豊臣秀吉

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る

2025/08/18

日本史のみならず世界史を見渡してみても、この男以上に出世した人物はおらず――。

そう思わせてやまないのが慶長3年(1598年)8月18日に亡くなった豊臣秀吉であろう。

織田信長に仕え、天下人になったサクセスストーリーは輝かしいばかりであるが、同時にその出自や幼少期については、多くのナゾに包まれている。

墨俣城の伝説に始まり、中国大返し、山崎の戦い、文禄・慶長の役など……。

今なお燦然と輝く戦国末期の功績は、いかにして成し遂げられたのか。果たしてどこまで本当なのか?

太閤となった男の生涯62年を振り返ってみよう。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

※太閤とは「摂政や関白だった人物」の尊称

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豊臣秀吉 尾張に生まれる

秀吉は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。

生年についてはいくつか説があり、有力なのが以下の2つ。

天文5年(1536年)説 ※土屋知貞『太閤素生記』

天文6年(1537年)説 ※竹中重門『豊鑑』

織田信長が1534年、徳川家康が1542年なので、ほぼ同世代であることは間違いないが、それにしても、なぜ秀吉だけがアヤフヤなのか?

本来、名門武将であれば基本的に生年は「◯年」と記録されるか、場合によっては「◯月◯日生まれ」とまで残される。

が、秀吉の父は、足軽または農民だったとする木下弥右衛門で、身分があまりに低く、家族の出生記録も残されていなかったのだ。

『絵本太閤記』に弥助昌吉として登場する木下弥右衛門/wikipediaより引用

そもそも父親が誰なのか――そんな、のっぴきならない説も服部行雄氏によって提示され、これも有力視されているのだから、いよいよナゾに満ちた人物である。

 


最初の仕官先は織田家じゃない!?

通説に従って話を進めると、父・弥右衛門は早くに死に、母・なかは竹阿弥と再婚。

義父と実母の間に弟・豊臣秀長と妹・朝日が生まれ、義父と折り合いの悪かった秀吉は、家を出たという話になっている。

豊臣秀長/wikipediaより引用

ところがこれについても、竹阿弥が秀吉の実父という説や、いやいや秀長と朝日の父も秀吉と同じく弥右衛門だよ――と混乱させられるように、前半生は不明というのが実態だ。

秀吉の幼名に関しては『太閤素生記』には「猿」、後に「藤吉郎」、「小竹」、「日吉丸」とあり、同時に創作の可能性も指摘されている。

下層階級の出身であったため記録が少ないのが主な原因。

秀吉自身も天下人となってから「きょうだい」と名乗りあげた人物を虐殺した話や、「姉妹」と噂された人物を京都に呼び出し殺した話も伝わっており、実父の出自を隠そうとしていた様子がうかがえる。

家を出た秀吉は15歳頃、ある武家に仕えることになった。

それこそが織田信長……ではなく今川義元の陪臣・松下長則である。遠江国の頭陀寺(ずだじ)城主であり、現在の静岡県浜松市南区に本拠を構えていた。

家柄とは関係なく、若かりし頃から目端だけは利いたのであろう。

秀吉は松下家で目をかけられていたようだが、まもなく同家を去ることになる。

主君に気に入られ出世した秀吉を周りが妬んで居づらくなったからとも、秀吉が金を盗んで出奔したとも言われ、真偽は不明。

ただし、後に秀吉が、長則の息子・松下之綱(ゆきつな)を家臣にし、1万6000石の大名(遠江・久野城主)にまで取り立てていることから、少なくとも松下家に恩義を感じる扱いをされていたのは間違いなさそうだ。

松下加兵衛之綱/wikipediaより引用

 

女性問題で信長に叱られる

松下家を去った秀吉は天文23年(1554年)頃から、当時、清須城主だった織田信長に仕えはじめた。

仕官のきっかけは知人の口利きと言われるが定かではない。

草履取りとして信長の草履を懐で暖めた逸話もつとに有名だが、この話は江戸中期の本が初出である。

ただ、ここでも色々と機転が利き、信長に気に入られたことは確かなようだ。

秀吉は信長とどうやって主従関係を築いたのか|太閤記や信長公記の描写に注目

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草履の他にも、台所を取り仕切って薪の量を減らしたり、清須城・石垣修理の際には部下を数組に分け、早く仕上がった組に報奨を出すことでお互いを競わせ、工期を短縮した逸話が伝えられる。

永禄4年(1561年)、秀吉は信長の弓衆であった浅野長勝の養女・寧々(おね・ねね・ねい)と結婚する。

長勝は実子がおらず、おねは長勝の妻の妹にあたる朝日殿と杉原定利の娘であった(長勝の姪)。

この結婚は、10歳以上も若いおねに一目惚れした秀吉のプロポーズからはじまった恋愛結婚で、当時としては珍しいもの。

秀吉の身分が低かったことでおねの実母は結婚に反対だったが、長勝や周囲の説得もあり2人は無事、結ばれることとなった。

おねは後に秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)として豊臣家の家政をとりしきることとなる。

少々先の話となるが、長浜城主のころとみられる書状に【秀吉が女性問題でおねと大げんかをして信長が仲裁し、秀吉を「はげねずみ!」と叱責する】ものがある。

イラスト・富永商太

 

