力が相対的に弱く感じられる理由の一つですね。

力を得る代わりに守護の職務も増えますが、さほどの問題ではなかったようで。
このような状態になってから「守護」ではなく「守護”大名”」と呼ぶことが多くなる気がします。

しかし、あくまで建前上は「幕府に任命されて守護の地位を得ている」ポジションのため、将軍によっては色々と口と手を突っ込まれることもありました。
守護大名のほうでも、自分に有利になるよう権威を利用するため、次期将軍候補の後ろ盾になったり、婚姻関係を結ぶなど、政治的駆け引きをし始めますからドッコイドッコイですね。

ものすごくテキトーにいうと、藤原氏が皇室に対してやってたことを、特に近畿周辺の守護大名が足利将軍家にやっていた……という感じです。
こういうパターンは古今東西、どこでもよくある構図です。

 

国人とモメれば守護失格!?

しかし、守護大名は別の問題を抱えておりました。

「自国内の国人たちともうまくやっていかなければならない」のです。

国人とは、もともと地元に根付いた有力武士たちです。

一方の守護は幕府から任命されるヨソモノであり、当然、国人からすると
「おめえら、何も知らんくせに、勝手に色々と決めるんじゃねー!」
となりがちです。

当然ながら守護としても退けません。
「俺は正式なこの地域の主なんだから、俺に従わないヤツは武力行使すんど!」
と強気に出るケースもあります。

現代でいえば、
「中央省庁の上級官僚が地方の支所に赴任して、部下の大多数が現地住民であり、その中には地元の名士もいる」
そんな状態に近いですかね。

まぁ、現代の官僚の場合、圧倒的に中央省庁の方が偉いわけですが、この時代は、それほどのチカラがありません。

つまりモメる。
下手をすれば、国人に信用されない守護が更迭されることもありました。

だから守護の代替わりについては、守護大名家の家臣だけではなく、国人の意向が取り入れられたりして、幕府も守護も国人も(少なくとも表向きは)穏便に済ませようとするのがスタンダードでした。

 

地元を離れていたら守護代に取られていたでござる

幕府の方針を決める会議に参加するなど。
守護は、中央の政治に関与することもありました。

そのため守護本人は京都に住み、国元のことは【守護代】や守護大名家の重臣・親戚に任せる――というパターンも珍しくありません。

15世紀には、
・鎌倉公方の支配地域10カ国
・九州探題の管下11カ国
・陸奥・出羽
以外の守護21家が将軍御所の周りに住んでいた、なんて話もあります。

これが守護家にとっては良くない選択でした。
守護代が地元でチカラを蓄え、実質的領主に成り上がっていくのですね。

かくして守護大名たちは、戦国時代を迎えると栄枯盛衰の差が大きくなっていきます。

・守護代や重臣、あるいは国人に下剋上されて没落する
・自らの力を強めて戦国大名化する

こうした地道な勢力争いの末に生き残ったのが戦国大名であり、その成り立ちは今言った通り、主にパターンに分類されます。

守護大名から戦国大名へ

武田家・今川家・佐竹家・細川家・六角家・京極家・北畠家・大内家・大友家・島津家

守護代やその一族から

上杉家・織田家・尼子家・朝倉家・三好家

国人から

伊達家・松平(徳川)家・浅井家・毛利家・長宗我部家

守護・国人の家臣から

後北条家・斎藤家

なんだか楽しくなってきましたね( ^ω^)

この先は、何時間掘り下げても面白いネタばかりで尽きることがありません。いくつかの代表的な大名家の成り立ちを見て参りましょう。

それぞれの家について、ご先祖様や戦国時代までの流れをもう少しだけ詳しくまとめました。

受験ではそれぞれの家の成り立ちまで覚える必要はありませんが、以下の家についてなんとなく覚えておくと、戦国時代や江戸時代の大名家が少し面白くなるかもしれません。

※織田氏・松平(徳川)氏・後北条氏・斎藤氏は別の機会に

まずは【守護大名→戦国大名】のパターンです。

 

