幕末・維新

新島八重86年の生涯~最強の女スナイパーが同志社&赤十字に身を捧ぐ

慶応4年(1868年)。
戊辰戦争最大の激戦地・会津若松――。

一ヶ月にわたる籠城戦の末、ついに会津の降伏が決まると、その夜、一人の女性が城の塀に和歌を刻み込みました。

あすの夜は 何国の誰か ながむらむ なれし御城に 残す月かげ
【訳】明日の夜になったら、どこから来た誰かが、この慣れ親しんだ城の月影を見るのだろう

歌の主は新島八重(にいじまやえ)――。

スペンサー銃と、自らの知識を武器として、江戸から明治を生き抜いた会津の女性戦士でした。

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会津砲術指南の娘として誕生

弘化2年(1845年)。
八重は、会津藩士・山本権八と、妻・佐久の三女として生まれました。

山本家は、武田信玄の軍師として知られる「山本勘助」の子孫説もありますが、ハッキリとはしておりません。
父である権八は永岡家から養子として佐久の婿に迎えられており、彼の実家・永岡家では、後に思案橋事件(1876年)を起こす永岡久茂が輩出されております。

思案橋事件とは、不平士族の反乱の一つで実際には未遂で終わっています。

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山本夫妻は三男三女に恵まれましたが、無事に育ったのは
長男・覚馬
長女(名前不詳)
三女・八重
三男・三郎
の4名です。

長男の覚馬とは17もの年齢差がありました。
姉の長女は、ドラマ等で省略されがちで、実際、窪田家に嫁ぐと妹の八重とはあまり接点がなかったようです。

そんな山本家は、砲術師範の家庭であり、八重の人生にも強い影響を与えております。

普段は来客が多く、おおらかな家。
人助けを好んだ母・佐久の性格によるところが大きいようで、子供たちは豊かな自然の中で暮らしておりました。

会津の名峰・磐梯山

八重は、7歳の時には会津藩の『日新館童子訓』も口ずさむことができました。
そうした厳しい教えを学び実感する一方で遊ぶことも欠かさなかったのです。

春は山菜、田植えの季節は魚取り。
夏は盆踊りや蛍狩りを楽しんで。
秋はキノコ、冬は雪遊び、下駄で氷の上を滑る。
ときには東山温泉に湯治に行くこともありました。

あるいは
春を告げる彼岸獅子、
諏訪神社の祭礼、
そういった行事も楽しいものでした。

 

怪力! 射撃! 負けず嫌いな少女

会津藩の武家女性たちは、嫁入りまでに針仕事を学ばねばなりません。

7歳頃から糸引きを始め、成長するにしたがい機織りも学ばされ、裁縫塾に通います。
八重の桜』では、貫地谷しほりさんが演じた高木時尾、剛力彩芽さんが演じた日向ユキらと、八重も通っておりました。

彼女らは、裁縫塾の後、おしゃべりに花を咲かせることを楽しみにしていました。

しかし、八重は違います。
裁縫が終わるとすぐ家に帰り、あることに精を出すのです。

射撃稽古――。

八重の怪力は幼い頃から有名で、13歳で四斗俵(60キロ)を4回も肩に上げ下げできるほどです。
兄・覚馬の足が悪くなってからは、体重80キロもあった兄の介助もしております。

女性とは思えないほどの力自慢。
そんな力自慢ですから、男に負けていないと心を燃やし、家に伝わる鉄砲を習うのは自然なことだったのでしょう。

なお、会津藩で武芸に熟達していたのは、八重一人ではありません。
彼女らの長刀術は当時から名高く、現在も強豪校があるとか。

長刀名人であった中野竹子らは、会津戦争で戦うこととなります。

ここから先は兄・覚馬の動向も含めて、幕末全体の話も取り上げたいと思います。

少しばかり脱線することもありますが、本質的には八重の生涯にも関係してきますのでご承知ください。

 

先見性に富んだ兄・覚馬

八重の17歳年上の兄・覚馬は、開明的な人物であり、砲術指南にとどまらない見識の持ち主でした。

『八重の桜』では、西島秀俊さんが演じており、生真面目なタイプ。
史実の覚馬は、反骨精神やワイルドなところもある人物です。

総髪(月代を剃らない髪形)で、打裂羽織に短い袴を身につけ、鉄扇を持ち歩いてズンズン――と、会津若松城下を闊歩していたのです。

若い頃は武芸が得意でした。
日新館では体を動かす訓練を熱心にこなし、そんな中でも剣術や槍術は奥義に達したほど。

日本最古のプールとされる日新館の水練場(復元)/photo by 石井伯和 wikipediaより引用

ただ、若い頃は文武両道のうち、武のみにかまける傾向がありまして。
ある日、兵法の講義が理解出来ないことに発奮してからは、「文」=勉学にも励むようになりました。

覚馬の特異な点は、幕末という時勢に則して、佐久間象山に学んだことです。

どちらかといえば保守的な会津藩としては異例のこと。
洋式の砲術を学びたいという気持ちがあったのでしょうが、このことは思想面でも彼に大きな影響を与えることになるのです。

