源頼朝と源義経の肖像画

源頼朝と源義経/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

なぜ頼朝は義経のやらかしを許せなかった?軽視はできない安徳天皇の怨霊

2025/06/15

1189年6月15日(文治5年閏4月30日)は源義経の命日です。

ご存知、兄の源頼朝に追われ、奥州の地で亡くなるわけですが、そもそも頼朝はなぜ大事な血縁者を排除しなければならなかったのか?

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも大きなテーマであり、その理由の一つとして劇中の梶原景時は「両雄並び立たず」という趣旨の発言をしていました。

性格の違う天才二人は、立場を分かち合えない――。

そう言われれば、思わず頷いてしまいそうになりますが、史実からすると、どうもそれだけが答えとも思えません。

大きな要因として考えられるのが【壇ノ浦の戦い】で義経が安徳天皇を入水まで追い込んでしまったこと。

安徳天皇/wikipediaより引用

直接手を下したわけじゃないにせよ、幼い天皇を死まで追い込んだのは、頼朝にとっては由々しき事態でありました。

なぜなら批判の対象が頼朝にも及び、同時にそこには「怨霊」という、当時最大級で恐れられた恐怖も伴ったのです。

オカルトと切り捨ててしまうなかれ。

頼朝と義経の兄弟トラブル、その理解の助けとなる当時の「怨霊」の存在を振り返ってみましょう。

 


怨霊の時代

新築の家を建てるとき、あるいはアパートの部屋を借りるとき。

価格が相場よりガクン!と安い場合、皆さまはこんなことを気にされたことはないでしょうか?

「心霊現象が起きたりしないよね……」

そんなバカなとは思いつつ、もしも近隣にかつての「処刑場」や「合戦場」があったとすれば、途端に笑い飛ばせなくなるのが人情。

ゆえに今でも事故物件という概念があり、地鎮祭も開催されるわけで、ましてや八百年前ともなれば俄然重要性を帯びてきます。

『鎌倉殿の13人』の舞台である平安末期から鎌倉時代は、怨霊を大いに気にした時代です。

日本史上に残る怨霊全盛期とすら言えるレベルでした。

では、人はいつから怨霊を恐れるようになったか?

実は「これだ!」という起点はハッキリしていません。

人が生きていく上で、何かを恐れることは自然な感情であり、有史以前からその心はあったでしょう。

では有史以降、怨霊に対して強い拒絶が生じるのはいつ頃からか?

あくまで人の感覚となり科学からは離れてしまいますが、奈良時代に大きくなり始め、平安時代で頂点を迎えたと考えられます。

平安時代に書かれた物語には、怨霊とそれを恐れる人間の様が数多く描かれているのです。

平安京/wikipediaより引用

当時、まことしやかに語られた祟りや穢れは、現代においては差別につながる迷信と言えます。

特に、血の穢れと女性の生理現象や出産を結びつけるものは、性差別の根源の一つとされ、今でも女性が特定の山や相撲の土俵に登れない――。

そんな弊害も指摘されるところです(以下はそのまとめ記事となります)。

歌川国芳の相撲絵
大相撲で土俵の女人禁制は歴史的に奇妙だ|協会に求められる改革とは

続きを見る

しかし、この思考は平安時代においては、暴力を抑制するという利点もありました。

憎たらしい誰かがいても、直接殺して血が流れたら穢れてしまう。

そんな発想があるため、権力者層の貴族はそこまで気軽に殺人はできなかったものです。

 


菅原道真や平将門など

こうした平安時代の怨霊代表格といえる人物が菅原道真です。

菅原道真像(菊池容斎)/wikipediaより引用

彼の不遇や不運を思えば、怨霊化もやむを得ない。

そう思った人々の受け止め方があればこそ、あれほど祟りが恐れられた。

やがて菅原道真は、怨霊化を経て、学問の神様として崇められます。道真を酷い目にあわせた側の罪悪感がそんな現象を呼び起こしたのです。

少し鎌倉時代に近づいて、平将門も同様でしょう。

斬首されたあと、首が飛んでいったとかなんとか……現在でも首塚に関する祟りは、怪談の定番中の定番といえます。

周囲のビルと共に新しく建て直された現在の将門塚

しかし、同時にちょっと気になりません?

