皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安

天皇后妃の法則|入内した定子が中宮になるのはなぜマズかった?

2024/04/09

大河ドラマ『光る君へ』で藤原定子の処遇を巡り、その父・藤原道隆と、弟である藤原道長らが揉める場面がありました。

「定子を中宮とする」

そう宣言する道隆に対し、そんなことは不条理で前例もないと抗う道長。

二人のバトルからして、なんだか只事ではない雰囲気になっていましたが、あれは一体なんだったのか……?と疑問に思われた方もいたようです。

そこで今回は天皇の后妃(こうひ)についてスッキリさせたいと思います。

「皇后様は偉い!」

そんな印象はおありかと思うのですが、

「いったい中宮とは何なのか?」

「源氏物語で印象的だった御息所は?」

「他にも女御とか色々あるよね?」

「彼女らの呼び方の差は?」

と様々な疑問が湧いてきたりもします。

そこで天皇の后妃について【皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院の特徴】をスッキリまとめてみました。

 


◆皇后

言わずと知れた天皇の正式な伴侶です。

といっても自動的になれるわけではなく、立后(冊立)の儀式を経て、初めて「皇后」と呼ばれるようになります。

奈良時代に定められた大宝律令では

「天皇の后妃は皇后・妃二人・夫人三人・嬪四人」

となっていましたが、意外にも皇后の出自については特に規定がありませんでした。

ただし、妃については「四品以上の内親王」とする規定があったため、皇后も内親王から選定されるのが前提でした。

ぶっちゃけた言い方にすると「天皇の正式な伴侶なんだから、皇族から選ぶに決まってんだろjk」(※イメージです)という感じですかね。

ちなみに律令下での内親王とは、天皇の娘(皇女)と天皇の姉妹にあたります。

四品とは、親王と内親王に与えられる位の一種で、この仕組みを品位(ほんい)と言います。藤原氏などの貴族が受け取る「位階」の皇族バージョンですね。

しかし、こうした仕組みも徐々に変化して参ります。

聖武天皇が、藤原不比等の娘・光明子を皇后に立てたことがきっかけで、皇族以外からも皇后に立てられる例ができました。

やっぱり藤原氏ですね。

なんせ藤原氏と皇族でその9割以上を占めており、そのほかには「源・平・橘」各氏の出身が一人ずつというものでした。

また、第二十五代・武烈天皇の皇后とされる春日娘子(かすがのいらつこ)は出自が完全に不明だそうで。

武烈天皇自体が実在したかどうかアヤシイ存在ですので、大きな問題ではないのですが、今後、武烈天皇の実在や娘子の出自に関する史料が出てきたら、まず間違いなく国宝モノでしょうね。

御物(ぎょぶつ・皇室の財産とされる物で、国宝とは別格)扱いになって、封印されるかもしれませんが。

また、天皇の妻ではない「皇后」もいました。

この辺が、皇后という表記を非常にややこしくするものでありましょう。

天皇の姉などに皇后と同じ待遇を与えたことによって、そう呼ばれました。名誉職みたいなものですね。

他にも立后前に薨去した妻が皇后の位を贈られることもありましたが、これらはレアケースという認識で良いかと。

また、伴侶である天皇が崩御し、皇后が生存している場合は「皇太后(こうたいごう)」と呼ばれることがあります。

さらに世代が進み、皇后の孫にあたる人が天皇になった場合は「太皇太后(たいこうたいごう)」となりますが、必ずしも皇后だった女性が皇太后や太皇太后になるとは限りません。

後述する「女院」となった場合は「◯◯院」と呼ばれていました。上皇や法皇のことも「◯◯院」と呼びますし、建造物の場合もあるので、実にややこしいところです。

前後の文脈で判断できますが、読むのがめんどくさい場合は、まず天皇の一覧から「◯◯院」の「◯◯」の部分を検索するのがいいでしょう。

天皇の一覧になければ、女院の可能性が高くなるかと思います。

 


◆中宮

一条天皇と藤原定子・藤原彰子の話題で、特によく出てくる単語であり『光る君へ』でも話題ですね。

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元々は皇后の住まいを「中宮」と呼び、そこから転じて皇后の別称となりました。

皇后のお世話をする部署を「中宮職」というのですが、これも皇后の住まいの名からきています。

そして定子に注目しましょう。

彼女が入内して女御になったとき、すでに中宮のポジションには藤原遵子(円融院の妻で藤原公任の姉)がいました。

道隆は、その遵子を皇后とし、空いた中宮のポストに定子をねじこんだのです。

さらに兄の道隆に続き、藤原道長が娘・彰子を一条天皇にゴリ押しすると、以降、たびたび二人の皇后が並立されるようになりました。

そこで、先に入ったほうを「皇后」、後に入ったほうを「中宮」と呼ぶのが定着します。

これはただの区別であって、身分や待遇に上下はありません。

むしろ、二人の妻の上下をつけないために「皇后・中宮」の名称を用いた……というほうが近いかもしれませんね。定子と彰子もそうですし。

一つものすごくややこしいのが『枕草子』などにあります。

皇后になった後の藤原定子を「中宮様」と呼んでいることがありますが、これは上記の通り「皇后の住まい」のことも指しますので、不自然な話でもないのが面倒なところです。

明治時代に昭憲皇太后(当時は皇后)が立てられた際、天皇の正妃は「皇后」で統一されたため、それ以降「中宮」は使われなくなりました。

この辺は時代の変化が出ておりますね。

 