佐久間象山/wikipediaより引用

佐久間象山の元には、多くの逸材がおりました。
そのメンツの豪華なこと。

吉田松陰……長州藩の思想的リーダー・松下村塾で若手藩士を育成
橋本左内……松平春嶽を補佐した若手の天才肌・安政の大獄で処刑される
武田斐三郎(あやさぶろう)……五稜郭の設計者・伊予大洲藩士(甲斐武田氏の出とも)
河井継之助……北越戦争で新政府軍をコテンパ・越後長岡藩

※各人物の詳細はリンク先の【史伝】をご覧ください

『八重の桜』では、覚馬と吉田松陰に交流があります。
これはあながち創作とは言えず、二人が象山門下にいた時期は近いのです。どこかで顔をあわせていても、不自然ではありません。

象山のもとで学んだ後の覚馬は、勝海舟を頼り、さらには横井小楠を尊敬するようになります。

横井小楠とは新政府の中心メンバーにも実力を認められながらも志半ばで凶刃に斃れた人物で、のちに、覚馬の二女・峰は、横井小楠の長男・時雄に嫁ぐのでした。
覚馬の先見性あふれる思考がうかがえます。

横井小楠/wikipediaより引用

覚馬は、江戸で学んだ蘭学を会津にも伝えようとします。
幕末という情勢を考えれば、妥当なことといえましょう。

しかし、会津は保守的です。
いや、それ以上に金がない……。
覚馬は激しい言葉で改革の重要性を得きましたが、受け入れる余地がなかったのです。

性格の激烈さゆえ禁足処分すらされる覚馬は、林権助の取りなしを受けることができました。
日新館に射撃場が作られ、組織編成に手を付けることもできたのです。

覚馬の傍らには、江戸で彼と知り合った出石藩士・川崎尚之助がおりました。
そこで首尾よく改革が進められればよかったのですが、会津藩はそれどころではなくなってしまいます。

 

京都守護職拝命、苦悩する会津藩

幕末という情勢の中、会津藩は始めこそ、その嵐に巻き込まれませんでした。
「将軍継嗣問題」や「安政の大獄」とは関わっておりません。

房総や蝦夷地・樺太の警備に動員されることはあるとはいえ、他の奥羽諸藩と同程度の役割でした。

それが一転したのが、文久2年(1862年)のことです。
一橋慶喜と松平春嶽は、治安が悪化していた京都の警備を任せようと、責任感の強い松平容保に目を付けたのです。

松平容保/wikipediaより引用

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伝統的に、京都の警護は井伊家・彦根藩の役割です。
しかし、井伊直弼暗殺によって騒然としており、それどころではありません。

そこで生真面目な会津藩にやらせようとなったわけです。

会津藩は、蝦夷地、樺太、江戸湾、房総の警備によって慢性的に財政難に陥っておりました。
薩摩藩のように、調所広郷が大胆きわまりない財政立て直しをしたわけでもなく、厳しいものがあります。

容保は顔面蒼白となり、会津の国元からも家老・田中土佐、西郷頼母が押しかけました。
京都守護職を断ろうとしたものの、保科正之の家訓を持ち出されてしまうのです。

「君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」
【訳】徳川将軍家に対しては、一心に忠義に励むこと。他藩と同程度の忠義ではいけない。もし徳川将軍家に対して逆らうような藩主がいれば、そのような者は、我が子孫ではない。そのような者に従ってはならない

火中の栗を拾う危険なこと。
そうわかっていても、断れなかったのです。

 

留守を守る会津藩士の家族

会津藩は、京都守護職拝命以来、新選組を配下におさめ、治安が悪化した京都を守る為に力を尽くしました。

その忠誠心は孝明天皇から篤い信任を得ました。これがのちに会津藩の悲劇に繋がるのですが、彼らの取って誇りであったこともまた事実です。

土方歳三/wikipediaより引用

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夫や息子が京都に出払った会津藩士の家族たちは、国元で留守を守り続けました。

山本家もそうです。
覚馬の妻・うら、娘の峰。
そして、八重と夫の川崎尚之助。

この二人は慶応元年(1865年)頃、夫婦となっておりました。

八重の男勝りは有名でした。
それゆえに縁談もなかなか舞い込まず、山本家に恩義がある川崎と結ばれても自然なことです。

禁門の変」といった戦乱で犠牲になる藩士もおりました。
八重の親友である高木時尾の父もその一人です。

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ちなみに天皇のおわす御所を守ったにも関わらず、こうした犠牲者が会津藩士であるからという理由で、靖国神社の合祀から外され、明治時代に紛糾しております。

