八田知家

源平・鎌倉・室町

頼朝上洛の日に大遅刻した八田知家|鎌倉ではどんな功績があったのか?

2024/10/02

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中盤から要所要所で存在感を発揮していた八田知家。

市原隼人さんが演じ、いかにもワイルドでありながら、実は老将の三善康信と同年代だったとも告白(康信は1140年生まれで知家は不明)。

源実朝から依頼された大船を建造した後、物語からは静かに去ることになりましたが、いったい史実ではどんな人物だったのか?

というと、これが少々判断に困る方で、13人のメンバーにも選ばれながら、いまいち掴みどころがありません。

建久元年(1190年)10月3日、頼朝の大切な上洛日に大遅刻というエピソードが目を引いたり、頼朝の弟・阿野全成を処刑した記録も残されたり……。

本記事で、八田知家の生涯を振り返ってみましょう。

 


藤原北家・道兼流の血を引く八田知家

八田知家は、藤原北家・道兼流の血を引く宇都宮氏の出身。

道兼とは、大河ドラマ『光る君へ』で主人公まひろの母を刺殺して、一躍悪名を轟かせたあの“ミチカネ(藤原道兼)”のことですね。

殺害したというのはあくまで劇中の話で、道兼流が横暴だから武士になったとかそういうことではありません。

そもそも東国との縁については、知家の祖父にあたる藤原宗円が下野守護になったことで始まりました。

常陸国新治郡八田(現・茨城県筑西市八田)を本拠としたため、八田氏を名乗るようになったとされています。

また、源義朝の落胤(十男)という説、頼朝の乳母・寒河尼の兄弟だという説などもありますが、知家の生没年がハッキリしてないためそうした説が存在するのかもしれません。

知家の前半生についてもほぼ謎です。

保元元年(1156年)【保元の乱】では源義朝側について戦っていた……とされています。

これが事実だとすると、この時点で少なくとも元服していたことになりますね。

後の【平治の乱】に源頼朝が参加したのは13歳のときですから、仮に知家が同じくらいの年で保元の乱に参加していたとすると、1143年前後の生まれとなります。

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野木宮合戦

以降しばらくの間、八田知家は記録に登場しません。

特に治承四年(1180年)に頼朝が挙兵したときにはどうしていたのか。

『吾妻鏡』にも記載が無く、同年10月に頼朝が初めて所領安堵をした際にも、知家の名は出てきていません。

ただし、養和元年(1181年)4月に頼朝が寝所の警護役を選んだ際、知家の息子・友重が入っているため、この間に知家は頼朝の信頼に足る言動をしていたのでしょう。

合戦に参加したことが明確なのは、寿永二年(1183年)2月の【野木宮合戦】です。

この戦いは、頼朝叔父の志田義広が、知家ら北関東の武士たちと下野の野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で衝突したもの。

叔父というと、一瞬、志田義広が頼朝サイドかと思ってしまいますが、実際は逆です。

八田知家や北関東武士(頼朝派)
vs
志田義広(反頼朝)

なぜこのような戦いが勃発したのか。

志田義広は若い頃は都にいたのですが、常陸に下って土地を開墾し勢力を築いた……という、なかなか独立心にあふれた人です。

保元・平治の乱には参加していたのかどうかよくわかっておらず、それでいて平家に逆らった様子もなく、史料上にあまり登場しないため、イメージしにくいところがあります。

『吾妻鏡』によると、志田義広は頼朝の挙兵後に一度面会していたようで……その後、積極的に関わろうとはしていなかったようです。

必要に迫られて開墾したのではなく、自ら東国に下って土地を開いたくらいですから、

「自分の勢力圏を侵されなければ、誰が上に立っていても構わない」

というような考えの持ち主だったのかもしれません。

政治的にうまくやれれば、鎌倉幕府ができてからも生き残る道もあったでしょう。

しかし、義広が鹿島神社の土地に手を付けてしまったことで頼朝の反発を買い、野木宮で頼朝方の武士たちと衝突することになったのです。

※頼朝が関与していなかった説もあり

この頃は「平家が東国へ兵を進めようとしている」という噂が立った時期であり、実際に美濃・尾張までが平家の勢力圏に入っていました。

頼朝は有力な御家人を西へ向かわせており、自分も直接動けなかった。

ゆえに北関東の武士たちが応戦したのです。

中心となったのは小山朝政という人で、吾妻鏡の記述も彼が中心になっています。

知家も彼らの側について戦っていたようですが、大きな戦功は上げていなかったようで、あまり行数は割かれていません。

 

