大坂夏の陣図屏風

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用

徳川家

大坂夏の陣はドコでどんな戦いが起きていた?幸村や又兵衛など個々の戦いに注目

2025/05/06

慶長二十年(1615年)5月7日は大坂の陣で大坂城が陥落した日。

大坂の陣と言えば、皆さまご承知の通り2度行われていて、戦いが完全に終結したのが今回の1615年【大坂夏の陣】ですね

最初の戦いは、前年1614年の【大坂冬の陣】となります。

◆1614年 大坂冬の陣
◆1615年 大坂夏の陣

真田幸村(真田信繁)が【真田丸】で活躍したのは冬の陣でした。

そして夏の陣でも徳川家康に死を意識させるほど劇的な展開を迎えるワケですが、実は、このとき活躍したのは真田だけでなく、他にも複数の戦闘が行われ、いずれも戦国ファンが息を呑む展開となっています。

後藤又兵衛
毛利勝永
片倉重長
松平忠直

などなど、豊臣方も徳川方も双方に名を売った人物を輩出しており、それは一体どんな戦いだったか?

大坂夏の陣図/photo by Jmho wikipediaより引用

あまり振り返られることのない細かな戦いも含め、今回は【大坂夏の陣】の全貌を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

六日 道明寺の戦い(道明寺・誉田合戦)

まずは著名な「道明寺の戦い」。

大坂方からは次のメンバーが参戦しました。

・後藤基次(後藤又兵衛)
・真田信繁(真田幸村)
・薄田兼相(かねすけ)
・明石全登
・毛利勝永

厳密に言えば道明寺村と誉田村の二ヶ所で行われた戦闘ですが、非常に近いのでまとめて扱います。

まずは人物からおさらいしておきましょう。

薄田兼相は元浪人で、浪人仲間を集めて参戦していました。

結構な女好きだったのか、冬の陣の際は遊郭に通っている間に担当の砦を落とされるという大失態をしています。

そのため「橙武者(だいだいむしゃ)」=「見た目は派手だけど使えないヤツ」というイヤなあだ名をつけられてしまっています。自業自得だけど。

明石全登(あかし たけのり)は宇喜多秀家に仕えていたのですが、関ヶ原の戦いで主君・秀家が八丈島への流刑になってしまったため、やはり浪人になっており大坂城へ入っています。

宇喜多秀家/wikipediaより引用

名前の読みは他にもあり、ハッキリ確定したものはわかっていません。

一方、徳川方は、家康六男・松平忠輝とその舅・伊達政宗を本陣に置き、水野勝成を先鋒としていました。

水野勝成は、小説『天を裂く』(→amazon)の主人公ですね。

徳川家康の従兄弟で、様々な戦場で一番槍の功績を得ていながら、暴れん坊だったため父親から勘当され、各家を放浪していた傾奇者です。

さすがにこの頃は落ち着いた年齢ですので、家督を継いで大名をやっていました。

 


後藤又兵衛、散る

双方かなり豪華なメンツですね。

それゆえか大坂夏の陣の話だと道明寺の戦いは割と知られているかもしれません。

しかし、大坂方で当初布陣していたのが後藤又兵衛基次のみの手勢だったため、この戦いは早くもお昼ごろにはクライマックスを迎えてしまいます。

後藤又兵衛基次/Wikipediaより引用

徳川方は、ほぼ総攻撃といってもいいような陣容で圧倒していたからです。

基次の軍は高所に位置していたため、地の利を生かしてしばらくは持ちこたえました。

しかし、被害の大きさを重く見た徳川方が後方からの銃撃で前線を援護し始めると、少しずつ天秤が傾き始めます。

そして「もはやこれまで」と覚悟を決めた基次は、最後の突撃を敢行し敢え無く敗れ去りました。

では他の大坂方は何をやっていたのか?

