寛仁4年(1020年)10月15日は藤原道綱の命日です。
大河ドラマ『光る君へ』では上地雄輔さん演じる、いかにもノーテンキなキャラクター設定となっていますが、史実の彼には大きな特徴があります。
母が「本朝三美人」の一人に数えられる美女であり、しかも『蜻蛉日記』を記した“藤原道綱母”として後世にその名をよく知られているのです。
劇中では財前直見さん演じる藤原寧子(やすこ)がその母であり、藤原兼家の妻でもある。
では、二人の息子である藤原道綱とは一体どんな人物だったのか?
特に異父兄である藤原道長とはどんな関係だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
兼家から見れば次男の道綱
藤原道綱は天暦9年(955年)生まれ。
前述の通り、父は藤原兼家で、母は藤原道綱母(ドラマでは藤原寧子)となります。
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すでに劇中では亡くなっていますが、藤原兼家といえば『光る君へ』の劇中で、たびたび息子三人に向かって「我が一族こそ!」と気合を入れており、そこに道綱はいませんでしたよね。
これは一体どういうことか?
『青天を衝け』の渋沢栄一のように明治時代の有力者であれば、妻妾が同居して、異母きょうだいが揃うシーンもおかしくないかもしれません。
しかし平安時代はまだまだ【双系制】の時代。
嫡妻とそれ以外の妻では大きな差がありました。
以下のように兼家の子供は、長男の道隆が953年に生まれ、道綱はその2年後(955年)に生まれています。
◆藤原兼家の子供(青は男)
953年 道隆
954年? 超子
955年 道綱※
960年 娘※
961年 道兼
962年 詮子
962年? 兼俊 ※
生年不詳 道義 ※(母は藤原忠幹の娘)
966年 道長
974年 綏子
※が非嫡出子
つまり、本来なら道綱は次男になるのですが、母が嫡妻ではないため、兼家が息子たちを鼓舞するドラマの場面には出されなかったんですね。

藤原兼家/wikipediaより引用
嫡妻以外の生まれとして
考えてみれば『光る君へ』では道長の幼名が「三郎」と設定されることからして、藤原道綱と母にしてみれば悲しい話です。
本来は五男とされる道長が「三郎」ということは、嫡妻・藤原時姫の男児しか数えていないということ。
時姫と道綱母(他の妻)は同時進行で兼家から寵愛されながら、非常に大きな差があるのです。
そもそも時姫と道綱の母は、血筋として格段の差はありません。
だからこそ、美貌と才知に大きな自信を持っていた道綱母は、『蜻蛉日記』にそのモヤモヤを記したのでしょう。
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そんな彼女は我が子・道綱をどう思っていたのか?
というと「おとなしすぎる、おっとりとしている性質」のように思えたようです。
第三者からは「母譲りの文才に乏しい」と指摘されることもあります。
歌合せで道綱が詠むと「あれは母の代作だよな」と囁かれたこともあるほど。
特に『小右記』で知られる藤原実資(劇中:ロバート秋山さん)に
「文才がない」
と言い切られたのは、実際に光るものがなかったのかもしれません。
しかしそんな道綱にも、父の出世を決定づける場面で意外な働きがあったとされます。
一体どんな働きなのか?というと……。
寛和の変で殊勲賞
藤原道綱が童殿上(わらわてんじょう・貴族の子弟が宮中で作法を習う)に上がったのは、安和2年(969年)のこと。
翌年の天禄元年(970年)には従五位下に叙されるなど、父・藤原兼家の威光を受けて、順当にキャリアを歩んでゆきます。
ただし、良いときも悪いときも、父の影響を受けるのがこの時代の宿命。
父・兼家が、不仲である兄の藤原兼通と争い、失脚してしまい、道綱の前途にも暗い影を落とすのですが、彼が思わぬ脇役としての姿を見せる事件が起きます。
【寛和の変】です。
事件の主役となるのは花山天皇――道綱の父・兼家にとっては実に邪魔な存在でした。
兼家の娘・藤原詮子が産んだ懐仁親王(円融天皇唯一の皇子)が東宮から天皇になろうとしても、花山天皇はまだ17歳と若く、まだ譲位が望めそうになかったのです。
もしもその治世が長く続けば、懐仁親王が天皇となって兼家が権勢を振るう外戚政治もできなくなってしまう。
しかも花山天皇は、兼家にとっては甥にあたる藤原義懐を重用している上に、新たに皇子でも生まれたら、それこそ懐仁親王の即位も危うくなるかもしれない。
こうなると、花山天皇の譲位が先か、兼家の寿命が先か……。
寛和2年6月23日(986年7月31日)、時は訪れました。
熱愛する藤原忯子に先立たれて精神状態が悪化した花山天皇は、兼家の子・藤原道兼に出家を促されました。
花山天皇の譲位と同時に出家をさせて、懐仁親王を即位させてしまおうという魂胆です。
そこで道兼が花山天皇をそそのかして、首尾よく出家させることに成功。

