史上初の武家政権となった鎌倉幕府。
武力に頼ってきた武士が政治を担うとなると、行政をサポートする人物が必要になりました。
そのため源頼朝は、ツテをたどってさまざまな役人経験者を呼び寄せています。
そうした元・朝廷の役人→鎌倉幕府の中で重役に転身した一人が中原親能(なかはらちかよし)であり、承元2年(1209年)12月18日はその命日です。
同じく鎌倉幕府の重鎮・大江広元の兄としても知られていますが、実は両者とも出生についてはまだ確定していません。
本稿では、中原親能の生涯を辿ってみましょう。
中原親能の出自に二つの説
まずは中原親能の出自について。
大きく分けて二つの説があります。
一つは「実父が藤原光能(みつよし)であり、外祖父にあたる中原広季(ひろすえ)の養子になった」というもの。
実父:藤原光能
│
本人:中原親能→祖父・中原広季の跡を継ぐ
母方の実家から「中原氏」を継いだカタチになりますね。
典拠となるのは中原親能の猶子・大友能直(よしなお)から始まった大友氏の系図です。
もうひとつの説は『尊卑分脈』という書物(系図集)の中に書かれたもので、次のようなことが記されています。
「親能は中原広季の実子で、広元と異母兄弟である」
いずれの説も後年のものですので、どちらが正しいか判然としません。
ただし、康治二年(1143年)という誕生年はほぼ確定しており、弟の大江広元が久安四年(1148年)生まれですので、兄弟なら自然な年齢差ですね。

大江広元/Wikipediaより引用
親能はさらに、少々変わった生い立ちを持っています。
幼少時、なぜか相模の「波多野経家」という武士に育てられていたというのです。
この経家の娘が、嫁ぎ先で大友能直を産んでおり、後々まで続く縁となったばかりか、中原親能本人の妻も経家の娘だという説があります。
なんだかややこしくなってきましたね……。
出自についてはこの辺にしておき、源頼朝の関わりを見ていきましょう。
実はこのころ親能は、流人となっていた頼朝と知り合っています。
頼朝は久安三年(1147年)生まれで、伊豆へ流されたのが永暦元年(1160年)、挙兵するのが治承四年(1180年)。
1147年 源頼朝生まれ
↓
1160年 伊豆へ流される
↓
1180年 挙兵
九条兼実の日記『玉葉』によると、この治承四年(1180年)の挙兵前に、中原親能は、源雅頼(みなもとのまさより)の家人となっていました。
雅頼は村上源氏の人で、頼朝たちの河内源氏(清和源氏の一つ)とは異なる血筋ですが、この時点で親能は、京都における頼朝の情報源の一人になっていたとされます。
また、主人である雅頼も同じく、頼朝寄りの言動を取っていたようで、それが平家方にバレてしまい、治承四年(1180年)12月6日に雅頼邸が取り調べられてしまいました。
中原親能は間一髪セーフ! 踏み込まれる前に逃げ出し、命拾いしています。
法住寺合戦
雅頼邸を平家に踏み込まれ、そのまま鎌倉に下ったのか、しばらく身を隠していたのか?
しばらく中原親能の足跡を追えなくなりますが、最終的に鎌倉へ落ち着いたのは確かなようで、日記『玉葉』の寿永二年(1183年)9月4日にこう記されています。
『親能が頼朝の使者として上洛する予定』と雅頼から聞いた
親能が上洛したのは、おそらく京都の食糧事情が悪かったからでしょう。
この時期の京都含めた西日本は、養和元年(1181年)に起きた【養和の飢饉】の影響から抜けきれていませんでした。
そこへ木曽義仲軍が平家追討で入京してきたため、兵糧の負担を強いられた庶民たちが一層困窮していたのです。

木曽義仲/wikipediaより引用
そこで頼朝は同年10月、中原親能と源義経を共に京都へ向かわせています。
この時点での義経は「頼朝の弟らしき人物」程度しか知られておらず、また京都の事情にも明るいとはいえなかったため、親能がお目付け・指導役を兼ねて同行することになったのかもしれません。
単独で京へ入って、アレコレやらかしていた義仲の轍を踏まぬように……ということでしょうか。
しかし、数百しかいなかった義経・親能一行は、義仲が占拠したも同然の京都へなかなか入れません。
彼らは11月に近江へ入った後に伊勢へ移り、ここで国人を数名味方につけて好機を待つことにします。
ところが……。
その最中に義仲が【法住寺合戦】を起こしてしまったものですから、さあ大変。義経は急いで頼朝に飛脚を出し、事の次第を伝えました。
義経は後年、連絡不足から頼朝の不信感を招き、滅亡に追い込まれてしまいますが、戦に関する連絡はきちんとしていたんですよね。
知らせを受けた頼朝は、年が明けて寿永三年(1184年)1月、もう一人の弟・源範頼を京都へ向かわせました。
範頼と義経は合流し、【宇治川の戦い】で義仲を破ります。
この間に親能が何をしていたのか?
