大河ドラマ『光る君へ』で藤原定子の処遇を巡り、その父・藤原道隆と、弟である藤原道長らが揉める場面がありました。
「定子を中宮とする」
そう宣言する道隆に対し、そんなことは不条理で前例もないと抗う道長。
二人のバトルからして、なんだか只事ではない雰囲気になっていましたが、あれは一体なんだったのか……?と疑問に思われた方もいたようです。
そこで今回は天皇の后妃(こうひ)についてスッキリさせたいと思います。
「皇后様は偉い!」
そんな印象はおありかと思うのですが、
と様々な疑問が湧いてきたりもします。
そこで天皇の后妃について【皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院の特徴】をスッキリまとめてみました。
◆皇后
言わずと知れた天皇の正式な伴侶です。
といっても自動的になれるわけではなく、立后(冊立)の儀式を経て、初めて「皇后」と呼ばれるようになります。
奈良時代に定められた大宝律令では
「天皇の后妃は皇后・妃二人・夫人三人・嬪四人」
となっていましたが、意外にも皇后の出自については特に規定がありませんでした。
ただし、妃については「四品以上の内親王」とする規定があったため、皇后も内親王から選定されるのが前提でした。
ぶっちゃけた言い方にすると「天皇の正式な伴侶なんだから、皇族から選ぶに決まってんだろjk」(※イメージです)という感じですかね。
ちなみに律令下での内親王とは、天皇の娘(皇女)と天皇の姉妹にあたります。
四品とは、親王と内親王に与えられる位の一種で、この仕組みを品位(ほんい)と言います。藤原氏などの貴族が受け取る「位階」の皇族バージョンですね。
しかし、こうした仕組みも徐々に変化して参ります。
聖武天皇が、藤原不比等の娘・光明子を皇后に立てたことがきっかけで、皇族以外からも皇后に立てられる例ができました。
やっぱり藤原氏ですね。
なんせ藤原氏と皇族でその9割以上を占めており、そのほかには「源・平・橘」各氏の出身が一人ずつというものでした。
また、第二十五代・武烈天皇の皇后とされる春日娘子(かすがのいらつこ)は出自が完全に不明だそうで。
武烈天皇自体が実在したかどうかアヤシイ存在ですので、大きな問題ではないのですが、今後、武烈天皇の実在や娘子の出自に関する史料が出てきたら、まず間違いなく国宝モノでしょうね。
御物(ぎょぶつ・皇室の財産とされる物で、国宝とは別格)扱いになって、封印されるかもしれませんが。
また、天皇の妻ではない「皇后」もいました。
この辺が、皇后という表記を非常にややこしくするものでありましょう。
天皇の姉などに皇后と同じ待遇を与えたことによって、そう呼ばれました。名誉職みたいなものですね。
他にも立后前に薨去した妻が皇后の位を贈られることもありましたが、これらはレアケースという認識で良いかと。
また、伴侶である天皇が崩御し、皇后が生存している場合は「皇太后(こうたいごう)」と呼ばれることがあります。
さらに世代が進み、皇后の孫にあたる人が天皇になった場合は「太皇太后(たいこうたいごう)」となりますが、必ずしも皇后だった女性が皇太后や太皇太后になるとは限りません。
後述する「女院」となった場合は「◯◯院」と呼ばれていました。上皇や法皇のことも「◯◯院」と呼びますし、建造物の場合もあるので、実にややこしいところです。
前後の文脈で判断できますが、読むのがめんどくさい場合は、まず天皇の一覧から「◯◯院」の「◯◯」の部分を検索するのがいいでしょう。
天皇の一覧になければ、女院の可能性が高くなるかと思います。
◆中宮
一条天皇と藤原定子・藤原彰子の話題で、特によく出てくる単語であり『光る君へ』でも話題ですね。
藤原定子が最期に残した辞世の句の意味は?一条天皇に愛され一族に翻弄された生涯
続きを見る
史実の藤原彰子(道長の長女)はどんな女性?道長・式部・一条天皇との関係は?
続きを見る
元々は皇后の住まいを「中宮」と呼び、そこから転じて皇后の別称となりました。
皇后のお世話をする部署を「中宮職」というのですが、これも皇后の住まいの名からきています。
そして定子に注目しましょう。
彼女が入内して女御になったとき、すでに中宮のポジションには藤原遵子(円融院の妻で藤原公任の姉)がいました。
道隆は、その遵子を皇后とし、空いた中宮のポストに定子をねじこんだのです。
さらに兄の道隆に続き、藤原道長が娘・彰子を一条天皇にゴリ押しすると、以降、たびたび二人の皇后が並立されるようになりました。
そこで、先に入ったほうを「皇后」、後に入ったほうを「中宮」と呼ぶのが定着します。
これはただの区別であって、身分や待遇に上下はありません。
むしろ、二人の妻の上下をつけないために「皇后・中宮」の名称を用いた……というほうが近いかもしれませんね。定子と彰子もそうですし。
一つものすごくややこしいのが『枕草子』などにあります。
皇后になった後の藤原定子を「中宮様」と呼んでいることがありますが、これは上記の通り「皇后の住まい」のことも指しますので、不自然な話でもないのが面倒なところです。
明治時代に昭憲皇太后(当時は皇后)が立てられた際、天皇の正妃は「皇后」で統一されたため、それ以降「中宮」は使われなくなりました。
この辺は時代の変化が出ておりますね。
※続きは【次のページへ】をclick!