三善康信

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源平・鎌倉・室町

三善康信が頼朝挙兵のキッカケに?鎌倉幕府を支えた良識派文官の生涯

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珍しくほのぼの百舌鳥狩り

源頼家が追放&暗殺され、源実朝が三代将軍となる――。

このとき康信が大きく関与したという記録はありません。

頼家の暗殺についても同様です。

次に将軍となった実朝は早いうちから先例に倣い、立派な将軍になるための努力を重ねていましたので、康信や大江広元などにとっては、前向きな気持ちになれたかもしれません。

その中で、ちょっとほのぼのする話題があります。

元久三年(1206年)3月13日のこと。実朝が北条義時との雑談の中で、こんなことを言いました。

「桜井五郎という者が、モズに他の鳥を獲らせると聞いた。ぜひとも見てみたいのだが、ただの噂だろうか」

”少年将軍が叔父にわがままを言った”と見ると、ちょっとかわいいですね。

これに対し、義時は答えます。

「源斉頼が昔、同じことをやっていたそうです。その技が子孫まで伝わっていたら奇特な話ですが、もしただの噂だったら桜井殿の恥になりますから、こっそり聞いてみましょう」

と、そこへ当の本人がやってきた。しかも、左腕にモズを乗せているではないか。

すかさず義時が声をかけます。

「実朝様がお前のモズ狩りをご覧になりたいそうだ。すぐお見せせよ」

これが幕府の中でちょっとした騒ぎになったらしく、康信や大江広元などもやって来ました。

五郎は見事モズを使ってスズメを三羽捕えさせ、皆を驚嘆させたとか。実朝も喜び、褒美に刀を与えたといいます。

実に平和な光景ですね。

彼によると「小鳥を捕るのは容易いことです。雉も捕れますよ」とのことですが、モズ狩りが鷹狩りのように定番化しなかったところを見ると、やはり個人の才覚による面が大きいのでしょう。

政治的には全く重要ではありませんが、鎌倉幕府では珍しいほのぼのエピソードなので紹介させていただきました。

康信は、自宅の裏に文庫を建て、書類を保管していたと言います。

問注所執事という役職柄、記録や文書類、裁判記録や公家の日記なども大量に保持していたのです。

しかし承元二年(1208年)1月16日の火事で、家も記録も全て焼けてしまい、康信は涙をこぼして嘆いたとか。

あまりの落ち込みように、皆お見舞いを言うほどだったといいます。

吾妻鏡を見る限り、毎年、年頭は鎌倉で火事が頻発していますが、このように感情的な記載があるのは珍しいことです。

吾妻鏡の編纂には三善氏も一枚噛んでいるという説がありますので、そのためでしょうか。

 

源実朝との関係は?

三代将軍・源実朝が、公家文化を好み、皇室を重んじるような姿勢だったせいか。

代替わりしてからの鎌倉は、三善康信だけでなく、幕府全体に上方へ気を遣っていた印象があります。

承元四年(1210年)7月20日、上総の役人がこんなことを訴えてきました。

藤原秀康という人が朝廷から上総の国司に任じられてきたのですが、何かと先例を無視して好き勝手に振る舞うので、皆困っています。諍いの末に農民を斬り殺したこともあります」

協議にあたったのは三善康信と北条義時、そして大江広元。

当然、藤原秀康を問い詰めるのだろう……と思いきや。

「秀康は後鳥羽院の北面の武士出身だし、朝廷と事を構えるのは得策ではない。幕府ではなく、院へ訴えよと伝えよう」

東国だからといって、完全に武士の支配下ではなかったことがよくわかりますね。

上総は親王任国でもあるため、他の土地より朝廷に対する刺激が強いと判断されたのかもしれません。

では源実朝と三善康信の個人的関係は?