というと、簡単に言えば遅刻していました。

遅参の理由は現在もはっきりわかっていません。

「霧が濃くて時間がわからなかったから」

「天候が悪かったので行軍が遅れた」

「元から後詰としてつく予定だったが、予想以上に遅れてしまった」

理由は複数ありますが、そんなに離れた距離でもないので、いずれにしてもちょっと無理があるような気がします。このあたりは古墳が多く行軍に支障をきたし、それで遅れたというのはありそうですが。

豊臣方が混乱の最中に、マトモな連携を取れなかった可能性も考えられますね。

 

六日 真田幸村 vs 2代目片倉小十郎

基次らの部隊で辛うじて生き残った人々は信繁(幸村)らの隊に収容され、二回戦目が始まりました。

徳川方から前線に出てきたのは、伊達家の重臣・片倉重長(片倉重綱)。

伊達政宗の教育係だった片倉景綱の息子で、同じ通称”小十郎”を使っていました。二代目小十郎と呼ぶこともありますね。

片倉景綱/wikipediaより引用

重長と信繁は当初銃撃戦を展開しました。そして徐々に距離を詰め、重長自身が兵や騎馬武者を切り伏せるほどの激戦になります。

信繁隊の勢いは凄まじく、重長含めた伊達軍は次第に押し返されていきました。

しかし信繁はここで兵を退き、この方面はしばらくにらみ合う状態に……。

結果としては、主な将を失った大坂方の負けですね。

ちなみにこの戦で重長の戦いぶりを見た信繁が

『あの若いヤツやるな!アイツなら、ウチの子供たちをかくまってくれるに違いない』

と見込んで、この晩、子供たちをこっそり送り届けています。

片倉重長(重綱)
幸村の娘・阿梅を救った片倉重長の功績|大坂の陣100年後に仙台真田氏が復活

続きを見る

信繁が重長あてに

「アンタはいい男だ!ウチの娘をもらってくれないか!?ついでに他の子供も保護してくれたら嬉しいな(チラッチラッ」(超訳)

という矢文を送ったなんて話もありますね。

冬の陣でも大活躍して有名になっていた信繁に武勇を見込んでもらえたのですから、感激したでしょう。

 

六日 八尾・若江の戦い

道明寺の戦いが上記のようにド派手な経緯だったため影が薄くなりがちですが、別方面でも熾烈な戦いが繰り広げられていました。

以下のような布陣です。

【豊臣方】
・長宗我部盛親
・木村重成

【徳川方】
・藤堂高虎
・井伊直孝

ただし、木村隊では兵がなかなか言うことを聞かなかったり、道を間違えて沼地に突っ込んだりと決してスムーズな行軍ではなかったようです。この時点で嫌な予感がプンプンしますね。

長宗我部隊のほうは、お家が改易されたとはいえ元家臣たちが何人かいたので、木村隊よりはマシだったようです。

対戦の組み合わせとしては長宗我部隊vs藤堂隊(八尾の戦い)、木村隊vs井伊隊(若江の戦い)。

もちろん他の武将もたくさんいますが割愛しております。

まず八尾方面では、盛親が騎馬隊も全て下馬するように言いつけ、物陰に伏せさせていました。そして藤堂隊が間近に迫ったところで立ち上がり、一斉に槍を繰り出して混乱させたのです。

この作戦が功を奏し、藤堂隊では先方にいた高刑(たかのり・高虎の甥っ子)が戦死するほどの被害が出ます。

藤堂高虎/wikipediaより引用

退却中にも藤堂家の人が亡くなり、さらに終始長宗我部隊のほうに勢いがあったため、この戦い(八尾の戦い)は数少ない大阪方の勝利となります。

盛親の代に長宗我部家が滅びてしまったので、彼の評判は戦国武将としてはあまりよくないですが、この戦いを見る限りではさすが長宗我部元親の息子という感じがしますね。

若江方面では、道中のgdgdを振り切る勢いで木村隊が頑張ります。

地形を活かし敵を誘い込んで銃撃しようとすると、その前に井伊隊が転進して、白兵戦がスタート。

重成自身も槍を振るって戦いましたが、この方面では徳川方のほうが圧倒的な兵数だったこともあり、残念ながら敗れてしまいます。

ただ、井伊隊に与えた損害も大きく、翌日の戦いで務めるはずだった先鋒を辞退するほどでした。

これは藤堂隊も同じです。

 


