鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(上:富ノ森の遭遇戦と下:高瀬川堤での戦闘)/wikipediaより引用

幕末・維新

鳥羽・伏見の戦い|注目すべき慶喜の大失態 これじゃあ幕府は勝てません

2025/01/02

慶応三~四年(1867~68年)は幕末維新が最も動いた混乱期。

この時代を振り返る上で非常にややこしいのが、慶応4年(1868年)1月3日に勃発した【鳥羽・伏見の戦い】でしょう。

大政奉還が実施されたはずなのに、なぜ戦いは起こったのか?

実際の戦闘だけ見れば「幕府の負け」でまとめられますが、そもそも合戦が始まった理由や、当初は圧倒的有利だった幕府の敗因となると、前後の状況を把握しておかないと理解し難しいものがあります。

キーマンは何と言っても徳川慶喜。

家臣たちには「最後まで戦うぞ!」と散々煽っておきながら、総大将が真っ先に戦地から逃げ出しているのです。

慶喜が逃亡した理由については、後に色々と語られたりもしますが、トップとしては言い訳のできない大失態でしかない。

鳥羽・伏見の戦いを振り返ってみましょう。

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜/wikipediaより引用

 


開戦前夜、攘夷から倒幕へ

幕府はもう持たないのではないか?

そんな噂がなされるようになったのは、文久2年頃(1862年)とされています。

大久保利通は元治元年(1864年)の天狗党の乱の時点で、もはや幕府は滅びると書き残していた。

若かりし頃の大久保利通/wikipediaより引用

幕臣でも福沢諭吉が憤りながら、もはや幕府を滅ぼすしかないと嘆いていたとされる。

もはや倒壊が免れないなら、どのような幕引きをはかるか?

最後の将軍となる徳川慶喜は、ロッシュから「ナポレオン3世を目指しなさい」と助言を受け、幕政改革に取り組みました。

幕末という時代は、政治体制においても徐々に近代国家へ進化していたのです。

ざっと見てみますと……。

【参預会議】

文久3年(1863年)から翌年まであった体制で、有力諸大名の合議制による政治。

近代国家への幕開けを示す革新的なものでした。

【六局制採用】

陸軍・海軍・外務、会計(貿易と物産)・内務・司法の六部局を採用する(諸侯あるいは賢い旗本幕臣から選ぶ)。

崩壊した参預会議の進化系ともいえるもので、フランスを元にしています。反発はあり難航したものの、おおよそ実現されました。

【軍役令】

軍事の増強と銃隊の組織化。近代戦に合わせた銃隊組織を作る。

幕府は無策でもなく、むしろ国家を変えるべく動いていたんですね。

一方で、志士と呼ばれる集団も方針を変えてゆきます。

外国捕鯨船の出現、そしてペリー来航以来、彼らは当初【攘夷】を掲げていました。

その中心にあったのは徳川斉昭藤田東湖が提唱した【水戸学】。

徳川斉昭/wikipediaより引用

迫り来る異人を倒すと叫んでいた彼らは、方針を変更したのです。

それが【倒幕】でした。

かつて敵対していた諸外国から武器を買い、西洋の技術を取り入れ、留学する。

そして幕府を倒すと方針転換したのです。

 


