ときは慶応4年(1868年)。
戊辰戦争最大の激戦地・会津若松――。
一ヶ月にわたる籠城戦の末、ついに会津の降伏が決まると、その夜、一人の女性が城の塀に和歌を刻み込みました。
あすの夜は 何国の誰か ながむらむ なれし御城に 残す月かげ
【訳】明日の夜になったら、どこから来た誰かが、この慣れ親しんだ城の月影を見るのだろう
歌の主は新島八重(にいじまやえ)――。
スペンサー銃と、自らの知識を武器として、江戸から明治を生き抜いた会津の女性戦士でした。

新島八重/wikipediaより引用
昭和7年(1932年)6月14日に亡くなった新島八重の生涯を振り返ってみましょう。
会津砲術指南の娘として誕生
弘化2年(1845年)。
八重は、会津藩士・山本権八と、妻・佐久の三女として生まれました。
山本家は、武田 信玄の軍師として知られる「山本 勘助」の子孫説もありますが、ハッキリとはしておりません。
父である権八は永岡家から養子として佐久の婿に迎えられており、彼の実家・永岡家では、後に【思案橋事件(1876年)】を起こす永岡久茂が輩出されております。

永岡久茂/wikipediaより引用
思案橋事件とは不平士族の反乱の一つで、実際には未遂で終わっています。
山本夫妻は三男三女に恵まれましたが、無事に育ったのは
長男・覚馬
長女(名前不詳)
三女・八重
三男・三郎
の4名です。
長男の覚馬とは17もの年齢差がありました。
姉の長女は、ドラマ等で省略されがちで、実際、窪田家に嫁ぐと妹の八重とはあまり接点がなかったようです。
そんな山本家は、砲術師範の家庭であり、八重の人生にも強い影響を与えております。
普段は来客が多く、おおらかな家。
人助けを好んだ母・佐久の性格によるところが大きいようで、子供たちは豊かな自然の中で暮らしておりました。
八重は、7歳の時には会津藩の『日新館童子訓』も口ずさむことができました。
そうした厳しい教えを学び実感する一方で遊ぶことも欠かさなかったのです。
春は山菜、田植えの季節は魚取り。
夏は盆踊りや蛍狩りを楽しんで。
秋はキノコ、冬は雪遊び、下駄で氷の上を滑る。
ときには東山温泉に湯治に行くこともありました。
あるいは、春を告げる彼岸獅子や諏訪神社の祭礼などの行事も楽しいものでした。
怪力! 射撃! 負けず嫌いな少女
会津藩の武家女性たちは、嫁入りまでに針仕事を学ばねばなりません。
7歳頃から糸引きを始め、成長するにしたがい機織りも学ばされ、裁縫塾に通います。
『八重の桜』では、貫地谷しほりさんが演じた高木時尾、剛力彩芽さんが演じた日向ユキらと、八重も通っておりました。
彼女らは、裁縫塾の後、おしゃべりに花を咲かせることを楽しみにしていました。
しかし、八重は違います。
裁縫が終わるとすぐ家に帰り、あることに精を出すのです。
射撃稽古――。
八重の怪力は幼い頃から有名で、13歳で四斗俵(60キロ)を4回も肩に上げ下げできるほどです。
兄・覚馬の足が悪くなってからは、体重80キロもあった兄の介助もしております。
女性とは思えないほどの力自慢ですから、男に負けていないと心を燃やし、家に伝わる鉄砲を習うのは自然なことだったのでしょう。
なお、会津藩で武芸に熟達していたのは、八重一人ではありません。
彼女らの長刀術は当時から名高く、現在も強豪校があるとか。
長刀名人であった中野竹子らは、会津戦争で戦うこととなります。
ここから先は兄・覚馬の動向も含めて、幕末全体の話も取り上げたいと思います。
少しばかり脱線することもありますが、本質的には八重の生涯にも関係してきますのでご承知ください。
先見性に富んだ兄・覚馬
八重の17歳年上の兄・覚馬は、開明的な人物であり、砲術指南にとどまらない見識の持ち主でした。
『八重の桜』では、西島秀俊さんが演じており、生真面目なタイプ。
史実の覚馬は、反骨精神やワイルドなところもある人物です。
総髪(月代を剃らない髪形)で、打裂羽織に短い袴を身につけ、鉄扇を持ち歩いてズンズン――と、会津若松城下を闊歩していたのです。
若い頃は武芸が得意でした。
日新館では体を動かす訓練を熱心にこなし、そんな中でも剣術や槍術は奥義に達したほど。

日本最古のプールとされる日新館の水練場(復元)/photo by 石井伯和 wikipediaより引用
ただ、若い頃は文武両道のうち、武のみにかまける傾向があり、ある日、兵法の講義が理解出来ないことに発奮してからは、「文」=勉学にも励むようになりました。
覚馬の特異な点は、幕末という時勢に則して、佐久間象山に学んだことです。
どちらかといえば保守的な会津藩としては異例のこと。
洋式の砲術を学びたいという気持ちがあったのでしょうが、このことは思想面でも彼に大きな影響を与えることになるのです。
佐久間象山の元には、多くの逸材がおりました。
そのメンツの豪華なこと。
吉田松陰……長州藩の思想的リーダー・松下村塾で若手藩士を育成
橋本左内……松平春嶽を補佐した若手の天才肌・安政の大獄で処刑される
河井継之助……北越戦争で新政府軍をコテンパにする・越後長岡藩
武田斐三郎(あやさぶろう)……五稜郭の設計者・伊予大洲藩士(甲斐武田氏の出とも)
『八重の桜』では、覚馬と吉田松陰に交流があります。
これはあながち創作とは言えず、二人が象山門下にいた時期は近いのです。どこかで顔をあわせていても、不自然ではありません。
象山のもとで学んだ後の覚馬は、勝海舟を頼り、さらには横井小楠を尊敬するようになります。