というと、やはり不明瞭です。
親能は後年「武器を取る者ではない」と頼朝からも言われているように、根っからの文官。前線に立つことはなかったという予測は付きます。
軍監のような立ち位置で後方にいたか。
あるいは密かに入京して雅頼邸や中原邸あたりに身を寄せていたか。そのあたりでしょう。
少なくとも義仲を討った後は雅頼邸に入っていました。
京都鎌倉 行ったり来たり
その後しばらくは京都にとどまり、公家との交渉や平家追討作戦などに従事。
寿永三年(1184年)2月5日には、一ノ谷に到着した義経軍の一員として名前が登場します。
文官である親能が、馬で崖を駆け下りる【鵯越の逆落とし(ひよどりごえ)】に参加したとも思えないので、ここでもおそらく後方に控えていたのでしょう。

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用
その直後、2月16日には「頼朝を上洛させよ」という後白河法皇の意向を受けて、親能は鎌倉へ戻っています。
そして4月29日には、またしても鎌倉から京都へ向かいました。
まるで現代の吉本芸人のような慌ただしさ。
といってもこればかりは仕方なく、文官だけに、平家討伐までの間は京都で「事務処理を行う役」に選ばれたのです。
このときは上方での足となる軍船を用意するため、土肥実平と梶原景時も同行していました。
実は、前日28日にもう一つ仕事を追加されていました。
「平家軍が瀬戸内海に落ち延びた」という情報が鎌倉に入り、頼朝は西宮の広田神社で戦勝祈願の祈祷をしてもらおうと考えました。
神社もタダでは祈祷をしてくれませんので、費用として淡路島の広田庄を寄進する旨を手紙に書き、親能に対して命じています。
「神祇官長官の仲資王にこれを提出し、便宜を図ってもらうように」
あっちへ行ったり、こっちへ来たり。荷物の量や人数にもよりますが、当時の京・鎌倉間はおおよそ半月程度の旅程。
親能の旅程に関する詳細は不明ながら、半月かけて移動し、1~2ヶ月程度で再び戻る……というのは、なかなかのハードスケジュールです。
親能はフットワークが軽くてタフな人だったのかもしれません。
前述の通り、彼は公家出身でありながら地方育ちでしたので、他の文官たちより体力があっても不自然ではなさそうです。
壇ノ浦で平家滅亡
この後、鎌倉にいつ戻っていたのか、記録はありません。
元暦元年(1184年)10月6日に新築の【公文所】で吉書始めがあり、中原親能も参上して寄人の一人に命じられていますので、少なくとも前日までには戻っていたでしょう。
次は年が明けて元暦二年(1185年)1月26日。
九州に渡った源範頼軍の中に親能の名が登場します。

源範頼/wikipediaより引用
範頼は前年8月から九州へ進軍するよう命じられており、長門までは至ったものの、船が手配できずに立ち往生していました。
そして、この1月26日に近辺の豪族が船と兵糧を提供してくれたので、ようやく周防から豊後へ渡ることができた、という記述です。
親能がいつごろ範頼軍に合流したのかについては、やはり記載がありません。
参考までに……現代の道路で鎌倉~京都間が432km、京都~防府までが474kmとなっています。
ということは、親能は単純計算で一ヶ月以上かけて移動したことになります。
おそらく、元暦元年の12月頃に出発したのでしょう。
この後、頼朝は元暦二年2月に範頼との手紙をやり取りしながら、同行していた親能や北条義時、比企朝宗&能員に
「平家を滅ぼすまでは皆心を一つにせよ」
と命じています。
すかさず「平家を滅ぼした後はどうなっちゃうの?」とツッコミたくなりますが、それこそが大河ドラマの見どころになりますね。
平家という共通の敵を倒すまで身内争いする余裕などなく、頼朝の苦心している様が垣間見えます。
頼朝は、中原親能を含め、源範頼らに対し、戦功や行軍への協力を褒め称える手紙を出していました。
そして無事【壇ノ浦の戦い】で平家を討ち果たし、最大の問題は片付きました。
義経と頼朝はなぜ対立したのか?