西郷は武力倒幕をめざす

そうはいっても、コトはそう簡単ではありません。

長州藩は藩主が口を挟まないとはいえ、薩摩藩は藩主の父である島津久光が、藩政をコントロールしています。

倒幕前夜の慶応3年(1867年)、その久光も含めた四侯による【兵庫開港】をめぐる会議において、慶喜は諸侯を軽くあしらってしまいます。

慶喜の聡明さを示す話とも言えますし、久光の不快感や焦燥も理解できる。

島津久光/wikipediaより引用

久光ほど慎重な人物であっても、もはや我慢が限界を超えてもおかしくはありません。

ただでさえイギリスのパークスは慶喜に好意的。イギリスと手を組んでいる薩摩からすれば疎ましいことこの上ない。

そうなると、

「どうにかして慶喜を処理できないか?」

という課題が湧き上がってくるのは自然な流れであり、薩摩の西郷隆盛は、武力による倒幕を狙い始めるのです。

西郷隆盛といえば、上野公園の像が有名です。2018年大河ドラマ『西郷どん』でも、明るく親しみやすい像が描かれました。

しかし、それはあくまで後世のイメージだと思ってください。

彼の実像は甚だ戦闘的でした。カリスマ性と器の大きさに、禍を好む乱世の梟雄とも言うべき本質も備わっていた。

戊辰戦争を起こし、身ひとつでも乗り込んでやると征韓論を唱え、将来的には西南戦争に散る――そんな西郷の戦闘性が頭をもたげてきていたのです。

軍服姿の西郷隆盛/Wikipediaより引用

ただし、これはあくまで西郷周辺の暴走であり限定的とも言えます。

島津久光父子はじめ薩摩の上層部は武力倒幕に反対する意見が支配していました。

それゆえここから先は、ややこしい局面に突入してゆきます。

 

【大政奉還】――土佐と幕府の奇策

武力を用いない倒幕――その路線では、土佐藩が大きな役目を果たしています。

藩主の父と藩主・山内容堂・豊信らの信頼を得た後藤象二郎、坂本龍馬、中岡慎太郎たちは大政奉還運動を進めていたのです。

山内容堂/wikipediaより引用

板垣退助のような武力倒幕派もいますが、彼は藩内の主力ではありません。

土佐藩の考える最上の策は、あくまで大政奉還。それでも従わない場合に備え、武器を準備する。調達は坂本龍馬が役割を果たしています。そう準備を進める理由もわかります。

後藤は奮闘し、薩摩藩上層部の許可も得て、幕府に大政奉還案提出にまでこぎつけます。

ホイホイと権力を手放せと言われて、慶喜が乗るだろうか?

そんな懸念もありましたが、慶喜は大政奉還案に同意しました。

しかし慶喜に理解を示し、実行に移したのは永井尚志のみ。それ以外の幕臣から会津藩、桑名藩まで動揺するばかりです。

こうした中、武力倒幕に反対していた人物たちが凶刃に倒れています。

坂本龍馬中岡慎太郎の両者は、会津藩主・松平容保の命を受けた佐々木只三郎、今井信郎らによって暗殺。

土佐藩の二人は、むざむざと幕府から政権を返上させたとして、殺害されたのでしょう。

かように実行犯を特定できていながら、暗殺の黒幕が薩摩藩であるという声は消えない。なぜか?

その理由を証明する事件があります。

赤松小三郎の死です。

赤松小三郎/wikipediaより引用

赤松は薩摩藩・大久保利通の名を受けた中村半次郎(桐野利秋)によって暗殺されました。

後の権力中枢である薩摩藩が関与しているだけに、赤松の死は語られることも少なく、功績と共に埋没していました。

幕末史における赤松の不在が、この時代の理解をより複雑にしているのでしょう。

いずれにせよ戦争を望む者たちが薩摩藩にいたことは明らか。戊辰戦争の原因を、会津藩ら佐幕勢力とする意見もありますが、そもそも殴りたくて仕方なかった西郷ら強硬派がいたのです。

 


慶喜の建前と本音

ではなぜ慶喜は【大政奉還】に応じたのか?

