元和元年(1615年)5月27日は増田長盛の命日です。
豊臣政権・五奉行の一人として知られる人物であり、大河ドラマ『どうする家康』では「外交政策に長けた人物」として紹介されておりました。
しかし、豊臣政権【五奉行】のメンバーは素性が不明であります。
自らも出自が高くない秀吉に見出され、武功よりも内政に長けた人物が多く、大名家で代々伝えられてきた武士のようなルーツが伝わっていないのです。
しかも豊臣政権の後に徳川時代が到来したため、ますますその歴史は埋もれがち――。

増田長盛/wikipediaより引用
そんな状況を踏まえながら、増田長盛の生涯を振り返ってみましょう。
28歳で羽柴秀吉に見出され
増田長盛は、生地からして複数の説があります。
・尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)
・近江国浅井郡益田村(現在の滋賀県長浜市益田町)
「増田」という地名に住んでいる人物として、天正元年(1573年)、当時28歳のときに羽柴秀吉に見出されました。
累代の家臣がいない秀吉は、目端の利く者を積極的に登用していたのです。

絵・富永商太
当時の秀吉は長浜城主であり、長盛には200石が与えられました。
有能な家臣であれば200石は少ないのでは? と思われるかもしれませんが、長盛の能力が低いわけではありません。
彼の活躍はあくまで武功に属さない、いわば縁の下の地味な働き。
秀吉の戦術は、大軍を運用するための兵站の確保や、優れた外交手腕に定評がありますが、そうした長所を担ってきたのが長盛のような人材でした。
豊臣政権の外交・内政を担う
秀吉の躍進は、天正10年(1582年)に勃発した【本能寺の変】から急加速。
それに伴い、この年に奏者とされた増田長盛の活躍も見えてきます。
長盛が重用されていた証拠に、越後上杉家との外交担当という重要な役割がありました。
当時の上杉家は、謙信の死とその後の跡目争いにより弱体化の一途を辿っており、織田信長の北陸侵攻によっていよいよ絶体絶命の窮地へ追い込まれていたところです。

上杉景勝とその補佐として知られる直江兼続/wikipediaより引用
そんな折に起きたのが本能寺の変でした。
上杉家はここぞとばかりに、明智軍を破った秀吉に接近をはかり、敵対勢力を牽制しながらいち早く従属。
このときの外交担当者が、長盛でした。
秀吉のもと、重要な内政や外交を担った長盛はそれにふさわしい石高や地位を与えられます。
まず天正12年(1584年)に【小牧・長久手の戦い】に従軍したとして、2万石にまで加増。
さらに天正13年(1585年)には従五位下、右衛門尉を叙任し、秀吉が天下統一に向けて動くのにふさわしい役目を担ってゆきます。
伸びゆく豊臣政権において、知行の割り当て、取次役、土木工事など、さまざま重責をこなし、【小田原征伐】のような軍事においては、石田三成らとともに兵站を担当しています。

photo by R.FUJISE(お城野郎)
北条氏が滅んだ後は、関東大名との取次役、その後の【奥州市置】では検地を担いました。
文禄の役
文禄元年(1592年)に始まった【文禄の役】では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮へ渡海。
占領地統治や兵站に携わります。
このあたりが豊臣政権にとって、悪い意味でのターニングポイントに思えます。
【文禄の役】では兵站が不足し、諸将の間で不満が鬱積しました。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用
この戦いでは西国大名から優先的に渡海することとなり、そのせいで亀裂が生じています。
一方、東国大名として肥前名護屋に留まっていたのが徳川家康。
家康は、出羽大名である最上義光と話し合い、諸侯を慰撫していたと伝わります。
それまでは関東~奥羽の大名の取次や仕置を増田長盛が担ってきましたが、文禄の役による影響で断絶が始まり、その間隙を徳川家康が縫ってきたようにも見える。
そしてその最中に、ある出来事が起こります。
秀吉のもとにいた淀殿の懐妊が判明し、大坂に戻って男児を産んだのです。
二人の第一子である鶴松の死後、もはや世継ぎは望めないと思われていたにも関わらず、奇跡が起きたのでした。
大和国郡山城20万石を所領とする
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が、不可解な死を遂げました。
まだ若く、豊臣一族にとっては貴重な親族。そんな一門の貴公子が、自ら命を絶ったようにすら思える死です。
同年6月、その豊臣秀保が有していた大和国郡山城20万石の所領は、増田長盛に与えられました。
しかし、豊臣政権にまたも激震が走ります。
今度は秀保の実兄である豊臣秀次が、高野山で自刃したのです。