金ヶ崎で死地からの生還

秀吉の名が最初に現れた史料は、永禄8年(1565年)11月2日の坪内利定(喜大郎)宛て知行安堵状である。

このときの名前は「木下藤吉郎」。

坪内に与えられたのは622貫目(石高換算は諸説あるが藤田達生氏は100石としている)で中級武士だったことから、彼に知行を安堵できる秀吉は、この頃には織田家臣の中でも相当な地位を築いていたと言える。

ちなみにこのとき信長は、清須城から小牧山城(愛知県)へ居城を移している。

この2年後には、現代において軍師として知られる竹中重治(半兵衛)を配下に組み入れた。

竹中半兵衛/wikipediaより引用

岐阜城へ移った信長に従い、秀吉も上洛戦に参加し、近江(滋賀県)六角氏の観音寺城支城(箕造城)の戦いで武功を立てるなど、実戦での記録が目立つようになってくる。

そして元亀元年(1570年)、越前(福井県)の朝倉義景討伐に出かけた時、織田家ならびに秀吉の運命は大きく変わる。

浅井長政の突然の裏切りにより織田軍は挟撃されてしまったのだ。

北からは朝倉の反撃。

南からは浅井の猛追。

織田家ならびに織田信長は、後に幾度か周囲の大名たちに囲まれ、その命を脅かされてきたが、おそらくやこのときが最も慌ただしく追いつめられたことであろう。

そこで秀吉に与えられた役割が殿(しんがり)であった。

迫りくる敵の目を自分たちに引きつけながら、同時に味方の軍を無事に国許(あるいは京都)へ帰らせる役割であり、死んでも仕方のないポジションである。

そこで見事、信長はじめ大勢の味方を撤退させることに成功し、同じく任にあたっていた池田勝正や明智光秀と共に帰国を果たす。

この一連の撤退劇を「金ヶ崎の退き口」と言い、考え方によっては秀吉最初のターニングポイントだったと言えるかもしれない。

ちょうど織田信長が桶狭間で今川義元を討ったように。

 


小谷城攻め

朝倉浅井の挟撃に遭い、一時は死線を彷徨った織田軍。

いったん国へ戻った信長の動きは異常なまでに素早かった。

同撤退から約3ヶ月後、リベンジとばかりに浅井へ攻め込み、【姉川の戦い】に勝利する。

浅井長政/wikipediaより引用

浅井の本拠地・小谷城を守るための支城である横山城にいた浅井氏家臣の上坂、三田村、野村肥後が撤退すると秀吉が定番(城番)として入城した。

それから約3年後の天正元年(1573年)、ついに織田勢は小谷城の戦いで浅井家を滅亡へと追い込むのであった。

難攻不落の山城とされる小谷城攻撃では、秀吉が大奮闘。

まず、姉川の戦いに敗れて小谷城に籠城した浅井長政に対し、元亀3年(1572年)、小谷山の眼前にある虎御前山に付城(陣城)を築く。言うまでもなく包囲するためだ。

信長はこの虎御前山城の城番を秀吉とした。

『信長公記』によると、浅井攻めの最終局面において秀吉は虎御前山城の本陣を出て、水の手谷から京極丸を攻め落としたとある。

このことにより、長政のいる本丸と長政の父・久政の籠もる小丸が分断され、追い詰められた久政は自刃。

浅井久政/wikipediaより引用

その後、嫡男・万福丸を城外に逃がし、正室と三人の娘を織田軍に引き渡した長政は自害し、北近江の戦国大名浅井氏は50年の歴史に幕を閉じた。

助けられた浅井三姉妹の長女・茶々は、後に秀吉自身の側室となって豊臣秀頼を産み、次女の「初」は京極高次に嫁いで、三女の「江」は徳川秀忠の妻となるのはよく知られた話であろう。

城外に逃れた浅井万福丸は、信長の命を受けた秀吉の軍勢により発見され串刺しの刑に処せられている。

浅井万福丸
浅井万福丸の処刑|信長を裏切った長政の息子に科された過酷な運命とは?

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37歳で城持ち

これら活躍の報奨として秀吉は、浅井の旧領・北近江三郡を与えられた。

小谷城は廃城となり、秀吉は琵琶湖に面した「今浜」を「長浜」と改名し長浜城を建てる。

改名の際には信長から「長」の一字をもらったという、なんとも彼らしい話が伝わっているが、このとき信長に仕えて約20年が経過。

出自すら不明の秀吉は、37歳にして城持ちとなるのであった。

なお、記事の便宜上、ここまで全て「秀吉」表記で統一しているが、当時「木下」と名乗っていた秀吉はこの頃(元亀4年頃)に「羽柴」と改めている。

「羽柴」という名字は、信長の有力家臣である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ貰った――というのが通説ながら、他にも説があって確定はしていない。

柴田勝家(左)と丹羽長秀/wikipediaより引用

天正三年六~七月頃からは文書の署名で「藤吉郎」の通称を記さず、「筑前守」の受領名を用いるようになっている。

いずれにせよ朝倉浅井を滅亡させ、尾張~美濃~そして近江・琵琶湖畔を手中に収めた織田家。

近江と岐阜を結ぶ要衝で城主となった秀吉の貢献が多大であったことは疑うべくもなく、後に彼らは西の大国・毛利家との対決に駆り出されることとなる。

そこで気になるのが東の脅威だった武田信玄。

一体、どうなったのか?

