一条天皇に愛され、その第一皇子も産んだ藤原定子。
大河ドラマ『光る君へ』で描かれたように、父や兄にプレッシャーをかけられながら、若くして亡くなった彼女に対して不憫な気持ちを抱く方は少なくないでしょう。
しかし、もっと哀れでならないのが、その第一皇子である敦康親王かもしれません。
ドラマでは藤原彰子に懐く姿が微笑ましくもあり、同時に切ない思いに駆られてしまう。
一条天皇の大切な男児であった彼は、生まれたタイミングがほんの少し違えば、天皇の座に就けた人物だったはず。
しかし、実際はそうなりません。
本人とは関係ないところで、しかも巻き込まれるようにして不遇な道を歩み続け、最終的には20歳の若さで亡くなってしまうのです。
寛仁2年12月17日(1019年1月25日)はその命日。
藤原定子の長男・敦康親王が辿った、その不憫な生涯を振り返ってみましょう。
生まれた日に道長の長女・彰子が入内
敦康親王(あつやすしんのう)は長保元年(999年)11月7日に生誕。
前述の通り、母は当時中宮の地位にあった藤原定子です。
一条天皇にとっては最愛の后妃との間に生まれた待望の男子でしたが、その瞬間から不憫な一生が始まったとも言えます。
全くの偶然ながら、この日は藤原道長の長女・藤原彰子が一条天皇に入内し、女御になった日だったのです。

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用
そのため貴族たちは敦康親王と、彰子へのお祝いを両方こなさなければならず、てんやわんやだったようです。
しかも母后の定子は、翌長保二年(1000年)に三人目の子・媄子内親王を出産した後、亡くなってしまいます。
媄子内親王はもちろん、敦康親王も母の顔を覚える前に死に別れてしまうのです。
そのため敦康親王は、定子の妹で道隆四女の御匣殿(みくしげどの)母親代わりとして養育にあたりました。
御匣殿という名は女官の官職名であって実名ではありません。
官職としての御匣殿は天皇の衣服を仕立てる役職で、側近くに仕えることから次第に后妃候補とみなされていきました。
御匣殿は定子と似たところがあったのか、やがて一条天皇が彼女のもとに通うようになります。
そしてめでたく懐妊したのですが、経過が良くなかったようで、長保四年(1002年)6月に御匣殿も若くして亡くなってしまいます。
当時3歳の敦康親王がこのことをどこまで覚えていたか不明ながら、あまりにも不憫な生涯の始まりでした。
政敵に庇護される複雑な立場
敦康親王はその後、道長の長女である中宮・彰子の手元で育てられることになります。
つまりは道長の庇護を受けるということですね。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
なぜそんな展開になったか?
と言えば、定子の兄である藤原伊周と弟の藤原隆家が、周囲の貴族や、他ならぬ一条天皇の反感を買っていたからでしょう。
花山院に矢を放った【長徳の変】により地方へ飛ばされていた二人は、このときすでに罪を許されて京都にいましたが、一条天皇にしてみれば
「横暴な連中に、大事な息子である敦康親王を任せたくない」
と考えても不思議ではありません。
それに、この時点での彰子は皇子を産んでいなかったので、道長としても、一条天皇の第一皇子である敦康親王を放っておくことはできませんでした。
道長から見た敦康親王は兄の孫ですし、この辺の複雑な人間関係は、絶妙なバランスの上に成り立っていますよね。
彰子にしても、定子は従姉妹であり、残された敦康親王を不憫に思っていたのではないでしょうか。
前述の通り、敦康親王が生まれた日は彰子が入内した日でもあり、数奇な縁を感じて憐憫の情が増したかもしれません。
敦康親王と彰子は、しばらく別居していましたが、のちに彰子の御殿である飛香舎(=藤壺)で同居をはじめました。
これは一条天皇の意向でもあったようです。
一条天皇にしてみても、第一皇子の敦康親王が不憫でならなかったらしく、右腕の藤原行成をつけてやり、事あるごとに御修法(みしほ・密教の祈禱)などを言いつけていました。

藤原行成/wikipediaより引用
行成も同じ気持ちだったようで、彼の日記である『権記』には、敦康親王に関する記述が多く登場します。
