そう問われたら、優勝候補の一人となるのが長州藩の俊才・久坂玄瑞でしょう。
特に幕末京都での人気は凄まじいもので「あなたにとって一番のイケメンは誰ですか?」とインタビューしたら、こんな答えが返ってくる気がします。
「長州のお侍さんはええね。金離れもええ」
「長州いうたらやっぱり久坂さんやわぁ。イケメンやし、イケボやし、スタイルええし」
「久坂さんがあの声で詩を吟じているの聞いたけど、ほんまええ声で……」
以下の著名な肖像画は
実子・久坂秀次郎をもとに描かれたもので、本人ではありません。
当時の本人はレジェンド級のイケメンかつ長身でインテリというモテ要素がギュッと詰まった方。
それが元治元年(1864年)7月19日に25歳という若さで亡くなってしまうのですから、ドラマ性まで伴った屈指の幕末武士と言えるでしょう。
本稿では屈指のモテ男だった久坂玄瑞の生き様、軌跡に注目してみたいと思います。
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萩城下一のイケメンは松陰妹・文のハートを掴む
身長は180センチを超え、誰もが聞き惚れるような美声の持ち主。
しかも色白のイケメン。
萩城下で誰もがウットリしたであろう久坂玄瑞に恋をしたのは、あの吉田松陰の三番目の妹である文(美和子)でした。
※以下は吉田松陰の考察記事となります
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2015年大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロインとしてもおなじみですね。
久坂18才、文15才の時、二人は結婚。これがなかなか大変なエピソードがありまして。
仲人の中谷正亮と久坂とは、こんなやりとりがありました。
「松陰先生の妹・文さんと、結婚しんさい」
「あねえなブスはわしの好みじゃない」
「は? お前は結婚相手をルックスで選ぶそ? つまらん男じゃのぉ」
女としては屈辱的な逸話であるにも関わらず、文は夫を心の底から愛しておりました。
そんな久坂の生誕は天保11年(1840年)。
例えば1827年生まれの西郷隆盛と比べると13才下になります。
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幸福な幼年時代と、その哀しい終焉
久坂の生まれは長門国・萩です。
父は藩医の久坂良迪(りょうてき)。母は庄屋の娘であった富子。久坂家は寺社組、禄は25石です。決して高い家格ではありません。
それでも幼い頃は、なかなか穏やかで楽しいものであったようです。
凧揚げや竹馬で遊び、梨や棗(なつめ)の実を食べる、そんな幼年時代でした。
二人の兄がおりましたが、次兄は早世しております。
長兄・玄機(げんき)は、20才も年長で、緒方洪庵の元で学び、長崎へも留学。西洋医術も修めつつ、早くから種痘の有効性に目をつけ導入するという、見識の優れた人物でした。
玄機は、尊皇攘夷の僧侶として知られる妙円寺住職・月性とも交流がありました。
そんな人物ですと、勝海舟、福沢諭吉、五代友厚のような、開明的な蘭学好きかと思われそうです。
が、玄機の場合は違いました。彼はむしろ攘夷論に傾いていたのです。こうした兄の言動は、弟にも大きな影響を与えました。
貧しいけれど、幸せな幼年時代。
志と知識にあふれた、敬愛できる兄。
久坂は、美声と美貌、そして才知に恵まれた少年に成長してゆきます。
萩城下の人々は、才気溢れる美少年・久坂のことを行く末楽しみな若者として、見守っていたのです。
しかし、そんな幸福な少年時代は、突如、終わりを迎えるのでした。
戻らぬ幸福の日々、のしかかる責任
嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーの黒船が来航します。
そしてその翌年、安政元年(1854年)には日米和親条約が締結。
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そんな激動の幕末が始まったころ、久坂の身に大きな不幸が襲いかかりました。
母・富子が死去したのですが、それだけではありません。
このころ兄の玄機は、黒船来航後の政策について、藩から意見を求められていました。
日夜そのことを考え、過労気味となり、玄機も急死してしまいまったのです。享年35の若さでした。
さらには父・久坂良迪(りょうてき)までもが、二男・玄瑞を跡継ぎとして藩に申請しようとしていた最中に急死してしまうのです。
妻子を失い、極度のストレスにさらされていたことが引き金かもしれません。
かくして、わずか一年ほどの間に、まだ15才の久坂は一家全員を失ってしまいました。
久坂は家を継ぐため、秀三郎から玄瑞と改名し、剃髪。まだ中学生くらいの少年が、一家を全員失い、家を継がねばならない――想像するだけでも、厳しく哀しい状況です。
