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織田家 その日、歴史が動いた 合戦

毛利水軍をぶっ飛ばした九鬼水軍の鉄甲船! 信長考案とされる巨船の正体は……

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織田信長の鉄甲船はあまりにも有名だが・・・

多くの男性が一度は夢見る「デカイ乗り物」。
古くは馬、現代ならバイクや車、そして将来的にはロボットなどいろいろありますよね。
最近、アニメ化・ゲーム化が決定した「艦これ(艦隊これくしょん)」も、萌え要素以外に軍艦という「デカイ船」へロマンを感じた人を取り込んだからこその人気ではないでしょうか。
誰もが知っている戦国時代のあの人も、同じように「デカくてすごい船」を作っていました。

天正六年(1578年)のあす9月30日、織田信長が鉄甲船という新しい船のお披露目をしました。

鉄の甲(かぶと・よろい)の字が意味する通り、鉄を装甲に使った船……ではないか?といわれています。
なぜ言い切れないかというと、この船に関する記録があまりにも少ないのです。

 

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足利義昭と真っ向勝負!の最中に

作られた経緯から見てみましょう。
当時、信長は室町幕府最後の将軍・足利義昭と大ゲンカの真っ最中。
とはいえ義昭と幕府には、もう単独で信長と対抗できるだけの兵も装備もありません。
その代わり、「将軍様のご命令じゃ!信長を包囲せよ!」とあっちこっちの大名へ命じ、包囲網を敷かせていたのです。

戦国大名といっても成り上がった家だけでなく、室町幕府から領地を任された守護大名から転身したような家もありました。
義昭はそこに目をつけたのです。
そして包囲網は無事完成し、「いくら信長が戦上手でも、これなら上手く行くぜ、ムホホ」なーんて枕を高くしていたのですが、腰抜けだからこそ見限った相手にハメられた信長が大人しく滅びるわけはありません。

 

信長オールスターズの落ちこぼれ

イラスト:富永商太

「包囲網がナンボのもんじゃい!そっちがその気ならやったるわ!!」とスイッチの入ってしまった信長、しかしあくまで冷静に状況を打開する作戦を練ります。
包囲網に対して信長の強みは、優秀な人材に恵まれていたこと。
信長が自ら出向かなくても、策を与えさえすれば各方面で戦える人間がたくさんいたのです。

この頃の信長軍団の顔ぶれを見てみましょう。
後の豊臣秀吉(この時点では羽柴姓)、後に止めを刺しに来る明智光秀、信忠を始めとした息子達、花の慶次のおじさん滝川一益、「かかれええええええ!!」の柴田勝家、同盟でがっちり結ばれた徳川家康など、まさにオールスター状態。
ある意味信長が一番輝いていた時期かもしれません。

が、そんな織田家中でうだつのあがらない人がいました。
信長の父・織田信秀の代から仕えてきた佐久間信盛という人です。
この人は「退き佐久間」と言われるくらい殿(しんがり・軍が退却するときに一番後ろになる部隊)が上手かったのですが、自分から攻める戦はあまり得意ではなかったようです。

 

伊勢志摩水軍VS村上海賊

がんばれ鶴姫(絵・くらたにゆきこ)

鶴姫が九鬼水軍にいたらなぁ~(絵・くらたにゆきこ)

佐久間は織田家の配下になった伊勢志摩を拠点とする水軍の九鬼嘉隆(元海賊)とともに包囲網の一角・石山本願寺(のちの大坂城)攻めを担当するのですが、これがまったくのダメダメでした。
織田家中で一番の兵力をつけてもらっていながら、援軍に現れた毛利家傘下の村上水軍に木っ端微塵にやられてしまうのです。

せっかく取り囲んで兵糧攻めにするところまでいったのに、目の前で悠々と食料や弾薬を運び込まれた二人に信長はプッツン。
さっそく当事者にお呼び出しをかけます。
信長「毛利の水軍にやられない船を作れ」
嘉隆「無理です」
信長「アアン?毛利にやられた原因は何だ?」
嘉隆「(ヒイイイイイイイイ)む、村上水軍の焙烙火矢です!!!」

※焙烙火矢(ほうろくひや)=陶器に火薬を入れた手榴弾みたいな武器。火をつけて投げつけて使う。爆散してあっちこっちに火薬と陶器の破片が飛び散るのでめっちゃ危ない。焙烙玉とも。
九鬼水軍はこれを船(木造)にぼんぼん投げられて、一面ファイヤー状態になってしまい負けました。