悲劇的な終わりを迎えたのは何も彼らだけじゃない。

他に、もっと悲惨な末路を辿った者は、怨霊になっていないのか?

下手をすれば世の中怨霊だらけではないか?

そう、『鎌倉時代の13人』で描かれる平安末期から鎌倉時代とは、怨霊という観念から見ると画期的な時代。

戦乱による怨霊候補乱立の到来でした。

 

鎌倉:怨霊対策を一から考えた都

源頼朝は信心深い人物として知られています。

人の命を奪う――そんな弓馬の道を極める武士であるからには慰霊が必須。

そんな頼朝が兵を挙げ、ついに鎌倉入りを果たしたとき、ほぼ一から都市を作ることができたため、当然ながら怨霊対策に取り組みます。

『鎌倉殿の13人』では、都市計画について弟の阿野全成に助言を仰いでいました。

阿野全成/wikipediaより引用

仏僧として知識のある全成。

彼が劇中で行う風水対策はユーモラスに描かれていますが、当時は極めて真面目な心持ちで取り組んでいました。

その痕跡は、鶴岡八幡宮はじめ、現在も見ることができます。

鎌倉は、現在も寺社仏閣が多い街です。

それは怨霊対策や罪悪感の現れとも言えるでしょう。

どういうことか?

史実でも劇中でも、頼朝は大庭景親、伊東祐親、上総広常、木曽義高ら、大勢の命を奪いました。

ドラマを見ている側としては『一体この人は何様のつもりか』と言いたくなるほど。

そんな心情は、当時の人々にとっても同じであり、頼朝としても「せめて慰霊だけはしているぞ――」と周囲に証明・アピールする必要性がありました。

要は、彼にも罪悪感はあったわけで。

上総広常の願文をみて後悔したとか。

大庭景親伊東祐親、木曽義高は供養を行ったとか。

そんな記録が残されています。

上総広常/wikipediaより引用

永福寺には、源義経と藤原泰衡を供養する慰霊碑もあります。

弟を殺したことについて、頼朝は罪の意識がなかったわけではありません。いや、むしろ恐れていた。

『吾妻鏡』には、当時こんな噂があったと記されています。

木曽義高、義経、泰衡の怨霊たちが集って鎌倉を目指している

おそらく冗談で済まされる話ではなかったのでしょう。

『鎌倉殿の13人』で義高を演じた市川染五郎さんは幽霊役でも再登場したいとコメントしておりましたが、できなくはない設定と言えます。

 


