大河ドラマ『光る君へ』で描かれた藤原伊周の道長暗殺計画。
平致頼(むねより)を用いて金峯山詣(きんぶせんもうで)へ出かけた道長を殺害しよう――というこの計画、実際にあったのか?
そう思うと同時に「この時代は他にも暗殺や殺人事件などあったのか」という疑問は持ちませんでした?
結論から申しますと、あります。
実は、道長の暗殺計画も「そういう噂がある」という記述にとどまり、史実において実行までは移されてませんが、現実に暗殺計画の可能性があることは記されているわけです。
当時は、そんな殺人事件が起きても不思議じゃない社会情勢だったのですね。
では、具体的にどんな事件が起きていたのか?
平安時代の暗部を辿ってみましょう。
度々起きていた殺人事件
ドラマでも描かれたように花山法皇(の車)へ矢を放った藤原隆家。
長徳2年(996年)に勃発したこの【長徳の変】でも実は死者がいて、伊周・隆家の従者と花山院の従者が乱闘騒ぎに発展、花山院サイドの2名が殺害されています。
当時の貴族たちは自ら手を下すというより従者が遂行するケースが多く、隆家については長徳元年(995年)8月にも、彼の従者が道長の随身(付き人)を殺すという事件が起きていました。
このとき隆家は、一条天皇から朝参(朝廷に出向くこと)を禁止される処分を受けるのですが、翌年また長徳の変という大騒動を巻き起こす――つまり二年連続でやっちまったわけで、左遷させられるのも無理はありません。
そして帰京後しばらく経過した寛弘4年(1007年)、ドラマでも描かれた道長暗殺計画が記録されます。
藤原実資の『小記目録』(日記『小右記』の目録)に「伊周と隆家が道長を暗殺しようとしている噂が流れている」という記述があるのですね。
ドラマでは「伊周の計画を事前に察知した隆家が暗殺を阻止する」という展開でしたが、実際は両者で道長を狙っていた。
ただし、このときは何のトラブルも起きておらず、噂はあくまで噂で終わるという展開でした。
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では寛弘7年(1010年)に実際起きた殺人事件を見てまいりましょう。
この年の5月、法興院(ほこいん)で賊に捕らえられた親兼王(ちかかねおう)が拘束されて殺され、しかも道に投げ捨てられるという恐ろしい事件が起きました。
道長の日記『御堂関白記』に残された記録であり、実行犯である“賊”と言えば『光る君へ』の序盤に登場した直秀を思い出されるかもしれません。
街中で散楽を披露していた一団のメンバーであり、彼らは貴族の大邸宅へ忍び込んでは衣類などを盗み出し、都の貧しい庶民たちへ配るという義賊のような立場でした。
親兼王を無惨に殺した現実の賊とはかなり毛色が違いますが、検非違使にしてみれば直秀も躊躇なく粛清する対象となったことでしょう。
なお、法興院とは、道長の父である藤原兼家が創建した寺で、その死後は道隆→道兼→道長へ引き継がれ、平安末期に廃絶したと推定されます。
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法興院での一件からわずか1年後、寛弘8年(1011年)にも物騒な事件は起きています。
『光る君へ』で、はんにゃ金田さんが演じる藤原斉信。
その弟に藤原公信という人物がいて、この公信に仕えていた下人が殺されると、その後、とんでもない展開となります。
仲間たちが殺された下人の遺体を担いで運び、殺人犯である法師の家に投げ込んだというのです。
そもそも僧侶が殺人?
遺体を投げ込む?
現代人には到底理解できない行動ですが、藤原実資の日記『小右記』に記され、現代にまで伝えられることになりました。
この『小右記』と『御堂関白記:著 道長』の両方に記録された長和2年(1013年)の事件は、さらに意味がわからない壮絶な場面が描かれています。
同年3月27日、藤原経道(つねみち)の家人の従者が、妻に暴力を振るっていました。
すると、その妻の従者(女性)が3歳になる女児を抱きながら、暴れる夫をなだめようとします。子供の姿が目に入れば落ち着くと思ったのかもしれません。
しかし、まるで逆効果でした。
怒り狂った夫が太刀を持ち出すと、その女児の首を跳ねただけでなく、さらには従者の女性の肩を斬り、そのまま藤原経道の家に向かったというのです。
貴族にとっては一大事です。殺人を犯し血に塗れた人間は“穢”を持ち込む対象であり、もしも接触したら出仕もできず、仕事に支障をきたします。
だからこそ事件も表沙汰になったのかもしれませんが、肩を斬られた女性もその後、凄まじい行動をしています。
首のない女児の体を抱き、斬られた頭部を自身の肘に結びつけたまま検非違使を訪れ、事件を訴えたのです。
さすがにこの事件は当時ですら悲惨極まりないものであり、多くの者が嘆いたと言います。当たり前ですが……。
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『光る君へ』でも話題になった寛仁元年(1017年)の事件についても触れておきましょう。
第33~34話にかけて登場した興福寺の強訴を覚えていらっしゃるでしょうか?