豊臣秀次/wikipediaより引用
豊臣一門の秀次は秀吉の後継者とされ、関白職を譲られていました。
秀吉の実子誕生でその地位が揺らいだと思ったのか、突如命を絶つと、激怒した秀吉は、秀次妻子の大量処刑を命じました。
【秀次事件】が起きたとき、長盛は秀次側の糾弾にまわっています。
一方で家康は、糾弾された側の救済に回りました。
その中には伊達政宗や細川忠興、最上義光らが含まれ、ますます諸侯の心情は徳川に傾いていったのは明らか。
しかも、和睦が進められていた朝鮮との交渉は決裂してしまい、中断していた半島への出兵が、またしても俎上にのぼります。
そして始まったのが【慶長の役】。
長盛は、慶長4年(1599年)の総攻撃の大将として、福島正則・石田三成とともに名があげられていました。
しかし、その前年の慶長3年(1598年)に秀吉が没し、実現はしてしません。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、五大老に任じられた徳川家康は、勝手に姻戚関係を結ぶなど、違約と増長を繰り返します。
五奉行にとっては許し難いものであり、その一人である増田長盛も、石田三成らと共に家康阻止に動きます。

石田三成/wikipediaより引用
慶長5年(1600年)に他の五奉行と共に家康への弾劾状を作成。
さらには五大老の毛利輝元や宇喜多秀家と連絡を取り合いました。外交と取次を得意とした長盛の本領発揮といえましょう。
では、増田長盛は徹底して豊臣に忠義を尽くしたのか?
となると、ハッキリとそうとは言い切れません。
三成と大谷吉継の謀議を家康に報告するといった、東西を天秤にかける動きが見られます。
運命の年となった慶長5年(1600年)。
上杉家・直江兼続の【直江状】を受け、徳川家康が会津へ出立すると、その背後を突くようにして、石田三成、毛利輝元らが立ち上がります。
このとき三成以外の五奉行はどう動いたか?
長束正家は西軍に参加し、南宮山に陣を敷いています。
一方、浅野長政は東軍につく。
前田玄以はあくまで秀頼を守ると主張し、大坂城に留まりました。
増田長盛も大坂城にいて、東軍と西軍の間で様子を見ている状態です。
そして、その結末は……。
東西どっちつかずの末に
西軍の敗報を受け、長盛は剃髪し、家康に許しを乞いました。
しかし、石田三成、長束正家ともども増田長盛は西軍として処断されることとなります。

徳川家康/wikipediaより引用
浅野長政は東軍として所領が安堵され、前田玄以はなかなか複雑な経緯を辿りました。
玄以は、息子の前田茂勝が細川幽斎を捕らえながら、害することなく保護したため、幽斎の子である細川忠興に救われるのです。
恩返しとばかりに忠興が執りなし、「中立」とみなされると丹羽亀山5万石を安堵されました。
石田三成や長束正家のように明確に戦ったわけでもないのに、西軍として処断された増田長盛。
彼は高野山に追放されたのでした。
やがて高野山を下りると、岩槻城主・高力清長預かりとなり、そこで悠々自適の余生を送り……とは、なりませんでした。
子の盛次が豊臣への義を貫き長盛も殉ず
慶長19年(1614年)に勃発した【大坂冬の陣】。
そこに増田盛次の姿がありました。増田長盛の子であり、尾張家・徳川義直に仕える人物です。

徳川義直/wikipediaより引用
盛次は東軍として参陣するものの、非常に複雑な状況に置かれてました。
味方が武功を上げると顔が曇り、籠城する敵が奮戦するとむしろ安堵する――そんな心境であり、両軍が和解して、家康がこのことを聞くと、
「さすが、増田の子よ」
と褒め称えたとか。儒教を信奉し、忠義を重んじる家康らしい心根といえます。
盛次はこのあと、主君・義直に断ったうえで致仕。父・増田長盛にも相談し、大坂城に入ると、長宗我部盛親のもとへ向かいます。
盛親の父・長宗我部元親は、秀吉政権に近づいた時以来、増田長盛と近い間柄でした。
盛親の「盛」は長盛より与えられており、烏帽子親にあたります。
盛次は歓迎されたことでしょう。
こうして長宗我部隊の殿軍を務めた盛次は、藤堂高虎の軍勢により討ち取られました。その様は天晴れなものとだったと伝わっています。
しかし、盛次の見事な武士の死と、父の処分は別物です。
父の増田長盛は自害を命じられ、元和元年(1615年)5月27日、豊臣滅亡の歳に最期を迎えたのでした。
享年71。

増田長盛という人物は、どうしても影が薄いと思えます。
五奉行そのものがそういう傾向にあり、宿命的なものと言えるかもしれません。
有能な人物であることに間違いはないけれど、どうにも肝心な時の決断が裏目に出ているような……決断力にもスッキリしないものがあります。
五奉行は石高や武力不足であり、対家康の押さえとしては弱いという難点が指摘されます。
しかし長盛は豊臣秀保からの20万石を継いでいた。知行の割り当てを担当していたからには、もっとどうにかできたとも思える。
それが関ヶ原の戦い前夜、東西双方に目配せして、どっちつかずであったことが惜しまれてなりません。
決断を誤り続けた増田長盛は、残されている記録も少ない。
石田三成のような目立つ局面もない。
残念ながら、歴史に埋没してしまった人物といえるのでしょう。
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【参考文献】
渡邉大門『豊臣五奉行と家康』(→amazon)
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon)
他





