斎藤家

安藤守就の生涯|半兵衛の舅が信長に従いながら迎えた不憫な最期とは

2025/06/08

織田信長の家臣には、様々な出自の人がいました。

代々織田家に仕えてきた家の人もいれば、室町幕府から鞍替えした人、戦に敗れた人。

あるいは元の主君を見限って信長についた人もいて、尾張から美濃へ侵攻した際、織田家に従ったのが”西美濃三人衆”と呼ばれる人々です。

【西美濃三人衆】

稲葉良通(稲葉一鉄)

氏家直元(氏家卜全)

安藤守就(もりなり)

信長に従ったのはほぼ同時期で、かつその最期でも何かと縁のあった三人。

今回は安藤守就に着目してみましょう。

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安藤守就・出自は藤原秀郷の子孫?

安藤守就は文亀三年(1503年)~永正五年(1508年)頃に誕生したといわれています。

出自は平安時代の武将・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を祖先とする美濃の一族。

当初は美濃守護・土岐頼芸(ときよりあき)の家臣でしたが、斎藤道三が下剋上を起こして美濃の実質的な主になった頃から、道三に仕えるようになります。

斎藤道三/wikipediaより引用

先述の通り、他の斎藤氏の家臣である稲葉良通や氏家直元と並んで“美濃三人衆”とか”西美濃三人衆”と呼ばれ、実力者とみなされていました。

実は守就は、織田信長の生涯を記した『信長公記』にも、度々登場しています。

例えば、道三の娘・濃姫が信長の正室となったことにより、那古野城の留守を預かったことがあります(信長公記14話)。

信長がまだ尾張国内の統一に奔走していた天文二十三年(1554年)、信長からの依頼を受けた道三が、守就を那古野城へ派遣させたのです。

そのときの詳細は以下の記事にございますのでよろしければ併せて御覧ください(本稿末にも記事リンクがございます)。

織田信長のイラスト。赤い背景を背に、鋭い眼差しで前を見据える戦国武将の姿を描いた作品で、『信長公記』の主題を象徴するビジュアル。
村木砦の戦い 信長が泣いた|信長公記第14話

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織田信長の肖像画
天下統一より過酷だった信長の尾張支配|14年に及ぶ苦難の道を年表で振り返る

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娘婿にあの半兵衛 乗っ取り事件に協力

婿の城の留守を守らせるほどですから、安藤守就は道三からの信頼も上々だったのでしょう。

しかし、弘治二年(1556年)【長良川の戦い】において、道三が息子の斎藤義龍と対決したときは義龍サイドについていたようです。

斎藤義龍/wikipediaより引用

理由は不明ですが、下の息子たちを贔屓し始めた道三に愛想が尽きたのでしょうか……。

義龍が永禄四年(1561年)に亡くなると、その子・斎藤龍興に仕えました。

しかし龍興は守就を含む西美濃三人衆などを遠ざけたり、守就の娘婿である竹中半兵衛(重治)を罵倒した齋藤飛騨守を寵愛するなど、好ましくない行動が目立つようになります。

守就らが諫言しても聞き入れられず、半兵衛が一計を案じました。

竹中半兵衛/wikipediaより引用

半兵衛には重矩(しげのり)という弟がいて、人質として斎藤氏の本拠である稲葉山城に入っていました。

永禄七年(1564年)2月、半兵衛は弟の病気見舞いと称して城に入り、斎藤飛騨守などを討ち取って城を乗っ取ったのです。

【稲葉山城乗っ取り事件】として有名ですが、このとき守就も兵2,000を率いて協力したとか。守就の娘が竹中半兵衛に嫁いでいた縁から、そうした行動に出たのでしょう。

同年7月下旬頃までは半兵衛らによる稲葉山城の占拠が続いたようですが、結局は龍興へ返しています。

これは半兵衛の美談として語られることが多いのですが、近年では

「半年近く経っても斎藤氏の他の家臣が味方にならなかったので、講和の条件としての返還だったのではないか」

ともいわれています。

隠密裏に動いたからこそ乗っ取り自体は成功しましたが、その後の根回しが足りなかったのかもしれません。

 

上洛戦をはじめ姉川の合戦にも

城に戻った斎藤龍興は信長との戦いを続けました。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

局地的に勝利を収めることもありました。

が、当人の行状は収まらず、家臣たちの心は離れる一方。信長は調略などを用いて本格的な美濃攻略を推し進め、それに応じる者も増えていきます。

守就を含めた西美濃三人衆も、永禄十年(1567年)に内応し、織田家へ。

その後、信長が龍興を美濃から追放すると、守就は、織田家の主だった戦にほとんど参加しました。

まずは永禄十一年(1568年)の上洛戦。

将軍就任を望む足利義昭を奉じて京都に進軍したものですね。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用

お次は元亀元年(1570年)【姉川の戦い】です。

信長を裏切った浅井長政とのリベンジを期して挑んだ一戦であり、一応、織田方の勝利となっておりますが決定的な結果でもなく、以降、浅井朝倉連合軍との苦しい戦いが続きます。

姉川の戦いにおける守就の戦功としては、浅井氏の拠点だった横山城を押さえ、徳川軍が浅井氏の側面を突いた頃合いに呼応したことが伝わっています。そして……。

 