今川氏

足利氏の三代目・義氏の孫である国氏。
その父・長氏より三河国幡豆郡今川荘を与えられ、今川氏を名乗ったのが始まりです。

今川国氏の孫である今川範国が南北朝時代足利尊氏について戦功を立て、遠江・駿河両国の守護に任じられ、東海道の要という立場を確立します。

また、範国の次男・今川貞世は、侍所頭人や九州探題などの要職も経験するのでした。
さすがは将軍家に連なる名門ですね。

今川氏は、特に大きな問題もなく家が続き、九代・今川氏親のときには斯波氏から遠江を奪って勢力を拡大します。

しかし、氏親の長男だった今川氏輝が早くに亡くなったため、次男の今川義元がお家騒動の末に家督を継承。

あの【桶狭間の戦い】で織田信長に敗れ、義元の息子・今川氏真の代になると、戦国大名としての今川家は滅亡しました。その後は徳川家康に庇護され、子孫は江戸時代まで続いています。

今川氏真/wikipediaより引用

「名を捨てて実を取った」
そう考えれば、氏真も暗愚とはいえない気がします。戦や外交、統治に向いていなかったのは、もう否定しようがありませんが。

 

細川氏

足利氏の祖・足利義康の長男である足利義清。
さらにその孫である義季が、三河国の額田郡細川郷(愛知県岡崎市)に移ったことから細川氏を名乗りました。

鎌倉時代末期には、足利義季の曾孫の代で和氏・頼春・師氏兄弟と、顕氏・定禅・皇海兄弟が、足利尊氏に従って軍功を挙げ、多くの国の守護職や重職を得ています。

正平七年(1352年)には細川頼春が戦死。
さらには足利顕氏が病死したのち、頭角を現わしたのが細川和氏の嫡子・細川清氏でした。

清氏は二代将軍・足利義詮の代で戦功も挙げたのですが、増長しすぎて義詮に疎まれ、南朝方へ帰順(という名の家出)をしてしまいます。
その後、清氏は頼春の嫡子であるイトコ・細川頼之と讃岐で戦い、敗死しました。

頼之はこれまでの戦功と清氏討伐の戦果により、義詮の遺言によって室町幕府管領の職を与えられます。

そのため、頼之は幼い三代将軍・義満を守り立てながらも出過ぎることはしませんでした。
一時は政争に敗れて中央から四国へ引っ込みますが、やがて復帰していますしね。

頼之には自分の子供がいなかったため、弟・頼元を養子として家を継がせました。

この時点で細川氏は【摂津・丹波・讃岐・土佐】四ヵ国の守護を世襲する大きな家になっています。

嫡流である【京兆家】
庶流である【阿波守護家・備中守護家・淡路守護家・和泉半国守護二家】など、藤原氏にタメを張りそうなくらいの規模。

細川氏は子だくさんな人と子供に恵まれなかった人の差が激しいのですが、やっぱり前者のほうが多かったみたいですね。

しかし、応仁の乱で東軍の総大将だった細川勝元の息子・細川政元が【空を飛びたい】がために、清い身を保ったことで家が真っ二つに割れ、細川氏全体の力がガタ落ちしてしまいます。

細川政元/wikipediaより引用

その中で、和泉半国守護の家系である細川藤孝(幽斎)・細川忠興親子が巧みな処世術と実力で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代を生き残り、江戸時代を生き抜いて今に至るわけです。

政元が普通に子供を作っていたら、日本人の中で細川家の血が流れている人の割合が高くなっていたかもしれません。

 

武田氏

言わずと知れた武田信玄の武田氏。
その祖はいかなる経緯で甲斐に根を張ったのか?