怨霊と天皇

『鎌倉殿の13代』は、天皇と怨霊の関係が最も濃い時代を扱っています。

具体的には以下の四名。

崇徳天皇

安徳天皇

後鳥羽天皇

順徳天皇

いずれも怨霊伝説がある人物です。

崇徳天皇は後白河天皇と争った【保元の乱】に敗れ、讃岐に配流となりました。

女房たちと慎ましやかに暮らしていたとされるのですが、物語では全く異なります。

舌を噛みちぎり、血で「日本国ノ大悪魔」(あるいは日本国ノ大魔縁)になると書き記したというのです。

崇徳天皇(左)と怨霊になった崇徳天皇/wikipediaより引用

この血で記した「五部大乗経」は、あると言われながら実在は確かめられていません。

もっとも、こうしたものは「見たら祟りで死ぬ! ゆえに誰も見たことがない……」という理由をつければどうとでもなりますが。

崇徳天皇本人は、慎まやかな性格だと目されていますが、周囲がそうとは限らず、怨霊伝説の発端は、天皇に仕えていた者からのようです。

あんな酷いことをしてただで済むと思うなよ……

そんな思いを周囲に言いふらしたため、巡りに巡って噂が大きくなってゆく。ゆえに、ただでさえ罪悪感のあった後白河天皇側も怯えるようになった。

後白河法皇/Wikipediaより引用

実は、頼朝の父・源義朝も、崇徳天皇の怨霊に怯える代表格でした。

義朝は【保元の乱】で、頼朝の祖父・源為義、頼朝の叔父・源義賢などの家族までを敵に回し、結果、父と弟を失っている。

ゆえに息子の頼朝が信心深くなるのは当然ともいえます。

平家に敗れた父や兄のみならず、崇徳天皇関係者までも慰霊の対象。

特に崇徳天皇はおそろしい……嗚呼、天皇を悲運に陥れたら恐ろしいことが待っているのだな……頼朝がそう思っていたことは確かです。

恐怖心があればこそ、平家も安徳天皇を船に乗せ逃げていったのでしょう。いわば天皇を盾にしたのです。

しかし、歴史とは何とも皮肉なもの。

頼朝の弟である義経たちは、安徳天皇が船にいようがお構いなし。

苛烈なまでに敵を追い詰め、ついに安徳天皇は祖母・二位尼に抱かれ、海に沈んでしまいます。

そして、その非難の対象は、頼朝に向かいました。

安徳天皇を海に沈めた主犯格と見なされるようになるのです。

 

義経暴走の怨嗟は頼朝に向かう

頼朝にとってはあまりに予想外――義経の暴走が引き起こした悲劇ですが、そんな言い訳、世間には通じません。

三種の神器の剣と安徳天皇が水没してしまった事実は変わらない。

ゆえに頼朝が義経に激怒し、鎌倉入りを許さなかったことも致し方ないことでしょう。

安徳天皇のあまりに悲惨な最期について、当時の人々は驚愕しました。

成人していて、かつ争いに積極的に関わった崇徳天皇を、存命のまま配流したことですらおぞましいのに、まだ6才の安徳天皇を追い込むとはいかがなものか。

その慰霊に頭を悩ませた人物が九条兼実です。

九条兼実/wikipediaより引用

崇徳と安徳の慰霊――彼らにとって浮上した喫緊の課題。

どちらも「徳」と諡号についていますが、「徳」は怨霊の鎮撫を行うための字です。

安徳天皇の慰霊は『平家物語』にも込められています。

物語を知った人が嘆き悲しみ、安徳天皇を思うことが慰霊になる。

三種の神器のうち剣だけが見つからなかったのは、海の底にいた竜神が持ち去ったのだろう。海の底にある竜宮に帝と平家は向かったのだろう……そんな語り口からは、怨霊を鎮めたい願いも感じられるものです。

琵琶を弾きながら語られるとき。

ドラマやアニメとして人々が鑑賞するとき。

その間、人々が平家を思い、涙することで、怨霊が鎮められる――そんな考え方ですね。

しかし……当の頼朝にとって、壇ノ浦の戦いで起きてしまった悲劇を覆すことはできません。

結果、信心深い頼朝にとって、怨霊対策はもはや人生を賭けた課題にもなりました。

果たしてその効果はあったのかどうか?

 