◆女御(にょうご)

平安時代に生まれた后妃の名前の一つで、最初は四位・五位などの低い身分とみなされていましたが、時代が進むと三位の女御もみられました。

さらに摂関家の姫が女御になることが定着してからは、その中から皇后を選ぶ慣習ができます。

『源氏物語』の最初の話・桐壺の巻冒頭にこんな一文があります。

いづれのおほん時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひける中に

【意訳】どの帝の御代であったか、女御や更衣が大勢いる中で

この部分から、女御には定員がなく、複数が同時に存在するケースも珍しくなかったことがわかりますね。

なお、女御や更衣の場合、住んでいる建物の名称から「弘徽殿(こきでん)の女御」や「承香殿(しょうきょうでん)の女御」などと呼ばれました。

弘徽殿は天皇の住まいである清涼殿に最も近いため、皇后の第一候補とも呼べる立場の女御が入っていたようです。

余談ですが、源氏物語における「弘徽殿の女御」は二人います。

一人は光源氏の兄・朱雀帝の母でキツイ感じの女性、もう一人は前者の姪にあたる頭の中将の娘です。

どちらも物語の中ではやや不遇な立場で、前者はもっと遠い桐壺に住んでいた光源氏の母・桐壺の更衣に帝の寵愛を奪われ、後者は冷泉帝の皇后の座を巡って光源氏の養女・梅壺の女御(=秋好中宮)と対立し、敗れています。

こういった細かいところに、紫式部の絶妙なさじ加減がうかがえますね。

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また、本人の住まいではなく、父親の屋敷がある場所の名を取って「堀川の女御」「高倉の女御」などと呼ぶ場合もありました。

中宮とともに女御の名も明治維新で廃止されたため、やはり現代では使われていません。

 


◆御息所(みやすどころ)

后妃の中では意味が幅広い言葉で、元々は天皇が休息する場所のことでした。

そこから転じて、天皇の御寝所に侍る女性のことを指すようになります。

さらに、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す場合もみられます。これは、源氏物語の六条の御息所などがわかりやすいかと。

さらにさらに……天皇の生母を「大御息所」と呼んだり、皇太子妃・親王の妃を御息所ということもあるので、「御息所」が出てきたら、血縁関係をおさらいするのが良いでしょうね。

 

◆更衣(こうい)

女御よりも低い身分の妃で、天皇の着替え(更衣)の世話をする役目であることからこう呼ばれました。

天皇の寝所に侍ることもあったようです。

だいたいの更衣は五位だったようですが、たまに四位になる者もいました。

まれに、天皇の寵愛を受けて女御や中宮にまで登ることもあったといいます。

後宮は「政治の思惑が全て」と思われがちですが、愛が勝つこともあったんですね。

最終的にどうなるかはケースバイケースですが。

 

◆女院(にょいん)

天皇の母后をはじめ、太皇太后・皇太后・皇后、内親王、女御などに「院号」が宣下(せんげ)されると「女院」となります。

正暦二年(991年)に、一条天皇の生母である皇太后・藤原詮子(せんし/あきこ)が出家し、「東三条院」となりました。

これにより彼女は上皇に準ずる扱いとなり、以降の女院も同様に扱われました。

東三条院をはじめ、平安時代には宮廷内外に勢威をふるった女院が他にも多数おります。

特に平安末期~鎌倉時代には、未婚の皇女が女院号宣下と共に広大な所領を持ち、皇室の藩屏となっていました。皇室の収入源と立場を守ったわけです。

なお、最後の女院は、江戸時代の末に孝明天皇の生母だった藤原雅子で「新待賢門院」の号を賜りました。

ちなみに院号を宣下された方たちが、何人おられるか、ご想像つきます?

その数、なんと107人(!)

数が数ですから、全体的には「皇族の女性のよくある呼称」という認識で良いかもしれません。

以下に有名な女院の一部をご紹介しましょう。

東三条院 藤原詮子:一条天皇の生母

上東門院 藤原彰子:一条天皇の中宮、後一条天皇・後朱雀天皇の生母

待賢門院 藤原璋子:鳥羽天皇の中宮、崇徳天皇・後白河天皇の生母

美福門院 藤原得子:鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の生母

上西門院 統子内親王:崇徳天皇・後白河天皇の同母きょうだい

建春門院 平滋子:高倉天皇の生母

建礼門院 平徳子高倉天皇の中宮、安徳天皇の生母

青綺門院 藤原舎子:後桜町天皇の生母

女院の名前は、主に「住まい」や「縁のある地名」、あるいは「内裏の門の名前」から取られております。

彼女らの特徴としては、おおむね「当時の天皇の最も身近な血縁者」という点が共通しています。

時候の挨拶はもちろん、婚姻や政治的な相談などもよく行われていたのでしょうね。

上西門院は、保元の乱平治の乱でとばっちりを食って、実に気の毒ですが……(´・ω・`)

后妃とそれに関連する主な呼称は、以上となります。

なお、彼女たちに仕える女官たちは、以下の記事でご覧ください。


参考文献

国史大辞典
後宮/Wikipedia
内侍司/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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