というと、話は前後してしまうが、浅井朝倉を滅亡させる前に信玄は亡くなっており(1573年)、織田家としては一気に道が拓けるような極太の幸運に恵まれている。

 


謙信を目前に逃亡→松永討伐で名誉回復

武田勝頼との直接対決となる【長篠の戦い(1575年)】では秀吉も一軍を率いて騎馬軍団の精鋭たちを撃退。

更には翌年、伊勢(三重県)北畠氏の遺臣が籠もる霧山城攻略などでも功績を挙げた。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用

この1576年には織田信長の命による安土城の建設も始まっている。

普請奉行に任命されたのは丹羽長秀。

彼の指揮によって工事が進められていく中で、秀吉が出て来るエピソードが「蛇石」という巨石だ。

城の中へと運ぼうとしたがどうしてもうまくいかず、そこで秀吉や滝川一益などが手伝うこととなり、実に1万人もの人数で山頂へ引っ張りあげたという。

伊勢安土桃山文化村にある安土城のレプリカ

かように近江ではノンビリとした牧歌的な雰囲気も感じられるが、一歩、外へ目を向ければ敵だらけの状況に変わりはない。

信玄が死に、次に脅威となったのが他ならぬ上杉謙信だ。同家との戦いは秀吉にとっても後味苦いものとなった。

柴田勝家が謙信と対峙した【手取川の戦い(石川県)】で、勝家と意見が合わず無断で撤退し、信長の勘気を被るのである。

ただしこの直後、松永久秀の討伐戦で功績を挙げて信長から褒美まで貰い、信用もさらに厚いものとなったのだろう。

天正5年(1577年)秀吉は、毛利元就の築いた中国地方の毛利切り崩し工作を命ぜられる。

このころ信長の四男・於次丸を養子として迎えてもおり、信長政権下では明智光秀と並び称されるトップクラスの「軍団長」となっていた。

 

秀吉にとっても織田家にとってもピンチ!

いざ中国地方へ進出――。

天正5年10月、信長の命令で毛利氏の勢力下にあった中国地方攻略を命ぜられた秀吉は、長浜城を妻のおねに任せて播磨国へ出陣した。

秀吉の播磨平定は順調に進み、播磨国守護・赤松氏配下の赤松則房・別所長治・小寺政職らを従え、かねてから交流のあった黒田官兵衛(孝高)から姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。

黒田官兵衛/wikipediaより引用

しかし天正6年2月、別所長治が毛利方へと離反、拠点である三木城を包囲。

2年にわたり過酷な兵糧攻めとして知られる「三木の干殺し」を敢行する。

この戦いの最中、秀吉にとっては信じがたいことが起きる。

同年6月、播磨・伊丹城の荒木村重が離反したのだ。

絵・富永商太

 

ここを押さえられれば中国地方と近畿地方への通路が遮断され、地理的に見て、窮地に立たされるのは明白。

中国攻略は一時膠着せざるを得ず、しかも村重の説得に向かった黒田官兵衛(孝高)が、逆に有岡城に1年余り幽閉される事件もおきてしまう。

織田家にとってもピンチと言える状況となった。

 


伝説の「中国 大返し」始まる

風向きが変わり始めたのはその翌年。

天正7年(1579年)に備前美作の大名・宇喜多直家が服属し、10月にはようやく有岡城を陥落、天正8年1月には前述の三木城を攻略した。

さらに翌天正9年には、事前に周囲の米を買い上げた上で鳥取城を完全に包囲し、数千人もの人々を餓死へと追い込み、同城を陥落させる(鳥取の飢え殺し)。

詳細は以下の記事へ譲り、先へ進めると

戦国時代屈指の凄絶な籠城戦となった「鳥取の渇え殺し」と「三木の干し殺し」。豊臣秀吉と黒田官兵衛はいかにして2つの城を兵糧攻めしたか。史実から振り返る。
鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦

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天正10年(1582年)、秀吉は、毛利方の備中高松城(岡山県)で水攻めを行っていた。

敵城主は今なお名将として名高い清水宗治。

援軍にやってきた毛利方としてもこの拠点を落とされるワケにはいかず、さりとて秀吉との全面対決には至らず、ジリジリと大軍の鼻先を突き合わせて動けずにいる日々が続く。

戦局を動かすには、織田信長、直々の出陣がしかるべきか――。

後世から見てもかような判断をしてもおかしくない、まさにそんなとき、秀吉にとっては雷に打たれたような激震が走ったであろう出来事が勃発する。

日時は6月2日早朝。そう、本能寺の変が起きたのだ。

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用

秀吉が、信長の死を知ったのは6月3日夜から4日未明と言われる。

つまり事件後36時間から48時間のうちに知らされていたのだから、その情報網はかなり高度なものだったと推測できる。

秀吉は信長の死を隠し、高松城主・清水宗治の切腹を条件に、毛利輝元と講和を結び、即座に京へ軍を引き返した。

実際は、水運を通じて毛利方にも「本能寺の変」が伝わっていたという見方もある。

となると、なぜ毛利方は秀吉の背後へ襲いかかることをしなかったのか?という疑問も湧いてくるが、領土拡大を望まない毛利としてはここで秀吉に恩を売っておき、事後の所領安堵を担保しておきたかったのかもしれない。

