大学寮

画像はイメージです(えさし藤原の郷)

飛鳥・奈良・平安

平安時代の大学寮とは?『光る君へ』まひろの弟・惟規が入って出世できる?

2024/03/05

現代社会の大企業で出世するには有名大学の出身であることが必須も同然。

「平安時代もそうだったのか?」と思わされるシーンが大河ドラマ『光る君へ』にありました。

主人公・まひろの弟である藤原惟規が【大学寮】へ入るとして、父の藤原為時が「勉学に勤しんで出世するのだぞ」と発破をかけていたのです。

言い換えれば、大学寮での成績さえ良ければ、より高度な官位が与えられそうにも思えますが、果たして現実はそうなのか?

答えは否。

平安時代の中期は、真面目に努力するよりも、生まれつき手にしていた血統や財産によりその後の人生が決定づけられました。

藤原為時にせよ、ききょう(清少納言)の父である清原元輔にせよ、学識はあっても出世は伴わず、官職に就く者を記した【除目(じもく)】に自分の名前がないことを嘆いたものです。

ならばなぜ、為時は息子を大学寮に通わせたのか?

いったい平安貴族は何を学び、それが出世にどう影響したのか?

東アジアの官僚制度と対比しながら、平安時代中期、日本の大学寮と出世事情を振り返ってみましょう。

 


平安京の最高学府・大学寮

日本も含まれる東アジアの文化圏では、様々な制度や文化が根付いてきました。

その中で官僚を育成するため、中国大陸や朝鮮半島で重要視されたのが【科挙】と【宦官】です。

日本では、このシステムは採用されず、代わりに存在したのが【大学寮】でした。

カリキュラムは以下の通り。

・文章(文学)

・明経(儒教)

・明法(法律)

・算道(数学)

激烈に難しい【科挙】はないけれど、唐名で「国士監」と呼ばれる最高学府の「大学寮」はある。

ここで学力を身につけ、試験も行い、任官させる――それが日本の制度でした。

そもそも中国でなぜ【科挙】が採用されたのか?というと、従来の【貴族】制度では弊害が多かったからです。

上流貴族はおしゃれにうつつを抜かしていてもラクに出世できる。

一方、下流貴族はいくら才能があっても、努力しても、出世はどこかで頭打ち。

そんな状況では誰もが努力を放棄するようになってしまい、社会は硬直化してしまう。

その点【科挙】は、受験勉強をするために一定の資産や環境が必要ではありながら、官僚の多様性を確保するためには優れた制度でした。

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では、日本ではどうだったか?

残念ながら、出自の階級を問わない、実力重視の制度は限定的でした。

たしかに平安時代前期は、実力で出世を遂げた者もいましたが、その代表格とも言える菅原道真が上級貴族に潰されてしまうと、実力主義による抜擢は消えてゆきます。

華やかな平安時代、その中期以降の人事システムは「停滞の時代」とも言えるのです。

 


凄まじい“一族ガチャ”の時代

近世以降の日本では「どんな家に生まれようと努力すれば出世できる」ということが語られてきました。

実際は、そうではありません。特に明治時代は【藩閥】がものをいい、それ以降の時代でも生まれにより出世の大勢は決まっていながら、建前上は実力主義のようにされてきました。

会津の貧しい家に生まれ、周囲の助けと本人の努力で世界的に名を知られるようになった野口英世は、そうしたロールモデルの典型でしょう。

令和時代を迎えた現代では“親ガチャ”という言葉が流行しています。

どの親のもとに生まれたか――生まれでその後の人生は決まってしまうという意味であり、

「国公立大学で学ぶよりも、家に資産があればよい家庭教師をつけて、私立大学を出ればよい。それで出世できればいい。所詮、国公立で学ぶような連中は中流以下の貧乏人でしょ」

こんなことを誰かが語ったら、令和らしいぼやきに聞こえるかもしれません。

しかし、平安時代中期であれば、多くの貴族もこの言葉に賛同したかもしれません。

当時も間違いなく“一族ガチャ”の時代でした。

 

上流貴族は蔵書量が違う

上流貴族は家庭での教育環境が恵まれています。

まず漢籍が揃っているのが大きい。

紙をはじめとする文房具が、今では考えられないほど高価だった時代。

家に蔵書があれば、それだけで頭ひとつ抜きん出た教育が受けられます。

藤原為時の家は、蔵書だけは豊富と考えられます。

為時の祖父、紫式部の曽祖父までは上級貴族だったからです。

紫式部と比較されやすい清少納言の家系は上流貴族ではありません。

しかし、清原深養父(きよはらのふかやぶ)や清原元輔など、和歌の名人を輩出しており、センスや頭の回転が光る家系と言える。

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蔵書が豊富な努力家の紫式部と、鋭いセンスが光る清少納言は、そういう意味でも対照的なんですね。

紫式部は「清少納言の漢籍知識なんて浅い!」と記しています。それは清少納言の才覚だけでどうにかなる問題ではなく、家の蔵書量が影響した可能性は否定できないでしょう。

 


