大弐三位(藤原賢子)

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

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大弐三位(藤原賢子)は紫式部の娘で父は誰? 結婚相手はあの道兼の息子だと?

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結婚相手はあの道兼の息子?

大弐三位の結婚相手は、藤原道兼の子である藤原兼隆です。

ドラマではまひろ(紫式部)の母ちやはを背後から刺殺し、仇とも言える憎き相手の藤原道兼。

そんな男の息子を、自分の娘の夫にするなんて――なかなか辛い展開ですが、殺害事件はあくまでドラマに限った創作話です。

史実の兼隆に対し、紫式部が嫌悪感を抱いたかどうか。

紫式部の没年も不明なため何とも言えませんが、大弐三位は娘(後に源良宗室)を産むと、その後、兼隆と離婚します。

こちらの理由も定かではないながら、兼隆は従者などに対する暴力事件をたびたび起こしていたため、連れ添う気にならなかったのかもしれません。

ドラマでの藤原道兼は、父・藤原兼家の権力欲によって性格を歪まされ、突発的な暴力沙汰を起こしていたので、兼隆にも受け継がれた……となると、なんだか辛い話ですね。

大弐三位は、その後も藤原彰子に仕え続けました。

そして万寿二年(1025年)、晴れがましいお役目を与えられます。

彰子の孫にあたる親仁親王(ちかひと/のちの後冷泉天皇)が誕生したとき、その乳母を任されたのです。

いわずもがな、乳母は子供の成長に最も影響を及ぼす重要な役割。

親仁親王の母である藤原嬉子は早くに亡くなっており、また嬉子は彰子の末妹でもありましたので、彰子の女房の中から最も乳母にふさわしい者として、大弐三位が選ばれたのでしょう。

彰子と嬉子の間で、いくらかは相談したかもしれませんね。

大弐三位の両親は既に他界し、母方の祖父も出家していましたので、後ろ盾はほぼない状態。

ですから、これは間違いなく大弐三位本人の才覚や人柄が評価された結果であるはずです。

 

80歳近くで内裏後番歌合に参加

長暦元年(1037年)ごろ、大弐三位は高階成章という貴族と再婚しました。

前年には親仁親王へ親王宣下が行われ、長暦元年には皇太子に立てられていましたので、「これで乳母の仕事は一段落」と思ったのでしょうか。

子育て中も含めて、大弐三位は多くの歌合にも参加していました。

長元元年(1028年)上東門院菊合

永承四年(1049年)内裏歌合

永承五年(1050年)祐子内親王家歌合

承暦二年(1078年)内裏後番歌合

最後の内裏後番歌合のときには80歳近くになっていたはずですが、息子・高階為家の代詠を務めたそうですので、さぞ矍鑠(かくしゃく)とした老婦人だったのでしょう。

現代人からしてもまぶしいですね。

時系列が少々前後しますが、天喜二年(1054年)には従三位に上っています。

「大弐三位」の呼び名は、夫の官名と本人の官位によるものだったのです。

「大弐」は大宰府の次官に当たる職で、夫に従い筑紫へ行ったことがあったようで、その頃は既に50代後半ほどの年齢ですから、やはり健康な人だったのでしょう。

承暦二年より後の活動については判然としません。

息子の為家が永保二年(1082年)に「母の所労のため」として石清水八幡宮の祭りの役目を断ったとされているので、このあたりで大弐三位も亡くなったのではないかと考えられています。

よほど身分が高くなければ女性の生没年や前後事情については記録されにくいので、致し方ないところです。

最後に母の日記『紫式部日記』から見える、紫式部と大弐三位の関係を探ってみましょう。

 

『紫式部日記』

『紫式部日記』では、日付不明の部分に消息体(手紙)の文章があり「その宛先は大弐三位だったのではないか?」という見方があります。

貴族の日記とは、前例や日常の振る舞いなどを子孫へ伝えていく役割が大きい。

紫式部が彰子に仕え始めたのは、大弐三位を産んだ後のことですから、

「いずれ娘が成長した後に渡そう」

と考えたからこそ、彰子の出産前夜から日記を書き始めた可能性も考えられます。

日記の中に、少々説教めいた部分や他の女房に対する人物評があるのも、娘への教訓と考えるとより自然に感じられたりもします。

紫式部の性格から察するに、自分のプライベートなことを日記に綴ったりしなさそうですしね。

「大弐三位が母の教えを記憶し、後世に伝えるべきだと考えて残した」という方が、ありえるのではないでしょうか。

本記事のラストは、百人一首に採られている歌で〆ましょう。

有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

【意訳】有馬山のそばにある猪名の笹原では、風が吹くとそよそよと音を立てるそうですね。そう、そうよ、私があなたを忘れるものですか

交際していた男性がしばらく疎遠になり、バツが悪かったのか

「あなたの気持ちがわからなくて不安になってしまいました」

というような手紙を送ってきたところ、大弐三位はこの歌を送って言い返したとされています。

”風”は風の便り、笹は大弐三位の心境の暗喩でしょうかね。

言外に「忘れていたのはあなたのほうじゃないの?」と咎めている雰囲気もあります。

相手も不明ですし、その後、男性とよりを戻したのかどうかもわかりませんが、じっと待っているだけの女性ではなかったのだろうな……という気がしますね。

大河ドラマの主人公になった人やその周辺人物については、大河ドラマの年に新たな史料などが見つかることが多々あります。

紫式部に関する新発見があれば、母子仲や大弐三位の素顔もさらに詳しくわかるかもしれませんね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『紫式部集―付 大弐三位集・藤原惟規集 (岩波文庫)』(→amazon
『新訳 後拾遺和歌集』(→amazon
ほか

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