徳川圧勝も遺恨を残す展開に

この方面での戦いでは、さらに徳川方でイヤなオチがついています。

実は徳川方の後方に松平忠直(結城秀康の息子)がいたのですが、彼はこの戦いの家康からこっぴどく怒られているのです。

松平忠直/wikipediaより引用

なぜか?と言うと「味方が有利になったタイミングで一緒に攻めるべきだったのに、何もしなかったのはどういうわけだ!」という理由でした。

戦の前に家康から「勝手な行動を慎め」と言われていたため、忠直は素直にその言いつけを守っただけなのです。

「言うこと聞いたのに何で怒られなきゃいけないんだよ!」とキレたくもなったでしょう。

戦の経験が豊富とはいえない忠直にベストな時期を見計らえという家康も無茶振りですし、言いつけを素直に受け取りすぎた忠直もそれはそれで問題かもしれません。

こんな感じで、双方翌日の戦に大きな影響を残して6日の戦闘は終わりました。

こうしてみると、大坂方もかなり奮戦していたことがわかりますね。

しかし、翌7日は大坂城の陥落へと繋がってしまいます。

方角としては大坂城の南側二ヶ所。

天王寺口と岡山口でそれぞれ激戦が繰り広げられました。

戦闘が開始されたのはどちらも正午頃、終了も午後三時とほぼ同時進行ですが、ややこしいので一つずつ見てみましょう。

 

七日 天王寺口の戦い

一番有名なのは、やはり真田幸村(信繁)でしょう。

他には……。

大谷吉治(よしはる):関が原で義に殉じて亡くなった大谷吉継の息子

明石全登:前日も信繁と同じく奮戦

毛利勝永:実は道明寺の戦いで殿軍(しんがり・戦場から最後に撤退する軍)を任されていた

細川興秋:細川忠興の次男で家を飛び出していた

前日多くの将を失っていながらまだ人材が残っていました。

八尾の戦いで勝利を収めていた長宗我部盛親は、兵の損耗が激しかったため前線には出てこれず、北側の守備にまわりました。

このことからも、おそらく長宗我部隊に元家臣が多かったであろうことが推測できますね。

徳川方では、ざっくり言うと戦国時代に名を馳せた人物の息子達を主とした布陣がされています。

例えば無傷伝説こと本多忠勝の息子・本多忠朝、浅野長政の息子・浅野長晟(ながあきら)などです。

浅野長晟/wikipediaより引用

戦国武将でも比較的若手(だいたい1550年代以降生まれ)の人の場合は、本人はもちろん息子と一緒に参戦している例もあります。

細川忠興や伊達政宗などですね。

家康も息子どころか孫連れですから、これが戦でなければ心温まる一家団欒といいたいところなのですがそうもいきません。

既に大御所となっていた家康の本陣があったため、どこの軍も戦々恐々とした面持ちだったことでしょう。

口火を切ったのは、豊臣方・毛利隊による銃撃でした。

 


幸村の前に奮戦した部隊がいたからこそ

いつの時代も先手必勝というのは変わらないようで、勢いに乗って本多忠朝を討ち取ります。

別の隊もこれに乗って前進し、家康本陣を丸裸にするほどでした。

「真田信繁が家康の本陣を襲撃した」という話はこのときのものです。

島津忠恒の言葉【真田は日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)】があまりに有名すぎるため、まるで幸村一人の功績にも思えてしまいますが、実はその前に勇戦した部隊がいたんですね。

島津忠恒/wikipediaより引用

大坂方は何度も退いては攻め、攻めては引きを繰り返しました。

が、絶対的な兵数の差により少しずつ押し返されてしまいます。

そして信繁は、前日家康の叱責(イチャモン)にブチ切れていた松平忠直隊によって討ち取られ、他の隊も乱戦の中で主将を失い壊滅状態に陥ります。

最後まで戦線を保っていたのが、戦をおっぱじめた毛利隊だったというのが何ともいえません。

もちろんサボっていたわけではなく、四方を囲まれたため仕方なく城へ引き上げています。

 

岡山口の戦い

こちらは天王寺口の戦闘が開始されてから、追いかけるような形で戦が始まっています。

後見についていた立花宗茂が

「秀忠様が出て行くと的になってしまいますので、後ろでどっしり構えていてください」

と言ったにもかかわらず、血気にはやる現役将軍・徳川秀忠は前進してしまい、父親と同じく大坂方から突撃を受けてしまいます。あーあ。

大阪方は大野治長・治房兄弟など、現代の一般人からすればあまり猛将のイメージがない人々でした。

それでも、秀忠の陣は大混乱に陥ります。

秀忠にとって当初は「待ってました!」という状況だったようですが、お目付けに来ていた本多正信に「いやいや、上様が御自ら手を出すまでもありません(だから大人しくしてろボケ)」となだめられています。