氏家卜全が討死! 守就も傷を負う

浅井朝倉連合軍と対峙した頃の織田家は、同時に石山本願寺をはじめとした一向宗も敵に回しておりました。

その中で守就が参加したことが記されているのは元亀二年(1571年)の伊勢長島攻めがあります。

いわゆる【長島一向一揆】ですね。

最初に攻撃を仕掛けてきたのは長島一向一揆サイド。

元亀元年(1570年)に小木江城こきえじょう(愛知県愛西市)へ攻めこみ、信長の弟である織田信興(のぶおき)が敗死させられました。

リベンジすべく織田軍が伊勢へ出向いたのが元亀二年(1571年)のことです。

が、このときも織田軍は中洲に散った敵の拠点を攻めきれず、撤退するときに安藤守就と共に西美濃三人衆に数えられた氏家卜全が討ち死にしてしまいます。

守就は多くの戦において西美濃三人衆と共に行動し、このときも傷を負っており、心身ともに堪えたことでしょう。

なお、卜全が亡くなった後は、息子の氏家直通(直昌)が立ち位置を引き継ぎ、安藤守就らと共に動くようになりました。

 


佐久間や柴田と並ぶ重臣の扱いだった

その後も安藤守就は織田家の合戦に出陣し続けました。

どうやら林秀貞や佐久間信盛、あるいは柴田勝家、滝川一益などの重臣たちとほぼ肩を並べるほど重用されていたようで、以下、少々駆け足で説明させていただきます。

◆天正元年(1573年)槇島城の戦い

→足利義昭を京都から追放した

◆天正元年(1573年)の越前朝倉攻め

→浅井長政と朝倉義景を滅ぼす

浅井長政(左)と朝倉義景/wikipediaより引用

◆天正二年(1574年)石山本願寺攻め

→小競り合いの一つ(ただし、以降も何度も続く)

織田軍と石山本願寺が約10年にわたって激突『石山合戦図』/wikipediaより引用

◆天正二年(1574年)長島一向一揆戦

→2万人とも言われる信徒を焼き殺し、同地方での戦いに終止符を打つ

仇敵だった伊勢長島の一揆勢 ついに最終決戦へ|信長公記第116話

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安藤守就は、名前が知られている割に戦場での華々しい活躍は報じられておりません。

地味に、ここぞというポイントで着実に働くタイプでしょうか。

冒頭でも触れたように守就の生年はハッキリしていませんが、おそらくこの頃には高齢になっていたため当然といえば当然ともいえます。

 

突如「武田氏に内通した疑いがある」

天正三年(1575年)に信長が織田信忠へ家督を譲った際、美濃衆の多くが信忠につけられました。

信長が信忠を「美濃・尾張の司令官」とみなしていたことによると思われます。

織田信忠/wikipediaより引用

ただし、守就ら三人衆は信長直下のまま。

守就については、この後、柴田勝家や羽柴秀吉などの援軍として各地を転戦しており、信長としては「どこか一つの地域に置いておくより、遊軍に近い扱いをしたかった」のではないでしょうか。

というのも、天正年間に入ると、織田家全体では世代交代を考える時期に入っておりました。

信忠をはじめとした信長の息子たちや、重臣の息子らが10代後半~20代に成長。

とはいえまだ若い彼らが何か失態を犯した時、守就のような老練な武将が後詰や援軍にすぐ動いてフォローできる体制を作ろうとしたのかもしれません。

また、信忠は普段岐阜に、信長は安土にいたので、信忠の下に三人衆をつけてしまうと、信長から直接命令しにくくなります。

こうした状況から、信長直属の家臣にしておいたような気もします。

いずれにせよ、信長からの信頼は厚かったと思われるのですが……天正八年(1580年)8月、突如、驚きの事態へ追い込まれます。

「野心を抱いている」

「武田氏に内通した疑いがある」

として、安藤守就と息子の安藤定治が織田家から追放されてしまうのです。

いったい織田家で何が起きていたのか?

 


天正十年(1582年)運命の本能寺

実は同時期に林秀貞や丹羽氏勝も、曖昧な理由で信長に追放されました。

記録に残らないような事情があったのか。

それとも誰かの讒言でもあったのか。

守就らは一族揃って稲葉良通の預かりとなり、不遇をかこつ日々が続きました。安藤氏の領地も稲葉氏のものになってしまったのです。

美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(稲葉良通)/wikipediaより引用

そんな最中の天正十年(1582年)6月2日、今度は日本全土に激震が走りました。

本能寺の変が起こったのです。

守就たちにとっては、旧領を取り返す絶好のチャンスに見えたことでしょう。

守就は息子たちと共に、旧領の北方城(本巣郡北方町)を占拠して大名に返り咲こうとしました。

しかし、同様のことは他の武将たちも考えています。

結局、守就は、稲葉良通らに攻められ、6月8日、一族もろとも自害という末路を辿ってしまうのでした。

 

稲葉とは以前からトラブルがあった?

同じ美濃三人衆に滅ぼされるとは、なんとも歯がゆい思いだったことでしょう。

これにより安藤守就直系の子孫も絶えてしまっています。

ただし、守就の末弟・安藤郷氏の息子である安藤可氏が、叔父・山内一豊の下へ身を寄せ、山内姓を許されて明治時代まで血筋は続いたそうです。

山内一豊/wikipediaより引用

守就は本能寺の後にもう少し情勢を見ていれば、復権することも不可能ではなかったと思われるだけに、何とも惜しいところです。

古馴染みだったはずの良通と真っ先にぶつかり合っているあたり、以前に良通と何かトラブルがあって、それを裁く形で信長が追放したのかもしれません。

あるいは守就の母が良通の伯母だとも言われていますので、土地や何らかの権利を巡る一族内での対立などがあっても不思議ではありません。

まだまだ不明な部分も多いので、今後の研究によって評価が変わってくる可能性も高い安藤守就。

「美濃三人衆の一人」という知名度の割に、その不憫な最期もあまり知られていない気がします。

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小久ヒロ

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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