信長「だったら船が燃えないように工夫すりゃいいだろうが!!」
嘉隆「(イヤアアアアアアア怖い怖い怖い!!)で、でも船は木でできてますし、そんなのむr」
信長「鉄なら燃えねーだろ!鉄で船作りやがれ!」
嘉隆「し、しかし鉄は錆びて長持ちしませんし、そもそもお金がn」
信長「オレが金出さずに仕事させると思ってんのか?出してやるからとっとと設計して作りやがれ!!」
嘉隆「(あ、これもう逃げられねえ)かしこまりましたアアアアア!!」

というわけで、焙烙火矢に対抗するための船として作ら(せら)れたのが鉄甲船だったのです。

当時、鉄を精錬するのにはかなりの資金を必要としました。
ただでさえ鎧などの武具にも使うのに、船を覆えるほどの量を短期間に作るというのですから余計にそうです。

しかし、既に安土城の建築を始めていながら、信長には潤沢な資金がありました。
理由は色々ありますが、肥沃な濃尾平野を手に入れていたことと、楽市楽座令などで経済を豊かにし、安定させることを重視していたことが大きいでしょう。
恐らくは戦費調達のために、予め備えていたのでしょうね。

こういう長期的なものの見方・原因を解決するための分析力などを見ると、「やっぱり信長ってスゲー!」と思わざるをえません。
昨今の「スイッチ」は押すけど、冷静さもかなぐりすてちゃうムチャな経営者や政治家にも見習ってほしいものです。

 

本当に鉄で全体を覆われていたのか?は証拠なし

が、この鉄甲船が本当に「鉄で覆われた船」だったのかどうかははっきりしていません。

前述の通り、この船に関する記述のある資料にはそうと書かれていないのです。
英俊さん(延暦寺の荒れっぷりを嘆いたお坊さん)の日記にも「信長が鉄の船を作ったらしいよ。鉄砲が効かないようにしてあるんだってさ」と曖昧な記述しかありません。
「信長様スゴイカッコイイ!!」の信長公記にも、宣教師オルガンティノ(フロイスの弟分みたいな人)の手紙にもちょっと出てくるだけで、詳細が何も書かれていないのです。

この後の戦で「毛利に仕返ししようね!」という目的は達成しているので、完全に鉄で覆われた船かどうかはともかく、重要な機関部だけを鉄で覆ったという説もありますように、焙烙火矢を無効化できるような作りだったことはほぼ間違いないのですが……。

でも案外、本当に完全な鉄甲を備えていたかもしれません。
信長が鉄甲船を見たとき、建造に当たった九鬼嘉隆・滝川一益の二人と、その部下達に褒美を出しているのです。
信長が一目見て満足するような船、というとやっぱりかなり鉄を使っていて、いかにも萌え……じゃない、燃え難そうな船だったのではないでしょうか。
その他には「大砲を三門備えていた」とかいろいろいわれていますね。

ちなみにリベンジ後はやっぱり錆びて使えなかったのか、鉄甲船は記録からきれいさっぱり姿を消してしまいます。
似たような船を関白になってからの秀吉が作っていますが、「信長様よりスゴイ船作ってやるぜ!」だったのか「信長様と同じ船を作れるなんて、俺もエラくなったなぁ」なのかどっちだったんでしょうね。
ちなみにケチ……もとい堅実そうな徳川秀忠も、江戸時代になってから安宅丸という銅を貼った船を作っています。

その後は鎖国状態になり大型船自体の建造が禁じられてしまうので、それ以降日本の造船技術が飛躍的に上昇することはありませんでした。
もしそのまま技術が進んでいたら、幕末ごろには黒船なんかメじゃないくらいの戦艦ができていたかもしれませんね。

 

黒船「日本のオトコ(オタク)はみんな艦隊すきですね~」

何せ、黒船を見学したときの幕府の役人の反応がスゴイ。
ひたすらあちこち撫で回すわ、チェックするわ、質問するわ、メモ書き続けるわ、船上で出された料理を一部テイクアウトするわだったそうです。
ご先祖なにやってるんすか。どこまで艦これ好きなんですか。

これには「うちのスゲー船見せればびびって開国するだろHAHAHA!」と企んでいたアメリカ側もドン引きし、「どこまでもヘンだよ日本人」と思ったとか思わなかったとか。
……禁じられていなかったら絶対作ってたでしょうね、日本独自の戦艦。



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