貴族同士の交友関係が知識を豊かにする

平安時代から伝わる書物にはしばしば「藤」の印がついています。

文字通り「藤原氏の所蔵」という意味です。

平安時代中期の教育や読書事情を振り返る上で重要なことは、当時は「写本」であることが挙げられます。

摂関政治時代には【宋版】印刷の書籍も導入され、藤原道長も所蔵していました。

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ただし、あくまで極めて珍しい観賞用としての伝来であり、本来の目的である書籍として本格的に輸入されるのは、鎌倉時代の【金沢文庫】あたり以降とされます。

それまでの書籍は

誰かから借りる

書き写して

返却する

というプロセスでした。

「『源氏物語』が広く読まれた」

という何気ない一文にしても、当時の流通事情を考えるとなかなか大変です。

書籍の内容を写す手間がかかるからには、爆発的に一気には広まらず、ジワジワと浸透していくもの。

『更級日記』の作者である藤原孝標女は、『源氏物語』がどうしても読みたいと願っています。それだけ現物が入手しにくいからこその事情があったのですね。

書物を熱望する人もいる一方「面倒だからお話を聞かせて」という人も当然いたでしょう。

『光る君へ』では、まひろが『蜻蛉日記』の貸し出しを源倫子に申し出たところ、つれなく断られる場面が出てきました。

彼女は誰かに聞かせてもらうほうが良さそうに見えますね。

あるいは『光る君へ』でも知的な存在感を放っている藤原行成の場合は、書道の達人だけに思わぬチャンスに恵まれました。

現代でも、気に入った本はできるだけ美しい状態で手元に置きたいとなりますよね。

当時も同じです。せっかく写すなら、能書家にやらせた方がいい――そんな思惑から、行成は書物を手にする機会が多かったのです。

 

そして出世はコネが大事

当時は、各氏族ごとに【大学別曹】を持っています。

【大学寮】に属する寄宿舎のようなもので、その存在が、才能よりも生まれ次第で有利不利が決まる状況を生み出してゆきます。

有力者の【氏長者】が管理し、任官試験を経ずに官職に就くことができるようになるのです。

学問を学ぶ意義よりもコネ重視の時代。

それでも藤原為時が、我が子に学問を熱心に教えるには、ちゃんとした理由がありました。

とりあえず蔵書は他の貧乏貴族よりはある。これを誇りとし、出世を狙ってもよい。

そんな希望を持っても不思議ではないながら、実際は願望半分といったところでしょう。

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為時の生きた時代は硬直化が始まっています。

何がなんでも律令国家の基礎を築くべく疾走していた時代は過ぎ去っていて、平安貴族には停滞と爛熟の時代が訪れていました。

学識で出世できた貴族は、菅原道真が最後。

女性の活躍もせいぜいが女房くらい。

資産と外戚政治で回ってゆく時代に突入しているのです。

為時はその学識を評価されながらも、【除目】で自分の名前を見出すことができない苦難の人生を送っていたことが、『光る君へ』でも表現されていました。

それなのに、なぜ我が子だけがそうならないと言えるのか。

確かに為時には、沿岸部に宋の商人が訪れたため、優れた漢詩文能力を一条天皇に見出され、越前守に任官されたこともあります。

とはいえ、それにしたって藤原道長ら有力者の口利きがあったとも推察されています。

『光る君へ』では、学識にこだわる為時に対し、藤原宣孝がコネでどうにかしろと助言しています。

確かに時代はそうなのです。

為時の息子である藤原惟規にせよ、結局のところ、姉である紫式部が登用されたコネで就職したと見なせる状況でした。

為時の娘であるまひろ(紫式部)だって、己が生きる時代には【大学寮】は形骸化していることは理解していました。

『源氏物語』では、光源氏の夕霧に対する教育方針が異色のものとされています。

低い官位からキャリアを始め【大学寮】で学ばせたのです。

しかし、「蛍雪之功」の故事を引きつつ、我が子に学びを促す光源氏の姿は、理想的というよりも変わったものだと周囲は噂しました。

今どき学問をコツコツやらせるより、コネでどうでもなるだろ、あれでは息子も気の毒だ、と囁かれていたのです。

まひろ(紫式部)は批判精神ゆえにそうしたのか、それとも現実をただ反映しただけなのか。

『源氏物語』では、雅な名門貴公子たちが理想的な姿で描かれているだけではありません。

強引でありながら実行力のある脇役が、政治的な力を発揮していく姿が後半は目立ち始めます。紫式部の筆は、来たる世の変化を映していたのかもしれません。

 