河内源氏二代目・源頼義の孫であり、源頼光の子である源義清。
その義清が、常陸国吉田郡武田郷(茨城県勝田市)に定着して「武田冠者」と名乗ったことから武田氏となりました。

常陸を追われて甲斐に落ち着いてから、武田氏の歴史が本格的に始まります。

初代は武田信義。

【甲斐武田氏の初代】であり、源義光からの【甲斐源氏で考えると4代目】になりますね。

その信義は十二世紀末、治承・寿永の乱(源平合戦)で源頼朝につき、遠江守に任じられました。
親戚には信濃守・小笠原長清がおり、全体として甲斐源氏が鎌倉からの北西守備を請け負うようなポジションになります。

しかし、頼朝自身が、武田氏を含む甲斐源氏の勢力拡大を危惧し、彼らを冷遇し始めます。
信義は養和元年(1181年)に、「後白河法皇が頼朝追討使に任じた」という風聞が立っていたので仕方ない面もありますが……。

このときは起請文(「神に誓って悪いことはしてません」という内容の書状)を出して何とかなりますが、その後、信義の息子・武田忠頼が暗殺されたり、頼朝に兵を出されたりして散々な扱いを受けています。

頼朝さんも、この時点で、まだ平氏が片付いてないんですよ。
なのに、身内を疑ってどうする(´・ω・`)

信義の子・武田信光は頼朝に信頼されており、安芸の守護も兼任。
以降の子孫たちは甲斐守護と安芸守護を世襲し、また、甲斐の荘園における地頭職も、武田氏が多数を占めるようになりました。

信玄の時代も、甲斐国内の至るところに親類が根ざしています。

武田信義/wikipediaより引用

信光の子・武田信政以降の四代については記録が乏しく、働きぶりがよくわかっていません。

信光が【承久の乱(承久三年=1221年)】のしばらく後まで当主をやっていたので、それ以降の代は鎌倉での政争に巻き込まれずに済んだものと思われます。
他の鎌倉幕府重鎮が、北条氏に粛清されまくった事を考えれば、「手紙がないのは元気な証拠」ならぬ「記録がないのは平穏な証拠」といえなくもない……ですかね。

鎌倉時代末期~南北朝時代の当主・武田信武は足利尊氏に従って活躍し、あらためて甲斐と安芸の守護に任じられました。

このため、彼は【武田中興の祖】とされています。

信武の長男・武田信成は、父の転戦中に甲斐の守護代として留守を守り、次男の武田氏信は安芸国守護を継承、【安芸武田氏】の祖となりました。
源氏にしては珍しく兄弟間で平和に役職が分担されてますね。

※なお、この安芸武田氏から若狭武田氏(初代は武田信栄)も始まっております

地勢上、鎌倉幕府とも室町幕府とも物理・心理両方の面で密接ではなかった武田氏ですが、応永二十三年(1416年)に起きた【上杉禅秀の乱】から少し情勢が変わってきます。

ときの当主・信満が禅秀(氏憲)の妻の兄であったことから、鎌倉府内の政権抗争に巻き込まれてしまったのです。
武田は禅秀方につき、すぐさま鎌倉公方・足利持氏に敗れて本国の甲斐まで攻め込まれ、武田信満は山梨郡の木賊山(とくさやま・現在は天目山・東山梨郡大和村)で自害しました。

その後、信満の弟、および長男・武田信重は、反武田氏を掲げる勢力に押され、近畿や高野山まで流れていきます。

一時期、甲斐を離れていたんですね。

やっと地元に戻れたのは、室町幕府六代将軍・足利義教の庇護があったから。
将軍の引き立てがなければ、甲斐武田氏はそのまま歴史に埋もれていたかもしれません。そうなれば信玄も生まれていなかった可能性が……。

武田信重の子・武田信守は早くに亡くなり、その子・武田信昌が九歳で家督をつぐと、跡部景家が守護代として専横を働きました。

信昌は、成人するのを待ち、寛正六年(1465年)に跡部一族を滅ぼして権利を回復。
しかしその信昌も、明応元年(1492年)に隠居して家督を長男・武田信縄に譲ったにもかかわらず政治に口を出しまくり、次男・信恵をえこひいきしたために兄弟間で争いが勃発してしまいます。トーチャン勘弁して!