方違えに出かけた先やら、姉の脩子内親王と何処其処へ出かけた、などなど。行成のマメさが伺えますね。
敦康親王の読書始(勉強を始める儀式)は寛弘二年(1005年)11月、彰子の御在所で行われました。
一条天皇もこっそり御簾の陰で見ていたとかで、道長にしてもこの時点で唯一の皇子に、以下のような気配りをしています。
・賀茂祭の見物で敦康親王に車を提供した
・敦康親王が体調を崩したときには、自邸で行おうとしていた作文会(漢詩を作る会)を中止して参内した
彰子が敦康親王を気遣っていた話はまだあります。
相変わらず素行不良な伊周だが
寛弘三年(1006年)8月、彰子のもとで童相撲が催されました。
敦康親王(あつやすしんのう)はこのとき、姉の脩子内親王、さらには妹の媄子内親王に加えて、一条天皇と一緒に見物をしています。
彰子が気遣いをしたのでしょうか。
この時点での彼女は、まだ出産を経験していないため、将来母になったときのことを考えて予行演習だと思ったかもしれません。
しかし残念ながら、敦康親王の妹である媄子内親王は、寛弘五年(1008年)5月25日に幼くして亡くなってしまいます。
そのせいか敦康親王は姉の脩子内親王と生涯仲良くしており、
・一緒に出かけたり
・具合の悪い時に姉の御殿に移ったり
・内裏で火事があったときに同じ車で避難したり
たびたび行動を共にしています。
父には立場上滅多に会えず、母を失い、母方の親戚を頼れなかった二人にとって、お互いが唯一の肉親のように感じていたのかもしれませんね。泣ける……。
彼らにとって数少ない親族である藤原伊周はどうしていたのか?

藤原伊周/wikipediaより引用
というと、これが相変わらずしょーもないのです。
・寛弘五年に彰子が産んだ敦成親王(のちの後一条天皇)のお祝いの席で出しゃばって白眼視される
・寛弘六年(1009年)には彰子と敦成親王を呪詛した疑いで出仕を禁じられる
余計なことをして墓穴を掘る悪癖が全く直っていません。
本人よりも敦康親王たちが哀れ……とはいえ、そんな伊周でも寛弘七年(1010年)1月下旬に亡くなってしまうと、敦康親王たちはいよいよ本格的に孤立してしまいます。
このとき敦康親王は数えで12歳。
現代なら小学校の高学年という立場で、大きな不安を抱えていたことでしょう。
伯父・伊周の死に対する敦康親王の記録は残されていませんが、同年2月7日に藤原行成が訪れており、二人で何らかの話をした可能性が考えられます。
というのも、翌8日、行成の日記『権記』に「伊周の葬送が行われたそうだ」という記述があるのです。
完全に私見ですが、もしかすると2月7日に敦康親王が行成を呼び「伯父の葬儀に何かすべきだろうか?」といったことを尋ねたのかもしれません。
むろん、当時の貴族には“穢れ”という制約があります。
しかし、この後の御堂流(道長の家)では、身内が亡くなった際、死穢に構わず家族が参列するのが、貴族社会でもスタンダードになっていきます。
となると、伊周が亡くなった辺りでも
「死穢を恐れるより親族への哀悼を示すべきではないか?」
という観念が生まれ、それが敦康親王の耳に入って「できれば何かしたい」と思った可能性もあるのではないでしょうか。
敦康親王にとって【長徳の変】は見知らぬ出来事ですし、伊周は数少ない肉親です。
しかしその場合、行成は、反対したのでしょう。
彼はかつて愛妻の死穢を避けたことがありますし、その妻を含めて身内の遺骸は散骨しています。
つまり伝統的な価値観と「葬儀は簡易にすべき」という考えだった上に、敦康親王の立場を思えば、伊周の死に弔意を示して貴族社会で目立つのは何ら得がありません。
こればかりは仕方ないですよね。
后腹でも皇太子にはなれない
伊周の死からおよそ半年後の寛弘七年(1010年)7月17日、敦康親王は元服を迎えました。
本来は、前年10月に予定されていたらしいのですが、彰子二回目のお産が迫っていたため、元服の期日をずらすよう一条天皇に命じられたようです。
道長としても反論する理由はなく、吉日を選び直してこの日になったとか。
とはいえ、道長の嫡孫でもある皇子が二人も生まれたことにより、敦康親王の立場はさらに微妙なものとなりました。
確かに、第一皇子であり、三品の位階は与えられています。