そしてドラマやマンガなどでお馴染みの大移動劇が始まる。

【中国大返し】だ。

 

山崎で光秀を討ち、清須に臨む

備中高松から京都まで約230km。

これを約10日間で走りきったとする「中国大返し」の秀吉軍について、日程の詳細は諸説あるが、9日未明には姫路城を出立したことが様々な史料で一致している。

しかし、神軍のごとき描かれ方は誇張であり、最近はあくまで“普通の行軍”だったという指摘が根強い。

毛利と和睦を結び、直後に明智との合戦に挑んだため、そうした誇張も人々に受け入れられたのだろう。

絵・富永商太

秀吉は、配下の兵に姫路城の米や金銭をすべて分け与え、明智光秀との戦いに決死の覚悟で臨んだ。

場所は京都の山崎である。

短期間で大軍の動員に成功した秀吉は、6月13日、満足に態勢の整わない明智軍と決戦、首尾よく勝利を治める。

同合戦は【山崎の戦い】とも天王山の戦いとも言われ、その兵数は史料により異なるが、太閤記によると秀吉軍4万に対し明智軍は1万6000しかおらず、迅速な行軍が勝利につながったといえるだろう。

信長の弔い合戦で主君の仇を討った秀吉。

織田家臣団の中で政治力・発言力を強め、臨んだ清洲会議では三法師(信長の長男・織田信忠の息子)を担ぎ出したとされる。

絵本太閤記に描かれた豊臣秀吉と三法師/wikipediaより引用

しかし実際は秀吉が好き勝手に進めたというような劇的な会議でもなかった。

織田信忠の嫡男である三法師が織田家の当主となるのは始めから決まっていた既定路線。

ただし、まだまだ幼子であり現実には政権運営など不可能なため、この会議では、その名代の座を求めて、織田信長の息子たちである織田信雄と織田信孝が揉めたというのだった。

秀吉にも勝家にも、はなから主役になるような舞台でもなかったのである。

結局、信雄と信孝では実力が拮抗しておりどちらが名代となることもなく、とりあえず、信長の側近で織田家の重臣でもある堀秀政が三法師を預かることになった。

清洲会議
清洲会議|秀吉が三法師を担ぎ上げたのではなく実際は“名代”を決める場だった

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秀吉が信長の葬儀を取り仕切り

姫路城を拠点とした秀吉は、急遽、山崎の戦いで舞台となった地に山崎城を築いた。

京都や安土城から遠い姫路では、いざというときに心もとないからである。

清洲会議から数ヶ月の間、表面的に秀吉と勝家との争いは見られなかった。

しかし同年十月、風向きが変わる。

この月の十五日に京都の大徳寺で信長の葬儀(百カ日法要)が行われた。

七日間をかけて行われる大々的な葬儀であり、遺体の無い信長を荼毘に付す代わりとして、秀吉は、香木で木像を2体作らせ、1体を祀り、1体を火葬した。

信長の棺に付き従った参列者は3000人余り。警護の兵は3万人。

そして、このセレモニーの喪主は三法師ではなく、信長の四男で秀吉の養子となっていた秀勝であった。

信長の次男・織田信雄、三男・織田信孝の出席も無く、もちろん勝家の参加もない。

要は、秀吉が、この葬儀を取り仕切り、自身が織田家中の主導的な立場、つまり信長の後継者であるということをアピールしたのである。

織田信雄(右)と織田信孝/wikipediaより引用

こうした状況に先に痺れを切らしたのが織田信孝であった。

三法師を抱えて織田家の主導権を奪おうとした信孝は、秀吉と対抗するため柴田勝家へ接近。

もとよりお市の方を嫁がせていたという経緯もあり、信孝と勝家は結びつき、秀吉は両者と敵対せざるを得なくなる。

そして天正11年(1583年)、両者は【賤ヶ岳の戦い】へと発展した。

 

報いを待てや 羽柴筑前

当初は勝家側が優勢であった。

しかし、岐阜城へ向かうと見せかけて急に踵を返した秀吉の「大返し」による機動戦や、前田利家の戦線離脱などにより、柴田勝家軍は大敗。

前田利家/wikipediaより引用

越前の北ノ庄城(のちの福井城)に撤退した勝家は、結婚したばかりの正室・お市の方と共に自害した。

浅井長政の小谷城陥落に続き、このとき再び救出された浅井三姉妹の長姉茶々が、のちに秀吉第一の側室となるのはもはや抗えない運命だったのかもしれない。

その後、岐阜城主だった信孝は、尾張知多の大御堂寺(野間大坊)にて自刃に追い込まれた。

ちなみにこの野間大坊(愛知県美浜町)は、平安時代の「平治の乱」で源義朝(頼朝の父)が殺された地であり、信孝は自ら腹を切ると、秀吉相手に凄まじい怨恨の辞世を残している。