影響は小さくなく、甲斐の国人層も真っ二つに分かれてしまい、国内は荒れ放題になるのでした。

結局、信昌が永正二年(1505年)に没すると、信縄もその二年後に亡くなり、信縄の長男・武田信虎が十四歳で家督を継ぎます。

信虎とは、信玄のトーチャン。ご存じの方も多いかもしれません。

このあたりから今川氏や後北条氏に介入されたり一戦交えたりが常態化し、信玄や勝頼の時代に続くわけです。
その後の話は有名ですし、大河ドラマでも何回もやってますので、今回は割愛しておきます。

よろしければ以下の別記事をご参照ください。

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佐竹氏

河内源氏の二代目・源頼義の孫・義業(源義清の兄)を先祖としています。
武田信玄と、だいぶ前の根っこが同じというワケですね。

佐竹氏を名乗るようになるのは義業の子・昌義の代からです。

時期としては12世紀前半。
平清盛や源義朝(頼朝のトーチャン)が生まれるちょっと前くらいの話です。
そこから半世紀程度で佐竹氏は常陸南部~下総をシマにしたといわれています。仕事が早いですね。

源平合戦では平氏方についたため、頼朝に追討されて一時所領を失いました。
が、奥州藤原氏との戦いで頼朝軍に参加、その恩賞として常陸に幾ばくかの領地をもらったようです。

その後の常陸での活動は定かではなく、美濃や伊勢で佐竹氏が活動していたらしきことが記録されています。
って、どういうことなのよ(´・ω・`)

鎌倉幕府の滅亡後は足利尊氏に従い、常陸守護職を与えられて平安時代の所領をほぼ回復、さらに陸奥南部から常陸中央部まで進出していきました。

なんだか順調なように見えますが、この先は、家が断絶しかけたり、あろうことか藤原氏系である上杉憲定の子・竜保丸(のち義人)を養子にしたりして家中の混乱を招いたりもしてします。

戦国大名として有名な義重・義宣の代は比較的安定していました。
関が原の際はコッソリ西軍寄りになっていたおり、徳川家康の怒りを買って出羽へ国替え。

それ以降は出羽に落ち着き、明治時代には侯爵にまでなりました。
2018年現在の秋田県知事が、佐竹氏の末裔として有名ですね。

佐竹義宣/wikipediaより引用

 

六角氏と京極氏

どちらも宇多源氏の血を引く佐々木氏の一族です。

鎌倉時代に、五代目佐々木信綱の三男・佐々木泰綱が正室腹だったため跡継ぎになりました。
が、他の三人の兄弟がこれに不満を述べたため、鎌倉幕府が仲裁に入り、四兄弟で分割相続・独立。それぞれ大原氏・高島氏・六角氏・京極氏の祖となりました。

この時点で枝分かれしている上に、力も削がれてしまっています。

泰綱が嫡流なのに、なんで名字が「佐々木」じゃないのか?
というと、六角氏としての初代である泰綱が、京都の六角東洞院というところに屋敷をもっていたからです。よくある話ですが、ややこしいですね(´・ω・`)

京極氏は「蛍大名」で有名な京極高次が後に出てくる家です。
なぜ蛍大名かというと、高次の妹が秀吉の側室となり、また、自身の妻が浅井三姉妹・初であり、彼女らのおかげで出世した――という意味でヒソヒソ言われちゃったんですね。名門ゆえに僻まれたと申しましょうか。

京極高次/wikipediaより引用

この京極家は、南北朝時代に足利尊氏に重んじられたため、佐々木氏の惣領の座を与えられ、子孫の代になって「四職」の一員ともなりました。
四職とは、室町時代の要職である侍所の長官を務める家柄で、他には赤松氏、一色氏、山名氏がおります。

いずれも嘉吉の乱やら応仁の乱やらで聞いたことのある名前ばかりですね。

対する六角氏は、南北朝時代には後醍醐天皇方だったため、後に尊氏に降ったものの、惣領の面子は失ってしまっています。
それが影響して室町時代にはあまり良いことがなく、国人たちにも背かれて、勢力を拡大することができませんでした。

血筋的には名門。
かつ近江という要所の大名なのに、戦国時代にあまり名前が出ず、織田信長の踏み台みたいな扱いをされてしまうのも、古い因縁のせいだったんですね。

ちなみに、信長に気に入られて出世した蒲生氏郷の近江蒲生氏は、六角氏の客将でした。
優秀な家臣のほうが生き残る――というのはこの時代のあるある。
まぁ、その蒲生家も江戸時代の初期に断絶してしまっていますが……。