しかし、一難去ってまた一難となるのが時代の境目というもの。
中原親能本人の話題からは少し離れますが、当時の状況確認ということでしばしお付き合いください。
平家を滅ぼした最大の立役者である源義経と源頼朝がなぜ対立したのか?
その最大の理由が、元暦元年(1184年)8月に
「義経が頼朝の許可を得ずに、後白河法皇の命で検非違使及び左衛門尉に就任した」
ことでした。

源義経/wikipediaより引用
実はその2ヶ月ほど前、範頼も頼朝の許可を得ず、三河守に任じられています。
これでは源氏の組織体制に問題が生じてしまうのです。
頼朝は
後白河法皇
|
源頼朝
|||||
範頼・義経他源氏の人々
という構図を作りたい。
ところが後白河法皇から直接任官されると
後白河法皇
|||||
頼朝・範頼・義経他源氏の人々
という構図になってしまいます。
”頼朝が源氏の棟梁である”という意味と立場が薄れてしまうんですね。
かくして頼朝は元暦二年(1185年)4月15日、配下の者たちにかなり辛辣な手紙を送ります。
「後白河法皇から勝手に任官を受けた武士たちは、もう俺の配下ではなく朝臣なのだから、関東に帰ってこなくてもいい」
※関東に戻りたければ官位を返上しろ
しかも、冷たく突き放した後、一人ひとり事細かに罵倒したのです。
罵倒とは言い過ぎのように思われるかもしれませんが、例えば
「髪が薄くて髷を結うのもやっとのくせに」
とか
「人相が悪いな」
といった、子供の口喧嘩みたいな書状を送ったのです。頼朝、どんだけ……。
こうなったら、御家人たちのやることは一つ。
頼朝サンに詫びを入れるしかない!
と言わんばかりに当時の多くの御家人はこの時期、頼朝へ謝罪していました。
範頼はまだ九州にいましたが、頼朝の不機嫌をどこかから伝え聞いたのか、元暦二年4月24日に「三河守を辞退したいと思います」という手紙を鎌倉へ届けています。
この手紙は親能から頼朝に披露され、指示を仰いでいます。
頼朝は「返上するならば良し」と考えたのか、範頼の手紙を後白河法皇へ提出するように命じました。
そして、この「自ら返上を申し出たかどうか」という点が、範頼と義経の命運を分けることになります。
ご存知の通り、義経は滅亡へ追い込まれるのですが、源範頼の詳細については以下の記事をご参照ください。
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源範頼が殺害されるまでの哀しい経緯「頼朝討たれる」の誤報が最悪の結末へ
続きを見る
親能の妻が頼朝の次女の乳母に
平家討伐が終わった後も、中原親能の仕事はあまり変わっていません。
京都と鎌倉を行き来する日々。
他の文官たちと比較してもその頻度は高かったようですが、さらには文治二年(1186年)に生まれた頼朝の次女・三幡(さんまん・乙姫)の乳母を親能の妻が務めることになり、親能も乳母父として新たな役割を担ういます。
三幡との間に特筆すべきエピソードは伝わっていませんが、後述の理由からすると、親能から姫への感情はかなり厚いものだったでしょう。
文治三年(1187年)2月16日には、朝廷へ献上する馬を十頭連れて上洛の途についています。
『吾妻鏡』にしては珍しく、馬の毛色などに関する記述ナシ。
吾妻鏡は諸々の記録を後年に編纂したものですので、同日があまり残っていなかったか、あるいは散逸・焼失してしまったか。
この上洛中に、少々困ったことも起きました。
後白河法皇から何度も「京都市中の治安が悪化している」とクレームが入っていたのです。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用
そこで頼朝は、文治三年8月19日、千葉常胤と下河辺行平に上洛を命じます。
このころ親能は京都に滞在し、大江広元と里内裏閑院殿の修理にあたっていましたが、彼らには兵力がないため、抑止力にはなりません。
頼朝は朝廷側の窓口になっていた吉田経房に、以下の要点を記した手紙を送っています。
・親能と広元には武芸の心得がなく、治安維持は荷が重い
・そのため常胤と行平を向かわせる
・こういった事情と対策を後白河法皇によく伝えてほしい
頼朝が御家人たちの得手不得手を熟知し、それぞれの得意分野で活かそうとしていたことがわかりますね。