天涯孤独の久坂の面倒をみてくれたのは、兄の友人たちでした。
久坂は哀しみを紛らわせるように、一身に学問に打ち込みます。
吉田松陰と熱血トークバトルから入塾へ
父と兄の三回忌のあと、17才の久坂は九州を遊歴します。
このとき宮部鼎蔵とも交流。話題はもっぱら外交でした。ともに横暴なアメリカに立ち向かおうと、盛り上がります。
帰国後の久坂は、吉田松陰という人物に手紙を書いてみることにしました。
松陰は、宮部鼎蔵と共に東北視察旅行をしたことがあり、ペリー相手に「黒船に乗せて欲しい」と頼みこんだこともある異色の人物です。
実際、このときの行動のせいで逮捕&入牢処分を受けていた松陰。当時は自宅謹慎中の身でした。
見識豊かで、行動力もある。そんな松陰は、攘夷の志を抱く萩の人々の間で、話題の人物でした。
「そねえに凄い男ならば、実力を試してみたいもんじゃ」
久坂はそう考え、松陰に手紙を書きました。
内容は、黒船来航以来の世相を嘆き、絶対に攘夷をしちゃるんだ、と語る――そんな熱血青春トークです。
これに対して、松陰は無慈悲なまでに、久坂をコテンパンにしてしまいます。
「きみの意見は軽薄で、浅い。心の底から言うちょらん。ただ世相に対して怒って、注目を集めたい、チャラい人なら誰でも思いつきそうなもんじゃよ。わしゃこねえな奴が一番嫌い。ともかく嫌いじゃ。大嫌いじゃ。もっと自分の立場から、誠実に、利害や打算を無視して考えんさい」
早熟な秀才として知られた久坂は、カチンと来ます。何様だ!というわけです。
一方の松陰は、久坂をボコボコにけなしながら、ピンと来るものを感じていました。
これはいい、才能がある若者であると。
もし、ここで逃げたら、所詮その程度の男。逆に、激怒して食いついてきたら、これは素質があると考えたわけです。
松陰なりの試験ですね。
二人は、手紙を通して激しい論戦を繰り広げます。
久坂は知識でマウントを取ろうとしました。
ソースはこれだけある、俺はこんなにも知識があって、時勢を見て危機感を抱いているのだと。
しかし、松陰はそうではないのです。
「自分の立場から、地に足をつけて、物事を考える。きみにゃあそれができちょるのか。わしゃかつて、アメリカの使節を斬ろうとした。だが、そねえなんをしても百害あって一利なしであると、考えを改めたんじゃ。きみも想像してみんさい。アメリカの使節を斬ることを考えてみんさい。きみならば、どうする?」
そこまで言われて、久坂はハッとなりました。
確かに自分は、当事者だったらどうするかという想定が本気でできていない――。
久坂はこの人にはかなわんと感じ入り、そして松下村塾に入門……したわけですが、実はそこまで熱心には通えなかったようです。
あくまで本業は医者であり「好生館」での医学勉強がメインです。
その合間に通っていたのでした。
松下村塾の龍虎 高杉とライバルだった
10才も歳下ながら、才知溢れる久坂にすっかり惚れ込んでしまった吉田松陰。
そんな最中の安政4年(1857年)、久坂より1才年上の青年が松下村塾に入門してきました。
高杉晋作です。
彼の家は久坂とは異なり、家禄200石、代々藩主側近を輩出してきたエリート一家でした。
お坊ちゃまの出自であるせいか、高杉家からは
「あねえなようわからん連中と関わってはいけん」
と、松下村塾通いをあまりよく思われていなかったようです。
そのため高杉は、同塾へこっそり通っておりました。
身分を問わない隊員で構成された「奇兵隊」を組織した高杉は、ともすれば上下関係にこだわらない性格と思われがちです。
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が、実際はそうではありません。生涯、上級武士というプライドを持ち続けておりました。
そんな高杉の問題点を、松陰は見抜きます。
学問や知識が不足しているにもかかわらず、態度が大きく、自己解釈をしてしまうのです。要は、お坊ちゃまなんですね。
そこで松陰は、高杉の前で久坂を褒める――そういう作戦を採りました。
久坂と高杉は幼少期に、同じ吉松淳三・主催の寺子屋に通っていたことがあります。そのころから互いに意識はしていましたし、家格の点でいえば久坂ははるかに下です。
「なんでこねえな奴に、わしが負けるんじゃ!」
ライバル心をメラメラと燃やした高杉は、猛勉強に励みます。久坂も負けじと、努力するわけです。
二人のライバル心を燃やした結果、両者ともに力をつけました。
やがて二人は、塾生の中でも【龍虎】と呼ばれる双璧になったのです。
まるで名選手を数多く輩出する高校野球の監督のような、そんな松蔭の教育センスを感じますね。
龍虎二人の性格は対照的でした。
苦労人で人格者、優等生気質の久坂。
やたらときかん気が強く、プライドが高いエリートで、暴れん坊の高杉。
そんなライバル同士が、後の長州藩を引っ張っていくようになるから興味深いものです。
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