京都に慣れた人

その後も、基本的には「何かに参加していたことはわかるが、具体的な活躍はあまり記載がない」という状態が続きます。

例えば、元暦元年(1184年)6月に行われた平頼盛「餞別の宴」で、濡れ縁に控えていたとされます。

吾妻鏡では「京都に慣れている人々」と記載されていますので、八田知家も保元の乱やそれ以前での経験を評価されたのかもしれません。

同年8月には、頼朝の弟・源範頼に従って、平家討伐のため西へ向かいました。

道中の言動は伝わっていないので、頼朝や源氏への反抗心はなかったと思われますが……頼朝を通さずに朝廷から右衛門尉の官職をもらっていたため、元暦二年(1185年)4月に書面でお叱りを受けていいます。

この叱責の手紙は非常に長く、知家以外にも多くの御家人が事細かに咎められています。

細かさでいえば、織田 信長が足利 義昭に出した”十七条の意見書”と張り合えるほど。

義昭の言動を咎めていた信長に対し、頼朝は相手によっては人相まで悪く言っているので、少々ヒステリックな気もしますが……。

「顔つきがその人の能力や運と関係している」という価値観の時代でもありますので、頼朝の記憶力を評価すべきでしょうか。

その中で、知家は兵衛尉を受けていた小山朝政と並んで叱りつけられています。

意訳しますと、

「西国を鎮めに行く途中に京都で官職を受けるなどということは、どんくさい馬が道草を食っているのと同じだ」

という感じです。

しかし、疑い深い割に怒りが持続しない……というのも頼朝の特徴。

このとき叱責された人物も、問題なく仕え続けています。

もちろん八田知家もその一人でした。

叱責から半年後の文治元年10月、勝長寿院の完成式典が行われ、このとき知家らも参加しています。

僧侶たちへのお布施として反物や衣類、馬など数種類の物品が収められており、知家は比企能員とともに馬を引いていました。

また、文治元年(1185年)には常陸守護に任命されたともされ、このとき常陸での本拠・小田城を造ったとされています。

文治二年(1186年)1月には、頼朝が従二位用の直衣を初めて着る儀式に参加。

他には、

藤原秀衡から一旦鎌倉に届けられた京都への税を朝廷へ届けるよう命じられたり

・京都から下ってきた検非違使の宿所が知家の家に指定されたり

・さまざまな儀式の供の一人として登場したり

大きな活躍や重大な役目ではないものの、細かなところで頼朝に信頼されていたらしきことがうかがえます。

 


京都の僧侶・観性が宿泊

もちろん全てが順調だったわけではなく、文治四年(1188年)5月にはちょっとしたトラブルでお叱りを受けています。

八田知家の家来に庄司太郎という者がいて、京都御所の夜警担当として派遣されていました。

しかし職務を怠けているという噂が立ったため、頼朝は検非違使庁に身柄を引き渡すように命じています。

部下の不始末は上司の責任……ということで、知家にも罰として、鎌倉中の道路整備が命じられました。

その2ヶ月後、文治四年7月には頼朝の子息・源頼家の鎧着初めに際し、知家は馬を献上。

息子の知重がこの馬を引いて披露した、とあります。

文治四年(1188年)12月には、朝廷の使者が源義経の追討に関する院宣を奥州藤原氏へ届ける途中で鎌倉に寄り、その接待を知家が命じられています。

この使者の復路でも知家が接待しました。

平頼盛「餞別の宴」にも出席していることから、八田知家が京都や都人の饗応について一定以上の知識や経験を有していたことがうかがえますね。

戦場や外交で派手な活躍はなくても、いないと不便。

これまた織田家で例えたら蜂屋頼隆中川重政あたりでしょうか。

文治五年(1189年)6月には、鶴岡八幡宮・三重塔完成供養のため、京都から観性という僧侶がやって来て、知家の屋敷が宿所に指定されています。

案内役は佐々木高綱。

変わったところでは、三浦義村が頼朝の使いとして、甘いお菓子や揚げ菓子などを観性に届けたとか。

と、ここで余談ながら、鎌倉時代の「菓子」について少々触れておきましょう。

 