コネが政治の停滞を招く

実力ではない。生まれついての血統、外戚政治、有力者のコネで出世が決まる。

そんな時代が続くと、やがて破綻が見えてきます。

冷泉天皇や花山天皇のころから懸念されていた、気まぐれな天皇が即位すれば、政治全体がその意に振り回されかねません。

藤原道長のような最高権力者ともなれば、我が子の暴虐やわがままには目を瞑りました。

彼の息子の時代ともなれば、『源氏物語』にはとても出せない、生々しい下劣な事件を起こすようにもなっているのです。

だからでしょうか。【摂関政治】に対して、天皇側が抵抗せず言いなりになるだけでなく、上皇の【院政】による二元政治で対抗姿勢を取っていきます。

【外戚】政治にしても、自らの血を引いた女子が生まれなければ破綻してしまう危ういものですから、養女を娶せるという抜け道が探られるようになっていく。

そして登場してきたのが【武士】でした。

暴力により政治をかき乱すという禁断の手段は、抑制されるどころか強化されてゆく。

【外戚】政治は、男女の閨房で政治が左右されるものでしたが、院政時代となると、男同士の閨房がパワーゲームに直結する事態となります。

藤原摂関家は周囲の男性と性的関係を結び、その中で政治を回すようになりました。

政治的な動向や有職故実を記録するための記録が日記です。これも藤原頼長『台記』となると、赤裸々な性行為の記録が出てきます。そんな関係すら政治に組み込まれてゆくのです。

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象徴的な事件が、藤原頼長と兄・忠通と「氏長者」の地位争いです。

武力を用いた対立へ突入し、ついには【保元の乱】にまで発展。頼長は矢で射られ、横死を遂げるというおそるべき最期を迎えました。

 

国士監と大学寮 どこで差がついた?

【大学寮】による官僚の育成は、結果的になし崩しとなり崩壊、要は失敗しました。

日本の教育機関は、武士の世が到来し、時代が降ると寺社がその役目を果たすようになってゆきます。

最新の仏教を学ぶ禅僧が漢籍を学び、それを伝えるようになってゆくのです。

最高学府としては【足利学校】が創設されてはいますが、ごく一部のための教育機関といえる。

教育が広く浸透していくのは江戸時代。

最高学府といえる【昌平坂学問所】(昌平黌)では、かつては【大学寮】で行われていた【釈奠】(せきてん・孔子とその弟子を祀る)が復活され、行われるようになりました。

さらには日本各地で武士のための【藩校】が作られ、ここでも儒教が学ばれます。

そのため各地の藩校にはしばしば孔子像が置かれました。

武士以外が通う【寺子屋】等、教育施設もできてゆきました。

中国では、まず【科挙】と教育機関による官僚統制システムが形成され、時代が降るにつれて複雑化し、明代には国家体制に組み込まれます。

科挙受験を希望するならば【院試】を受け、それから各地にある【府学】【県学】に属して、上の試験を受けなければなりません。

自己流で学んでいては【科挙】を突破して官僚になることは実質的にできなくなり、こうした学校で国家に沿った思想を叩き込まれます。

こうした堅い制度はいくつもの悲劇を生みます。

実行力よりも、試験に適したテクニックばかりを身につけ、それでいて道徳観念は低く処世術に長けたテンプレ官僚ばかりになってしまったと嘆かれることになるのです。

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この差がついたのが、近世以降でした。

清朝の官僚が自由闊達な発想ができない一方、日本では中流以下の武士および中流以上の武士以外の層が、知的好奇心を高めるために勉学に励んでいました。

【蘭学】や【陽明学】のような学問は、時に禁止や弾圧の対象にすらなります。

それでも知的好奇心を高めるために学び続け、それが近世の原動力になった。

日本が【科挙】を取り入れ無かったことは、よかったのか、悪かったのか?

時代により異なり、一概には言えません。

教育により官僚を生み出し、確固たる政治体制を作ることができなかった結果、無惨な崩壊を招いた平安時代はマイナスに作用したといえます。

しかし近世では、柔軟な学びが近代での飛躍につながりました。

フランスの啓蒙思想家であるヴォルテールは、科挙制度こそ最先端の官吏登用制度であると絶賛しました。

実際のところ、現代社会では試験による官吏登用制度が根付き、この見立てはある程度正しかったと証明されています。

それゆえ、近代社会は努力が重要だと説かれました。

「末は博士か大臣か」とは、かつての日本で、主に男子教育のうえで語られたフレーズです。

努力すれば出世できる。そう信じることのできた時代でした。

しかし、もはやその仕組みは崩れつつあり、“親ガチャ”と言われる時代です。

努力による成功とは、自己責任論と表裏一体です。

結局は努力よりも生まれついた環境と運次第ではないか?

そうメリトクラシーの弊害が語られる時代となりました。

私たちの生きる時代は、まひろ(紫式部)たちが見ていたような、コネや一族ガチャで決まってしまう閉塞感にあふれているのかもしれません。

物語とは、読まれる時代によってさまざまなものを見せてきます。

“一族ガチャ”に当たった人々の織りなす物語ともいえる『源氏物語』。

それそのものではなく、その制作背景を描く『光る君へ』は、どんなメッセージを私たちに届けてくるのでしょうか。


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【参考文献】
髙田宗平編『日本漢籍受容史: 日本文化の基層』(→amazon
保立道久『平安王朝』(→amazon
倉本一宏『平安京の下級官人』(→amazon
繁田信一『紫式部の父親たち』(→amazon
八鍬友広『読み書きの日本史』(→amazon
加藤徹『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』(→amazon
大津透『律令国家と隋唐文明』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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