苦労はある。
それでも、孝明天皇に信頼され、京都を守っているんだべ――そんな誇りを胸にして、彼らは耐え忍んでいたのです。

「禁門の変」では、覚馬は目に怪我を負いました。
のちに、この怪我が失明へとつながることになります。

一会桑政権と薩長同盟

孝明天皇の信任あつかった会津藩。
しかし、そのことが憎しみを集めてしまうことにもつながります。

長州藩は、孝明天皇への弁明の機会を逃したのは会津藩が阻んだからだと怒りを募らせます。

これは言いがかりに近いもので、孝明天皇の憎しみこそが長州藩への厳しい態度につながったのです。

「八月十八日の政変」
「禁門の変」
「長州討伐(長州征伐)」

いずれも孝明天皇の意志で長州は京都から追い出され、朝敵と認定されました。

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しかし、長州藩としては憎悪を天皇にぶつけるわけにもいきません。
そのかわりに、孝明天皇から信頼されていた会津藩を憎むことになったわけです。

薩摩藩は、途中までは会津藩と共闘する関係でした。

しかし、「一会桑政権(一橋慶喜・会津藩・桑名藩)」が孝明天皇の信任を背景として権力を掌握すると、一橋慶喜と対立した薩摩藩は、巻き返しの必要性を感じます。

こうして政権から弾き出された薩摩藩と長州藩が手を結んだのが「薩長同盟」なのです。

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当初から倒幕を目的に組まれた同盟ではありません。
あくまで権力巻き返しのためで、具体的には
・幕府の長州征伐に協力しない
・長州の朝敵認定取り消しに尽力する
などでした。

しかし、ここで急展開を迎えます。

孝明天皇が崩御するのです。
これにより「一会桑政権」も崩壊して、慶喜はフランスへの接近を始めました。

 

会津藩内にもあった、内乱回避への動き

慶応3年(1867年)。
会津藩の内部でも今後の風向きに対する不安感が募っていきます。

薩摩や長州などとの内乱を如何にして回避すべきか――。
そのために会津でも対策が練られました。

山本覚馬
広沢安任
神保修理
秋月悌次郎

当時の覚馬は、会津藩の洋学校に上田藩士・赤松小三郎を招聘しています。
赤松は佐久間象山とも交流があり、覚馬との縁がある人物です。

生きていれば必ずや日本の行く先に影響を与えたであろう。

そんな人物であり、イギリス式兵学や議会制度に関して一流の見識を持っていました。
薩摩藩でも厚遇を受けていた赤松は「幕薩一和」を唱えており、内乱回避に尽力していたのです。

ところが、です。
慶応3年(1867年)9月3日。
中村半次郎ら薩摩藩の手によって、赤松暗殺。

同年11月15日には、大政奉還による穏健な政権交代を目指していた坂本龍馬が、京都見廻組によって暗殺されてしまいました。

赤松の死の背後には、武力倒幕に舵を切りたい薩摩藩の思惑があり。
坂本の死の背後には、倒幕を阻止したい会津藩の思惑がある。

そんな覚馬たちの願いも虚しく、破局に向けて突き進む両陣営。
会津藩内部でも、武力による戦闘を望む声が高まるのでした。

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鳥羽伏見の戦いで弟が戦死

視力を失った覚馬が京都にとどまる中、事態は緊迫してゆきます。

慶応4年(1868年)。
鳥羽伏見の戦いが始まりました。

覚馬の恩人である林権助、そして弟の三郎が、この戦いによって戦死。
敗れた徳川慶喜は、大坂から江戸へ向かいます。

大坂から船で脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年)/wikipediaより引用

慶喜や同行した容保に怒りを向けるわけにもいきません。
かわって、非戦派だった神保修理に怒りが向けられ、切腹に追い込まれます。

覚馬はこのままでは会津が戦争に巻き込まれると焦りをつのらせます。
そこで、門人と共に大坂へ向かうのですが、混雑の中で捕らえられ、薩摩藩邸に連行されてしまいます。

覚馬は『万国公法』で裁いて欲しいと訴えます。
彼は『管見』を執筆し、新たな国作りを説きました。

薩摩藩のおける覚馬の扱いは、決して粗略ではありませんでした。
これは、覚馬の優れた見識ゆえとされています。それだけではない何かも感じさせます。

薩摩藩士には、赤松の教えを受けた者を中心として、内乱を起こすべきではないと信じる者が多くおりました。

赤松の死後、彼らは黙らざるを得ませんでした。
しかし、内心は、内乱を起こすことに忸怩たる思いを抱いていたのではないでしょうか?