前提として考えたいのは、後年の慶喜の証言、およびそれを元にした渋沢栄一作の『徳川慶喜公伝』は「安易に鵜呑みにしてはいけない」ということです。

慶喜はしおらしく、こう語っています。

「東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を舞るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり」(『昔夢会筆記』第一)

果たして本当でしょうか。

当時の慶喜の言動から見ていくと、くだけた言い方ですが、次のような本音が見えてきます。

「朝廷に政権を返すとは言ったが、政治に参画しないとは言っていない」

というのも以下のような状況が揃っていたからです。

・幕府のあとがどうなるか、この時点ではわからない

・徳川幕府には武力、人材が残されている

・慶喜には【参預会議】のような合議政治の経験もあり、フランスからも学んでいた

幕政から諸侯による合議政治にうつるのであれば、慶喜は国政に口を挟めます。慶喜が得意とする「弁舌」では、彼に勝てる者もいない。

ゆえに、これから先も政治に関わる気が満々とみなされてもおかしくはなかったのです。

『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用

大政奉還によって倒幕はできたようで、実は完成されていない。

となれば倒幕サイドはどんな手を打つか?

彼らは奇策を打ち出しました。

【倒幕の密勅】

【薩摩御用盗】

【王政復古】

大政奉還後の政治体制として、【王政復古】の大号令を出し、慶喜抜きの【小御所会議】を開いたのです。

ここがターニングポイントでした。

山内容堂が慶喜の参加を主張し、幼い明治天皇を好き放題するつもりではないか?と反論するも、岩倉具視が言葉尻をとらえて反撃。

慶喜を排除した政治体制が構築されてゆく。

徳川慶喜/wikipediaより引用

しかし慶喜も諦めたわけではありません。

幕府にはまだ兵力がある。数でも勝るし、フランス製元込め式シャスポー銃もある。

二条城を出て、慶喜は大阪へと向かいました。

このとき、会津藩でも血の気が多く、薩摩に敵意をたぎらせる佐川官兵衛と林権助に、慶喜はこう言ったとされます。

「私には策がある。しかし内密にことを進めねばならん。まだ今は言えぬ……」

ハッタリだったとも思えない発言です。

天下の名城に立て篭もることはできる。京都でも土佐藩の山内容堂らが慶喜排除に異議を唱えている。

なにしろ慶喜には抜群のカリスマがあった。

天下はどう転ぶか?

まだまだわからない慶応3年末でした。

 

【討薩の表】――薩摩を討つべし!

そんな年末の大坂城にて。

江戸で暴れまわる薩摩藩暴虐の報告が次々に届けられました。煮えたぎる湯のように事態は沸騰します。

このあと、慶喜はどうしたらいいのかわからず困惑するばかりだった……というようなことを言い残しており、それを踏襲する記述もありますが、信じてよいとは思えません。

慶喜はこのとき「いかに幕臣が使い物にならなかったのか」という逸話を伝えています。

こんな話です。

『孫子』から「己を知り敵を知れば百戦危うからず」と引いて、慶喜は老中・板倉勝静にこう問いかけました。

「薩摩の西郷や大久保のような人物が、幕府にいるか?」

「おりません」

幕臣がこんな調子では私が頑張っても勝てない――そう言いたげでな話でありますが、彼の回想だけでなく、他の事績を探っていくと、慶喜は達観どころか何か策を弄していました。

慶喜名義の【討薩の表】という証拠があります。

薩摩藩の奸臣どもが極悪非道の振る舞いをしている。その悪党どもの引き渡しを求める。朝廷が応じなければ誅戮してでもひっとらえる!

そう激しい言葉で煽っているのです。

後になって慶喜は「そんなことあったような……」とシラを切っていますが、到底信じられるものではありません。

そもそも、慶喜がどう言い訳しようとも、煮えたぎった油のような主戦派からすれば、首につけた鎖から放されたようなものでしょう。

戦争は刻一刻と近づいてゆきます。

そして正月4日、慶喜は大坂城を出て、軍を率いて京を目指すこととなります。

圧倒的な大軍でパレードをして、京に乗り込むはずでした。

 

