治承4年(1180年)10月26日は相模の武士・大庭景親が亡くなった日です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の序盤、頼朝に立ちはだかった人物であり、國村隼さんの熱演を鮮明に覚えている方も多いでしょう。
鮮明というのは他でもありません。
この景親、頼朝の緒戦である【石橋山の戦い】で快勝しながら、その後、頼朝が房総半島の武士団を従えて鎌倉入りを果たすと瞬く間に形勢逆転され、最終的に首を晒されるという最期を迎えるのです。
もともとは平家に仕え、相模随一の力を誇っていた大庭景親。
それがなぜ流浪の身だった頼朝に敗れてしまったのか?
史実の生涯を振り返ってみましょう。
相模武士団の重鎮・大庭景親
相模国――現在神奈川県に位置するこの地方は、地理的にみると大きな特色がありました。
箱根の山です。
険しい山道は、坂東への入り口を閉ざす関。ここをものともせず登る相模武士こそ、天晴れ剛勇の持ち主でありました。
そんな相模武士を束ねた人物が大庭景親。
景親の本拠地がある相模国、特に東部は平安末期から源平の争いに翻弄されていました。
・鎌倉党(大庭氏や梶原氏)
・三浦氏
主な勢力は鎌倉党と三浦氏で、まずは平安末期における大庭氏の動向をまとめておきましょう。
保元元年(1156年)に発生したのが【保元の乱】。
このとき大庭氏は、源頼朝の父である源義朝に味方し、武功をあげました。
3年後の平治元年(1159年)【平治の乱】では、義朝が敗死。

平治の乱で敗走する源義朝/wikipediaより引用
義朝に近かった三浦氏は、相模で劣勢に立たされ、一方の大庭氏は義朝と距離を取っていたため、平家に接近し、その被官となることに成功すると、相模で大きな権力を得ます。
これを踏まえ『鎌倉殿の13人』序盤における相模武士の立場と言い分を見てみましょう。
和田氏や三浦党の立場とは
まずは三浦党からです。
◆三浦党
伊豆の伊東と北条がもめたのであれば、相模の大庭に取りなしを頼めば解決できると思っている。それだけ相手の立場を理解している。
◆三浦義澄(ドラマでは佐藤B作さん)
◆三浦義村(ドラマでは山本耕史さん)
◆和田義盛
史実では三浦の支族。
ドラマでは「俺の知っている平家の奴らはみんな嫌な奴!」と打倒に取り憑かれていた義盛。
和田氏は、大庭氏を含む平家サイドの勢力に苦しめられているのでしょう。
◆山内首藤経俊
母・山内尼は源頼朝の乳母。心情的には頼朝寄りだが、家の立場を考えると大庭景親には逆らえない。
◆土肥実平
源頼朝と北条政子のために、温泉で宿を提供する程度には源氏寄り
ドラマの中で和田義盛が短絡的に「平氏を倒す!」と言い張り、主人公である北条義時は疲れ果てておりました。
義盛があまりに短絡的で無茶苦茶に思えましたが、三浦氏が大庭氏に頭があがらないことを思えば、その氏族である和田氏も様々なトラブルに直面していたことは考えられます。
おそらく義盛が怒る「嫌な平家の奴ら」の中には大庭氏の関係者もいたのでしょう。

和田義盛/Wikipediaより引用
治承4年(1180年)歴史が動いた
治承4年(1180年)5月、時代が動きます。
以仁王の令旨が発せられ、源頼政と共に挙兵。

源頼政/wikipediaより引用
あっという間に鎮圧されますが、この直後の治承4年(1180年)8月、源頼朝も挙兵をします。
いわゆる【石橋山の戦い】ですね。
大庭氏は平家、三浦氏は源氏につきました。
なぜ三浦氏は源氏についたのか?
三浦氏は、劇中でも描かれるように、史実では相模の外にも姻戚関係がありました。
その相手先は、伊豆国の伊東氏、武蔵国の秩父氏、下総の千葉氏にまで及んでいます。
源頼朝の異母兄にあたる源義平の母は、三浦義明の娘であるという説も。つまり源氏の嫡流とも姻戚関係があったのですね。

三浦義明/wikipediaより引用
ドラマでも、こうした命運を分ける要素が、初回から散りばめられています。
源頼朝の挙兵後、相模の武士団は混沌とした状況に陥りました。
源平いずれかにつくか?
命と所領がかかっているため、まさしく混沌とした状態に陥る。
山内首藤経俊は、頼朝と関係が深いにも関わらず、石橋山の戦いでは矢を射かけてしまい、後に母が助命嘆願をしていました。
波多野氏も源氏と関わりが深いにもかかわらず、頼朝と対峙。
こうして相模の武士団は、血縁や地縁、利益、日頃の不満など、各一族の思惑によって去就が分かれ戦っていたのです。
以仁王挙兵後、源頼朝も起つ
石橋山の戦いを全体で把握するのに大切なのは、平清盛も含めた動向です。
少し時間を戻して治承4年(1180年)の清盛を見ながら進めさせていただきます。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
同年5月、以仁王が源頼政を頼って挙兵すると、清盛はこれをあっさり鎮圧。
しかし、わずかながらに疑念を感じたのでしょう。
その目を坂東へ向けます。
不穏な摂津源氏がいれば捕縛するよう、大庭景親に対して命令を下したのです。
そのため源頼政の嫡孫・源有綱は藤原秀衡を頼って奥州へ落ち、ひとまず以仁王に呼応した坂東の源氏とは連絡を絶ったと見なされました。
平家にとって問題となるのは、その後です。
最終的に清盛の目は、以仁王に呼応した京都周辺の勢力へ向けられました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、清盛が頼朝を忘れていて、「つまらんこと」とみなす場面がありました。
史実においては、まるで忘れていたかどうかはさておき、坂東の情勢など優先度で劣る相手と見なされたのでしょう。
ここで情報が錯綜し始めます。
『吾妻鏡』によると、京都の情勢を源頼朝に伝えていた三善康信が、弟・康清をわざわざ伊豆に派遣しました。
そしてこう伝えたのです。
「以仁王の令旨を受け取った源氏は追討されますえ!」
当時の京都の人々にとって、頼朝など忘れられていました。ゆえに追討などなかったのですが、三浦康信が先走ったため歴史が動いたのです。
やられる前にやるしかない――。
そう思い詰めた源頼朝は挙兵し、まずは山木兼隆を夜襲で討ち取りました。
不意打ちではあったものの、こうした不穏な気配を大庭景親が察知してもおかしくはありません。それは頼朝にとって手痛い失敗とも言えました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
石橋山の戦いで大勝利を収めたのは
挙兵した源頼朝は、熱海街道を越えて相模入りを目指します。
なんとしてもこれを阻まねばならない――大庭景親は相模・武蔵から3,000騎を募り、立ちはだかります。伊豆からも伊東祐親300騎が合流すべく向かっていました。