横井小楠/wikipediaより引用
横井小楠とは新政府の中心メンバーにも実力を認められながらも志半ばで凶刃に斃れた人物で、のちに、覚馬の二女・峰は、横井小楠の長男・時雄に嫁ぐのでした。
覚馬の先見性あふれる思考がうかがえます。
覚馬は、江戸で学んだ蘭学を会津にも伝えようとします。幕末という情勢を考えれば、妥当なことといえましょう。
しかし、会津は保守的です。
いや、それ以上に金がない……。覚馬は激しい言葉で改革の重要性を得きましたが、受け入れる余地がなかったのです。
性格の激烈さゆえ禁足処分すらされる覚馬は、林権助の取りなしを受けることができました。
日新館に射撃場が作られ、組織編成に手を付けることもできたのです。
覚馬の傍らには、江戸で彼と知り合った出石藩士・川崎尚之助がおりました。
そこで首尾よく改革が進められればよかったのですが、会津藩はそれどころではなくなってしまいます。
京都守護職拝命、苦悩する会津藩
幕末という情勢の中、会津藩は始めこそ、その嵐に巻き込まれませんでした。
将軍継嗣問題や【安政の大獄】とは関わっておりません。
房総や蝦夷地・樺太の警備に動員されることはあるとはいえ、他の奥羽諸藩と同程度の役割でした。
それが一転したのが、文久2年(1862年)のことです。
一橋慶喜と松平春嶽は、治安が悪化していた京都の警備を任せようと、責任感の強い松平容保に目を付けたのです。

松平容保/wikipediaより引用
伝統的に、京都の警護は井伊家・彦根藩の役割です。
しかし、井伊直弼暗殺によって騒然としており、それどころではありません。
そこで生真面目な会津藩にやらせようとなったわけです。
会津藩は、蝦夷地、樺太、江戸湾、房総の警備によって慢性的に財政難に陥っておりました。
薩摩藩のように、調所広郷が大胆きわまりない財政立て直しをしたわけでもなく、厳しいものがあります。
容保は顔面蒼白となり、会津の国元からも家老・田中土佐、西郷頼母が押しかけました。
京都守護職を断ろうとしたものの、保科正之の家訓を持ち出されてしまうのです。
「君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」
【訳】徳川将軍家に対しては、一心に忠義に励むこと。他藩と同程度の忠義ではいけない。もし徳川将軍家に対して逆らうような藩主がいれば、そのような者は、我が子孫ではない。そのような者に従ってはならない
火中の栗を拾う危険なこと。
そうわかっていても、断れなかったのです。
留守を守る会津藩士の家族
会津藩は、京都守護職拝命以来、新選組を配下におさめ、治安が悪化した京都を守る為に力を尽くしました。
その忠誠心は孝明天皇から篤い信任を得ました。
これがのちに会津藩の悲劇に繋がるのですが、彼らにとって誇りであったこともまた事実です。
夫や息子が京都に出払った会津藩士の家族たちは、国元で留守を守り続けました。
山本家もそうです。
覚馬の妻・うら、娘の峰。そして、八重と夫の川崎尚之助。この二人は慶応元年(1865年)頃、夫婦となっておりました。
八重の男勝りは有名でした。
それゆえに縁談もなかなか舞い込まず、山本家に恩義がある川崎と結ばれても自然なことです。
【禁門の変】といった戦乱で犠牲になる藩士もおりました。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用
八重の親友である高木時尾の父もその一人です。
ちなみに天皇のおわす御所を守ったにも関わらず、こうした犠牲者が会津藩士であるからという理由で、靖国神社の合祀から外され、明治時代に紛糾しております。
苦労はある。それでも、孝明天皇に信頼され、京都を守っているんだべ――そんな誇りを胸にして、彼らは耐え忍んでいたのです。
「禁門の変」では、覚馬は目に怪我を負いました。
のちに、この怪我が失明へとつながることになります。
一会桑政権と薩長同盟
孝明天皇の信任あつかった会津藩。
しかし、そのことが憎しみを集めてしまうことにもつながります。
長州藩は、孝明天皇への弁明の機会を逃したのは会津藩が阻んだからだと怒りを募らせます。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
これは言いがかりに近いもので、孝明天皇の憎しみこそが長州藩への厳しい態度につながったのです。
◆八月十八日の政変
◆禁門の変
◆長州討伐(長州征伐)
いずれも孝明天皇の意志で長州は京都から追い出され、朝敵と認定されました。
しかし、長州藩としては憎悪を天皇にぶつけるわけにもいきません。
そのかわりに、孝明天皇から信頼されていた会津藩を憎むことになったわけです。
薩摩藩は、途中までは会津藩と共闘する関係でした。
しかし、【一会桑政権 ※一橋慶喜・会津藩・桑名藩】が孝明天皇の信任を背景として権力を掌握すると、一橋慶喜と対立した薩摩藩は、巻き返しの必要性を感じます。
こうして政権から弾き出された薩摩藩と長州藩が手を結んだ先にあったのが【薩長同盟】です。