まさかの大敗【錦旗】という大義

この年の正月、西郷と大久保は目の前の大魚を逃さぬよう、入念な準備をしていました。

なんとしても慶喜を叩き潰さねばならない。数では劣るとはいえ、士気では大幅に勝るようにすべし――。

兵数を見てみれば、自軍5千に対し、敵の幕府は1万5千でした。三倍もの開きがあるし、会津藩や桑名藩は強い。それでもやらねばならぬ。

そう決意を固め、薩摩兵たちは鳥羽街道へ向かいました。

慶喜が出立する予定前日の3日――。

薩摩藩兵が待ち受ける鳥羽街道の小枝橋に、幕府の歩兵隊がさしかかりました。

薩摩藩士たちは手筈通りに強硬策へ。

話し合いは途中で打ち切って、討つべし!

このとき兵数で勝る幕府軍は、士気や練兵度にばらつきがありました。意気軒高な会津藩や桑名藩はまだしも、そうでない者も多かった。

はなから戦うつもりであった薩摩兵に対し、対する幕府の歩兵隊は装弾すらしていない有様。

一方的に討ち果たされ、緒戦で大敗してしまいます。

その報告が大坂城に届いたことを、慶喜本人は後からこう振り返っています。

「それでもまだ薩摩を討つと言い張る愚かな連中がいて呆れた」

そんなニュアンスで語り伝えていますが、慶喜の小姓は、彼が愕然としていたことを覚えていました。

慶喜は【討薩の表】なんて出していないと言い出していたけれど、激怒していたわけではない。本当に幕臣が暴走して薩摩と戦をしたのであれば、もっと怒ってもよい。しかし、慶喜はむしろ唖然としていた。

こうした証言の食い違いからは、むしろ慶喜自身が【討薩】の意思をキャンセルしたがった本音が見えてきます。

そのころ京都では西郷と大久保が大喜びをしていました。

西郷隆盛(左)と大久保利通/wikipediaより引用

開戦当初は暗い空気が満ちた御所も、むしろ浮かれ騒ぎ始めるほど。

空気が変わってゆきます。

4日――風の強い朝でした。当初の予定であれば、慶喜出馬の日です。

前線に立つ幕府兵と会津兵は士気が高く、薩摩兵も舌を巻くほどの勇敢さを見せつけます。

戦局の風は幕府が引き戻しつつありました。しかし……。

5日――突如として戦場に【錦旗】が翻りました。

この旗に刃向かうものは【朝敵】である!

として新政府軍が用意したものですが、これに対して幕府側が恐れ慄いたかどうか?というと怪しいものです。

なんせ錦旗の実物がどういうものか不明。記録すらろくに残っていない。買ってきた布を即席で作り上げたもので、インスタントな旗であったことも指摘されています。

確かに、戦闘の経過を見ていて淀藩のように寝返る者も出てきましたが、幕府の圧倒的有利に変わりはありません。

そのままであれば、戦局に変化はなかったでしょう。

しかし……。

インスタント御旗が効果テキメンな人物がいました。

大坂城の徳川慶喜です。

朝敵だと脅され「もう駄目だ……」と焦ります。

母方の血統、水戸学といった背景から、慶喜の朝廷に対する思いの大きさはよく知られるところです。

のみならず、ここは彼自身の悪癖ともいえる性格が発露していました。

会津藩の山川浩や幕臣は、彼のことを苦々しく振り返っています。

調子はいいくせに、すぐに怯える。いざとなるとヘナヘナとして逃げ出す。

そんな性格の人間が、戦場から逃げ出しても言い訳に使えるもの(=御旗)を認識してしまった。となればどうなるか?

