藤原為時

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藤原為時は紫式部の父で何をした?式部丞蔵人とは?光る君へ岸谷五朗

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越後で息子の惟規に先立たれ

越前守となった藤原為時は、紫式部を連れて現地へ赴きました。

その間、為時と同世代だったとされる藤原宣孝が紫式部に熱心な恋文を送り、結婚することになります。

ただ、それに対して為時がどう思ったか?という記録は乏しく、想像の域を出ませんので、こういうところは大河ドラマでどう表現されるか楽しみでもありますね。

越前守の任期が終わった後はまた官職から離れ、寛弘六年(1009年)に左少弁・蔵人として復帰。

寛弘八年(1011年)には越後守となり、息子の藤原惟規を連れて行ったようです。残念ながら、惟規は間もなく越後で亡くなってしまいます。

惟規は旅の途中で体調を崩していたのか。こんな歌を残しました。

逢坂の 関うち越ゆる ほどもなく 今朝は都の 人ぞ恋しき

【意訳】逢坂の関を越えてまだほどないのに、今朝はなんだか都の人々が恋しく思えます

宛先は源為善という人です。

政治の表舞台に出てくる方ではありませんが、『後拾遺和歌集』などには採られていますので、歌人として名を残した方ですね。

為善からの返事が越後へ届いたのは、既に惟規が亡くなった後だったため、父である藤原為時から丁寧な書面が届けられたとか。

子を喪ったばかりの為時も、手紙で友人の死を知った為善も切なかったでしょうね……。

 

悲しすぎる四首の歌とは

その後、藤原為時は長和三年(1014年)6月に越後守を辞職し、帰京しました。

「この直前に紫式部が亡くなったからではないか?」ともされていますが、『小右記』では紫式部と思われる女房が(1019年)に登場するため、定かではありません。

前述の通り為時の生没年は不明です。

おそらく950年代辺りの生まれかと思われますので、雪国での職務に心身が耐えられなくなったのかもしれません。

為時は、長和五年(1016年)4月29日に三井寺で出家した後、寛仁二年(1018年)に藤原頼通邸の屏風に詩を献じたのを最後に、記録から消え、その後、いつ亡くなったのかは不明です。

為時の和歌は4首しか伝わっていないため、まとめてご紹介しましょう。

おくれても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思ひけるかな

【意訳】咲き遅れたとしても、咲くべき花は咲く。私ももう出世することはないと思っていたが、そうでもなかったようだ

これは藤原道兼が「栗田右大臣」と呼ばれていた頃、散りゆく花の季節に詠んだものとされています。

為時本人も、そして紫式部も人生の後半に入ってから花開いたタイプですので、こういった感慨があったことでしょう。

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いかにせん かけても今は 頼まじと 思ふにいとど 濡るる袂を

【意訳】今はもうあなたの気持ちを期待できないと理解してはいますが、涙で袂を濡らすのを抑えられません

為時と文通していた女性が他の男性になびいてしまったという噂を聞いて、その女性に送ったとされています。

その後どうなったのかは残念ながら不明です。切ない恋歌ですね。

われひとり ながむと思ひし 山里に 思ふ事なき 月もすみけり

【意訳】私一人だけが眺めていると思っていた山里だが、思い悩むことなどない月も共にあった

詞書がないため、詠んだ状況がわからないのですが、強く寂寥感が漂いますね。

もしかすると惟規や紫式部に先立たれた後の歌なのかもしれません。

山の端を 出でがてにする 月待つと 寝ぬ夜のいたく ふけにけるかな

【意訳】山の端から出られずにいる月を待ちながら過ごしていると、夜が深く更けてしまった

こちらも題知らずの歌のため、どういったシチュエーションや心境で詠まれた歌なのか伝わっていません。

何か吉報が来るのを待ち遠しく思っているような雰囲気ですね。越前守になれるかどうか――そんなタイミングでしょうかね。

為時はこれまであまり着目されることがなかった人物です。

しかし大河ドラマ『光る君へ』では岸谷五朗さんが演じることにより、一気に注目度が上がったと言えるでしょう。

なんせ第一回放送から妻の“ちやは”が藤原道兼に刺殺されてしまうという展開。

その事実を押し殺して、藤原兼家からスパイというおこぼれ仕事を貰い、どうにか生活を成り立たせる――なんて切ない話でしょうか。

目の前で母を殺された紫式部にしてみれば、とても許せる話ではありません。

彼女に、いつか父の苦渋を受け入れられる日は来るのでしょうか。

紫式部も藤原為時も、史実では共に没年が不明である以上、フィクションで娘の紫式部が先に死に、藤原為時が孤独な晩年を迎えてもおかしくはない状況。

最後の最後まで、妻を失った後悔を抱いたまま……なんて苦悩に苛まされるとしたら、不憫でなりません。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
日本人名大辞典
後拾遺和歌集
新古今和歌集

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