 

北畠氏

村上源氏の系統で、もとは公家です。

源通親の孫・中院雅家から北畠氏を称していて、そのひ孫である四代・北畠親房が後醍醐天皇に信頼され、天皇の薨去後の南朝を主導しました。
親房は『神皇正統記』の著者としても有名ですね。

北畠親房/wikipediaより引用

親房の三男で五代・北畠顕能の頃になると、延元三年=暦応元年(1338年)に初めて伊勢守に叙任され、しばらく南朝方で戦い続けます。
そして北畠教具の代から室町幕府に仕えるようになりました。

教具の「教」は当時の将軍である六代・義教からの偏です。こうしてみると、義教っていろいろなところで出てきますね。

戦国時代を通しては、現在の津市と松阪市の中間あたりに注ぐ雲出川以北には北畠氏の力がほぼ及びませんでした。
ただし、朝廷から正式に任じられた国司の家柄だけあって、南半分地域では勢力が安定しております。

しかし、北畠具教の時期になって織田信長の侵攻が本格化し、婿養子戦略などによって、戦国大名及び伊勢国司家としては滅亡することになります。

 

大内氏

「大内」という名字を名乗った一族はたくさんいます。
そのうち戦国大名の大内氏(周防大内氏)を指すことが多いので、ここでもそこにスポットを当てましょう。

家紋「大内菱」が幾何学模様と花の図案化でカッコいいんですよね。

彼等の出自というのは、百済の王族・琳聖太子が周防国に逃れ、聖徳太子に謁見した後、大内県と多々良の姓を与えられた……なんてありますが、それはさすがに……^^;
もう少し現実的な説としては、製鉄技術を半島から持ってきた渡来人の末裔ではないか、という見方があります。

12世紀半ばから周防に根付いて以来、ずっと鎌倉幕府の御家人であり、六波羅評定衆も務めたことがあるので、由緒正しい一族であったことは間違いありません。

九代・大内弘世の代、南北朝時代初期になると中国地方西部に勢力を広げ、山口を本拠としました。

しかし十代・大内義弘は力を持ちすぎて三代将軍・足利義満に睨まれ、応永の乱で断絶寸前まで追い込まれてしまいます。
いろいろあった後、義弘の弟・盛見が許されて家を再興できました。

そこからは怒涛で短い栄光期を迎えます。

戦国時代に当主となった十五代・大内義興が幕府の管領代になり、その子で十六代・大内義隆が、周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前七ヵ国の守護を兼ね、西国随一の勢力を誇るようになるのです。

しかし!

陶晴賢さんに殺されてしまう大内義隆/wikipediaより引用

天文二十年(1551年)に家臣の陶晴賢が(痴情のもつれが極まって)義隆と一族を攻め滅ぼしてしまったことから、一気に凋落。
晴賢が、義隆の甥・大内義長を担ぎ上げたものの、足場固めに成功しつつあった毛利元就との【厳島の戦い】で敗れ、その後間もなく大内氏自体が滅んでしまいます。

大内氏はその出自のためか、歴代の朝鮮政権とも積極的に付き合い、貿易で巨額の富を築いていたことも特徴の一つです。
それを元手に学問・芸術を奨励し、山口の町は小京都とも呼べる姿になっていました。

また、キリスト教の宣教師や、京から落ち延びてきた公家を積極的に保護しています。
日本で最初に「メガネ」をかけたのが大内義隆であるというのも、戦国ファンには割と有名な話ですね。

 

大友氏

初代・大友能直(よしなお)は相模出身。
父親が郷司(在地の官僚)であり、能直は後に中原親能(藤原親能)の養子となったことから始まります。能直から見た親能は、母の姉婿(義理の伯父)にあたります。

親能は源頼朝の重臣で、弟が毛利氏の先祖である大江広元なので、大友氏と毛利氏はいろんな意味で因縁があるといえます。

それ以前の血統については、二つの説があります。

一つは藤原秀郷の子孫だというもので、もう一つは頼朝の落胤という説です。
どちらかというと前者のほうが有力です。って、そりゃそうだ。

また、能直の母の実家・波多野氏は相模の有力な豪族であり、源頼朝の父・源義朝が波多野氏の娘との間に源朝長(※)をもうけていました。
血筋についてはまだ定説がないものの、立場としては重要な位置にいたといえます。