慶喜は行動を起こします。

徳川慶喜/wikipediaより引用

謡曲で鍛えた弁舌をふるい、松平容保はじめ味方にこう檄を飛ばしたのです。

「もはやことは決戦である。たとえ千騎が一騎になろうと、退くな! 奮発して全力で戦うのだ! 斃れても大坂がある。江戸がある。水戸がある。最後まで戦おう!」

「今日こうなったのは、不届な奸臣(薩摩の島津)のせいだ。これを排除せぬかぎりは天下は安定せぬ! 不幸にも敗れ危機に瀕しているが、必ず天は見ていてくださる! 大坂城が焼け落ちようが死守するぞ、ここで私が斃れようと、江戸には忠臣がいて仇討ちをするはずだ。思い残すことなぞない、皆、存分に戦ってくれ!」

この名演説を聞き、感動のあまり涙する者もおりました。

言葉通りであれば、確かに感動的であったことでしょう。しかし……。

その翌日6日、慶喜は、江戸へ逃げました。

慶喜は尊皇思想が第一であり、幕府に未練も何もなかったという擁護論もあります。

それがたとえ本心であったにせよ、こんな大演説でアジテーションを飛ばし、本人は逃げる――将軍どころではなく、人として最悪の行動でした。

 

将軍の敵前逃亡

このあと会津藩士・神保修理長輝との会話で、こんなことを相手が言い出したと言います。

「こうなってはもはや仕方ありませぬ。江戸に戻り、体制を立て直すしか……」

慶喜は後年「この説を利用して江戸に帰る」ことを思いついたと振り返ることとなります。

神保の運命は悲惨でした。

慶喜が神保の言い分を利用したため、責任を問われ、切腹にまで追い詰めらたのです。残された彼の妻・雪子は会津戦争で娘子軍として戦い捕縛され、自害を遂げました。

そして慶喜は、腹心にすら告げることなく大坂城から姿を消しました。

逃亡することに抵抗する松平容保と松平定敬を強引に連れ、戦場から離れたのです。

松平容保/wikipediaより引用

ギリギリになってこのことを告げられた容保は涙をこらえつつ、説得しようとします。

しかし弁舌でかなうわけもない。ついには慶喜は苛立ち、脅します。

「ええい、主命であるぞ!」

こう言われたら、会津藩主として断れません。

これを知った会津藩士は嘆き、なんとしても容保を止めようとしました。

「我らは苦戦し負傷者も多い。それなのに見捨てて殿が江戸に戻れば、不義となる! このあと、どんな顔をして将士に見えることができますか!」

しかし、慶喜は会おうとすらしませんでした。

開陽丸で逃げる中、容保は慶喜に問いかけます。

「あんなに戦えと命じておきながら、どうしておめおめと逃げるのでしょうか?」

「ああでも言わないと戦えとうるさい連中がいるだろう、ま、方便だ」

本音と建前を使い分けることは、慶喜の特技でした。

艦内で容保は子どもの声が慶喜のいる船室から聞こえることに気づきます。

子どもではなく、愛妾のお芳の声でした。よりにもよって女連れで逃げるとは……女を斬り捨てろと怒る者もいれば、何も言えなくなる者もいる。あまりに無惨な逃走でした。

逃げることしか考えていなかった慶喜は、家康以来の馬印すら置き去りにしました。

これはお芳の父である火消しの親分・新門辰五郎が守り抜き、江戸まで持ち帰っています。

新門辰五郎/wikipediaより引用

かくして徳川武士の誇りは、最後の将軍の無様な逃亡で消えてゆきます。

慶喜と同行した容保のことを卑劣だという評価はありません。その理由は?

第一に誠意でしょう。容保はああだこうだと言い訳をするようなことはありません。

むしろ罪は己にあると認め、追悼の意を示し続ける明治の世を生きました。容保の人柄については、多くの会津の人々が語り残しています。

「あんなにいい人はいない」

こんな殿様を責めてどうする?

そんな意見で会津は一致していたのです。慶喜とは違いますし、そもそも容保は己の意志で逃げたのではなく、慶喜に拉致されたも同然でした。

 

大坂城から、江戸城へ

天下の名城・大坂城。

言わずもがな防御力も凄まじければ、食糧も十分にあります。

籠城すればなんとかなったのではないか?