当時の人は「全部頼朝のせい」

建久9年(1198年)末、頼朝は病に罹り、翌年正月に出家して亡くなってしまいます。

吾妻鏡』は、この死後3年分の記述が欠落していて、頼朝に何が起きたのか、については諸説あります。

相模川にかけた橋の落成供養で落馬し亡くなったとか。

あるいは飲水(糖尿病)であるとか。

疲労がたまり亡くなったとか。

当時の中世人であれば、こんな怨霊解釈の一例もあります。

『保暦聞記』を見てみましょう。

相模川に出かけた頼朝は、源義広、義経、行家ら、自らが滅ぼした者たちの怨霊を見かける。

そのまま進んでゆくと、海の上に十歳ほどの男児がいる。

この男児は安徳天皇であると名乗った。

安徳天皇/wikipediaより引用

亡霊をみて鎌倉に戻った頼朝は、そのまま急死したのである。

おわかりいただけたであろうか。

源頼朝は、平家の怨霊に殺されたのである――。

怨霊の効果はそこだけにとどまりません。

息子である源頼家源実朝が、非業の死を遂げ、源氏将軍が断絶したことも、大量に人を殺した祟りだと語られたのです。

さらには、頼家の娘である竹御所が難産で亡くなった際にも、藤原定家が「平氏を子どもまで殺した祟りだろう」と書き記しています。

安徳天皇にせよ、三種の神器にせよ、頼朝が海に落とすよう命じたとはとても思えません。

現場で義経が暴走した結果であり、それが許せなかったからこそ頼朝は義経を拒否したのでしょう。

しかし皮肉にも、頼朝が義経を自害に追い詰めたことにより、義経の罪まで頼朝が背負うことになったのです。

そしてこのあと、怨霊を考える上でさらに深刻な事態が起こります。

 

承久の乱:怨霊的にも危険だった

源氏将軍がわずか三代で断絶したあと、幕府において執権を担った北条義時。

その彼が直面した苦難であり、人生のクライマックスと言える戦いが【承久の乱】です。

乱そのものの経過は以下の記事に譲り、

承久の乱
なぜ承久の乱は勃発しどう鎮圧されたのか?後鳥羽上皇が抱いた不信感

続きを見る

怨霊観点で振り返ってみましょう。

まず、過去の怨霊傾向からして、最大のものは天皇となるでしょう。

崇徳天皇と安徳天皇の怨霊がまことしやかに信じられていた時代、義時にとって、後鳥羽上皇と順徳天皇を敵に回すのは非常に恐ろしいことでした。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

結果的に鎌倉方が勝利を果たしたとはいえ、怨霊観点からするとそうではない。

【承久の乱】のあとには、さながら東西怨霊合戦となります。

京へ攻め込むことに積極的であった大江広元北条政子が亡くなると、盛んに「祟りだ」と京都で喧伝される――あわてて鎌倉が否定する――そんな事態が続きます。

しかも、流刑にあった後鳥羽上皇は怒りを抱いています。

崇徳天皇ほどおとなしい性格ではない上皇は「見てろよ、いつかリベンジしてやるからな!」と怒りを募らせていたのです。

後鳥羽上皇
なぜ後鳥羽上皇は鎌倉幕府との対決を選んだのか?隠岐に散った生涯60年

続きを見る

崇徳天皇の場合、側近が怨霊の噂を流したわけですが、後鳥羽上皇はセルフプロデュース型怨霊ということです。

それゆえ、ややこしいことが起きています。

後鳥羽上皇は文才にあふれ、カリスマ性、スター性がある。

そんな彼が罵倒するために書いた文言が実に素晴らしいため、当時の文筆家はこう思いました。

「これは素晴らしい。『保元物語』にも取り入れよう。崇徳天皇の呪う文言に使えるじゃないか!」

かくして『保元物語』には、後鳥羽上皇の文言と共通する言い回しが出てくるようになったのです。

これを受け止めた側はこうなります。

「そうか……きっと崇徳院も、後鳥羽上皇のように怒り呪い苦しんだんだろうな」

時系列的にはとてもややこしいですよね。

強烈すぎる後鳥羽上皇の印象が時代を遡り、崇徳院の怨霊描写にまで反映されてしまった。

承久の乱】で敗れた順徳院も、怨霊化を望みました。

もちろん北条側は無視したいところですが、そうもいきません。しぶしぶ慰霊を行うことになっています。

とはいえ、崇徳天皇に対する後白河院ほど熱心ではなく、そのことは私たちの反応からわかるかと思います。

崇徳天皇と聞けば怨霊伝説を連想しませんか?

大河ドラマ『平清盛』でも井浦新さんが強烈な姿を見せました。

一方で後鳥羽天皇や順徳天皇はどうでしょう?