頼朝は九州の守護として、大友・島津・少弐といった当時の新興勢力をあてました。
おそらくは頼朝から見て、遠隔地を任せるに値すると判断した人を選んだのでしょう。九州は朝廷のお役所である大宰府がありますから、京の事情もある程度わかるような人、という条件もあったのかもしれません。

それでも初代・能直と二代・親秀は九州に定着しておらず、三代・大友頼泰の代から豊後に下向しました。
別に仕事をサボっていたわけではありません。
当時の大友氏は頼朝との信頼関係が基盤だったため、うかつに鎌倉を離れると地位や名目をまるっと失うおそれがあったからだと思われます。

大友能直/wikipediaより引用

頼泰の代には元寇の危機にさらされ、名実ともに下向の理由ができました。
そこで頼泰は元寇で戦功を挙げ、大友氏の武名を高めて基盤を作り上げます。

以降、大友氏とその分家は豊後に定住し、領内の豪族に子供を養子入りさせるなどして、勢力を強めていきました。

大友氏の分家に始まる家としては、入田氏・野津氏・松野氏・立花氏などがあります。

鎌倉幕府の祖・頼朝の引き立てで九州の名門となった大友氏ですが、後醍醐天皇による【元弘の乱】においては最初から倒幕側。
六代・大友貞宗が、少弐貞経らとともに鎮西探題の北条英時を滅ぼしました。

建武の新政の後は、足利尊氏が近畿での戦いに敗れ、九州に落ち延びてきたときも、比較的早い段階で尊氏方についています。
しかし、その後九州では南朝方が優勢になったため、難しい決断を迫られました。

そこで九代当主・大友氏継は一計を案じます。

自分は南朝方につき、家督を弟の大友親世に譲って十代当主とし、そのまま北朝方につかせたのです。
これで大友氏自体は生き残れます。

ただし、血筋は氏継系と親世系に分裂することにもなってしまいました。いつの時代も難しいものですが、中世の殺し合い激しいときにはなおさら困難という感じがしますね。

室町時代が少しだけ安定してくると、幕府から派遣されてきた九州探題とは、一定の距離を置いていたようです。
そして応安三年(1370年)。
九州における南朝勢力・征西府を討伐するためとして、足利幕府から今川貞世(今川了俊)が派遣されてきていました。

親世は貞世に接近して所領を拡大。
九州から南朝方が駆逐されると、今度は大内義弘とタッグを組んで貞世に関する讒言で失脚させます。
まさに使い捨て……ひでぇ話ですが、悲しいけどこれ戦争なのよね……。

その後、大内氏とも少弐氏とも戦国時代を通して戦ったり、氏継系と親世系が交互に当主になったり、その流れで滅亡寸前まで行ったりして時代が進みます。

そして二十一代当主が、キリシタン大名として有名な大友義鎮です。
出家後の大友宗麟ほうが有名ですかね。

大友宗麟/wikipediaより引用

立花道雪など、特に優秀な家臣が多かった時代ですが、キリスト教を重んじすぎたのがいけなかった。
家臣の大多数である八幡神や、仏教への信仰が厚い層との軋轢を生んでしまいます。
さらには、早くに息子・大友義統(のちに吉統)に家督を譲って二十二代当主にしたにもかかわらず、二元政治状態に。

つまり、宗麟は
「宗教」
「世代交代」
という二つの面で、家中分裂のキッカケを作ってしまったのです。

そんな状態ですから、龍造寺氏や島津氏との合戦でも大敗してしまい、国人たちは一斉に反旗を翻すようになりました(ノ∀`)アチャー

なんとか挽回しようとしたものの、自力では抗いきれず、宗麟は関白となった豊臣秀吉に臣従して生き残る道を選びます。

おかげで豊後一国は安堵されました。
しかし、中心の一人・立花宗茂が秀吉の目に留まって独立大名となったことで、力を削がれています。

また、宗麟の死後、大友義統は【文禄の役】で敵前逃亡をやらかし、文禄二年(1593年)に秀吉から改易を申し付けられてしまいました。
渡航前に家督を嫡男・大友義乗に譲っていたため、ギリギリ家は残りましたが……。