幕府の海軍は圧倒的に強く、援護もできる。兵だって1万は残っている。

それでも慶喜に見放され、残された幕臣たちは、どうにもならないと呆れ果てるばかりです。精神力がへし折れ、ほうほうの体で逃げるしかありません。

逃げ帰った慶喜も、江戸城では冷たい来訪を受けます。

天璋院篤姫和宮は露骨に冷たい態度をとる。

幕臣も江戸っ子も呆れるばかり。

冷や飯を食わされていた勝海舟が呼ばれていくと、慶喜はすっかり小さくなっていました。

勝海舟/wikipediaより引用

さすがの勝も呆れ果てつつも同情し、彼なりの智勇を尽くして【江戸城無血開城】で将軍の首を守ることとなります。

しかし、振り上げた拳はおろせません。

江戸を焼かなかった戦火は、東日本へと広がってゆき、会津や函館まで屍山血河を築き上げてゆくのです。

明治初年の時点では『徳川慶喜公伝』を世に出した渋沢栄一ですら、慶喜と会話してもはぐらかすばかりで、行動が理解できなかったと回想しているほどです。

ではなぜ、後年になって慶喜の心を理解したとして『徳川慶喜公伝』はじめ書物で表明したのか?

そのことを最後に考えてみましょう。

 

慶喜を許してなるか! 会津の激怒

『徳川慶喜公伝』における慶喜の言い分はこうなります。

「私は朝廷には向かうつもりなんてなかったのです!

それなのに朝敵認定されるなんて……嗚呼、こんなことならば家臣に刺されようと、命をかけてでも、会津藩と桑名藩を帰国させるべきだった、それならこんなことにならなかった!

私のいうことを聞かないから、『ならば勝手にしろ』と言わなければよかった!」

これには会津藩が激怒。

山川健次郎の『会津戊辰戦争史』で次のように反論されています。

「異議あり、無責任にもほどがある!

人間としての真心があればこんなこと言えますか?

将軍でありながら家臣に『勝手にしろ』なんて言いますか?

国家の浮沈がかかっているのに『勝手にしろ』と言い放ったことが事実だとすれば、こんな無責任な話ってないと思いますが!」

いささか長くなりますが、山川健次郎の声を続けましょう。

山川健次郎/Wikipediaより引用

「だいたい命令って?

会津と桑名に何を命令したんですか?

その中身って何だったのか?

我々はむしろ、あなたの“命令”に従っただけだ!」

「要するに慶喜公はあのとき、断固戦うか、恭順するか、ハッキリしていなかったわけだ。

で、あとから会津と桑名に責任転嫁し始め、しょうもないことを言い始めたわけだ!」

かなり激昂して反論しています。

状況証拠からするに、会津側が正しいとみなされます。

そもそも、本物である【討薩の表】すら、却下されず曖昧なまま慶喜はいなくなってしまった。

却下されない命令に従って、会津は戦い続けたとも解釈できるのです。

会津の悲劇を彼ら自身にありとすることは、ないわけでありません。その筆頭は松平容保であり、すべては己自身にあると口を閉ざし、慰霊する明治を送りました。

そんな容保の態度をいいことに、渋沢栄一という財力を抱き込み、慶喜が言い訳を流布し始めた。

渋沢栄一/wikipediaより引用

容保ほどおとなしくない会津藩士たちは激怒し、筆でもって反論する。

そんな構図がそこにはあります。

山川健次郎は、歳を偽ってまで白虎隊として会津戦争に従軍し、斗南藩で苦労を重ねました。そんな山川からすれば、将軍だろうと慶喜は許せるはずもなかったのです。

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【鳥羽・伏見の戦い】はなぜ幕府軍が負けたのか?

最後に【鳥羽・伏見の戦い】について、個々の点から振り返ってみたいと思います。

Q:武器の性能に差があったから勝敗を決したのでしょうか?