京都の治安がどれほど乱れていたか。というと、この後8月25日に「8月15日に京都で行われた放生会の際、見物人の間で乱闘が起き、怪我人が出た」と広元から報告されており、当時の状況がうかがえます。
頼朝は、関東から京都に行っている武士連中が困窮し、暴徒になりかかっているのでは?と懸念していたようですが、これは勘違い。
9月20日付けの吉田経房の手紙では武士の重要性を訴えてます。
「おそらく、騒ぎを起こしているのは京都周辺の出で都の事情に詳しい者たちでしょう。最近は検非違使の力が弱いので、関東武士の力が必要です」
また、行平と常胤が上洛した後は、治安もだいぶ回復したようで、経房は
「二人が京都に来てから、都はずいぶん静かになりました。法皇様も感心しておいでです」
と同じ手紙に記しています。
在京中の親能や広元も、胸をなでおろしたのではないでしょうか。
騒動の間、親能は「里内裏の引っ越しに用いる幔幕の布を手配」するなど、自分の仕事に専念していました。
その後も親能はしばらく京都に滞在し、細かなことも数多く頼朝へ報告しています。
いくつか例を挙げましょう。
頼朝の代わりに京都の見張り
文治四年(1188年)4月10日、平家に協力的だった僧侶・良弘が3月30日に呼び戻されたことを知らせています。
根っからの平家派と言えましょう。
そのため、元暦二年(1185年)5月20日から阿波へ流罪となっていましたが、文治四年に許されたのでした。
さらに同年4月13日には六条殿で火事が起き、これも頼朝へ報告されています。
まさに京都における頼朝の耳目といったところ。
信頼の程は、職責の重さにも現れています。
同じく文治四年(1188年)5月、頼朝が多忙な際の書面には、親能が代理として判を押すことを認めました。親能が具合の悪いときには、平盛時がさらに代役を務めることも許可しています。
これにはキッカケとなる出来事がありました。
御家人の所領をめぐって複数人の権利者が絡み合い、どうにも判断しづらくなり、下手をすれば今後、他の土地に地頭を置けなくなる危険性がありました。
そこで頼朝自身は後で判断を変えられるよう、最初は親能に責任(花押)を任せたのです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
少々小狡いように見えますが、政争の場では致し方ないところでしょう。
また、この時期の親能は、六条殿の再建にも携わることになりました。
文治四年7月、領地ごとに割り当てられた再建事業のうち、頼朝の分については、親能が指示して行うことになっています。
こうした状況から察するに、頼朝にとって
・広元は鎌倉での政治の柱
・親能は京都での代理
といったイメージかもしれません。
鎌倉武士も徐々に信頼を得て
しかし中原親能も完璧ではありませんから、自分がトラブルに巻き込まれかけることもあります。
これまた文治四年の7月が終わりかける頃、後白河法皇から頼朝の下へ
「中原親能が他人の領地を横取りして年貢を差し押さえている」
という知らせが届きました。
軍事的な力を持たない中原親能が力尽くで物事を押し切る――とは、なんだか釈然としませんね。
そもそも親能は、西日本を中心に膨大な荘園や地頭職を持っていましたので、経済的な困窮は考えにくい状況。
頼朝もそのあたりへの違和感や、日頃の信頼からか、まずは親能へ問い合わせると、当然ながら本人にそんな覚えはありません。
しかし、”土地に関するトラブル”については思い当たるフシがありました。
この年6月に
「後白河法皇の持っている荘園のうち、二ヶ所から年貢が届かない」
という話があり、親能が調査させていたのです。
二箇所の荘園とは、駿河国蒲原御庄と越後国大面御荘。
結論から言いますと、米の早稲(わせ)と晩生(おくて)の収穫期の差から、あらぬ誤解が生じ「親能が着服した」と勘違いされてしまったのです。
当時の鎌倉関係者が、後白河法皇からさほど信頼されていなかった……というのが見えてしまう一件と言えましょうか。
他にも、この時期の京都・奈良では武士を信用するべきかどうか、揺れ動いていたような気配をうかがわせる出来事がありました。
それは文治四年11月のこと。
とある事件の調査で奈良へ向かった武士が、怪しまれて乱闘騒ぎになり、双方に死傷者が出てしまいました。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)