寛弘3年(1006年)に興福寺別当(トップ)の定澄(じょうちょう)が道長の元へやってきて、大和守・源頼親とトラブルになった一件について、興福寺が有利になるよう迫ったものです。
この一連の騒動の中で、源頼親の配下である当麻為頼(たいまのためより)の家が焼かれ、さらに年月日は不明ながら為頼はその後、清原致信(きよはらのむねのぶ)に殺されてしまいます。
寛仁元年(1017年)の事件とは、そのリベンジでした。
源頼親が従者の秦氏元(はたのうじもと)に命じて、清原致信を殺害したのです。
騎馬兵と歩兵を引き連れて屋敷を囲むという、合戦さながらの凶行であり、最初のトラブルから10年以上も経過していました。
まったくもって遺恨とは恐ろしいものですが、次に見る花山法皇・皇女変死事件はさらに不気味で壮絶です。
この変死事件は花山法皇の娘の身に起きたものでした。
花山法皇の皇女変死事件
本事件も、少なからずグロテスクな描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。
女性の本名がわからないので、ここでは”皇女”と呼ばせていただきます。
「皇族で、ある程度成長していたにもかかわらず名前がわからない」という時点で、この方の不遇ぶりがわかってしまって、なんだか薄暗い気持ちになるのですが……。
万寿元年(1024年)12月6日夜、路上で亡くなっている”皇女”が発見されました。
しかも遺体がすぐに回収されなかったため、その夜中、野良犬に食われてしまったというのです。
いったい何が起きたのか?
彼女自身の記したものが残っていないため、
「盗賊にさらわれて殺害された」
「何者かに誘い出され、結果として殺害された」
など、当初から様々な推察がされました。
実はこの”皇女”、生い立ちからして不幸せな境遇でした。
前述の通り、この方は花山法皇の娘です。
天皇時代もあちこちの皇族・貴族の美女を入内させては寵愛と飽きを繰り返していた花山法皇。
クーデターにより譲位することになりましたが、出家後もその欲は留まるところを知らず、女性との関係を求め続けました。
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そして花山法皇が出家後に関係を持った女性の一人が、藤原伊尹(これまさ)の娘……の女房で、「中務(なかつかさ)」と呼ばれていた人でした。
伊尹の娘との関係を持つうちに、側仕えしていた中務にも手を付けたようです。
出家の身でよろしくありませんが、”どこぞの姫君と女房の両方と関係を持つ”というのはままあることでした。
実はこの中務、花山法皇の乳母の娘でした。つまりは乳兄妹に手を付けたわけです。まぁ、幼い頃から見知っていた間柄と考えればおかしくはありません。
問題はここからです。
花山法皇はまだまだ飽き足らず、なんと中務の娘・平子にも手を出したのです。
しかも彼女たちはほぼ同時に妊娠してしまうという有様。
不確実な避妊方法しかない時代に、こんなにも漁色にふけっていればこうなるのも当然ですが、さすがに出家の身で子供を持つのはマズイと思ったらしく……父であり出家はしていなかった冷泉上皇の子ということにして育てさせたようです。
それでも花山法皇は懲りず、中務との間に二人の皇女までもうけてしまいました。
このうち妹のほうが、悲惨な最期を迎えることになってしまった”皇女”です。
藤原彰子の女房として出仕
”皇女”はなぜか、とある女房のもとに里子に出され、やがて太皇太后となっていた藤原彰子の女房として出仕することになりました。
『小右記』に「花山法皇の皇女が殺害された」と書かれているということは、当時の貴族社会において”皇女”の身元は公然の秘密になっていたはずです。
にもかかわらず、犬に食われてしまうほど放置されていたことになるわけで……。
里子に出された経緯も不明、殺されてしまった経緯も不明、ろくに弔われなかった理由も不明という、実に闇の深い事件。
里子に出した理由はただ単純に「花山法皇が顔を気に入らなかった」という可能性もありますが、太皇太后のもとで仕えていながら、殺害された上に路上で見つかったのはどうにも解せないところです。
好意的に考えるとすれば、何かの使いで御殿から出ていたところを賊に襲われたとも考えられますが、身元がわかったということはおそらく衣装が残っていたのでしょう。
ここで一旦『紫式部日記』に書かれている強盗事件と比較してみます。
とある年の大晦日で魔除けの儀式である追儺(ついな)が早く終わり、紫式部たちは新年の準備が始まるまでのほんの少しの時間をゆっくり過ごしていました。
しかし悲鳴が聞こえ、紫式部が同僚二人とともにその方へ行ってみると、なぜか裸の女房が二人おり、強盗が押し入ったことがわかったのでした。
お気づきでしょうか?