「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

 

家康を相手に「小牧長久手」

織田信雄を当主に祭り上げ、実質的に織田家を牛耳った秀吉は天正11年(1583年)、大坂石山本願寺の跡地に絢爛豪華な大坂城の建築をはじめた。

※黒田勘兵衛を責任者とした同城の工事は6万人を動員し、約15年の歳月を経て完成にいたる。

そして天正12年、信雄との仲が悪化すると、にわかに浮かび上がってきたのが徳川家康だった。

徳川家康/wikipediaより引用

本能寺の変で命からがら浜松へ引き返していた徳川家康は、信長の敵討ちを秀吉に先を越され、急に膨張していく秀吉の権力に何らかの手を打たねばならない状況であった。

そこで、反秀吉の動きを見せた織田信雄と手を組み、兵を挙げるのであった。

この対立は諸将を巻き込み、尾張北部を舞台とした【小牧・長久手の戦い】へと続いていく。

1584年3月、織田陣営だった二人の寝返りによって合戦は始まった。

二人とは、池田恒興(岐阜城主)と森長可(美濃・金山城主)であり、キッカケとなったのは美濃に面した犬山城(愛知県犬山市)。

秀吉軍10万。

対する織田・徳川連合軍は3万。

圧倒的な兵力差だが、結束の固い徳川軍の士気は低くない。

小牧山城に立て籠もる織田・徳川軍に対して、秀吉は、楽田城を前線基地に、付け城を多数築城、小牧山城を包囲した。

しかし、かつての三木城や鳥取城、高松城のような完全な包囲はできず、戦況に痺れを切らした秀吉は、三河急襲作戦を発動する。

この急襲作戦、かつては「羽黒の戦い(犬山城占拠の局地戦で森隊は徳川の急襲を受ける)」で敗北した池田恒興と森長可が汚名返上のため、しぶる秀吉を押し切ったアイデアとされていたが、実際は秀吉が主導したことが判明。

結局、秀吉のおいの羽柴秀次(豊臣秀次)を大将とする三河中入り部隊は、4月9日、長久手において挟撃され、森長可・池田恒興はじめ2,500人もの将兵を失い、完敗となった。

池田恒興(左)と森長可/wikipediaより引用

局地戦はあったが、精強な徳川相手の無理強いを嫌った秀吉は矛先を変えて、尾張南部の徳川陣営の城や信雄の本拠地・伊勢(三重県)を攻撃し、これに耐えかねた信雄との単独講和にこぎつける。

かくして大義名分のなくなった家康は軍を撤収するしかなかった。

 

いよいよ天下人へ

足場を固めた秀吉は、いよいよ反秀吉勢力の各個撃破に乗り出す。

天正13年(1585年)の【紀州征伐(和歌山)】を皮切りに、同年には長宗我部元親を降伏させ、四国も傘下に。

最強のライバル・家康も、天正14年の正月に信雄を通じて和睦に至る。

が、臣従を意味する上洛を家康が拒否し続けたため、同年9月、秀吉はウルトラ技を繰り出した。

実母・大政所を三河に下向させたのである。

大政所なか/wikipediaより引用

ことここにいたり秀吉の政治力・外交術に負けた家康は10月になってようやく浜松を出発し、同月26日、大坂城で対面した。

これにて秀吉の天下人としての座は、ほぼ確定したのである。

勢力拡大と連動するように官位も上がった。

天正12年に従三位権大納言となると、天正13年には正二位内大臣に叙任される。正二位は信長と並ぶ官位である。

実は、右大臣の就任も打診されていたが、信長が前右大臣の地位で本能寺で斃れたことからこれを避けたという。

四国攻めの最中には関白相論(二条昭実と近衛信尹の関白をめぐる争い)で漁夫の利を得て、藤原氏である近衛家の養子となり関白に就任する。

関白就任は、家康を屈服させる大義ともなった。

 

小田原&奥州 天下統一の総仕上げ

そして天正14年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任、豊臣政権を樹立する。

この時点で秀吉に従っていない大勢力は、九州の島津氏、関東の北条氏、東北の伊達氏ら、地方の諸大名である。

※伊達政宗と並ぶ東北の雄・最上義光は、早くから中央に誼を通じており、伊達家とは異なる動きをしていた

伊達政宗(左)と最上義光/wikipediaより引用

九州で勢力を伸ばしていた薩摩(鹿児島)の島津義久は、豊後(大分)の大友宗麟と領地を争っていた。

局地戦では立花宗茂が奮闘するなどの動きを見せていた大友であったが、ついに劣勢へと追い込まれると宗麟は秀吉に助けを求め、秀吉も好機とばかりにこれを受諾。

朝廷権威を背景として島津義久に停戦命令(後の惣無事令、大名同士の私的な領土争いを禁じた命令)を発令するのであった。

しかし、島津義久はこれを無視。

仙石秀久や長宗我部元親を相手にした【戸次川の戦い】で鮮やかに勝利を飾るも、結局は衆寡敵せず。

20万にも及ぶ秀吉の大軍に抗しきれず、あえなく降伏することとなる。

なお、豊臣政権下での島津家は、義久の弟・島津義弘の覚えがよく、その義弘が関が原の戦いですったもんだがあり、後に【島津の退き口】へと繋がるのであるから、歴史とは興味深い。