親能は報告を受け、鎮圧のため兵を向かわせることも考えたようですが、朝廷から
「『関東武士が奈良へ攻め込もうとしている』という誤解を招きかねないので、兵を差し向けるのは止めるように」
と命じられ、派兵は取り止めに。
奈良の人々にとって、平家による南都焼討はたった7年前のことですから、僧兵たちが見知らぬ武士の集団を見て、ナーバスになるのも仕方がありません。
こうした穏便な態度に対し、後白河法皇も少しずつ信用し始めたのか、文治四年12月には
「六条殿などの修理についてよく働いてくれた」
というような言葉を大江広元にかけています。
このことは広元から頼朝へ報告された、と『吾妻鏡』に記されていますが、おそらくは親能とも語り合い、喜んだのではないでしょうか。
時系列が少々前後しますが、このときのことと思われる話が、12月30日の部分に出ています。
「六条殿の修理について、割り当てられた分は無事終わり、後白河法皇からお褒めの言葉をいただきました」
と、これに対し頼朝は大いに喜んだようです。
「鎌倉の者たちにとっても、直に働いた者たちにとっても名誉だ」
さらにこの月は、親能にとって個人的に嬉しいこともありました。
秋頃から病みついていた猶子の大友能直(よしなお)が、床上げしたのです。
この人は頼朝にも非常に気に入られており、推薦を受けて10月に左近将監へ任官されていました。
しかし病気のため、すぐには鎌倉へ行けていなかったので、12月17日に回復の報告を兼ねて挨拶に行ったのでした。
頼朝も大いに喜び、すぐ眼前に呼び寄せたそうです。
頼朝はよく「冷徹」といわれますが、気に入っている人への反応はわかりやすいといいますか、実に素直ですね。
奥州藤原氏の征討
文治五年(1189年)7月には、奥州藤原氏討伐にも従軍。
頼朝はこのとき、親能以外にも文官タイプの人物も数名連れて行っていました。
おそらく、
・戦が終わった後の統治をスムーズに進めること
・重要な事柄の記録を取ること
・今後鎌倉へ新造する寺院について知見を得ること
・京都へ奥州の事情を直接伝えること
などなど、今後の政治や建築に関する仕事をやらせる意図があったのでしょう。
また、猶子の大友能直が従軍しているので、その関係もあるかもしれません。
能直は常に頼朝のそばに控えていて、特別扱いされていました。彼にとっては初陣でもありましたので、最初は実戦の様子を見せておき、状況に応じて前線に出すという予定だったのかもしれませんね。
『吾妻鏡』の文治五年(1189年)8月9日には、親能が宮六傔仗近藤七国平(宮道国平)に
「能直はこの戦が初陣なので、あなたがよく面倒を見てやってください」
と頼んでいたことが書かれています。
しかし国平は、これをかなりアグレッシブな方向で受け取ります。
というのも、
・夜中に頼朝の寝所で宿直を務めていた能直を呼び出し
・一緒に阿津賀志山を越え
・藤原国衡の近臣親子を討ち取る
という行動に出たのです。
「面倒を見てくれ」という文言を「手柄を立てさせてほしい」と受け取ったのでしょうか……。
国平は平家方だった斎藤実盛(さねもり)の甥です。
実盛が滅んでしまったため、一度、上総広常の元で預かり囚人になっていましたが、その後、広常が上意討ちになってしまったため、次に親能へ預けられていたという経緯があります。
そして親能が頼朝に取りなし、このとき能直につけられていました。
奥州合戦では元・平家方の預かり囚人のうち、素行に問題がないと判断された者が参戦を許されていたので、彼もその一人だったのでしょう。
おそらく国平は、そういった経緯からも「ぜひとも手柄を立てなくては!」と意気込んでいたのでしょう。
このアグレッシブな行動については特に罰されたりはしていないので、問題にはならなかったようです。
しかし8月26日に別の問題が起きます。
この日、頼朝の宿所に、奥州藤原氏の当主・藤原泰衡を名乗る者からの手紙が投げ入れられたのです。
「総大将の宿所のそばへ、そんな怪しそうな者の接近を許していいの?」
そうツッコミたくなりますが、吾妻鏡の記述ですので、若干以上の脚色があると考えておきましょう。
手紙の内容はこうです。
「義経びいきだったのは父の藤原秀衡であり、私(藤原泰衡)はそうではありません。
貴方が義経を追えと言うから首を挙げたのに、なぜ今度は私が追われているのでしょう?