A:『青天を衝け』では、商才を発揮した薩摩藩らが新式の装備を有していたために勝利したと説明がなされています。

しかし、これは古い研究に基づくものとされます。

商才を発揮したのはイギリスの商人です。南北戦争終結により余った武器で一儲けしたい。そんなグラバーらの思惑に、五代友厚らが乗かったのです。

Q:【錦旗】が決定的だったのでしょうか?

A:慶喜にとってはそうであったかもしれませんが、他の将兵までそうであったかはわかりません。

Q:革命を望む京都の人々は、西軍を歓迎したのでしょうか?

A:彰義隊や会津藩を応援していた江戸っ子とは異なったことでしょう。それでも諸手をあげて感動したとは考えにくいものです。西軍に資金提供し、政治に入り込もうとした三井のような商人がいたことは確かですが。

Q:じゃあ結局何が悪かったのでしょうか?

A:総大将である慶喜でしょう。

数を頼みにして警戒を怠る。出した命令を二転三転させ、将兵を混乱させる。現場放棄して、決定的なまでに士気を低下させる。

命令系統を無茶苦茶にし、士気をここまで落としたのですから、最大の責任者は慶喜でしょう。

「己を知り敵を知れば百戦危うからず」

慶喜はこう『孫子』を引いたとされます。それは皮肉にも、慶喜自身にあてはまると思えるのです。

慶喜は己を知らなかったのか?

知らないふりをしていたのか?

大坂城に残された幕臣たちは「またいつものアレが出たよ」とため息をつきました。

長州征討】といい、いざとなると慶喜はヘナヘナとして逃げ出す。周囲はそう気づいていたのに、慶喜自身はその己の持つ臆病さに無頓着だったように思えるのです。

敵のことも知らなかったとしか思えない。かつては手を組んでいた薩摩を過小評価していたとしか思えないほど、初手からして迂闊に思えます。

だからこそ幕臣や会津藩士たちは軒並み怒っておりますし、恨みつらみも語り残している。江戸の人々もシラけきっていたのです。

敗軍の将は兵を語らず――当面の間は、この言葉通り、慶喜もおとなしくしておりました。

そこへ渋沢栄一が訪れてきました。

維新前夜、慶喜のために粉骨砕身した永井尚志や勝海舟に対しては冷淡でしたが、渋沢栄一は歓迎します。

幕政時代はパッとしなかった渋沢栄一も、明治の世で出世を遂げ、長州閥の政治家と親しく、金も権力もありました。

そんな元君臣の力を合わせれば、筆による汚名返上はできると踏み、慶喜精一杯の弁解である『徳川慶喜公伝』が世に出たのです。

徳川慶喜公伝
栄一と慶喜が残した自伝は信用できる?『徳川慶喜公伝』には何が記されたのか

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しかし、時代の変化とともに歴史の評価も変わります。

第二次世界大戦で日本が敗北し、明治以来の国家が崩壊すると、慶喜の評価にも影がさしこみます。

敗戦の記憶が生々しい世代からすれば、慶喜は度し難いリーダーとして映る。

戦えと言いながら自分だけおめおめと逃げ、保身を図り、あとになって自己正当化を言い出す。そんなリーダーは我慢ならないと厳しい評価をくだしているのです。

こうした状況を踏まえ、あらためて考えてみたくなる。

大河ドラマで人の好い俳優が演じていたら、史実の徳川慶喜も好人物なのか。

本人が言い残している言葉だけをベースに振り返ってもよいのか。

山川健次郎ら会津藩士らの怒りの声は、現代や世間へなかなか届きません。

ドラマをきっかけに一考してみるのもまた歴史の醍醐味のように思えてなりません。


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【参考文献】
野口武彦『鳥羽伏見の戦い』(→amazon
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon
一坂太郎『明治維新とは何だったのか』(→amazon
半藤一利『幕末史』(→amazon
福島民友新聞社編集局『維新再考 「官軍」の虚と「賊軍」の義』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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