左から西郷隆盛・坂本龍馬・木戸孝允/wikipediaより引用
当初から倒幕を目的に組まれた同盟ではありません。
あくまで権力巻き返しのためで、具体的には
・幕府の長州征伐に協力しない
・長州の朝敵認定取り消しに尽力する
などでした。
しかし、ここで急展開を迎えます。
孝明天皇が崩御するのです。
これにより「一会桑政権」も崩壊してしまいます。
江戸の幕閣では、小栗忠順と栗本鋤雲らがフランスの支援のもとで近代化を進めておりました。京都の政治情勢を注視していた慶喜も、ここにきてフランスへの接近を強めます。
会津藩内にもあった、内乱回避への動き
慶応3年(1867年)。
会津藩の内部でも今後の風向きに対する不安感が募っていきます。
薩摩や長州などとの内乱を如何にして回避すべきか――。
そのために会津でも対策が練られました。
山本覚馬
広沢安任
神保修理
秋月悌次郎
当時の覚馬は、会津藩の洋学校に上田藩士・赤松小三郎を招聘しています。

赤松小三郎/wikipediaより引用
赤松は佐久間象山とも交流があり、覚馬との縁がある人物です。
生きていれば必ずや日本の行く先に影響を与えたであろう――そんな人物であり、イギリス式兵学や議会制度に関して一流の見識を持っていました。
薩摩藩でも厚遇を受けていた赤松は「幕薩一和」を唱えており、内乱回避に尽力していたのです。
ところが、です。
慶応3年(1867年)9月3日。中村半次郎(桐野利秋)ら薩摩藩の手によって、赤松暗殺。
同年11月15日には、大政奉還による穏健な政権交代を目指していた坂本龍馬が、京都見廻組によって暗殺されてしまいました。
赤松の死の背後には、武力倒幕に舵を切りたい薩摩藩の思惑があり。
坂本の死の背後には、倒幕を阻止したい会津藩の思惑がある。
そんな覚馬たちの願いも虚しく、破局に向けて突き進む両陣営。
会津藩内部でも、武力による戦闘を望む声が高まるのでした。
鳥羽伏見の戦いで弟が戦死
視力を失った覚馬が京都にとどまる中、事態は緊迫してゆきます。
慶応4年(1868年)。
鳥羽・伏見の戦いが始まりました。
覚馬の恩人である林権助、そして弟の三郎が、この戦いによって戦死。
敗れた徳川慶喜は、大坂から江戸へ向かいます。
慶喜や同行した容保に怒りを向けるわけにもいきません。
かわって、非戦派だった神保修理に怒りが向けられ、切腹に追い込まれます。
覚馬はこのままでは会津が戦争に巻き込まれると焦りをつのらせます。
そこで、門人と共に大坂へ向かうのですが、混雑の中で捕らえられ、薩摩藩邸に連行されてしまいます。
覚馬は『万国公法』で裁いて欲しいと訴えます。彼は『管見』を執筆し、新たな国作りを説きました。
薩摩藩のおける覚馬の扱いは、決して粗略ではありませんでした。
これは、覚馬の優れた見識ゆえとされています。それだけではない何かも感じさせます。
薩摩藩士には、赤松の教えを受けた者を中心として、内乱を起こすべきではないと信じる者が多くおりました。
赤松の死後、彼らは黙らざるを得ませんでした。
しかし、内心は、内乱を起こすことに忸怩たる思いを抱いていたのではないでしょうか?
赤松と交流のあった覚馬の扱いから、そんなことを感じさせなくもありません。覚馬は失明しており、軍事的な脅威とみなされないことも、あるいは一因としてあったのかもしれません。
幕末では暗殺が日常茶飯事といえます。赤松が斬られ、覚馬が生かされたのは、なんとも不可解なことではあります。
なおこの山本覚馬は、近年評価が高まっている幕末明治の人物の一人です。赤松小三郎との比較もなされ、会津藩の京都での政治活動、明治における京都復興のキーパーソンとして重要とみなされるようになったのです。
「八重のあんつぁま」以外の側面も大変興味深い人物といえます。
戊辰戦争への道
江戸では徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎。
江戸城は「無血開城」となり、政権交代は終わったはずでした。
しかし、戦いは終わりません。
長州藩は、一時期、朝敵認定された怒りと恨みがあります。
京都守護職であった会津藩。
「薩摩御用盗」取り締まりのため、薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩。
この二藩を徹底的に潰してこそ、幕府を支持する声を消すことができる。
痛い目にあわせれば、薩摩と長州を中心とした新政権に反抗する声も抑えつけることができる。
そうした思惑から、東北へと戦火が広がることとなるのです。
しかし、奥羽の諸藩からすれば、この処分は不可解なものでしかありません。
会津藩主・松平容保の首まで容赦なく求める長州らに対して、仙台藩が異議を唱えました。
こうして【奥羽越列藩同盟】が結成され、戊辰戦争への道へと日本は突き進んでゆくのです。
天皇と、将軍家への忠義に苦しめられ
幕末の会津藩で語られる悲劇。
それは、保科正之から伝わる『御家訓』の呪縛です。