『鎌倉殿の13人』での尾上松也さんは、凄まじい怨霊化とはなりませんでしたよね。

 

大河ドラマで学ぶ怨霊誕生

『鎌倉殿の13人』は、興味深い現象が起きていました。

放映後、SNSで「全部大泉のせい」という言葉がトレンド入りしていたのです。

このトレンドは発生源が辿れます。

小栗旬さんです。

発端の小栗さんは、現場の雰囲気を和ませるためか、マスクに文字を書き込んでいました。

それがテレビで放映されてファンも使うようになり、記事化もされています。

◆「鎌倉殿」悲劇でトレンド「全部大泉のせい」の語源 「頼朝嫌い」小栗も怒り大泉もらい事故(→link

◆大泉洋「♯全部大泉のせい」でついに国民の“嫌われ者”に!エンタメ界のど真ん中で見せる磁力(→link

記事から該当部分を引用させていただきますと……。

なお「全部大泉のせい」の出典は、NHK番組で大泉が明かしたもの。

現場で主人公・北条義時役の小栗旬が頼朝の非情さに怒り、現場で使用しているマスクに「感情移入し過ぎて、全部大泉のせいと書かれた」と明かしたことから。

今後、多用されるワードとみられる。

「今後も多用」と指摘されるほど。

結果、大泉さん(の演じる頼朝)は国民の“嫌われ者”になってしまった。

この流れを怨霊伝説で考えれると、こうなります。

発端の誰かが呪詛の文言(ここでは「全部大泉のせい」)を印象的なもの(ここではマスク)に書き込む

その文言が何らかのきっかけ(この場合はテレビ)で拡散する

人々がその文言を唱えるようになる

そして定着……

現在の私たちは「全部大泉のせい」というトレンドを笑って受け止めることができます。

しかし、こうした流れを知らない誰かが何年か後、こう誤解することはありえます。

「そうか、大泉という人物が全ての元凶だったのだな……」

こんな流れが生じることにより、怨霊伝説は出来上がっていった。

かつては何十年も何百年もかけて構成された伝説を、私たちは早回しで経験しているのかもしれません。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

崇徳天皇の怨霊が強烈に思えるのは、それだけ後白河天皇や【保元の乱】に関わった周囲が、大きな罪悪感を抱いていたからでしょう。

しかし時代の流れと共に、怨霊を信じる気持ちは薄れ、やがて消えてゆきます。

それが人の自然な感情です。

豊臣‌秀吉も、徳川‌家康も、自らを神としました。

菅原道真のように怨霊を鎮めるために神とされたのではなく、偉業と権力ゆえにそうしたのです。

そんな秀吉を祀った神社を徳川は破壊しました。

幕末には、日光東照宮に対して高杉晋作らが苦々しい思いを吐き捨て、明治政府も破壊しようとしています(明治天皇の反対により実現せず)。

こうした怨霊や神への態度を見ていくと、日本人の意識の変化も見えますよね。

怨霊とは何か?

いると信じればいるし、信じなければ生じない。

要は、人の心が生み出している。

頼朝にとっては、いつまで経っても苛まされる状況が続いてしまうかもしれません。


あわせて読みたい関連記事

源義経
戦の天才だった源義経の生涯|自ら破滅の道を突き進み奥州の地に果てる

続きを見る

源頼朝
源頼朝はどんな生涯だった?武家の御曹司が伊豆に流され鎌倉政権を樹立

続きを見る

天才軍略家義経
義経の強さが突出していた理由|世界の英雄と比較して浮かぶ軍略と殺戮の才

続きを見る

藤原秀衡
藤原秀衡はなぜ義経を二度も匿ったのか|奥州藤原氏は頼朝に従属せず?

続きを見る

源平合戦の水上戦闘
海戦で義経の活躍を支えた三浦氏|水上戦に長けた一族の真骨頂とは

続きを見る

【参考文献】
山田雄司『跋扈する怨霊』(→amazon
五味文彦『殺生と信仰――武士を探る』(→amazon

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-源平・鎌倉・室町
-

右クリックのご使用はできません
目次