平安時代の暗殺と殺人事件

画像はイメージです(『駒競行幸絵巻』/wikipediaより引用)

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平安時代に暗殺や殺人事件はどんだけ起きていた?花山法皇・皇女変死事件に注目

大河ドラマ『光る君へ』で描かれた藤原伊周の道長暗殺計画。

平致頼(むねより)を用いて金峯山詣(きんぶせんもうで)へ出かけた道長を殺害しよう――というこの計画、実際にあったのか?

そう思うと同時に「この時代は他にも暗殺や殺人事件などあったのか」という疑問は持ちませんでした?

結論から申しますと、あります。

実は、道長の暗殺計画も「そういう噂がある」という記述にとどまり、史実において実行までは移されてませんが、現実に暗殺計画の可能性があることは記されているわけです。

当時は、そんな殺人事件が起きても不思議じゃない社会情勢だったのですね。

では、具体的にどんな事件が起きていたのか?

平安時代の暗部を辿ってみましょう。

 

度々起きていた殺人事件

ドラマでも描かれたように花山法皇(の車)へ矢を放った藤原隆家

長徳2年(996年)に勃発したこの【長徳の変】でも実は死者がいて、伊周・隆家の従者と花山院の従者が乱闘騒ぎに発展、花山院サイドの2名が殺害されています。

当時の貴族たちは自ら手を下すというより従者が遂行するケースが多く、隆家については長徳元年(995年)8月にも、彼の従者が道長の随身(付き人)を殺すという事件が起きていました。

このとき隆家は、一条天皇から朝参(朝廷に出向くこと)を禁止される処分を受けるのですが、翌年また長徳の変という大騒動を巻き起こす――つまり二年連続でやっちまったわけで、左遷させられるのも無理はありません。

そして帰京後しばらく経過した寛弘4年(1007年)、ドラマでも描かれた道長暗殺計画が記録されます。

藤原実資の『小記目録』(日記『小右記』の目録)に「伊周と隆家が道長を暗殺しようとしている噂が流れている」という記述があるのですね。

ドラマでは「伊周の計画を事前に察知した隆家が暗殺を阻止する」という展開でしたが、実際は両者で道長を狙っていた。

ただし、このときは何のトラブルも起きておらず、噂はあくまで噂で終わるという展開でした。

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では寛弘7年(1010年)に実際起きた殺人事件を見てまいりましょう。

この年の5月、法興院(ほこいん)で賊に捕らえられた親兼王(ちかかねおう)が拘束されて殺され、しかも道に投げ捨てられるという恐ろしい事件が起きました。

道長の日記『御堂関白記』に残された記録であり、実行犯である“賊”と言えば『光る君へ』の序盤に登場した直秀を思い出されるかもしれません。

街中で散楽を披露していた一団のメンバーであり、彼らは貴族の大邸宅へ忍び込んでは衣類などを盗み出し、都の貧しい庶民たちへ配るという義賊のような立場でした。

親兼王を無惨に殺した現実の賊とはかなり毛色が違いますが、検非違使にしてみれば直秀も躊躇なく粛清する対象となったことでしょう。

なお、法興院とは、道長の父である藤原兼家が創建した寺で、その死後は道隆→道兼→道長へ引き継がれ、平安末期に廃絶したと推定されます。

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夫婦喧嘩で子どもの首を斬る???

法興院での一件からわずか1年後、寛弘8年(1011年)にも物騒な事件は起きています。

『光る君へ』で、はんにゃ金田さんが演じる藤原斉信

その弟に藤原公信という人物がいて、この公信に仕えていた下人が殺されると、その後、とんでもない展開となります。

仲間たちが殺された下人の遺体を担いで運び、殺人犯である法師の家に投げ込んだというのです。

そもそも僧侶が殺人?

遺体を投げ込む?

現代人には到底理解できない行動ですが、藤原実資の日記『小右記』に記され、現代にまで伝えられることになりました。

この『小右記』と『御堂関白記:著 道長』の両方に記録された長和2年(1013年)の事件は、さらに意味がわからない壮絶な場面が描かれています。

同年3月27日、藤原経道(つねみち)の家人の従者が、妻に暴力を振るっていました。

すると、その妻の従者(女性)が3歳になる女児を抱きながら、暴れる夫をなだめようとします。子供の姿が目に入れば落ち着くと思ったのかもしれません。

しかし、まるで逆効果でした。

怒り狂った夫が太刀を持ち出すと、その女児の首を跳ねただけでなく、さらには従者の女性の肩を斬り、そのまま藤原経道の家に向かったというのです。

貴族にとっては一大事です。殺人を犯し血に塗れた人間は“穢”を持ち込む対象であり、もしも接触したら出仕もできず、仕事に支障をきたします。

だからこそ事件も表沙汰になったのかもしれませんが、肩を斬られた女性もその後、凄まじい行動をしています。

首のない女児の体を抱き、斬られた頭部を自身の肘に結びつけたまま検非違使を訪れ、事件を訴えたのです。

さすがにこの事件は当時ですら悲惨極まりないものであり、多くの者が嘆いたと言います。当たり前ですが……。

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『光る君へ』でも話題になった寛仁元年(1017年)の事件についても触れておきましょう。

第33~34話にかけて登場した興福寺の強訴を覚えていらっしゃるでしょうか?

寛弘3年(1006年)に興福寺別当(トップ)の定澄(じょうちょう)が道長の元へやってきて、大和守・源頼親とトラブルになった一件について、興福寺が有利になるよう迫ったものです。

この一連の騒動の中で、源頼親の配下である当麻為頼(たいまのためより)の家が焼かれ、さらに年月日は不明ながら為頼はその後、清原致信(きよはらのむねのぶ)に殺されてしまいます。

寛仁元年(1017年)の事件とは、そのリベンジでした。

源頼親が従者の秦氏元(はたのうじもと)に命じて、清原致信を殺害したのです。

騎馬兵と歩兵を引き連れて屋敷を囲むという、合戦さながらの凶行であり、最初のトラブルから10年以上も経過していました。

まったくもって遺恨とは恐ろしいものですが、次に見る花山法皇・皇女変死事件はさらに不気味で壮絶です。

この変死事件は花山法皇の娘の身に起きたものでした。

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