保科正之/wikipediaより引用
もうひとつ、孝明天皇の『御宸翰』をはじめとする信頼の数々。
生真面目な容保は、危険であると諫められながらも、この二つの縛りにがんじがらめにされていました。
孝明天皇の信任を守るあまり、長州藩に厳しい態度を取らざるを得ない。
徳川慶喜も忠誠心を見込んで、実弟の喜徳を会津藩の養子に送り込みます。
いつか京都守護職をやめて帰国しなければ、危険であるという認識はありました。しかし、生真面目な容保はそのタイミングを逃したのです。
幕府が倒れたとなると、容保は喜徳に藩主の座を譲り、自ら謹慎の姿勢をやっと取ります。
しかし、会津をなんとしても責め立てたい倒幕側にはそんな理屈は通用せず、厳しい態度を取ります。
「松平容保の首を寄越せ!」
そう強硬に主張したのです。
江戸時代を通して、武士は主君の首を守ることこそ、最も大事であるとされてきました。
これを知っているからこそ、松平容保は、長州征伐において「長州藩主の首を求めることは過剰だ」と進言したほどです。
江戸無血開城の時、西郷隆盛は山岡鉄舟から「あなたたちが島津の殿の首を求められたらどうするのか?」と説得され、応じたという経緯もあります。
にもかかわらず、長州を中心とした西軍は松平容保の首を要求してきた。
さすがに仙台藩や米沢藩も疑問を感じ、赦免を嘆願します。
奥羽の諸藩は、秋田藩のような数少ない例外を除き、奥羽越列藩同盟に加盟しました。
しかし長州藩には、孝明天皇の憎しみをかい、朝敵とされた怨恨があります。
長州藩士らは禁門の変のあと【薩賊会奸】と履物に書き付け、踏みつけていたほど。薩摩とは和解しましたが、会津には憎悪しかありません。
ここで会津はじめ奥羽諸藩を倒してこそ、自分たちの新政権を倒そうとする抵抗勢力はいなくなるはず。そんな思惑もありました。
このあたりにも、きな臭さがつきまといます。
長州藩内でも、会津藩に寛大な処分を求めた広沢真臣がおりました。
彼は米沢藩の雲井竜雄と協力しておりました。
これに対して、会津藩強硬処分を求めたのが木戸孝允です。
そして結果は……雲井が明治3年(1870年)2月、反逆者として斬首。
広沢は、明治4年(1871年)1月、暗殺されてしまいます。
こうして、長州藩内にすらあった会津への寛大な処置という見方は、歴史から消えていったのでした。
油壺のような奥羽に、火をつけた男がおります。
倒幕側が派遣してきた世良修蔵たちです。彼らの傲慢さは、奥羽越列藩同盟側の神経を逆撫でします。
遊女を侍らせながら傲慢な態度を取る世良に、奥羽の武士たちは神経を逆撫でされていました。
この世良は、出羽方面に展開していた大山格之助に、こう書いた書状を送ったのです。
「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」
【訳】奥羽は皆敵だからぶっ殺す
この書状を見た仙台藩士の怒りが限界に達し、世良は殺害されました。
戦争回避の道は、どんどん遠ざかってゆきました。
どうやら奥羽や越後へ派遣された人たちはトラブルメーカーばかり。
出羽の大山格之助、越後の岩村精一郎などです。
西軍内部から見ても、あの人選はどうにかならないのかと思われていたほど。
はなから、そういう意図があったのでしょう。
この背後には、ほくそ笑む誰かの気配も感じます。実は『八重の桜』の初回冒頭にそのヒントがあります。
このドラマはアメリカの南北戦争の場面から始まりました。戦争が終結すると武器が大量に余ります。この武器を、日本で内戦を起こし売りつければ、一儲けできる――そう考えたイギリス商人のグラバーは「私こそが最大のアンチ徳川」と語っていたほどでした。
イギリスは実に狡猾です。各地で植民地化するよりも、大英帝国にとってより旨みのある成果を求めていたのです。
生麦事件の後、ヴィクトリア女王は日本に対し激怒し、攻撃計画すら練られていました。しかし、日本で戦争をするよりも、言いなりになる政権を樹立した方が旨みがあります。
フランスに近い幕府を倒したうえで、イギリスに近い政権を打ち立てる。そんな帝国の思惑のなかでは、会津の正義も、そこに住む人々の命も、些細なことに過ぎなかったのでした。
会津、悲愴な決意
会津藩も無策ではいられません。
プロイセン人のシュネル兄弟から武器を買い付け、年齢別の部隊を組織します。
白虎隊:16〜17歳
朱雀隊:18〜35歳
青龍隊:36〜49歳
玄武隊:50〜56歳
八重の父・権八は、玄武隊に所属しました。
会津藩士とその家族には、悲壮感が充満しています。6年間、京都守護職をつとめ、都を守ってきたのに、それが報われるどころか、仇となってしまったのです。
山本家には、三郎の遺髪と形見の軍服が届けられました。
「なじょして、三郎は死んじまっただ……」
八重は悲嘆に暮れます。
さらに、兄・覚馬が京都で捕縛され、処刑されたという悲報まで届くのです。
「まだ決まったわけでねえ。覚馬の死に顔を見るまでは、信じねえ」
佐久はそう慰めますが、八重の胸には怒りが充満してきます。
「ゆるせねえ……あんつぁまと三郎の無念、そして会津のために、殿のために、わだすは戦う!」
こう強く決意を固めたのは、八重だけではありません。従軍できない老人、少年、婦人に至るまで、戦うと決意を固めた人々が会津には大勢おりました。
西軍の回想でも、武装して立ち向かった女性を殺害した苦しみを語るものがみられます。
彼らがここまで追い詰められていたのは、西軍の態度があまりに理不尽かつ傲慢であったことも一因でした。
都の治安を守るため。
孝明天皇のため。
苦難を続けてきたのに、かえってそれが朝敵とされて襲われようとしている。
こうなれば、死を覚悟してでも戦わねばならないという、絶望感も根底にあったのです。
※会津若松市の「戊辰150周年」映像。そこには明治維新を祝う雰囲気はありません
会津藩の戦術は、失敗が続きました。猪苗代方面の防衛に失敗し、十六橋の爆破が遅れ、敵軍の通過を許してしまったのです。
慶応4年8月23日(1868年10月8日)。
急を知らせる鐘が鳴る中、会津藩士の対応は、家ごとに異なります。
女子供が、足手まといになることを恐れ、自害した家は多くありました。
こうした犠牲者の人数は233名におよびます。
家老・西郷頼母の一族は、21名が自刃。
土佐藩士・中島信行(※別人説あり)が西郷屋敷に足を踏み入れると、女たちの屍が重なりあっています。