鎌倉時代の菓子

平安時代は果物が「水菓子」として扱われていました。

他に水飴や小麦粉などで作った「唐菓子」もあり、まんじゅうや羊羹は鎌倉時代に中国から伝わったと言われています。

ただし、この文治五年の時点であったかというと怪しいところ。

小豆は縄文時代から栽培されていたものの、砂糖はまだ国内生産しておらず、簡単には手に入らないものでした。

他に甘みをつける材料としては、甘葛(あまづら)、水飴、蜂蜜などを用いています。

飴は平安時代から広く売られるようになっていたので、この日に出されていてもおかしくはなさそうです。

となると、観性に贈られたのは水菓子・飴・唐菓子あたりでしょうか。

夏ですと『枕草子』に出ているような、削った氷に甘葛のシロップをかけたものも出されたかもしれませんね。

鎌倉には”雪ノ下”という地名があり、建久二年(1191年)に頼朝が作らせた氷室に由来するといわれています。

当然、文治五年時点では存在していませんが、頼朝が鎌倉に落ち着いて数年経っているので、どこかで雪を保存していた可能性も皆無ではないでしょう。

『吾妻鏡』は食に関する記述が少ないので想像の域を出ませんが、一般人が楽しむ上では良い要素かと思います。

また、この数日後には若宮八幡宮の別当・円暁が稚児や僧侶を連れ、八田知家邸を訪問。

酒宴となったようで、稚児が延年の舞を披露したとか。

延年とは、寺院で大きな法会が行われた後に余興として演じられる、さまざまな芸能のことをいいます。

舞の他に音楽や猿楽など、様々なものが含まれ、この場合は法会の前に行っていますので、おそらくは「延年で行われるのと同じ舞」ということでしょう。

さらに、式典の前日には頼朝自らが知家邸を訪れ、観性と長時間に渡って雑談したようです。

地味なれど、当時の武士の風習が垣間見える話ですね。

 

奥州藤原氏の討伐では

文治五年(1189年)は東国の政治が大きく動いた年です。

同年7月17日、奥州藤原氏を討つための編制が発表。

東海道・北陸道・頼朝本隊の三手に分かれて奥州へ向かうことになり、八田知家は千葉常胤とともに東海道方面の軍を任されました。

発表から2日後の19日には奥州へ出発。

例によって知家の戦果と呼べるものは伝わっていないのですが、捕虜に関する逸話があります。

文治五年9月15日、奥州藤原氏の縁者ともいわれる樋爪俊衡が、三人の息子を連れて頼朝の陣へやってきました。

彼は既に還暦を超えるような歳で、真っ白な頭の弱った老人だったといいます。頼朝は哀れに思い、樋爪家の四人を知家に預けることにしました。

知家が自分の陣へ四人を連れて戻ると、俊衡は法華経を読む以外には何も言わなかったといいます。

それを見た知家は、日頃から仏教への信仰が厚いため喜んだとか。

そんな私的な事情を持ち込んでもいいのか?という気もしますが、奥州藤原氏の当主・藤原泰衡は既に家臣に討たれ、その首も頼朝に届けられていたので、あまり尋問するべきこともなかったからでしょう。

翌日、知家がこのことを頼朝に報告すると、

「ならば、法華経と十羅刹女に免じて本領を安堵しよう」

とのこと。

十羅刹女というのは、法華経の守護神のひとりです。法華経そのものだけでなく、このお経を伝える者も守護するといいます。

頼朝が「十羅刹女」とわざわざ言ったのも、ここが理由なのでしょう。

翌年建久元年(1190年)秋に頼朝が上洛するのですが、俊衡以外の樋爪家の者について、配流先が決められます。

全く咎めがないと他の者から反感を買いますし、かといって一度許すと決めた俊衡まで流罪にすると、信用を失ってしまいます。だからこのような処分を決めたのではないでしょうか。

少々時系列が前後しますが、建久元年(1190年)4月11日のことも少々触れておきましょう。

 

頼家 初めての小笠懸

建久元年(1190年)4月11日のこの日、頼朝の長男・頼家が初めて小笠懸を行いました。

小笠懸とは、その名の通り小さな的を射る笠懸のことです。

笠懸もまた字面の通り、遠くに置かれた丸い的を、騎馬武者が疾走しながら射るというもの。

「疾走中の馬上から射る」というところは流鏑馬と同じですが、笠懸のほうがより遠距離の的を射るため、実践的とされています。

流鏑馬は現代でも各地の行事として目にする機会がありますが、笠懸はあまりみられませんね。

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この日は頼家の記念すべき初挑戦ということで、御家人たちがそれぞれ武具や馬・馬具などを献上しました。