「品」というのは皇族の位階(品位)で、臣下が受ける「正◯位」などと似たようなものですが、品位には位階のように正・従がなく、一品~四品までという点が違います。
『源氏物語』後半に登場する光源氏の正妻・女三の宮の格を上げるため、二品(にほん)の地位が与えられるシーンがあり、なんとなく見覚えがある方もおられるでしょうか。
さらに敦康親王は、名誉職として太宰府の長官である大宰帥(だざいのすい)も与えられています。
そのため一時期「帥宮(そちのみや)」とも呼ばれました。
大宰帥は、平安時代になってから親王が任官されていて、現地へ行くことはありません。いわゆる名誉職ですね。
さらに寛弘八年(1011年)には父・一条天皇の体調が悪化し、居貞親王(三条天皇)への譲位が迫りました。

三条天皇/wikipediaより引用
この緊張の瞬間。
本来ならば、敦康親王が新たな皇太子になるところです。
しかし皇太子には道長の外孫である敦成親王(あつひら)が立ちました。敦康親王は押し出される形で一品と准三宮(じゅさんぐう)を与えられています。
一品も准三宮も非常に高い地位ですので、表面上は悪くない立場ですが、この人事を決めた道長を相手に、誰も反論できません。
彰子としては一条天皇の意向を重んじ、敦康親王の立場を守ろうと努めています。
それでも父には逆らいきれません。
彼女が後に国母として宮廷に強い影響力を持つのは、このときの苦い経験が頭に残っていたからでしょうか。
いったい敦康親王はどうなってしまうのか……。
徐々に薄れてゆく存在感
病に苦しむ一条天皇も敦康親王(あつやすしんのう)のことは気になっていたようです。
「立太子は無理にしても、どうにか身の立つように保証しておいてやりたい」と考えていたようで、今際の際まで皇太子・居貞親王に敦康親王のことを頼み込んでいます。
この辺は天皇も人の親であることが強く感じられますね。

一条天皇/wikipediaより引用
ただし、このことも道長を通して居貞親王に伝えられているので、道長としても
「皇位を外孫のものにできて、敦康親王が問題を起こさなければ、それなりに尊ぶ」
という意思はあったのでしょう。
敦康親王も、皇位から遠ざかってしまえば、道長が恐れるような相手でもありません。
無駄に敵を作り、強い恨みを買って、生霊や怨霊の祟りにでもなったと貴族社会で噂されたら、面倒くさいですしね。
この寛弘八年からは、行成の日記である『権記』に敦康親王の名がほとんど登場しなくなります。
『権記』の後半は、散逸している部分も多く、今後、新たな発見でも見つかれば、敦康親王の評価が多少は変わってくるかもしれません。
『大鏡』などではその人格を高く評価されており、天皇となるべき素質は持っていたと思われます。
それでも敦康親王は、権力欲を表に出さず、自邸で作文会や歌合などを催したり、大井川へ遊びに出かけたり、政治からは遠ざかって、風流の世界で貴族たちと付き合っていたようです。
私生活では、長和二年(1013年)12月10日に具平親王の次女を妻に迎えています。
この人は道長の嫡子・藤原頼通の妻である隆姫女王の妹であり、その縁からか敦康親王と頼通は長きに渡って親しい付き合いを続けました。
早いうちからこの縁談の話が出ていたのか、頼通が婚儀の支度を盛大に整えており、道長の日記『御堂関白記』には「甚だ過差(非常にぜいたくだ)」と書かれてしまっています。
この時点では頼通に子供がいませんでしたので、義妹を娘のように思って張り切ったのかもしれませんね。
その後は三条天皇と道長の間で政争が繰り広げられますが、やはり敦康親王の動向はわかりません。
次に敦康親王の記述が出てくるのは、三条天皇から後一条天皇へ皇位が移った後のことです。
早すぎる最期
長和五年(1016年)1月、道長の外孫である後一条天皇が即位。
新たな皇太子には後一条天皇の同母弟・式部卿敦明親王が立てられ、敦康親王はその後任として式部卿になりました。
式部卿とは、文官の人事と、その養成機関である大学寮を管轄する式部省の長官です。
国政においては特に重視され、四品以上の親王が務めることになっていて、異母弟の後釜ながら敦康親王の立場に配慮されたフシがあります。
再三になりますが、当時の貴族社会では母方の後ろ盾が全てです。