中島信行/wikipediaより引用
まだ17歳くらいの少女が、死にきれずにこう尋ねます。
「敵か、味方か……」
「安心しなさい、味方だ」
中島はそう言うと、少女の命を絶ちました。
あまりの惨さに、中島は涙を落とします。
この少女は、西郷家長女の細布子とされております。西郷屋敷は「会津武家屋敷(→link)」として現在内部を見学できます。
三郎の軍服、腕にはスペンサー銃
三郎の形見である軍服を身につけた八重は、籠城へ向かいました。
このとき、八重はスペンサー銃とありったけの弾丸、大小の刀を身につけております。
八重だけではなく、長刀で武装し、白無垢を血塗れにした女性たちもおりました。戦い、傷ついた家族を介錯し、ここまでたどりついた女性たちです。
城内は、予備兵力である白虎隊や玄武隊、そして女性や子供ばかりです。
八重はスペンサー銃を装備し、狙撃の腕を発揮しました。
会津藩士の装備は、旧式のゲベール銃や火縄銃です。
スペンサー銃は最新式。
八重の守備位置を目指した西軍は、次から次へと指揮官が銃撃されます。
大山弥助(のちの巌)の右大腿部を狙撃した者は、八重とされております。狙撃距離や精度を考慮すると、ありえることです。

大山巌/wikipediaより引用
2013年の大河ドラマ『八重の桜』の冒頭は、この場面から始まりました。
八重は紛れもなく、会津藩屈指の狙撃手でした。狙撃ポイントを作るために塀を蹴り落とす等しながら、果敢に戦ったのです。
8月28日、新たに女性の一団が城に入り込んで来ました。
「あなたが味方にならないことを、卑怯だと思っておりました。しかし見ているとわかります。長刀では、鉄砲には叶わない。竹子に教えてやってくれませんか」
そう語る彼女は、中野孝子です。
娘である竹子、優子らとともに「娘子隊」(女性部隊)として出陣。萱野権兵衛に従軍を願い出て、長刀を抱えて戦場に立ったのです。
彼女らの目的は、容保の義姉・照姫の警護でした。
が、涙橋での乱戦で、竹子は胸に銃弾を受け、戦死を遂げます。
彼らは萱野に促され、入城してきました。
※県立葵高校による娘子隊慰霊の舞踏。竹子と優子姉妹を表しており、倒れた姉を妹が支える振付をします
城の周囲を、彼女らと女中が取り囲み、警護と負傷者治療にあたりました。
ある夜、八重は夜襲出撃を聞きます。
彼女は親友の時尾(高木盛之輔の姉、斎藤一の妻)に頼みこみます。

新選組斎藤一のお墓/photo by Rikita wikipediaより引用
「時尾さん、髪を切ってくんつぇ」
断髪した八重は、スペンサー銃で敵を襲撃。かなりの手応えを感じました。
翌晩も出撃しようとしたところ、12歳くらいの少年10人ばかりが出撃したいとついてきます。感動した八重は、容保に許可を取りに向かいました。
しかし容保は、女子供が出撃しては恥であると止めたのです。
八重はそのあと、籠城する600人もの女性たちを指揮することになりました。
籠城する女たち
籠城する女性や子供たちにも、出来ることはあります。
・炊きたての飯を、火傷しそうなほどの熱さをこらえつつ握る
・敵の目をかいくぐりながら、食料調達に向かう
・子供たちが不屈の意志を示すため、会津名物・唐人凧を揚げる
・銃弾や金属片を溶かして、新たな銃弾を作る
あるとき、八重は二人組になって握り飯を運んでいました。
そこに砲弾が落ちて、煙がもうもうとあがります。
八重はやっと立ち上がって、相手の顔を見て大笑いしました。
「おめえ、顔が煤で真っ黒だべした!」
命のやりとりの中でも、八重はそういう豪胆さがあったのです。
雨あられと銃弾が降り注ぐ中、八重の恐怖は、トイレタイムでした。
みっともない姿のまま死んでしまってはみっともないと考えていたのです。
あるとき廊下を通ると、大勢の人が寝ているように見えたことも……目を凝らすと、それは戦死者でした。
そんな彼女らにとって一番危険な任務は、不発弾処理です。落ちてきた不発弾を濡らした布で覆い、爆発を防ぐのです。
山川家の幼い娘・咲も、この任務を行い負傷しました。のちに名を山川捨松と変え、大山巌と結婚した彼女。