八田知家は行縢(むかばき)と、乗馬沓を用意したそうです。

行縢は、狩りや長期間の旅の際に用いる、両足を覆う布や毛皮のこと。

儀式などの場ではアクセサリーのような意味合いで用いられることもあったようで、織田 信長が安土で御馬揃えを行った際、虎の皮の行縢を用いたことが記録されています。

知家がどのような素材のものを用意したのかまでは、吾妻鏡に記載がありませんので、想像するしかありませんが……。

頼家は見事に小笠懸を成功させ、御家人たちに称賛されたといいます。

建久元年9月になると、翌月の頼朝上洛に備えて、様々な手配をするよう御家人たちに命がくだりました。

知家は、道中の厩の手配を大須賀胤信とともに任されています。

胤信は千葉常胤の四男ですので、奥州合戦のとき同様、ここでも知家と千葉氏との接点がみられます。

そして同年10月3日、いよいよ京都へ出発する日が来ました。

しかし。

この凄まじく大事な日に知家は大遅刻をしてしまうのです。

 

遅刻をして大胆な切り返し

当然、頼朝は怒り心頭。

昼頃になってやっと八田知家が出てきても、機嫌が悪いまま。

並の人ならビビッて縮こまりそうなところでも、知家は物怖じしません。

まず「体調が悪かったので遅れてしまいました」と理由を説明した後、こう言葉を続けました。

「先頭と殿(しんがり)はどなたですか? 頼朝様はどの馬に乗られるのでしょう?」

遅れてきておいて何言ってんのか、肝が太いというか……。

しかし頼朝は機嫌が多少良くなっていたのか、普通に答えます。

「先頭は畠山重忠に任せた。殿はまだ決めていない。私は梶原景時の黒斑を使う」

これを聞いた知家は続けます。

「先頭はもっともだと思います。殿には千葉常胤殿がふさわしいでしょう。あの斑も良い馬ですが、鎧の色と合いませんね。私の用意した馬を是非お使いください」

そして体高四尺八寸(約144cm)の黒い馬を引いてきたといいます。

頼朝はこの馬を気に入り、早速乗ろうとしたようです。

そこで知家は「これは都入りのときにお使いください。道中はあの斑が良いでしょう」と勧めています。

つまり「都の人々へのアピールとして、鎧の色と合わせた黒い馬を使ってください」ということです。

この話からすると、知家は色彩センスに優れた人だったのかもしれません。

殿も千葉常胤と千葉胤頼、境常秀らに決まり、やっと出発……しかし、既に冬に入りかけている時期のため、この日はあまり進めず。

相模国懐島(現・茅ヶ崎市円蔵)に宿泊したとき、殿はようやく鎌倉を出たところだったといいます。

一行が京都に入ったのは、同年11月7日のことです。

京都滞在中の知家は、頼朝と御所へ参内したり、石清水八幡宮に参詣する際にお供を務めています。

12月11日には、後白河法皇の意向で頼朝が10名の御家人を左右の兵衛尉・衛門尉に推挙しており、その中に知家も含まれていました。

これは息子の知重に譲っており、世代交代の意図が垣間見えるように思われます。

といってもすぐに家督を継承させたわけではなく、知家はこの後も登場します。

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建久二年(1191年)6月には、頼朝の姪である一条能保の姫の婚礼に際し、随行する者たちの衣装を用意する一人に選ばれ、同年8月には火事によって再建された将軍御所での宴に参加。

宴では、酒肴を献上した大庭景能が【保元の乱】での経験から戦時の心得について話し、皆感心したという逸話が有名です。

知家も保元の乱を経験していますので、何かしら話したでしょうね。

その後も征夷大将軍の辞令を持ってきた勅使を接待したり、鹿島神宮の式年遷宮が遅れているので早く行うように命じられたりしています。

 

曾我兄弟の仇討ちでは多気氏に謀略

大きな動きとしては、建久四年(1193年)【曾我兄弟の仇討ち】に関することが挙げられます。

頼朝が富士へ巻狩に出かけた際、御家人の工藤祐経が曾我祐成・時致兄弟に討たれた事件です。

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鎌倉へ報告される途中で「頼朝が生死不明」と伝わり、頼朝の正室である北条政子が動揺していた……という話でも有名ですね。

