大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される織田信長の美濃攻略。
後に天下人となったことから「美濃一国ぐらい簡単に落としたんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、そんなに甘いもんじゃありません。
攻略を本格化させてから稲葉山城を落とすまで、実に7年以上の月日を要しており、ヘタをすれば美濃攻略は断念せざるを得ない状況でした。
なぜなら信長の前に立ちはだかった斎藤義龍やその家臣団が有能であり、当初はなかなか突破口を開けなかったからです。
では、どうやって美濃攻略を成功させたのか?
美濃攻撃の全戦績と共に、その道筋を振り返ってみましょう。
1560年6月の美濃侵入
桶狭間の戦いがあった永禄三年(1560年)。
5月19日に今川義元の首を取った織田信長は、その約2週間後の6月3日、勢いに乗じて美濃へ攻め込みました。
しかし、斎藤家臣団の丸茂兵庫頭や長井衛安(長井甲斐守)たちの軍勢に織田軍は敗れ、柴田勝家が殿(しんがり)を務めながら帰国します。
このときの美濃斎藤氏の当主は斎藤義龍でした。
義龍は天文二十三年(1554年)、父の斎藤道三から家督を継承。

斎藤義龍/wikimedia commons
側近と共に政治改革や外交の見直しに取り組み、政権を安定させます。
義龍本人は戦上手だったの?
という点で注目しておきたいのが、父の斎藤道三を死へ追い込んだ弘治二年(1556年)長良川の戦いでしょう。
このとき道三が義龍の采配を見て「さすがは道三の子」と言った、そんな話が伝わっています。
1560年8月の美濃侵入
永禄三年(1560年)6月の美濃侵入で敗れた織田信長は、8月23日に再び侵攻。
このときも丸茂兵庫頭や長井衛安(長井甲斐守)たちに敗れました。
ただし、この二つの戦いが記されているのは、史料価値の低い『総見記』ですので、信憑性に怪しさはあります。
桶狭間の戦いに勝利した織田信長は、この時点でまだ尾張統一もできていません。
そんな不安定な状況で「美濃へ攻め込むのだろうか?」という疑問も湧いてくるでしょう。
すると翌年、事態を一変させる出来事が起きます。
1561年5月 有能だった斎藤義龍の死
永禄四年(1561年)5月11日、斎藤義龍が33歳の若さで急死しました。
死因は不明。
普段から服用している漢方薬があったので、なんらかの病気が原因だろうと目されています。
いずれにせよ斎藤義龍が有能だったから、織田信長もなかなか美濃へ攻め込めなかったというのは間違いないでしょう。
なぜなら義龍の死から2日後、早くも美濃へ軍勢を繰り出しているのです。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
それが「森部の戦い」ですが、詳しくは次項に譲り、生前の斎藤義龍でもう少し注目しておきたいことがあります。
「長良川の戦い」で父の斎藤道三を討ち取った義龍は、その後、以下のメンバーたちと美濃の政権運営を安定させました。
・安藤守就
・氏家卜全(直元)
・日根野弘就
・竹腰尚光(ひさみつ)
・日比野清実(きよざね)
・長井衛安(もりやす)
彼らは「六人衆」と呼ばれ、道三時代よりも優れた統治システムを構築。
家臣団や領内の統制はもちろん、外交においては幕府や朝廷、六角など、近隣諸国との関係も改善させています。
尾張の諸勢力に反信長を働きかけ、弟・織田信勝の謀反をそそのかしたのも義龍だった可能性が指摘されます。
もちろん斎藤義龍も完璧ではありません。
父親殺しという大きな負い目を背負い、自身や家臣の姓を変えたり、国内の宗教政策に手間取ったり。
早くに死んだからボロが出なかっただけという辛辣な意見もあります。
とはいえ、義龍が信長の前に立ちはだかっていたのは確か。
その死により、どんな影響が出てきたか。
1561年 森部の戦い
前述の通り、義龍の死から2日後の永禄四年(1561年)5月13日、織田軍は西美濃へ出陣しました。
あまりにもタイミングがよい出陣だったことから、事前に「義龍重病」の一報が信長のもとへ入り、その確認もあって進軍の準備をしていたのでは?と目されています。
合戦も織田軍の勝利でした。
斎藤軍は、日比野清実と長井衛安という六人衆の二人が戦死。
さらには「首取り足立」として知られる荒武者・足立六兵衛も前田利家に討たれます。
前田利家はそれまで信長の怒りを買って織田家を追放されており、この働きにより復帰を許されましたので、色々と転機になった戦いと言えましょう。