これにより、後の【関が原の戦い】では吉統が西軍総大将・毛利輝元の支援で挙兵、豊後に侵攻しています。
東軍の細川忠興などに与えられていた旧大友領回復を図ったのです。

しかし、ここで立ちはだかったのが黒田官兵衛こと黒田孝高(如水)。
官兵衛にコテンパにされ、大名としての再興の芽は潰えてしまいました。

幸い、義乗が若いときから人質として江戸におり、秀忠の近侍をしていたため、そのまま旗本として幕府に直接仕えるようになります。

その後は一時断絶しかけましたが、義乗の異母弟・松野正照が熊本藩士になっていたため、その子・義孝に家門再興が許可。
高家(儀式や典礼を担当する家)として存続しています。

※源朝長……頼朝のすぐ上の異母兄。松田冠者とも。平治の乱で敗れた後、関東へ落ち延びる途中で傷が悪化して死亡した

 

島津氏

初代の島津忠久は、藤原氏系の公家である近衛家の下家司・惟宗氏(これむねうじ)の出身とされています。

京で頼朝の知遇を得てから、治承・寿永の乱において戦功を挙げ、その後、薩摩・大隅・日向の南九州三国の守護兼惣地頭となりました。

忠久の母・丹後内侍(たんごのないし)が比企氏の出身だったため、建仁三年(1203年)の【比企氏の乱】に連座して三カ国の守護職を失っています。
後に薩摩守護だけ許されましたが、大隅・日向回復は島津氏の悲願となりました。

また、承久三年(1221年)には信濃国太田荘地頭職、および越前国守護職に任じられています。
これがキッカケで、島津氏の分家筋に信濃や越前の系統ができます。

島津忠久/wikipediaより引用

二代・忠時(忠義)は、伊賀や讃岐の地頭職を受け、鎌倉に常住する御家人でした。
九州から出ていたんですね。

三代・久経は、元寇に備えるため、幕府の命令によって九州に行ってから、代々、九州に住むようになります。
この辺は大友氏の流れと似てますね。

そして五代・貞久になると、足利尊氏と後醍醐天皇の要請で少弐氏・大友氏とともに挙兵。
鎮西探題・北条英時を討ち取りました。

その恩賞として大隅と日向の守護職に復帰しましたが、後者についてはのちに別の家に取って代わられております。
南北朝時代には将軍方(北朝方)の一員として戦いました。

貞久は、嫡男・宗久を早くに失っていたため、三男・師久(総州家の祖)に薩摩国守護職を、四男・氏久(奥州家の祖)に大隅国守護職を譲って存続を図りました。
全く違う地域の名前がついているのは、師久が上総介、氏久が陸奥守に任じられていたからです。官位あるあるですね。

南北朝時代を乗り切った後、総州家と奥州家は一時期不和になりましたが、比較的早いうちに(少なくとも表向きは)解決できたため、尾を引かずに済みました。

学問を好んだ十一代・島津忠昌の頃、桜島の大噴火などによって領内が困窮。
内乱が起きた末に悩み抜いて自害してしまっています。勇猛なイメージのある島津氏では珍しく、ナイーブな人だったようです。

忠昌の長子・島津忠治が十二代当主となりますが、内乱を押さえきれず、その弟の十三代島津忠隆や、十四代・島津勝久も同様で、島津本家は弱体化の一途を辿ってしまいます。

こうなると一気に滅亡までか!
否、そこは後に「暗君なし」と呼ばれる島津家です。

島津氏の分家だった伊作家の忠良が、ここで頭角を表します。
「日新斎」の名で有名な人ですね。
同じく分家である薩州家との闘いの結果、忠良とその息子・島津貴久が勝ち、同家を立て直します。

貴久は戦国時代で有名な「島津四兄弟」の父です。

一応、四兄弟とは
・島津義久
島津義弘
島津歳久
・島津家久
になります。

次は上杉氏を見てみましょう。
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