八田知家はこのとき富士へ同行しておらず、6月4日に地元・常陸で経緯を聞いたようです。

事の真偽を確かめるべく、知家は早速鎌倉へ向かおうとしました。

しかし近所の多気義幹が油断ならないと考え、一計を案じることにします。

兵を集めて「知家が義幹を討とうとしている」という噂を流させたのです。

当然、義幹は警戒し、防戦の準備を進めました。

それから知家は義幹に使いを出し「富士野で異変が起きたようなので、一緒に参りましょう」と伝えました。

多気義幹は行かないと答え、さらに防備を固めます。

少しわかりにくいですが、この状況を外から見ると、

・頼朝の安否が不明な状態で

・地元に戻っている御家人が

・鎌倉に来ず

・”何故か”武装を強化し始めた

ということになります。

要は謀反ですね。

その準備をしているように見える状況を、知家が作らせたのです。

そして同年6月12日、知家は頼朝に報告。

当然、頼朝は怪しみ、多気義幹に鎌倉へやってくるよう命じました。

6月22日に義幹は鎌倉へ到着し、知家と対決することになりました(三善善信と藤原俊兼も同席)。

八田知家はこう訴えます。

「先月の曽我兄弟の件を今月4日に聞きましたので、すぐ鎌倉に向かおうと思い、義幹殿へ同道しようと誘いました。しかし彼は一族と家臣を集めて立て籠もっていたのです」

もちろん、自分が噂を流して挑発したことは伏せたまま。

義幹としては、ただの噂を知家の仕業と断定することはできませんから、返す言葉がありません。

何か反論はしたようですが、源頼朝は多気義幹に非があると考えました。

結果、彼の領地は没収となって馬場資幹に与えられ、身柄は岡辺泰綱に預けられています。

知家の計略が見事成功したのです。

ではなぜ、知家がこんなことをしたのかというと、常陸内での勢力争いによるもののようです。

少々知家からは離れますが、常陸の状況を箇条書きで説明します。

・常陸介として平高望が赴任してくる

・高望の子である平国香が平将門に討たれ、国香の子・貞盛が藤原秀郷らの協力を得て将門を討つ

・貞盛が一族から多数の養子を迎え、そのうちの一人・維幹を常陸に赴任させた

・維幹は多気という土地を本拠としたため多気氏を名乗るようになる

・多気義幹は多気維幹の子孫

・多気氏は頼朝の挙兵当時、佐竹氏同様すぐには味方しなかった

・多気氏は千葉氏の縁者でもある

全体的な印象をまとめると、

「大きな問題を起こしているわけではないが、状況次第では何か起こしてもおかしくない」

「事を起こす際に千葉氏も動く可能性がある」

というのが、知家や鎌倉幕府から見た当時の多気氏という感じでしょうか。

当時の状況的に、千葉氏が主導して謀反を起こすことは考えにくく、また知家単独で相手取るには荷が重いため、多気氏が標的になったものと思われます。

さらにこのときは、頼朝の安否が不明な状況。多気氏が叛乱を起こすには絶好の機会です。

頼朝の意向を汲んでのことか、知家の独断かは判断しかねるところですが……審議がやけにあっさりしているところからすると、暗黙の了解はあったのでしょう。

 

北条氏とガッチリ

この後から、不穏な動きのあった御家人を処分する場面で、八田知家の名が度々登場するようになります。

例えば

建久四年(1193年)12月13日に常陸の豪族・下妻弘幹

建仁3年(1203年)6月23日に頼朝の異母弟・阿野全成(あの ぜんじょう )

