ジョン万次郎/wikipediaより引用

幕末・維新

ジョン万次郎72年の生涯をスッキリ解説!14才で漂流→米国生活10年からの~

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天保12年(1841年)。

それは黒船が浦賀に姿を見せる少々前のこと。
土佐の海で漁をしていた5人の漁師が遭難し、太平洋にポツンと浮かぶ無人島「鳥島」に流れ着きました。

現在の都庁から582kmという、途方もない場所(東京-大阪間で直線距離401km・車で505km)。
江戸時代ですから、それはもう絶望的な距離であることがご理解いただけるでしょう。

無人島に辿り着いた5人は、漂着から143日間。
雨水をすすり、アホウドリや魚を食べ、どうにかして命をつなぎとめておりました。

鳥島(宇喜多秀家が流された八丈島からさらに南へ/1785年、ここに流された野村長平は12年間の無人島暮らしの末に島を脱出、土佐への帰国を果たしている)

そこへやってきたのが、見たこともないような巨大な船でした。
その大きさには度肝を抜かれるばかりですが、地獄に仏、いやいやまさしく渡りに船。

5人はアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号の乗組員によって救出されます。

「日本人か。ならば国に返さなくてはな」

船長のホイットフィールドはそう判断し、まずは4人をホノルルで降ろしました。
すると、残りの一人、まだ幼い少年の万次郎が訴えかけます。

「このまま船に残りたい」
「……そうか。君が本気なら、この船の名前を与えよう。今日からジョン・マン(John Mung)だ」

米国人と日本人の心温まる友情の始まりと申しましょうか。
こうしてジョンと呼ばれるようになった漁師の少年(後のジョン万次郎・本名は中浜万次郎)は、アメリカ本土へ渡航。

そして、その後は思いもよらぬ歴史のうねりに乗って、激動の幕末に足跡を残すこととなるのです。

 

英語のハンデをものともせずクラストップの頭脳

いざアメリカに到着してからのホイットフィールドは、やっぱり親切な人物でした。
彼は万次郎を連れ帰ると、教育を受けさせたのです。

漁師の息子として生まれ、寺子屋にすら通えなかった万次郎ですが、ホイットフィールドはその聡明さを見抜いておりました。
万次郎は、マサチューセッツ州フェアヘイヴンにあるバートレット・アカデミーに通い始めます。

そしてその頭脳は、クラスでも最優秀の部類に入りました。
言葉というハンディキャップがあるにも関わらず飲み込みは早く、2年半の在学で英語だけでなく、測量術、航海術、数学、造船術等を習得。
捕鯨船に乗り込めるだけの知識を身につけるのです。

授業態度は内気で物静か。
常に温厚で、礼儀正しい少年。
ホイットフィールドも、さぞかし鼻が高かったことでしょう。

一等航海士として、捕鯨船に乗船した万次郎は、さらに様々な知識を吸収します。

「いいかい、ジョン。これが世界地図だ。そしてこれがきみの生まれた国、日本だよ」
世界地図を見せられ、万次郎は気が遠くなりました。
想像よりもずっと小さい日本。ただただ驚くばかりです。

「日本は、外国の船となったら攻撃して打ち払ってしまう。このまま鎖国を続けたいようだが……できっこないさ。ジョン、きみもそう思わないか?」
捕鯨船の仲間からそんなふうに言われると、万次郎はその通りだと思わざるを得ませんでした。

19世紀、アメリカの捕鯨船・Charles W. Morgan/wikipediaより引用

 

万次郎の帰国

10年間、アメリカと捕鯨船で過ごした万次郎。
すっかりなじみ、人々の親切は身に染みましたが、そうなると今度は望郷の念が浮かんできます。

折しもカリフォルニア州では、ゴールドラッシュが始まっていた頃でした。
万次郎は捕鯨船を下り、砂金を採掘して旅費を貯めることにします。

砂金採りの様子/wikipediaより引用

鎖国中の日本へ帰国なんてしたら、命を落とすかもしれない――。

そんな覚悟を決めて、ホノルルへ渡った万次郎。
そこで再会した他の漁師仲間とともに、ホエールボート「アドベンチャー号」を買うと上海行きの船に乗船。
そして、琉球・摩文仁に上陸します。

嘉永4年(1851年)のこと。
そこに待ち受けていたのは、幸運にも薩摩藩主の島津斉彬でした。

※ホエールボートとは、捕鯨の際に鯨に接近して銛を撃ち込むために乗る小舟

 

薩摩藩での取り調べ

「蘭癖」と呼ばれるほど西洋の学問技術を好み、開国と富国強兵が必要であると理解していた斉彬。
万次郎はまさに歓迎すべき人物でした

一行は手厚い歓待を受け、アメリカで手にした知識を教えるよう依頼されました。

その期間は、47日間。
万次郎は、政治的に自分の行動がどういう意味を持つかわからないまま、身につけた知識を惜しむことなく、薩摩藩に伝えました。

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その後、万次郎は薩摩藩によって長崎奉行へ送られました。
そこで踏み絵を行い、宗教的に問題が無いか調べられ、いきなり9ヶ月もの間、牢に入れられてしまいます。

時代が変わりつつあるとはいえ、当時は黒船前夜です。
鎖国を破った万次郎には、厳しい処分が待っていたわけです。

そして万次郎の身柄は、出身地である土佐藩へ送られたのでした。

 

故郷・土佐藩で士分に取り立てられる

久々に踏んだ、故郷の地――。
そこで彼を待っていたのは、藩主の山内容堂と大目付・吉田東洋でした。

山内容堂/wikipediaより引用

薩摩藩と同じく、土佐藩でも万次郎の知識を求めていました。
彼はイキナリ「定小者(さだこもの)」という最下級の士分に取り立てられます。

思えば文政10年(1827年)、中浜村に万次郎が生まれたとき、彼は貧しい漁師の二男に過ぎませんでした。
幼い頃に父を失い、母ときょうだいで苦労してきたものでした。

それがどうでしょう。アメリカで勉学に励み、ゴールドラッシュも体験し、さらには士分にまで取り立てられたのです。
ジョン万次郎を大河ドラマの主役に!という声が絶えないのも納得のできる話ですね。
ここまででも十分にドラマチックです。

土佐の若者たちは、万次郎の話を熱心に聞きました。
その中には、後藤象二郎や岩崎弥太郎も含まれていました。
彼らは万次郎が描いた世界地図を見て、かつての彼と同じように、日本のあまりの小ささに目を丸くしたのでした。

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