大山捨松/wikipediaより引用
彼女は夫婦喧嘩のとき、このとき出来た傷を見せて「あのとき、私を殺していればよかったでしょう!」と怒ることもあったとか。
砲弾を撃ち込んだ夫と、それを消し止めようとした妻。
彼女の義姉である兄・浩の妻である登勢は、この籠城戦の最中に爆死しています。
八重は、銃弾の構造を熟知していました。
容保の前で、銃弾を分解してその構造をペラペラと語ったこともあるそうです。
冷静で流暢な口調の八重に、その場にいた誰もが驚きを隠せませんでした。
度胸があり、強く、勇敢で、機転が利いていて、ユーモアのセンスもあり、かつ賢い。
そんな女戦士だったのです。
なれし御城に残す月かげ
そんな会津の女たちの戦も、終わりが近づいて来ます。
米沢藩支援の望みが絶たれ、食料が付き、死者が溢れてきます。
城の外には、錦旗が翻りました。
女たちにとって最後の仕事は、城内の白布を集めて、降伏の白旗を縫い合わせることでした。
父・権八は、激闘の最中に戦死。八重は、降伏の夜にこう城の塀に和歌を刻みこんだのです。
あすの夜は何国の誰かながむらむ なれし御城に残す月かげ
【訳】明日の夜になったら、どこからか来た誰かが、この慣れ親しんだ城の月影を見るのだろう
そう感慨を込めた一首です。
翌日、降伏。
60歳以上の高齢者と女性はお構いなし――にもかかわらず八重は「山本三郎だ」と名乗り、男であることを主張。謹慎地の猪苗代に送られます。
「お、女郎(めろう)だ!」
そう警備兵に言われることにうんざりしながらも、八重は夫・尚之助とともに猪苗代にたどり着きます。
死をも辞さない覚悟であったはずの八重。
しかし、男性ばかりの謹慎所では居場所もなく、ほどなくして解放されます。
八重は家族と共に、山本家と縁のあった米沢藩士・新一郎のもとに身を寄せたのでした。
夫・尚之助とは離ればなれになりました。彼は謹慎ののち、斗南藩に向かうこととなります。
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斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の“流刑”とは
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この地で尚之助は、訴訟沙汰に巻き込まれ、不遇の死を遂げています。
最期まで会津のために尽くした、誇り高い人物でした。
生きていた兄・覚馬
山本家は、苦難の最中、朗報をたまたま耳にしていました。
「山本様、覚馬様は生きてんだど!」
出入りする農民が、そう告げて来たのです。彼は、薩摩藩が宿とした場所に出入りして、その吉報を耳にしたのです。
覚馬の優れた見識は、新政府関係者を魅了したほど。
明治2年(1869年)、岩倉具視は『管見(謙遜しながらの素晴らしい見識)』に心を動かされ、面会しています。