というと良くも悪くも”普通”といった印象です。

建暦元年(1211年)12月10日、実朝が日本や中国の武将のうち、大きな功績のある人について調べさせ、康信や広元に読み上げさせたことがありました。

疑問があればその場で何度も聞いていたそうですから、教える側としてもやりがいがあったことでしょう。

こういった仕事はやはり、公家出身者の出番ですね。

一方で、康信たちは知識がある故に、前例や縁起を重んじすぎるところもあったようです。

建暦二年(1212年)2月28日、「相模川の橋のうちいくつかが破損している」という報告が入り、三浦義村が修理を提案したことがありました。

康信は義時・広元らとともにこれを協議し、

「この橋は建久九年(1198年)に稲毛重成が亡き妻の供養として造ったものだが、その落成記念に訪れた頼朝様が帰路で落馬してしまわれて、その後亡くなられた。

稲毛重成もその後、畠山重忠の件で三浦氏に殺されてしまった。どうにも縁起が良くないので、作り直さなくても良いのではないか」

と結論を出しました。

しかしこれを実朝に上申すると、

「父上の死は位を極めた後の寿命によるものであり、重成はいとこの重忠を裏切ったから殺されたのだ。

橋とは何の関係もなく、不吉ということにはならない。

あの橋があれば、二所詣でに来る者や周辺に住む者の多くが助かるだろう。

完全に壊れてしまう前に、早く修理せよ」

と言われ、一転して修理することになりました。

この合理的な考えは、康信にとっても斬新だったのではないでしょうか。

一方で実朝が信心深いタイプだったことも、康信にとっては好感が持てたのではないかと考えられます。

 

承久の乱

頼朝の死が突然過ぎたせいか。

源頼家と合議制のメンバー13人たちは、良好な関係を築いたとは言えません。

一方で源実朝の時代になると、将軍を中心に団結しようという空気が感じられます。

建保三年(1215年)12月16日のことです。

星の運行に何らかの異常がみられたらしく、天文学者から「凶事の前触れなので、実朝様はお慎みください」という報告がありました。

これに対し康信は、北条義時や大江広元、二階堂行光らと共に

「実朝様が良い政治を行って、長生きできるようにお支えしていこう」

と言い合っていたそうです。

実朝が暗殺されるのは、これからおよそ3年後のこと。

この件に関する康信の動向は、吾妻鏡に記載されていません。

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寄る年波もあってか、そもそも康信の名が表に出てくることも少なくなっています。

この時期の記録は、吾妻鏡に二件ほどありますが、どちらもあまり良い出来事ではありません。

一つは、承久三年(1221年)1月25日の午前二時頃に、大町大路の東から出火し、康信の家が燃えてしまったという記述です(13年ぶり二回目)。

またしても記録類が焼失してしまい、冬場の失火対策の難しさが垣間見えますね。

そしてもう一つが、康信最期の働きともいえる場面です。

承久三年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は流鏑馬を名目として美濃~但馬14カ国の兵と、近畿周辺の僧兵を呼び寄せました。

そして翌15日に「義時追討」と「全国の守護・地頭を自らの支配下に置く」という内容の院宣を出します。

ご存知【承久の乱】のはじまりです。

朝廷の強行な態度に、鎌倉幕府の面々は大いに動揺しましたが、北条政子の声明によってまずは応戦することにします。

しかし、前例のないことで、幕府側も簡単には方針をまとめられません。

打って出るべきだ!と大江広元は主張しましたが、その意見を容れて出陣の準備をしているうち、弱腰になる者も出始めるという始末。

「こちらから攻め込むと決まったのに、日にちが経ったせいで後ろ向きな案が出てきてしまった。今夜にでも泰時殿が率先して出陣すれば、御家人たちは皆後に従い、後に付いてくるだろう!」

大江広元が北条泰時の尻を叩きます。

康信はこのころ老いもあって病みついていたそうですが、政子に呼ばれると、力強くこう主張します。

「協議は大切だが、このようなときは直ちに出発するべきです!」

義時もこれで覚悟を決め、嫡男の泰時をさっそく出発させました。

二人の言う通り、幕府軍は西へ向かうに従い、続々と人数を増やし、勢いそのまま6月14日に京都になだれ込み、あっという間に勝利を収めます。

7月には後鳥羽上皇をはじめとした首謀者たちが流刑となり、始末がつきました。

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康信は、乱の始末を見届けた後、8月9日に亡くなります。

享年82という長命。

死の直前である8月6日まで問注所執事の座にあったそうですから、本人はまだまだ仕事をしたかったのかもしれません。

康信のような文官タイプの人物は、なかなか注目されにくいものです。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではどのように描かれるか?

承久の乱が楽しみな人物の一人ですね。

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【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon

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