伊東祐親の像(物見塚公園)
対する頼朝サイドの相模武士は、三浦義澄率いる軍勢がわずか300騎。しかも三浦勢は、酒匂川の増水に行く手を阻まれてしまいます。
結果は、火を見るより明らか。
頼朝と三浦党の合流を阻むべく、大庭景親が夜襲をかけた石橋山の戦いは、頼朝の大敗北となりました。
北条時政の嫡男である北条宗時もこの戦いで討死してしまいます。
ドラマでは片岡愛之助さんが演じる、熱血武士でしたね。
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時政の嫡男で義時の兄だった北条宗時|最期は祖父・伊東祐親の軍に囲まれ
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当然ながら大庭景親はここで追撃の手を緩めません。
数千騎を率い、三浦氏の衣笠城へ進撃します。
しかし三浦義澄らはすでに安房へ渡海していて空振りに終わり、景親は引き返しました。
坂東での合戦など“小競り合い”程度の認識だったのでしょうか。石橋山の戦いの一報を受けた京都では、これで片がついたと考えたようです。
ところが、です。
石橋山合戦の前後から、相模武士団が頼朝になびき始めました。
必死で頼朝を守った土肥実平。
絶体絶命に追い込まれた頼朝をわざと見逃した梶原景時。
甲斐に頼朝と北条時政らが逃げたと聞き、俣野景久が追撃したため、これに刺激されて反平家の立場を取った甲斐源氏の武田信義や安田義久など。
京都にいる平清盛が預かり知らぬところで、坂東では反清盛の勢力が燃え上がっていたのです。
もはやこれまで! 投降し処刑される
相模における重鎮だった大庭景親や伊東祐親は、あれよあれよという間に圧倒的な優勢を失いつつありました。
もはや勝機は、西から来る軍勢=頼朝追討使との合流しかありません。
治承4年(1180年)10月、景親は1,000騎を率いて出立。
しかし各地の源氏を吸収し、勢力を拡大した頼朝の元には20万の精兵がいました。
もちろん20万という数字は盛られた記録であり、実数は不明ですが、大軍には違いありません。
そんな軍勢が足柄を越えてきたため、もはや景親らは逃げるしかありません。
さらには富士川の戦いにおいて、源頼朝・武田信義と対峙した平維盛が壊滅し、敗走していました。
富士川の戦いは「水鳥が飛び立つ音に驚いた平家が逃げ惑った」という話で知られますが、実際は武田信義率いる軍勢が鮮やかに勝利したため、そういった伝承になっている可能性が高そうです。

富士川と富士山
いずれにせよ敗走となった大庭景親は、もはやこれまでと観念。
自ら投降を選び、斬首刑とされたのでした。
ここまで一気に話が進みましたので、あらためて時系列を振り返ってみましょう。
石橋山にて大庭景親が源頼朝を粉砕したのが、治承4年8月23日(1180年9月14日)のこと。
その後、大庭景親が敗れたのが治承4年10月20日(1180年11月9日)で、景親の処刑は治承4年10月26日(1180年11月15日)に行われています。
わずか2ヶ月の間に一気に勢力が入れ替わった治承4年の秋――あまりにめまぐるしい季節であり、怒涛のように押し寄せる波にさらわれたような大庭景親の最期でした。
景親の命運を定めた岐路はありました。
まさか石橋山の戦いで梶原景時が源頼朝を見逃すとは!
まさか甲斐源氏が立ち上がるとは!
そしてまさか、京都がこうも坂東を甘く見ていたとは……。
急激に変化する状況は、なにも大庭景親一人の責任でもなく、相模国が反平家の火薬庫だったということでもあるのでしょう。
★
大庭景親亡きあと、相模の武士団は、三浦義澄、和田義盛、梶原景時、土肥実平らが率いてゆきます。
山内首藤経俊処刑は母の嘆願によって止められ、彼もまた、頼朝と共に進んでゆくこととなるのでした。
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【TOP画像】
『石橋山の朽木に霊鳩頼朝を助く』作:小国政(こくにまさ)……鳩によって敵の居場所を知り、命を助けられたとする錦絵・八幡宮では鳩を神の使いとしている/国立国会図書館蔵
【参考文献】
関幸彦『相模武士団』(→amazon)
佐藤和彦/谷口榮『吾妻鏡事典』(→amazon)
他