岩倉具視/wikipediaより引用
こののち、覚馬は釈放されました。
この覚馬ですが『八重の桜』放映中に「兄つぁまを鴨川に投げ込め」というコールが沸き起こりました。
それというのも、不自由な彼を世話する小田時栄の存在ゆえです。
親子ほど歳が違うこの女性は、兄が会津藩の洋学所に出入りしていた関係で、覚馬の世話を焼くようになったようです。
そうこうするうちに、二人の間には娘まで産まれたのでした。
このことは、会津で娘を育て、留守を守っていた妻・うらにとっては、辛いもの。
明治4年(1871年)、覚馬が家族を京都へ呼び寄せたとき、うらは離婚を選んだのです。
「兄つぁまを鴨川に投げ込め」コールは、このうらに同情した人たちによる憤怒の叫びでした。
覚馬と小田時栄は結婚したものの、その心中はいかばかりか。
会津から姑・佐久、小姑(窪田家に嫁いだ八重の姉)、八重、うらの娘である峰がやって来たのです。
相当に気まずいものがあったと推測できます。
女が学ぶ新時代到来
明治維新を迎えて、西日本は複雑な状況に陥ります。
かつて「ええじゃないか」も巻き起こり、維新を待ち望んでいた西日本の人々。
京都では、会津藩や新選組を憎む一方で、長州藩士に同情を寄せていました。
京都観光していて、こう言われたことがあります。
「まあ、観光になるからグッズなんか置いとるけどな。うちのご先祖が酷い目に遭うたから、新選組なんかほんまは嫌いやで」
そういう記憶があるわけですね。
しかし、彼らも苦難を味わいます。
禁門の変から大火災【どんどん焼け】が発生。
維新が成立すれば、天子様は東京に連れ去られたようなものです。朝ドラ『あさが来た』でヒロインも激怒しておりましたが、維新後は経済も混乱し、大変な状態に陥りました。
そんな京都大参事(のちに府知事)となったのが、長州藩士の槇村正直でした。
彼は「山本先生!」と呼び、博識で知られる覚馬を頼りにしました。のちに「小野組転籍事件」で失脚する槇村が、覚馬を引き立てたのです。
覚馬は、失明し、歩行不能となっております。それでもその頭脳は、ブレーンとして用いたいものでした。
八重は会津時代の苦難を忘れないものの、前向きに歩く決意をしていたのでしょう。
着物を脱ぎ捨て、洋装に身を包みます。兄の巨体を支えることもありました。
すると「なんだか気が強くて、変わった女が山本先生の側に居る」と知られるようになります。
そんな八重の職場となったのが、日本二番目の公立女子校・女紅場でした。
覚馬は、日本が中国同様女子教育を軽んじていることは悪いと認識。
女子教育こそ新時代に必要だと感じておりました。
彼は、母や妹の才知を認めています。
母ほど賢い人いないと語るほど。女性でも、学べば賢いことを熟知していたのです。
八重にとって、これは嬉しいことだったはずです。
幼い頃の彼女も向学心を持っていました。
弾丸構造を、松平容保の前で流暢に説明するほどですからね。それなのに、女だからと言って勉学に触れることができなかった。
女が学べる新時代の到来を、八重は感じていました。
三年東を向いていない婦人
八重は、女子教育向上のためならば、槇村の元にでもずんずんと乗り込み、談判に乗り出しました。
そんな槇村のもとに、アメリカ帰りの新島襄がある日訪れて来ます。
「あなたは外国から妻を娶るか、日本にするか?」
そう問われた襄はこう答えたのです。
「風習がありますから、日本の婦人ですね。ただ、夫が東を向けと言えば、三年間東を向いているような、そんな東洋風の婦人は御免ですね」
「それならええおなごがおる。学校のことで乗り込んで来て、わしを困らせてくるんじゃ。仲人になるけぇ、結婚しんさい」
槇村がそう言ったのが、八重でした。
この二人の出会い――実は、あまりよろしくないものでした。
明治8年(1875年)、京都のゴードン夫妻の家で、八重は「新約聖書・マタイ伝」を習いました。
そこから帰ろうとしたとき、靴を磨いている男性がいたのです。
「ボーイだべな」
そう判断した八重は、挨拶もせず素通りしました。
軽んじられた襄ですが、本人もムッとした気持ちだけではなかったはずです。
明治政府は外国からの圧力を受け、やっとキリスト教禁止令を解いた。渋々受け入れただけでノリ気ではない。
そんな時代にキリスト教を学ぶ婦人がいることに、驚いたでしょう。幕末にアメリカへ渡った襄は、キリスト教を広げるべく、帰国していたのです。
覚馬は、キリスト教に感銘を受けていました。そもそもそんなきっかけで、襄と覚馬は出会ったのです。
日本人青年に英語を教える学校の設立を、二人は話し合うこととなります。
襄は、ここで八重を見て驚くことになりました。
庭で八重が、井戸に板をかけ、その上で腰掛けて縫い物をしているのです。
落ちたら溺死するぞ!と新島は驚きました。
「あんなことをして落ちたら命に関わりますよ! 板が折れたら落ちてしまいます」
「どうも妹は大胆なことばかりしてしまう」
覚馬は、苦笑するばかりで止めようとしません。
襄は、この女性があの槇村の言っていた人であるのか、と意識しました。
アメリカで襄が見てきた女性像は、日本のものとは異なりました。
知性があり、意志が強く、夫と対等の目線で生きていた。まさに八重こそ、こうした襄が見てきたアメリカ女性と一致する理想像です。
妻にするならば、外見の良さは求めない。精神が強く、知識と教養があり、勇敢。キリスト教にも理解を示している。
これはまさに、八重と一致する理想でした。
出会いから数ヶ月御の10月15日。
八重と襄は、夫妻となりました。
そして八重は、プロテスタントに改宗しました。

『新島八重と夫、襄―会津・京都・同志社(→amazon)』
悪妻か、ハンサムウーマンか
結婚後、八重は女紅場を解雇されます。
改宗が関係ありそうです。
当時の襄は、苦しい板挟みにありました。
アメリカからは、布教をすると誓って帰国したものの、当時の日本でキリスト教を広めることは歓迎されません。
布教を求める宣教師と、禁じたい日本政府の間で、苦しむのです。
新婚夫婦は、和洋折衷の暮らしを送りました。
当時はまだ、キリスト教への恐怖があるためか、住民は新島夫妻を遠巻きに見ております。
八重は洋食のレシピを覚え、夫妻はベッドで眠ります。
外出時、夫妻は好奇の目にさらされました。
「ありがとなし、ジョー」
洋装姿で夫と人力車に乗り、レディファーストを貫く夫妻。しかも八重は、夫を呼び捨てにするのです。
特異な姿は陰口を叩かれることもあれば、憧れの目で見られることもありました。
襄は八重を気遣っていました。
ある日、八重が外出しようとすると、靴のヒールが切られています。転ぶことを心配した襄が、切っていたのでした。
襄は、八重の生き方をハンサムであると考えていました。堂々としていて、立派であるという意味です。
そんな妻を彼は心から愛していましたが、周囲からすれば夫を尻に敷く悪女です。
同志社で学ぶようになった熊本バンドの学生は、八重を憎みました。
九州男児からすれば、尊敬すべき先生を呼び捨てにし、尻に敷く「悪妻」なのです。
襄にとって八重は愛妻ですが、その気の強さ、頑固さにため息をつくこともありました。
八重が薩摩出身者を正月恒例かるた大会に招待しないことにも、手を焼いたのだとか。
中でも悪辣なのが徳冨蘆花です。
彼は覚馬の娘・久栄との交際を八重に邪魔されたと思い込み、自作小説で八重をあくどく描きました。
そのとばっちりは、会津出身の大山捨松や、薩摩出身の三島和歌子まで及ぶことになります。
しかし、それで負ける八重ではありません。
同志社女学校の経営に、舎監となった佐久ともども関わり、女子教育にも力を尽くします。
八重は、女学生に黙って傘を掲げることもありました。
かつての自分と同じく、学ぶ女性を応援していたのでしょう。
八重、許しのとき
襄との結婚生活は、八重にとっても癒やしでした。
明治15年(1882年)には、11年ぶりに会津へ帰郷を果たします。父の墓参りもできました。
明治20年(1887年)、北海道で八重は懐かしい再会を果たします。
会津藩で友人であったユキです。
ユキは、維新後に薩摩藩士であった内藤兼備の妻となり、北海道へ移住しました。
長州藩関係者は会津関係者を憎むことも多かったのですが、薩摩藩関係者はそうでもありません。
覚馬は薩摩藩に匿われ、薩摩藩邸跡地を譲られております。
薩摩藩士は、会津戦争で見せた勇猛さに敬意を示していたました。
川路利良は、警視庁に会津藩士をスカウトしています。