陸奥と出羽はもう貴方に占領されてしまったのですから、私の命だけは助けてください。
もしお慈悲をくださるのなら、お返事を比内郡(秋田県大館市)に落としておいてください」

藤原秀衡/wikipediaより引用
これを親能が読み上げたということになっているのですが、なんというか、その……あまりにも卑屈すぎるといいますか。
「試しに返書を比内に置いてみて、侍を待機させておき、拾い上げた者を捕らえて泰衡の居場所を聞き出しては?」
土肥実平がこう献言したところ、頼朝は答えています。
「比内に返事を置けと言っているのだから、泰衡は比内のどこかにいるのだろう。返事など書かず、手分けして探せば良い」
最初から許す気がないので、
返事を書く=泰衡の要求を受け入れて一命を許すと受け止められる
ことを防いだのかもしれません。
結果的に、泰衡は代々の郎党である河田次郎によって討たれ、首となって頼朝と対面します。
ちなみに、その河田次郎は頼朝によって「譜代の者が主人を裏切るとは許しがたい」という理由で、斬罪に処されました。
おそらく、父・源義朝の最期を連想して気分を害したのでしょう。
親能の仕事は合戦が終わってから
さて、戦の決着がついてからが、中原親能たちにとっては本番です。
9月10日には中尊寺の代表者が「寺を存続させ、逃げてしまった農民たちを呼び戻してほしい」と願い出てきました。
頼朝は願いを聞き届け、農民たちへ「早く元住んでいたところへ戻るように」と命じる書面を、親能に作らせています。
同時に中尊寺には、奥州藤原氏が建立したお堂などについて報告書を作るよう命じました(後日、親能と比企朝宗から頼朝に献上)。

中尊寺・金色堂覆堂(国宝の金色堂は覆堂内に)/wikipediaより引用
また、10月5日には奥州合戦で手柄を挙げた手越家綱という武士が「駿河国の鞠子という村に、農地にあぶれている民を呼び、駅馬を経営させたいのです」と申し出てきました。
頼朝はこれを許し、親能に取り計らうよう命じています。
現代風に置き換えて言うと、
「求職者を集めて農業や交通機関で働かせたいので、この前の働きへのほうびとして、村をひとついただけませんか」
という感じでしょうか。
村ひとつを与えるだけで失業者を世話してくれるというのですから、頼朝としては悪い出資ではなかったでしょう。
建久元年(1190年)秋の頼朝上洛では、事前に六波羅の屋敷や、諸方への贈り物を担当しています。
ここでは広元と手分けして行いました。
二人とも先に京都へ到着しており、11月7日の頼朝京入りを出迎えています。
さらに上洛の際に頼朝の官位が上がったことに伴い、翌建久二年(1191年)1月15日には【公文所】が【政所】へと改められました。
【政所】と同時に【問注所・侍所・公事奉行人】の役職も再度任命されています。
親能は、公事奉行人の一人として名が挙がっていました。
これは役所に所属せず、頼朝の直下で実務に携わる文官のことです。仕事内容は、親能にとっては変わらなかったと思われます。
以降も基本的には訴訟の処理や、京都で起きた出来事の連絡、仏事などで登場。
建久五年(1194年)の末には、翌春の頼朝上洛に備え、御家人たちへの伝達役も担いました。
以下の通りです。
「頼朝様から京都へ上るようにとのご命令です。
もし事情があって京都へ行けない場合は、鎌倉へ来て説明するように。
その場合は別の仕事があります。
遅れた場合はお怒りを買うでしょう」
文書自体は二階堂行政が担当し、親能の名で発行されたようです。
上洛後は寺院参詣などに随行した他、頼朝の宿所である六波羅邸を吉田経房が訪れた際に給仕を務めました。
この訪問は私的な面が強かったらしく、後白河法皇時代の政治の話や、現在の政務状況などを何時間も語り合ったといいます。
後白河法皇は本来皇位を継ぐ予定はなかったために、当時としては破天荒なタイプ。
長く仕えた経房にとっては名残惜しく、またそれを語り合う相手として、半分政敵のようなものだった頼朝を選んだのかもしれません。