赤松と交流のあった覚馬の扱いから、そんなことを感じさせるのです。

 

戊辰戦争への道

江戸では徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎。
江戸城は「無血開城」となり、政権交代は終わったはずでした。

しかし、戦いは終わりません。

長州藩は、一時期、朝敵認定された怒りと恨みがあります。

京都守護職であった会津藩。
「薩摩御用盗」取り締まりのため、薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩。

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この二藩を徹底的に潰してこそ、幕府を支持する声を消すことができる。
痛い目にあわせれば、薩摩と長州を中心とした新政権に反抗する声も抑えつけることができる。

そうした思惑から、東北へと戦火が広がることとなるのです。

しかし、奥羽の諸藩からすれば、この処分は不可解なものでしかありません。
会津藩主・松平容保の首まで容赦なく求める長州らに対して、仙台藩が異議を唱えました。

こうして「奥羽越列藩同盟」が結成され、戊辰戦争への道へと日本は突き進んでゆくのです。

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天皇と、将軍家への忠義に苦しめられ

幕末の会津藩で語られる悲劇。
それは、保科正之から伝わる『御家訓』の呪縛です。

もうひとつ、孝明天皇の『御宸翰』をはじめとする信頼の数々。
生真面目な容保は、危険であると諫められながらも、この二つの縛りにがんじがらめにされていました。

孝明天皇の信任を守るあまり、長州藩に厳しい態度を取らざるを得ない。
徳川慶喜も忠誠心を見込んで、実弟の喜徳を会津藩の養子に送り込みます。

いつか京都守護職をやめて帰国しなければ、危険であるという認識はありました。しかし、生真面目な容保はそのタイミングを逃したのです。

一方、会津をなんとしても責め立てたい倒幕側は、厳しい態度を取ります。

「松平容保の首を寄越せ」
そう強硬に主張したのです。

江戸時代を通して、武士は主君の首を守ることこそ、最も大事であるとされてきました。

これを知っているからこそ、松平容保は、長州征伐において藩主の首を求めることは過剰だと進言したほどです。
江戸無血開城の時、西郷隆盛山岡鉄舟から「あなたたちが島津の殿の首を求められたらどうするのか?」と説得され、応じたという経緯もあります。

にもかかわらず、長州を中心とした西軍は松平容保の首を要求してきた。

さすがに仙台藩や米沢藩も疑問を感じ、赦免を嘆願します。
奥羽の諸藩は、秋田藩のような数少ない例外を除き、「奥羽越列藩同盟」に加盟しました。

しかし長州藩には、孝明天皇の憎しみをかい、朝敵とされた怨恨があります。
長州藩士らは「禁門の変」のあと【薩賊会奸】と履物に書き付け、踏みつけていたほど。薩摩とは和解しましたが、会津には憎悪しかありません。

ここで会津はじめ奥羽諸藩を倒してこそ、自分たちの新政権を倒そうとする抵抗勢力はいなくなるはず。
そんな思惑もありました。

このあたりにも、きな臭さがつきまといます。
長州藩内でも、会津藩に寛大な処分を求めた広沢真臣がおりました。

広沢真臣/wikipediaより引用

彼は米沢藩の雲井竜雄と協力しておりました。

雲井龍雄/wikipediaより引用

これに対して、会津藩強硬処分を求めたのが木戸孝允です。

そして結果は……雲井が明治3年(1870年)2月、反逆者として斬首。
広沢は、明治4年(1871年)1月、暗殺されてしまいます。

こうして、長州藩内にすらあった会津への寛大な処置という見方は、歴史から消えていったのでした。

油壺のような奥羽に、火をつけた男がおります。
倒幕側が派遣してきた世良修蔵たちです。彼らの傲慢さは、奥羽越列藩同盟側の神経を逆撫でします。

遊女を侍らせながら傲慢な態度を取る世良に、奥羽の武士たちは神経を逆撫でされていました。
この世良は、出羽方面に展開していた大山格之助に、こう書いた書状を送ったのです。

「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」
【訳】奥羽は皆敵だからぶっ殺す

この書状を見た仙台藩士の怒りが限界に達し、世良は殺害されました。

世良修蔵/wikipediaより引用

戦争回避の道は、どんどん遠ざかってゆきました。

どうやら奥羽や越後へ派遣された人たちはトラブルメーカーばかり。
出羽の大山格之助、越後の岩村精一郎などです。

西軍内部から見ても、あの人選はどうにかならないのかと思われていたほど。
はなから、そういう意図があったのでしょう。
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