川路利良/wikipediaより引用
薩摩藩士は、会津女性の勇猛さに心引かれていました。
是非妻にしたいと考えたのです。
会津と薩摩のカップルは、大山巌と捨松だけではありません。内藤家に嫁いだユキもそうでした。
八重はユキと語らい、その夫である内藤と接することで、薩摩への憎悪が薄れました。
新島夫妻と内藤夫妻は、文通を行い、内藤夫妻の子・一雄は、同志社に入学することとなります。
一雄は18という若さで亡くなってしまうのですが、病に倒れた彼を懸命に看病したのが新島夫妻でした。
札幌では、新島夫妻は「満坊」という子供を可愛がりました。
この子は、のちに動物学者・大島正満となります。
グッドバイ、また会わん
襄はもともと丈夫なほうではありません。
明治22年(1889年)、体調を崩しました。そして6月、入院生活に入ります。
療養中に無理をしないように目を光らせる妻を、襄はふざけて「三島総監」(※鬼県令と恐れられた薩摩の三島通庸・みちつね)と呼んだのだとか。

三島通庸/wikipediaより引用
夜中、襄は目を覚ますと、看病にあたる妻の手を執り優しく語りかけました。
八重は、夜中に夫の息が絶えないか心配で手をかざしていたのです。
「八重さん、私はまだ死なないからね。眠りなさい。あまり寝ないと、あなたが先にあなたが先に死ぬかもしれない。そうなったら、私は大層困るんだ。さあ眠りなさい」
新島は退院し、大磯で静養に入ります。
「私よりも老母に孝養を尽くしなさい」と八重の看病願いを何度も断っています。
襄は、自分の死後、妻の八重がどうなるか心配し続けていました。
明治23年(1890年)1月、襄は容態が急変し、腹膜炎と診断を受けます。
急報を受けた八重が駆けつけると、襄はこう言いました。
「苦しかった。今日ほどあなたを待ち続けた日はなかったよ」
八重は夫への愛情で、胸が苦しくなるほど。
1月23日、襄はこう言い残し、世を去ります。
「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
襄が亡くなると、八重を鵺(※洋装と和装ミックスの姿をからかったあだ名)と呼び、反発してきた徳富蘇峰もしおらしくなったのでした。
従軍看護婦として受勲
夫の死後も、八重は生き続けます。
母・佐久、兄・覚馬、姪・久栄……家族を失いながらも、彼女は前を向いて歩いてゆきます。
八重は日本赤十字社の看護婦となりました。
日本での赤十字社活動の開始は、八重も見て育った名峰・磐梯山の明治22年(1888年)の噴火がきっかけですから、不思議な縁を感じます。
会津戦争で、惨たらしく亡くなった戦死者を見てきた八重。
戦場で苦しむ兵士を救いたい――そんな強い気持ちがあったとしても不思議ではありません。
会津戦争での八重がジャンヌ・ダルクならば、今度はナイチンゲールでしょう。
明治27年(1894年)。
日清戦争において八重は20人を率いて看病に当たります。
後に八重は、この功を讃えられ勲七等宝冠章を受勲。皇族以外では、女性初となります。
明治37年(1904年)勃発の日露戦争でも、敵味方区別なく、八重と看護婦たちは救護にあたっています。
このときはロシア人捕虜まで丁寧に看護して、ロシアから感謝されるほどです。日本赤十字の名声も高まり、八重は勲六等宝冠章を受勲しています。
八重は、趣味の道にも生きました。
それまでは男性のみが嗜むものとされた茶道を趣味としたのです。
男だけのもの、銃、戦、知識に果敢に挑んだ八重が、性別の壁を気にするはずもありません。
長生きをした八重には、嬉しい知らせも届きました。
昭和3年(1928年)、容保の孫にあたる勢津子が秩父宮妃となったときは、八重はじめ会津の人々は大喜びでした。
朝敵とされた会津松平家の娘が、皇室に嫁いだのです。
やっと汚名が晴らされたと、会津は大騒ぎになり、八重の喜びもひとしおであったことでしょう。
八重は、同志社関係者や多くの人に見守られ、晩年までかくしゃくとしておりました。
昭和7年(1932年)6月14日、八重は眠るように息を引き取りました。
享年86。
大勢の同志社関係者に見送られた葬儀が行われました。
2013年の大河ドラマ『八重の桜』。
その主役が八重に決まったとき、知名度が低い人物であると危惧されたものです。
しかし、その生涯をたどれば、他の大河主人公に負けず劣らず、立派な人物であることがご理解いただけるでしょう。
勇敢で、賢く、困難に挑んでいった八重の人生。
その人生は、今も消えない光を放っています。
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【参考文献】
鳥越一朗『ハンサム・ウーマン新島八重と明治の京都』(→amazon)
早川廣中/本井康博『新島八重と夫、襄―会津・京都・同志社』(→amazon)
野口信一『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon)





