経房が帰った後、親能が経房に礼品として砂金や馬を届けています。頼朝からの厚意でしょうか。
頼朝次女・三幡の死
これは中原親能に限ったことではないのですが、頼朝死去前後の動向についてはあまり記録がありません。
正治元年(1199年)4月、十三人の合議制メンバーには名を連ねていながら、当日は京都にいたようです。
しかし、5月に入って悲報が届きます。
数え14歳で入内も内定していた三幡(さんまん・頼朝の次女)が、明日をもしれない病体だというのです。
とはいえ京都で親能が受け持っていた仕事は、そう簡単に放り出せるようなものでもありません。
なんとか目処をつけて鎌倉へ急ぎ、到着したのが6月25日。
翌日、京都から半ば無理やり下向させられた医師の丹波時長が、そそくさと帰っていきました。
「三幡には回復の望みがまったくなかったので、時長はもっと早く帰りたがっていた。親能が戻ってくるのを待っていたため、この日まで出発が延ばされた」
と記録されています。
当時の上方の人々にとって、鎌倉は「未開の地よりはちょっとマシ」程度の場所だったのでしょう。
親能の到着から5日めの6月30日昼頃、三幡は息を引き取りました。
遺体は、当日の午後八時頃に、鎌倉・亀ケ谷にあった親能邸近くの持仏堂へ葬られたそうです。
その死が堪えたのでしょう。親能は姫の死に殉じて髪を落とし、以降は「掃部頭入道寂忍」と名乗るようになります。
自分の邸宅近くに葬ったことや法名の字面に、親能から姫への感情が現れているようにも思えますね。
親能には実子が一人、猶子が一人いましたが、いずれも男子であり、娘はいませんでしたので、三幡を実の娘のように思っていたのかもしれません。
年齢差からすると、孫娘といっても過言ではありませんし。
ただし、出家といっても、すぐに隠居・引退とならないのが、この時代のスタンダード。
正治二年(1200年)3月29日に、京都でこんな事件がありました。
事の起こりは、前若狭守保季という公家が、中原親能の部下である吉田親清の妻に暴行を働いたことです。
夫の親清は、六波羅の職場に行っており、帰宅してから事件を知って、当然のことながら激怒。
刀を持って保季を追いかけ、そのまま斬り殺してしまったので、在京中の御家人・佐々木広綱の所へ自首したといいます。
そこへ検非違使がやってきたので、親清を引き渡そうとしたところ、彼は馬に飛び乗って逃げてしまったとか。
さらに保季の父・中務少輔定長が朝廷へ訴え、朝廷からも広綱に呼び出しがかかるという、実にややこしい状況になりました。
広綱は「もしかしたら関東まで逃げたのかもしれない」と考え、直ちに鎌倉へ連絡し、その知らせが届いたのが4月8日。
2日後には親清が幕府へ自首してきたため、親能と広元は源頼家に取り次ぐ前に、北条義時に意見を求めました。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵
義時は「親清を上方へ差し出すかどうかは、頼家様がお決めになってください、と伝えてほしい」と頼みました。
そこへ居合わせた北条泰時は割と冷たく言い放ちます。
「陪審の身でありながら、殿上人を殺害するなんて身の程知らずにもほどがある。ましてや白昼に殺人を犯した罪は重い。すぐに検非違使へ引き渡し、死罪にすべきだ」
これを後になって聞いた広元は、感動して涙した……ということになっているのですが、少々ツッコミどころがあります。
泰時は吾妻鏡の中でかなりの高評価をされている人物ですが、このときの発言はいかがなものでしょう。
そもそも、親清の妻に暴行を働き、白昼堂々罪を犯したのは保季です。
細かい事の経緯を知らなかったのか、あるいは「武士は朝廷・公家より身分が低いのだから、何をされてもおとなしくしているべき」と思っていたのでしょうか。
ちなみに、保季は美男だったそうで「死に顔まで美しかったので、人々が見物しにやってきて涙した」なんて話も。
これは全くの私見ですが、その美貌に自信を持ちすぎて親清の妻を口説こうとし、彼女が受け入れなかったので乱暴に及んだのでは?