島津義弘/wikipediaより引用

九州平定後、秀吉は関東と奥羽の諸大名に向けて惣無事令を発令した。

要は「勝手にケンカしちゃダメ。違反したら潰すよ」という趣旨のものであり、未だ完全なる支配下には及ばない東国の武将たちにとっては「何を突然?」というほかない内容である。

とはいえ、秀吉の権力が絶大なものであることは絶対で、伊達政宗などはいつ傘下に降ろうか……と、タイミングを計っていたとされる(少し遅れて危うく首を斬られそうに)。

そこで先を見誤ったのが北条だった。

同家は、豊臣方である真田との領地争いを抱えており、惣無事令が発令された後に真田方の城を強奪。

まさに秀吉へとケンカを売ったようなカタチとなってしまう。

徳川が間に入って調整を続けようにも、時既に遅し。

秀吉は、惣無事令違反をただすための兵を挙げ、瞬く間に20万の大軍で小田原城を包囲すると、わずか3ヶ月後で降伏させ、小田原征伐を完了させるのである。

この小田原陣中、我先にとやってきた東北勢の武将が津軽為信だ。南部氏からの独立を巡り争っていた為信は、いち早く秀吉に認められることで大名としての既成事実を作ってしまうという離れ業を繰り出す。

他に奥州からは、伊達政宗らも参陣しており、小田原落城後の奥州仕置を以て秀吉の天下統一は完了した(1590年)。

あくまで後年からの評であるが、この頃が天下人・秀吉としてのピークだったのではなかろうか。

彼がこのころ行った政策として、

・京都に「聚楽第」の築城(大坂城は私的な城)

・バテレン追放令

・刀狩令

などがあり、更には信長の姪・茶々(淀殿)を側室にしている。

淀殿(茶々)/wikipediaより引用

関白の公的な城である聚楽第は、間もなく廃城となり、代わって伏見城を建築。大坂城に水運で直結させた。

そして天正17年(1589年)には、秀吉と淀殿の間に待望の長男・鶴松が生まれ、いったんは後継者としている(後に幼くして死亡し、その弟・秀頼が豊臣の跡を継ぐ)。

ちなみに秀吉は、おねをはじめ多数の妻を持ったが、子供が生まれたのは淀殿のみという説が有力。

つまりは女性側ではなく、秀吉の生殖機能に問題があったと推測される。

詳細は以下の記事をご覧いただきたい。

秀頼が秀吉の実子でなければ誰の子なんだ?|粛清された陰陽師の中にいたのか

続きを見る

 

朝鮮出兵と秀次自害

天正19年(1591年)、秀吉を支えて来た弟の秀長が亡くなった。

更には後継者に指名していた鶴松も、相次いで病死。その落ち込みは推して知るべし、秀吉は姉の子である秀次を養子に迎え、家督を相続させる予定として関白を譲る。

関白を譲った人のことを「太閤」と呼ぶことから、秀吉は太閤と呼ばれることになった。

秀吉の政治力・外交力からキレが失われていったのもこうした不幸が原因だったのだろうか。

同年、それまで重用していた茶人・千利休を自害させると、8月には【唐入り】を表明、肥前国に出兵拠点となる名護屋城の築城を開始する。

そして翌文禄元年(1592年)、明と朝鮮の征服を目的に16万もの軍勢を朝鮮へ出兵させた(文禄の役)。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用

朝鮮出兵の序盤は、秀吉軍が朝鮮軍を圧倒した。

しかし、明からの援軍が送られてくると、たちまち戦況は膠着、文禄2年なって明との講和交渉が開始される。

朝鮮出兵は、兵役を課せられた西国の大名を疲弊させ、豊臣政権の基盤を弱める結果となった。

そしてこの年、豊臣政権の今後に響く出来事が同時に起こる。

茶々(淀殿)との間に豊臣秀頼が生まれたのだ。

これで困ったのが甥の豊臣秀次である。

豊臣秀次/wikipediaより引用

鶴松の時と異なり、秀吉は既に後継として秀次を関白としていた。

当初は、全国をエリアに分けて「秀次5、秀頼1」と明言するなど、秀次排斥の予定はなかったのである。

しかし、秀次のメンタルが弱かったのであろうか。

秀頼誕生に焦って情緒不安定になると、両者の溝が深まってゆき、結局は「秀次切腹事件」へと繋がってしまう。

同事件の処理が、またマズかった。

秀次の自害に連座して、妻子の殆どが処刑されたのである。

元々少ない秀吉の血縁を更に減らすことになったばかりか、殺された妻子の中には、秀次に嫁いだばかりでこれから顔を合わせようという駒姫(最上義光の娘)もおり、更には伊達政宗なども嫌疑をかけたのだから始末が悪い。