前田利家/wikipediaより引用
1561年 十四条・軽海の戦い
森部の戦いを終えた織田軍は、そのまま墨俣へ向かいます。
墨俣にあった砦を修築して利用したのです。
この行動が墨俣一夜城の元ネタになっているのでは?とも指摘されます。
両軍は、5月23日に十四条で激突し、このときは斎藤軍の勝利。
さらには翌日、軽海の戦いが起き、引き分けといった様相で墨俣へ戻ると、次は6月、織田軍は稲葉山城の城下へ進んで、民家などを放火して回りました。
このときは稲葉山城から西へ数キロにあった神戸市場(ごうどいちば)辺りまで進軍しています。
しかし、斎藤義龍が亡くなっても、生前に構築された政治軍事体制は十分に機能しており、織田軍の侵攻を跳ね返します。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/wikimedia commons
翌年2月には、墨俣砦も斎藤方へ引き渡されています。
信長はこの後、東美濃へターゲットを変えており、墨俣砦に対する執着を失っていたのでしょう。
この一件からも、後の「墨俣一夜城」が創作であることが浮かんできます。
1563年 小牧山城移転
永禄六年(1563年)、織田信長は清洲城の北、約15kmの位置に小牧山城を築き、本拠地を移転しました。
以下の地図をご参照ください。

次なるターゲットは犬山城です。
美濃との国境沿いに建っていて、城主の織田信清は信長の従兄弟でしたが斎藤方へ寝返っており、目の上のタンコブとなっていました。
なお、犬山城のすぐ北にある美濃の鵜沼城(うぬまじょう)が、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された大沢次郎左衛門の居城です。
1564年 犬山城の攻略
織田信清の守る犬山城は、木曽川を背後にした難攻不落の城でした。
力攻めでは相当な犠牲を伴ってしまう。

木曽川と犬山城
そこで織田軍は丹羽長秀が、支城の黒田城と小口城に調略を仕掛け、和田定利と中島豊後守の協力を得ることに成功。
永禄七年(1564年)8月、ようやく犬山城を落とし、尾張を統一します。
なお、この年の美濃では斎藤龍興の統治に大きな綻びが見え始め、2月に本拠地の稲葉山城が竹中半兵衛に乗っ取られるという大事件が起きています。
稲葉山城は後に龍興に返されましたが、義龍の死から3年が経過し、当時築かれていた盤石の体制に歪みが出てきたのでしょう。
盤石だった斎藤家臣団に不穏な空気が流れていることが明らかになりました。
犬山城の落城もその影響のあらわれかもしれません。
1564年 加治田城の内応
永禄七年(1564年)、犬山城を制した織田方に新たな朗報が舞い込みます。
犬山城から約17km北にある美濃の加治田城が、丹羽長秀を介して信長に通じてきたのです。
労せず美濃に拠点ができた――この一件をことのほか喜んだ信長は、加治田城主の佐藤紀伊守・右近右衛門親子に兵糧用軍資金として黄金50両を与えました。

丹羽長秀/wikimedia commons
1565年 鵜沼城・猿啄城の攻略
犬山城対岸の鵜沼城(うぬまじょう)と、そのすぐ北にある猿啄城(さるばみじょう)。
東美濃へ侵出するには避けて通れないこの城を大河ドラマ『豊臣兄弟』では豊臣秀吉の調略により城主・大沢次郎左衛門を味方に引き入れておりました。
しかし『信長公記』では異なる経緯が記されています。
まず両城を見下ろす伊木山に付城を築いて、鵜沼城下を焼き払うと、そこで初めて秀吉が大沢氏を調略。
続いて猿啄城は丹羽長秀が水源を断ち、河尻秀隆も攻め寄せると、耐えきれなくなった多治見修理亮は城を放棄します。