妻や第三者の証言等が載っていないので、あくまで推測ですが。
さらに細かいことを言うと、広元は後年、自ら「成人してから涙を流したことがない」と言っていたほど冷静な人です。
そういう人が、このことで落涙するほど感動するのも妙な話です。
吾妻鏡の脚色の一端が垣間見える記述かもしれません。
二代目頼家や三代目実朝とは?
この後も中原親能は上洛したようで、正治三年(1201年)2月には、次の様な報告を鎌倉へ届けています。
「土御門天皇が後鳥羽上皇の御所に行幸されたとき、城長茂(じょうながもち)の軍がやってきて、倒幕の宣旨を求めていた」
土御門天皇と後鳥羽上皇と言えば、後の【承久の乱】で流罪とされるゆえ、その相談か?
そう思ってしまうかもしれませんが、この段階では、天皇も上皇も賛同するどころか、逆に城長茂に対して討伐の宣旨を出しました。
今日では【建仁の乱】と呼ばれている騒動です。
そもそも長茂は、梶原景時の庇護を受けていた越後の武士でした。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
それだけに正治2年(1200年)1月に決着していた【梶原景時の乱】に納得がいかず「帝の後ろ盾を得て幕府を倒そう!」と考え、武力行使に出たのです。
大番役(京都警護)のため在京中だった小山朝政の邸宅も襲撃されましたが、当時、朝政が不在だったため、こちらの攻め手もすぐに引き上げて潜伏。
長茂の地元・越後でも縁者たちが挙兵しており、広義での【建仁の乱】は同年5月まで長引きました。
中原親能はあくまで文官、しかも出家の身かつ在京中ですので、戦には関与していません。
建仁二年(1202年)に源頼家が「(亀ケ谷の)親能邸で蹴鞠をやろう」と出かけた話があります。
まずは1月29日に行こうとしたところ、このときは源氏一門・源義重(新田氏初代)が亡くなったばかり。
そのため、北条政子は頼家に「こんなときに遊び歩くなんて、人から後ろ指を指されてしまいますよ」と言って止めました。
しかし頼家は「蹴鞠をするのに、世間の言うことを聞く必要はありません」と反抗。
結局「出掛けにケチがついた」という理由で、この日は出かけるのをやめにしたそうですが、しばらく経った同年4月13日、頼家は改めて親能の邸へ行って蹴鞠をします。

源頼家/wikipediaより引用
その場所が、三幡の眠る持仏堂のそばだったのです。
これまた私見ですが、もしかすると、頼家は最初から妹の墓参りのため親能邸へ行きたがったのかもしれません。
ただ、性格的に、素直にそうとは言えなかったのでは?
なぜこんなことを思うかと言いますと、蹴鞠だけなら親能邸にこだわる必要がないからです。
頼家は公家出身者とは比較的うまく付き合っており、三善康清邸で蹴鞠をしたこともありました。
つまり、他に目的(三幡の墓参り)があったと考えたほうが自然であろうかと……。
妹の墓前で頼家が何を思ったか。
親能がどのように受け止めたか。
大河ドラマで取り上げられるほどのエピソードではありませんが、源頼家と中原親能の関係も想像できて興味深い話です。
頼朝亡き後の頼家時代、中原親能は目立つ存在ではありません。
三代目・源実朝の時代になっても、京都での仕事は特に変わっていません。
学問と芸術好きの新将軍のため、将門合戦の絵を絵師に手配させて贈り、大変喜ばれた……というのが、唯一個人的に動いた出来事だと思われます。
御家は戦国大名・大友氏に繋がった
体は最晩年までしっかりしていたようです。
亡くなる一年半ほど前の建永二年(1207年)9月には鎌倉へ罪人を連行し、翌月、自力で京都へ帰っています。
そして承元二年12月18日(1209年1月25日)に永眠。
享年66でした。
親能の実子・季時についてはあまり逸話がないのですが、猶子である大友能直の血は、豊後の戦国大名・大友氏に繋がっていきます。

戦国時代の大友氏当主・大友宗麟/wikipediaより引用
能直が九州に根付いたのは、親能の所領を受け継いだからなのだとか。
そこから数百年経った戦国時代に、
・中原親能の猶子から始まった大友氏
・大江広元の遠い子孫である毛利氏
が衝突するのが、なんとも皮肉のような、歴史の醍醐味のような。
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【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
関幸彦/野口実『吾妻鏡必携』(→amazon)
上杉和彦『人物叢書 大江広元』(→amazon)
国史大辞典