駒姫像/wikipediaより引用

最上も伊達も、秀吉の死後、キッチリと徳川家康になびいている。

そして慶長2年(1597年)、明との和平交渉の決裂を受け、再び14万の兵を朝鮮に出兵(慶長の役)。

同時に京都と大坂のキリスト教徒を捕縛し26名を処刑した。

慶長3年(1598年)3月に醍醐の花見を終えた後、5月より病にかかっていた秀吉は日々体調が悪化する中、五大老と一部の五奉行に宛て遺言状を出し、この世を去った。

8月18日、場所は伏見城にて。

死因は明らかではないが、腎不全による尿毒症、脚気、梅毒、明の使者による毒殺と諸説ある。

62歳の波乱に満ちた生涯であった。

辞世の句は、慌ただしく権力の階段をのぼりきった男にしては、どこか儚いロマンの漂うものであった。

「露とおち 露と消えにし 我が身哉 難波のことも 夢のまた夢」

 

20人はいたと思しき側室と数少ない子供

秀吉の妻としてよく名が上がるのは、貧しい時代から彼を支えた「おね」と、秀吉が50歳を過ぎて側室に迎えた淀殿だろう。

おねと秀吉の間には子はいなかったが、加藤清正や福島正則などの親類縁者を実子のように可愛がり育てた。

淀殿は、信長の妹・お市の方と浅井長政の娘である。

「淀」の呼称は、第一子・鶴松を懐妊した際に秀吉が山城・淀城(京都)を産所として与えたことに由来する。

鶴松は2歳で夭折してしまうが、第2子の秀頼は5歳で家督を継ぎ、成人を迎えている。

豊臣秀頼/wikipediaより引用

前述したように秀頼は秀吉の実子でないという説も根強いが、真相を知るのは母の淀殿のみであるが、結局、その秀頼も大阪の陣で自刃し、息子の国松は処刑され、娘は仏門に入った。

秀吉の血を直接引いた子孫は居ない。

秀吉は女好きで多くの側室を持った。

生まれと容姿のコンプレックスから身分の高い女性に憧れていたとも思われ、側室の中には、大名の娘も多くいた。信長の娘や、前田利家の娘、淀殿の従姉妹にあたる人物もいる。

ただ、なぜか公家の娘には興味を持っていなかったようだ。

はっきりと記録が残る側室は13人であるが20人程度の妻がいたと考えられる。

長浜城主時代には、妾にあたる南殿との間に一男一女をもうけたともされる話もあるが、両人とも幼いうちになくなっている。

 

大事にしきれなかった血縁関係

秀吉には父の同じ姉が1人、父の違う弟1人と妹が1人いる。

父の同じ姉の智(日秀尼)は、農民であった弥彦(後に秀吉の家臣となり三好吉房と名乗る)に嫁ぎ、三男を産んだ。

それぞれ以下のような足跡を辿っている。

・長男の秀次は秀吉の養子となり関白の位を譲られるが粛正される(あるいは自らの自害説も)

・次男の秀勝も秀吉の養子となり、浅井長政の三女・江と結婚し、娘の完子を授かるが、文禄の役にて朝鮮に渡って病死する。

完子は江の再婚に際して、淀殿の養女となり九条家に嫁いだ。

秀吉の親類で現在まで血脈を残しているのは完子の子孫のみであり、実は今上天皇にも完子のDNAが受け継がれている。

・三男の秀保は叔父・秀長の娘と結婚し養子となるが、子を作る前に17歳で急死している。

異父弟にあたる秀長は温厚な人物で、内外の政務および軍事面で秀吉を支えた。

豊臣秀長/wikipediaより引用

諸大名の中にも秀長を信頼している者が多くあり、転職王と呼ばれた藤堂高虎も秀長が52歳で病死するまで配下にいた。

彼が長生きしていれば豊臣政権が存続した可能性があったかもしれない。

秀長の子女は、夭逝した男児の他は男子がおらず、長女は前述の秀保と結婚するも、子はいなかった模様。

次女の菊は毛利秀元に嫁ぐも妊娠中に死去。秀長の家系は子の代で断絶している。

妹の旭は、農民(秀吉の出世で武士となる佐治日向守)に嫁いでいたが、家康と和議を結ぶための政略結婚の道具として44歳で無理やり離婚させられ、徳川家へ正室(継室)として嫁いだ。

高齢であったため子は出来ず、47歳で病死している。

その他、秀吉の親類としては、母・なかの妹の息子(秀吉の従兄弟にあたる)福島正則や、母同士が従兄弟であり、秀吉とは又従兄弟にあたる加藤清正が知られる。

加藤清正(左)と福島正則/wikipediaより引用

福島正則、加藤清正は幼い頃からおねが可愛がって育てたため、おねを「おかか様」と慕ったとされる。

秀吉は、妻であるおねの親戚も家臣や養子として取り立てており、関ヶ原にて西軍を裏切った小早川秀秋はおねの兄・木下家定の息子であり、五奉行の1人・浅野長政はおねの養父・浅野長勝の甥にあたる。

 