徳川秀忠/wikipediaより引用

この頃秀忠は30代半ばですし、将軍様ですからね。

よほど関が原での大遅刻や、冬の陣の際、無茶な行軍をして家康に怒られたのを気にしていたと見えます。

ちなみに、後方のほぼ見学席といってもいいようなところには徳川義直や徳川頼宣といった幼い弟達がおりました。

混乱が落ち着いてからはやはり数で勝る徳川方が有利になり、秀忠の周辺も守りを固め、大野隊他大阪方を押し返します。

形勢逆転を見た大坂方は秀頼自らの出馬を待っていたといわれますが、淀殿が納得せず、結局間に合いません。

後方のお飾りであっても、総大将が戦場にいるだけで士気は上がる。というか、そうでないと戦う気力も湧いてきませんよね。

淀殿は、織田信長の姪っ子なのに(信長の妹・お市の方の娘)、その辺、残念だったなぁ、と。

 


激戦も数にまさる徳川軍が勝利し

かくして、どの方面でも大坂方の敗北に終わり、戦闘は三時間ほどで終了。

その一時間後には内通者が大坂城に火をつけ、ここに豊臣家は滅亡を迎えました。

火の勢いはすさまじく、京の街からも見えたほどだったといいます。

翌8日、秀頼と淀殿は引き上げてきた毛利勝長に介錯され、形式的にも実質的にも豊臣家は秀吉の辞世の句がごとく、なにわの夢と消え去ったのでした。

なお、秀頼の妻であり、家康の孫・千姫は事前に城を脱出しておりました。

豊臣秀頼(右)と千姫/wikipediaより引用

さて、この戦いで死んだはずの人々の生存説もあります。

特に有名なのは「真田幸村が豊臣秀頼を連れて、薩摩まで逃げた」というものです。

”花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ”

という唄にもなっています。どんな節だったんですかね。

この頃の秀頼は、祖父・浅井長政似の超巨漢(身長190cm以上・体重160kg超)だったそうなので、もしこれが本当なら「花」というより「スイカ」とか「かぼちゃ」が似合うような気が……豊臣ファンの皆さま、スミマセン。

源義経=チンギス・ハン説ほどのトンデモではありませんが、あくまで俗説であり、信憑性はありませんよね。

秀頼生存説がさらに発展して、島原の乱の首領・天草四郎が秀頼の息子という話にまで派生していたりします。いやいや、こじつけにも程があるやろ。

 

幸村の遺体も明石の遺体も……

武将の中では明石全登の行方がわからなくなっており、やはり生存説が囁かれています。

が、こちらは松平忠直隊に突撃の後行方不明ということらしいので、おそらく遺体が見つからなかっただけで、戦死していた可能性が高そうです。

真田幸村も、実際は乱戦の中で首を落とされ、後の首実検で初めて気づいた――というのが実情のようです。

【休んでいたところ敵兵がやってきたので首を差し出した】というのは後世の作り話でしょう。

絵・富永商太

これによって戦国の世が終わりを告げたことに安心したのか、ついにエネルギーが切れたのか、翌年には家康も亡くなり、まさに一つの時代が終焉に向かいます。

約二十年後島原の乱が起きましたが、幕府軍の戦い方は大坂の陣(冬の陣と夏の陣を合わせた呼び方)に参戦していた大名からは「まったく今時の若いモンはたるんどる!」(超訳)というお決まりの罵声が飛びました。

そのくらい時勢が変わっていたんですね。

もしくは、そこまで諸大名を骨抜きにした江戸幕府の政策がすげえという話にもなるでしょうか。

豊臣家の滅亡に目が行ってしまいますけれども、実はとても大きな歴史の節目だったんですねえ。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

豊臣秀頼
豊臣秀頼の生涯|大坂城に居続けた秀吉の跡取りは淀殿と共に滅ぶ運命だった?

続きを見る

徳川家康の肖像画
徳川家康の生涯|信長と秀吉の下で歩んだ艱難辛苦の75年を史実で振り返る

続きを見る

宇喜多秀家
宇喜多秀家の生涯|秀吉に気に入られ豊臣五大老に抜擢されるも関ヶ原後に島流し

続きを見る

水野勝成
水野勝成の生涯|全国を流浪した暴れん坊の傾奇者武将は家康の従兄弟だった

続きを見る

後藤又兵衛基次
後藤又兵衛基次の生涯|黒田家を追われた播磨の猛将は大坂の陣で豊臣方へ

続きを見る

【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon
大坂の陣/wikipedia

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-徳川家
-

右クリックのご使用はできません
目次