という両者を知家が処刑した、という記録があるのです。

前者は多気義幹の兄弟で、北条時政に恨みを抱いていたといわれています。

全成(ぜんじょう )は、北条氏と共に反頼家派を形作っていたため、先手を打って北条氏に対抗しようとした頼家が、知家に命じたのだとか。

もともとは醍醐寺の僧侶ですが、以仁王の令旨が出たときに密かに抜け出して頼朝に合流し、北条政子の妹・阿波局と結婚していました。

阿波局は実朝の乳母でもあります。

しかし頼家の時代になってから北条氏と接近していたため、処刑されたのでした。

全成の息子・頼全も京都で誅殺されています。

要は”北条氏に敵対していた人の始末を、知家が命じられた”ということです。当然ながら背後に北条義時の陰もチラつきますよね。

実際、知家は、建久五年(1194年)2月2日の北条泰時元服式にも参列しています。

知家と北条氏の結びつきが確実になるような出来事は記録されていませんが、建久四年の時点で揺るぎないものになっていたのでしょう。

ただし、その後も基本的に、仏事・神事への参列などの場面でしか登場しません。

頼朝存命中の知家は、大きな役職を与えられていませんので、史料上の出番が少ないのも致し方ないところでしょう。

建久六年(1195年)1月8日には、それ以外の話題で一度登場します。

毛呂季光と中条家長という二人の御家人が大喧嘩をして、すわ戦かという状態にまでなったことがありました。

このときは侍所別当の和田義盛が間に入り、刃傷沙汰にまではなりませんでしたが、大きな騒動を起こしたことは問題。

そこで頼朝は、両人を処罰します。

家長は知家の養子だったため、頼朝は知家に「家長に出仕停止だと伝えよ」と命じました。

季光については将軍御所に呼びつけ、

「源氏一門に準ずる立場でありながら、御家人相手に諍いをするとはどういうことだ」

と、頼朝が直接叱責したそうです。

季光は源氏の縁者ではありませんが、

・有職故実の家である藤原北家小野宮流の血を引いていたこと

・頼朝の挙兵時点から仕えていたこと

などによって、一門に準じる扱いを受けていたとされます。

このいさかいの原因は、どうも家長・季光双方の日頃の態度にあったようです。

季光は先述の通り、他の御家人より一段高い身分を与えられていました。

そして家長は家長で、知家の養子であることを威張り散らしていたのだといいます。

そこで季光が家長に注意をしたところ、騒ぎになったのだとか。

鎌倉初期にはよくある話なのですが、それにしても血の気が多すぎますね。

二人とも頼朝の挙兵時点から仕えていますから、「若気の至り」といえるような歳でもありませんし。

 

京都の名医を呼び寄せるも

その後は建久六年(1195年)に頼朝の二度目の上洛に随行したり、これまでと変わらず各種行事に参加しています。

他の御家人同様、頼朝の死去前後から、ほとんど動向は記録されていません。

建久十年(1199年)2月に頼朝の長男・頼家が将軍の座を継ぐと、2ヶ月後には十三人の合議制が設置され、八田知家もその一員として参加。

記録としては乙姫に関するものがあります。

このころ頼家の妹(頼朝の次女)である乙姫の病気が悪化。

正治元年(1199年)5月7日に、わざわざ京都の名医・丹波時長を派遣させています。

というのも、乙姫は入内が決まっていたため、鎌倉の人々としてはなんとしても回復してもらいたかったのです。

そのため、名医とされる時長への期待はかなり高く、これでもかと厚遇されています。

まず宿所などの手配が大江広元と八田知家に命じられ、接待も知家の他、北条時政や三浦義澄・三浦義連、梶原景時が毎日日替わりで行っています。

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乙姫は5月29日にいくらか食事を取れるようになりましたが、6月14日には再び悪化。

すると時長は「これはもう人の手が及ぶものではない」と匙を投げ、6月26日には京都へ帰ってしまいました。

前日25日には、乙姫の乳母父である中原親能が急遽京都から帰ってきていることと、対照的にも見えますね。

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乙姫は6月30日に14歳の若さで亡くなり、知家ら多くの御家人が葬儀に参加しました。

 

承久の乱にも?

正治二年(1200年)1月5日に椀飯を行っていますが、このあたりから知家に関する記述は激減します。

建暦三年(1213年)12月1日の火事で知家邸も被害に遭った

承久三年(1221年)の承久の乱では後方での指揮にあたった

この二点のみといっても過言ではありません。

承久の乱】では、息子の知尚が上皇方について敗死していますが、それに関する知家の言動も伝えられていません。

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知家の没年を建保六年(1218年)とする説もあるようですので、後者については誤伝の可能性もあります。

実像をうかがえるのは、やはり頼朝存命中の言動ということになるでしょう。

・うっかり平家討伐の最中に無断で任官を受けてしまったこと

・上洛出発の日に遅刻しながらも馬についてアドバイスをする肝の太さ

・多気義幹を陥れた謀将としての顔

・結果、頼朝には嫌われていないこと

うーん、やっぱり不思議な方としか言いようがないですね。


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【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
岩波書店辞典編集部『世界人名大辞典』(→amazon
『日本人名大辞典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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