『紫式部日記』の強盗は「衣装は剥ぎ取った」が命までは取らなかった。
対して”皇女”を殺した犯人は、「身元がわかるようなもの(おそらく衣装)を残していった」のです。
道端に死骸が転がっていてもおかしくなかった時代ですし、そもそも殺人犯からすれば、殺した相手の身元がすぐにわかってしまうのは都合の悪いことでしょう。
強盗→殺人の順番・優先順位であったのなら、高く売れるものは何であろうと剥ぎ取っていったはずです。
これは完全に私見であり、妄想の域にも入るレベルの話になるので、ご笑納いただきたいのですが……。
”皇女”を殺した犯人は、「確かに始末しました」ということを誰かに知らせたかったのではないでしょうか。
つまり、こんな流れです。
誰かが”皇女”をよく思っておらず、身分の低い者に命じて殺させた
↓
犯人は証拠になるものをほんの少しだけ持っていった
↓
依頼主は”皇女”殺害の知らせと証拠を照合して、始末が済んだことを確認した
たとえ表立って皇族とみなされていなくても、貴族社会の一員が殺されたことに対し、ろくに調査されていないことも不審さに拍車をかけています。
一応、犯人は隆範(りゅうはん)という僧侶だったとされているのですが、藤原伊周の息子で「荒三位(あらざんみ)」と呼ばれた藤原道雅がやらせたのでは?とも囁かれています。
しかしそれを特定するところまでは至らず有耶無耶に……まったくもって後味の悪い事件でした。
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ホッコリ事件も勃発~帝の前に山鳥が!
すっかり重い話になりましたので、最後はホッコリする事件に注目。
帝の前や内裏、あるいは五節の舞など行事のところへやってくる動物たちです。
現代でも京都市街は遠くに山々が見える土地ですが、平安時代はさらに緑豊かでした。
そのため”建物に何かしらの鳥獣が入ってきてしまった”という記録がたびたび登場します。
時系列に沿って、一気に挙げてみましょう!
・長保二年(1000年)10月→内裏に雉(きじ)
・寛弘二年(1005年)6月→賀茂神社の社殿に鳶(とび)が闖入して死亡
・寛弘三年(1006年)10月→一条天皇の御前に山鳥
・長和二年(1013年)11月→「五節の舞」直前に猪が闖入
・長和六年(1017年)→鹿が法会(ほうえ)に突入
・寛仁四年(1020年)10月→藤原実資の邸に猪が闖入、生け捕りにして冷泉院の山に放す
・寛仁五年(1021年)→牛が内裏に
・万寿元年(1024年)2月→兎が外記局(げききょく・文書関連の作業を担う事務局)に侵入
なかなかバリエーション豊かですね。
後日談のあるのが、万寿元年(1024年)2月28日の兎事件です。
残念ながら兎は撲殺されてしまったのですが、この侵入事件にどんな意味があるのか?占ってみると、こんな予言がくだされます。
「近いうちに火事がある」
現代人からすると「そんなバカな」の連続ですが、実際、その後の3月1日に火事が起きてしまったのです。
こういった合致がたまに起こるため、占いも手放せない存在となっていたのでしょうね。
意地の悪い見方をすれば、占いを的中させるため放火したのかもしれませんが……(実は当時は放火事件も多く、こちらもまた別記事にてご覧ください)。
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【参考】
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
倉本一宏『平安京の下級役人』(→amazon)
倉本一宏『藤原道長の日常生活』(→amazon)
国史大辞典