身分低すぎるがゆえの「姓」の変遷

名字について、木下と羽柴については先に述べたが、身分の低かった秀吉に「本姓」はなかった。

秀吉は、天正11年(1583年)の従四位下参議から天正13年の内大臣まで「平秀吉」を名乗っている。

これは本姓がなかったため、主君であった織田信長の本姓(織田氏は桓武平氏の流れを汲むと言われる)を真似たと考えられる。

関白の就任にあたり、前関白・近衛前久の猶子となった秀吉は、姓を平から「藤原」に改めた。

そしてその後、正親町天皇から豊臣を本姓として賜り、使用するようになる。

秀吉はなぜ将軍ではなく関白になった?
なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか|エゲツない手法で公武政権を樹立した真意

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中世から近世へのターニングポイント検地

本編で触れなかったが、試験には頻出する秀吉の政策を一つ補足しよう。

秀吉の検地(土地の再調査=増税)は、太閤検地と呼ばれる。

日本中が、石高を代表とする同じ基準で測量や土地の価値が統一され、日本経済史上、重要な出来事だ。

天正18年(1590年)の奥羽仕置までは、占領地に限定して行われたが、その後は、豊臣政権の重要な政策として全国で実施。

石高がわかると、その田畑で養える人口が計算できる。すなわち、動員可能な兵力がわかる。

特に文禄の役(朝鮮出兵)後に、広範囲に検地が行われていることから、朝鮮での兵糧を確保する目的があったとみられている。

 

豊臣秀吉・年表

1537年頃 尾張国中村に生まれる

1551年 頭蛇城城主・松下長則に仕える(15才)

1554年 清須城主であった織田信長に仕えはじめる(18才)

1561年 おねと結婚する(25才)

1566年9月 墨俣城を築く(30才)

1570年4月 金ヶ崎の戦いで殿を務める(34才)

1573年 羽柴秀吉と改名する

1573年8月 小谷城の戦い(37才)

1574年1月 長浜城を築城し居城とする(37才)

1577年10月 信長より中国攻めを命ぜられる(41才)

1578年3月 三木合戦(42才)

1581年10月 鳥取城の戦い(45才)

1582年6月 本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を討つ(46才)

1582年7月 太閤検地をはじめる

1583年4月 賤ヶ岳の戦い(47才)

1583年6月 北ノ庄城の戦い

1583年 大坂城築城開始

1584年 小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦う(48才)

1585年3月 紀州征伐(49才)

1585年7月 関白に任命される。四国平定

1585年9月「豊臣」姓を賜る

1586年12月 太政大臣に任命される(50才)

1587年5月 九州平定(51才)

1587年7月 バテレン追放令を出す

1587年9月 聚楽第を築く

1587年10月 北野大茶会

1588年1月 茶々を側室にする(52才)

1588年7月 刀狩令

1590年3月 小田原征伐(54才)

1590年6月 奥州を平定。秀吉の天下統一が完成する

1591年1月 弟・秀長が病没(55才)

1591年2月 千利休切腹

1591年12月 甥の秀次に関白を譲る

1592年4月 文禄の役(56才)

1593年8月 嫡男・秀頼の誕生(57才)

1595年7月 秀次切腹(59才)

1598年8月 伏見城にて病没(62才)

死後

1600年9月 関ヶ原の戦い

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参考文献

  • 名古屋市博物館 編『豊臣秀吉文書集 第1巻 永禄八年〜天正十一年』(吉川弘文館, 2015年1月, ISBN-13: 978-4642014212)
    出版社: 吉川弘文館
    Amazon: 商品ページ
  • 服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉(歴史文化ライブラリー)』(山川出版社, 2012年5月, ISBN-13: 978-4634150218)
    出版社: 山川出版社
    Amazon: 商品ページ
  • 藤田達生『秀吉神話をくつがえす(講談社現代新書)』(講談社, 2007年9月, ISBN-13: 978-4062879071)
    出版社: 講談社
    Amazon: 商品ページ
  • 藤井譲治『天下人の時代(日本近世の歴史 1)』(吉川弘文館, 2011年11月, ISBN-13: 978-4642064293)
    出版社: 吉川弘文館
    Amazon: 商品ページ
  • 戦国☆保健委員会 編著/酒井シヅ 監修『戦国武将の死亡診断書 ― 武将たちの死因を現代医学で解き明かす!』(エクスナレッジ, 2012年1月, ISBN-13: 978-4767812571)
    出版社: エクスナレッジ
    Amazon: 商品ページ
  • 小和田哲男 監修『戦国武将の履歴書 教科書には載っていない意外な素顔(宝島SUGOI文庫)』(宝島社, 2015年8月, ISBN-13: 978-4800244352)
    出版社: 宝島社
    Amazon: 商品ページ
  • 堀 新 編/井上泰至 ほか『秀吉の虚像と実像』(笠間書院, 2016年7月, ISBN-13: 978-4305708144)
    出版社: 笠間書院
    Amazon: 商品ページ
  • (参考)名古屋市 教育委員会『豊臣秀吉関係史料(名古屋市博物館/秀吉清正記念館)』
    公式: 名古屋市公式サイト

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・中世・古代・幕末をはじめ、幅広い歴史分野をカバーしつつ、Google Discover 最適化、クラスタ構造にもとづく内部リンク戦略、画像最適化、SEO設計に精通。現在は企業のオウンドメディア運用およびコンテンツ制作コンサルティングも手がけ、歴史 × Web編集 × SEO の三領域を横断する専門家として活動している。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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