仮に道長が台頭していなくても、藤原定子から生まれた敦康親王が皇太子になるのは難しかったでしょう。
当時、同じような例は三条天皇の皇子・敦明親王も挙げられます。
彼の母は、三条天皇が皇太子だった頃から連れ添った藤原娍子でした。
しかし娍子は父と死別しており、有力な後ろ盾がおらず、それに加えて道長の孫皇子が二人もいたため、対抗しようがなかったのです。
三条天皇はそれでも譲位の条件として敦明親王を皇太子に立てるようゴリ押ししましたが、敦明親王本人がこれを辞退したことにより、道長から生活の保証を引き出しています。
そう考えると、敦康親王は皇太子にはなれなかったにせよ、
・出家に追い込まれず
・政争の種にもされず
・高い官職を与えられた
となるわけですから、周囲の人々が彼の立場を守ろうとしたと見ることもできるのかもしれません。
もちろん道長の気に障らない範囲で初めて成立する話ですし、ご本人の動きがイマイチよくわからないので、推測の域を出ません。
そのまま冷泉天皇のように穏やかに過ごし続ける道もあったでしょう。
しかし、敦康親王にはあまり時間が残されていませんでした。
敦康親王は式部卿になって2年後、寛仁二年(1018年)12月17日に亡くなってしまったのです。
まだ20歳。
『御堂関白記』には、敦康親王が亡くなる前後の記述はありません。
貴族の日記は日にちが飛ぶこともままあり、御堂関白記も例外ではありませんが、12月12~18日までの記述がきれいに飛んでいるのです。
道長が法事に全くかかわらなかったということはないと思われるので、ただ単に書く時間がなかったのか。あるいは意図的に避けたのか。
直前の12月9日、敦明親王に嫁いでいた道長の娘・寛子が儇子内親王を産んでいるので、産穢のため遠慮したか、死穢を避けたとも考えられますが……。
他には藤原実資の日記『小右記』にわずかながら当日の記載があり、
・敦康親王が12月17日の早朝に危篤になったため出家したこと
・その日のうちに亡くなったこと
がわかります。
全くの偶然ではありますが、
・敦康親王が生まれた日に道長の娘が入内し
・敦康親王が亡くなる直前に道長の孫娘が産まれる
ということになったわけで、なんとも数奇な運命を感じさせられますね。
道長は『御堂関白記』で以下のように記しています。
寛仁二年12月25日「敦康親王の遺骸を東三条第の南院に移した」
寛仁三年1月1日「楽が停められた。これは敦康親王の薨去を受けてのことだ」
寛仁三年1月24日「敦康親王の法事が法性寺で行われたということだ」
定子の血筋は途絶える
敦康親王の薨去後、残された妃は出家しました。
二人の間に生まれた一人娘・嫄子女王は、藤原頼通と隆姫女王が引き取り、後に後朱雀天皇(彰子の次男・後一条天皇の同母弟)のもとへ入内して中宮となります。

後朱雀天皇/wikipediaより引用
これは頼通が娘に恵まれなかったことが大きいと思われますが、敦康親王一家への同情もあったのかもしれません。
嫄子女王は幸いなことに後朱雀天皇から寵愛され、祐子内親王と禖子内親王に恵まれました。
しかし、二回目のお産後に命を落としています。
内親王は一部の例外を除いて未婚を通すならわしだったため、嫄子女王の産んだ二人も独身を貫き、定子の血はここで途絶えてしまうのです。
当時の皇族・貴族の多くが「母方の影響を強く受ける」というのは共通の事実ですが、敦康親王やその家族たちは特にその傾向がうかがえます。
藤原道隆の没後、瞬く間に凋落していった中関白家。
もう少しだけ、敦康親王が早く生まれていたら、藤原伊周が道長との政争に勝利し、藤原定子がもっと長生きできた可能性も十分に考えられます。
大河ドラマ『光る君へ』では、道隆や伊周が定子に向かって「皇子を産め!産め!産め!産め!」と迫り、視聴者から顰蹙を買っていましたが、彼らにとってはそれこそが権力を保ち、生きる術だったのでしょう。
なんとも不安定な貴族社会――敦康親王はその象徴と言えるかもしれません。
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【参考】
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