花山天皇の出家を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用
藤原道綱は何をしたのか?
ドラマではお調子者の危なっかしい印象でしたが、この一件では見事に【三種の神器】を内密で懐仁親王のもと運び込み、即位を進めました。
兼家の息子たちによるチームプレーとでも言いましょうか。
この【寛和の変】における兼家チームのMVPが藤原道兼ならば、次席の殊勲賞は藤原道綱かもしれません。
結果、一条天皇が即位。
兼家チームの強引なやり口には反発も少なくなかったようですが、勝利は勝利であり、藤原義懐ら花山天皇サイドの側近も去り、兼家たちの我が世の春が到来しました。
兼家は摂政、そして藤氏長者となったのです。
道綱も、嫡出の兄弟には及ばぬものの、寛和3年(987年)には従三位となり、公卿へ名を連ねることになりました。
異母きょうだいの政争を見守る
【寛和の変】という際どい策により頂点に登り詰めた藤原兼家。
事件から4年後の永祚2年(990年)、関白になると、頂点を取って満足したのか、それとも体力の限界かだったのか、病を理由として官を辞し、出家してしまいます。
そして呆気なくこの世を去りました。
父の跡を付いだのは、兼家の長子である藤原道隆。
摂政となり、頂点に立つと、娘の藤原定子を一条天皇に入内させ、華やかなサロンが生み出されます。

枕草子絵詞/wikipediaより引用
しかし、それも束の間。
長徳元年(995年)に道隆が世を去ると、次に関白を継いだ藤原道兼も短期間で没してしまい、道兼は「七日関白」の異名をつけられてしまいます。
このころは疫病でも流行していたのか。道綱母も、同時期に没したと伝わります。
一族が波乱含みの展開に左右される中、道綱の異母弟となる藤原道長だけは無事でした。
が、その心中には、不満が高まっていたとされます。
権力を握るためには、兄である道隆の子供たち、甥の藤原伊周や藤原隆家などが目障りとなったのです。
しかも一条天皇は定子を熱愛していて、道隆の子たちの権勢は高まるばかり。
さて、どうするか?
翌長徳2年(996年)、絶好の機会が訪れます。
道長の甥である伊周はこの頃、藤原為光の遺児である四の宮のもとへ通っていました。
同じころ、あの花山法皇が、四の宮の姉である三の宮の元へ通っていました。
これが誤解を呼び起こします。
伊周は、四の宮に通じている不届者がいると勘違いし、花山法皇とは知らずに矢を射掛け、袖を貫通したのです。
出家の身ながら女色がらみの不祥事を起こした花山法王は、この一件を隠蔽しようとしましたが、道長が見逃すわけもない。
後に【長徳の変】と呼ばれる事件となり、
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伊周と隆家の兄弟(藤原道隆の子供たち)は失脚へ追い込まれました。
清少納言が『枕草子』で描いた華やかなサロンは、かくして幕を閉じたのです。
実資、道綱の出世に苛立ち記録に残す
藤原兼家たちの息子や孫たちが、次から次へと騒動を繰り返す中、藤原道綱は脇役として連なることとなります。
道長が権力を把握すると、一条天皇の母である藤原詮子も政治に介入する姿勢を見せました。
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詮子は弟の道長を高く買っており、姉と弟による政治体制を構築。
二人の異母兄となる道綱は、そこで中納言へ出世します。
この人事は、藤原実資を超えるものです。
「賢人右府」と称されるほど頭が切れる実資にとってみれば、道綱は「ろくに字もしらんヤツ」「自分の名前くらいしか書けない」と酷評したくなるような人物。
人事の先例を引いてまで「ありえんからな!」と憤っています。
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怒りの矛先は、当然のことながら道長や詮子にも向きます。
彼の日記『小右記』には、道長一族への羨望と憤りに溢れているのです。
それだけに、もしも道綱が調子に乗って何かやらかしていれば、その様は『小右記』に記録されていたでしょう。
しかし、具体的なやらかしの描写はなく、「あいつはバカ」「出世が早くて色々舐めてる」程度の文句にとどまっている。
そうした状況から、道綱は意外と無難に政局を乗り切るタイプだった人物像も浮かんできます。
大河ドラマ『光る君へ』は、実資が道綱に苛立つ姿が映像化されるまたとない機会。
そこでどんな風に道綱が描かれ、藤原実資にとってはどんな愚か者に見えるのか?
物語のスパイスとして期待が募ります。
穏やかな人物だった
藤原道綱は、大権力者である藤原道長からすれば異母兄に過ぎません。
道長自身の子が成人すれば、その方を優先させるのは当然のこと。
よって道綱の地位は、甥である道長の子を超えない程々のものに終始しました。
というより、道綱自身もさほどの野心は抱いていなかったのか、その地位で満足していたようです。母が感じていた通り、おっとりとした性格だったのでしょう。
そして寛仁4年(1020年)、病に斃れて出家すると、ほどなく没しました。
享年66。
身の程をわきまえ、穏やかに生きた人物でした。
母ほどの才知を発揮しなり、何か気の利いたことをしていれば他に逸話もあったのでしょうが、それもないため、藤原実資による「無能」の評価が際立ってしまう。
道綱は、絶世の美女とされる母に似た美男子だった可能性もあります。
家柄もよく、美貌も兼ね備えていながら、際立った恋物語もないとすれば、それだけ当時は才知が求められていたということかもしれません。
参考文献
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
藤原実資『小右記』(→amazon)
他