河尻秀隆/wikimedia commons
加治田城に続き、これで東美濃に大事な拠点が出来ました。
時期は永禄八年の夏とされます。
1565年 堂洞城の攻略
東美濃の諸城を奪われた斎藤軍も、もちろん黙っちゃいません。
長井隼人正が堂洞城を築いて加治田城を攻撃。
すると織田軍は永禄八年(1565年)9月、信長自らが出陣して斎藤方の堂洞城を二の丸を焼くと、さらには河尻秀隆が本丸へ突入し、丹羽長秀も続きます。
城内は、敵味方の見分けがつかない程の乱戦となりましたが、織田軍の勝利です。
帰りの道中、信長の軍勢700~800に対し、長井軍と斎藤龍興軍が3,000以上の兵力で襲いかかってきます。
結果、多くの負傷者・使者が出て、信長は撤退しました。
1565年 松倉城を調略
永禄八年(1565年)11月に木曽川エリアの松倉城主・坪内利定を調略しました。
現在のところ、豊臣秀吉が初めて史料に登場した出来事であり、美濃と尾張の国境沿いで織田軍が調略活動に励んでいたことがうかがえる一件です。

若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikimedia commons
織田軍と斎藤軍が衝突してはいませんが、信長の美濃攻略では重要な活動でしょう。
常に兵力で力押しするのではなく、調略と軍事行動が「糾(あざな)える縄の如し」といった様相で進められています。
1566年 河野島の戦い
永禄九年(1566年)4月、新加納の戦いが起き、ほぼ同時期に両国である変化が起きます。
上洛を望む足利義昭が斎藤と織田に和睦を働きかけ、一時は話がまとまりかけたのです。
しかし、義昭の上洛を阻みたい三好三人衆らの工作により、和睦と上洛が取りやめとなり、信長は面目を失うという羽目に陥ります。

絵・富永商太
斎藤と織田も再び交戦状態となり、永禄九年(1566年)8月29日に織田軍は河野島へ攻め入りました。
強引な進軍だったのか。織田軍は、翌閏8月8日に敗北を喫してしまいます。
1566年 墨俣一夜城
永禄九年(1566年)9月、豊臣秀吉が「墨俣一夜城」を成功させたことになっています。
しかしこの一件はあくまで『絵本太閤記』などの創作。
柴田勝家や佐久間信盛らを貶め、秀吉を持ち上げるためだけに描かれています。

『絵本太閤記』木下藤吉郎 洲の股に砦を築く/国立公文書館
墨俣がそんなに大事な拠点なら、過去にも手放すことなく死守すれば良かった話ですし、永禄八年以降の織田軍は、美濃の東部から中部にかけて順当に拠点を築いていってます。
一夜城自体の話はワクワクして非常に面白いですが、現実的には、リスクをおかしてまで西美濃に拠点を築く必要性が感じられません。
1567年 稲葉山城の戦い
永禄十年(1567年)8月、美濃三人衆から信長へ内応の話が持ち込まれました。
おそらく豊臣秀吉や丹羽長秀あたりが常に働きかけていたのでしょう。
直後の出世状況からすると、やはり秀吉の弁舌や交渉能力が突出していたように感じられます。
直後の、信長の動きも普通ではありません。
美濃三人衆から話の申し入れがあると、人質を受け取る段取りも無視して、いきなり稲葉山城下へと軍勢を繰り出したのです。
そして周囲を焼き払い包囲網を構築。
重臣である美濃三人衆が織田方に寝返ったということもあり、他の諸勢力も続き、斎藤龍興は飛騨川から長島へ逃げ落ちました。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikimedia commons
こうして織田信長は美濃全域を支配するようになったのです。
信長の美濃攻略まとめ
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いに勝利してから、美濃を制する永禄九年(1567年)まで。
織田信長が一貫して用いた基本戦略は「調略と機動力」でした。
斎藤方の武将を口説きつつ、兵を繰り出して戦いもする――ただし、雌雄を決するような大戦には発展しない。
なぜ、そんなパターンが繰り返されたのだろう?
と考えると「人心を重視していたから」のような気がします。
斎藤方の武将たちに「龍興ではなく信長の下で働きたい」と本気で思わせるようにするため、柔剛あわせた調略と合戦のアプローチを仕掛け続けました。
すべては「今川義元の首を取る」という凄まじいインパクトを残した信長だからこそ、効果が出る戦略なのかもしれません。
美濃攻略の次は、足利義昭を奉じての上洛戦であり、以降もあちこちで戦いに発展しています。
今後も引き続き信長や秀吉の戦いに注目して参りましょう。
参考書籍
木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(2020年2月 ミネルヴァ書房)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年11月 吉川弘文館)
【TOP画像】織田信長/wikimedia commons
