西郷局/Wikipediaより引用

女性 徳川家 その日、歴史が動いた

20人以上もいた家康の妻・側室ってどんなメンツだったの?

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政略結婚は家や国にとっては万々歳でも、当人達にとって不本意である可能性は否めません。

天正十四年(1586年)の4月28日。
徳川家康のもとへ嫁ぐことになった朝日姫も相当迷惑に思っていた一人でしょう。

なんせ彼女、秀吉の妹で、当時、既に結婚していたのに、無理やり離婚させられて徳川家康の継室になったのです。
しかもその時点で44才。このころだったら間もなく寿命を迎えたっておかしくありません。

なぜそんなヒドいことになったのか?

 

わずか2年で徳川のもとを離れ聚楽第へカムバック

話は単純。
仲違いしていた徳川家と豊臣家の和睦のためでした。

本能寺の変織田信長が亡くなると、秀吉は織田家内の重臣を討ったり懐柔したりして天下人への道を歩みました。
その中でどうにも処理しきれなかったのが、信長と同盟関係にあった家康だったのです。

他家である上に家臣団の結束も固く、簡単に崩せる相手ではない。
そこで秀吉が最後の手段として用いたのが、妹を使った政略結婚でした。

妹と言っても前述の通り44才なんですけどね。

朝日姫/wikipediaより引用

てなわけで家康(当時46才)の元へ輿入れした朝日姫。
彼女もジッとはしておりませんでした。

婚姻からわずか2年後、
「母のお見舞いに行って来ます」
と言って京都の聚楽第に移り、以降、徳川へは戻らなかったのです。

もともとが家康を丸め込むための結婚ですから、秀吉も『もうアイツは裏切りそうにないし、追い返す理由もないか』とでも思っていたのでしょう。
その後は朝日姫自身も病気がちになったそうで、別居からこれまた2年後に亡くなっています。

まぁ、家康の方も何とも思っちゃいなかったでしょう。
なぜなら彼には、記録されているだけで20人以上の妻(側室)がおりました。

というわけこの先は、著名な息子を産んだ正妻・側室や、強烈なエピソードが残っている方をピックアップしてみましょう。

 

築山殿(信康生母)

最初の正室です。
今川義元の姪っ子で、家康がかつて今川家に臣従していた頃に結婚しました。

そんな関係だったからか、あるいは余程性格が合わなかったのか。
当初から仲睦まじい夫婦とはいえなかったようです。

それでも長男・松平信康が生まれたのですから、家康の律儀さというか何というか。

信長からの疑いによって築山殿も信康も処分されることになってしまいましたが、もし最初から双方が歩み寄っていればまた違った結末になったのかもしれません。
その場合、江戸幕府の二代将軍は当然信康になったでしょうし……この先は影響がデカすぎて想像を広げるの自体が難しいですね。

松平信康はなぜ自刃に追い込まれた? 徳川家康と瀬名姫(築山殿)の長男が迎えた悲惨な最期

 

長勝院(秀康生母)

決して無能ではないのに冷遇された家康の次男・結城秀康
その母親です。

当初、築山殿の身の回りの世話役を務めており、そのうち家康の目に留まってお手つきになりました。

秀康がお腹にいた頃「築山殿の嫉妬に遭い、服を剥ぎ取られて真夜中の庭木にくくりつけられた」という逸話がありますが、その頃には別々の場所に住んでいたため、後世の創作の可能性大ですね。何かと悪者にされる築山殿が可哀想……。

彼女は秀康よりも長生きしているのですが、息子が亡くなったとき家康の許可を待たずに出家したといいます。カーチャンだけでも愛してくれて良かったな秀康!(´;ω;`)

お咎めがなかったのは、たぶん家康もわかっていたからなのでしょう。
もうどうでもよかったなんてそんなまさか……。

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西郷局

三男・徳川秀忠と四男・松平忠吉のお母さんです。
一度結婚していたものの、夫に先立たれて未亡人となり、家康に気に入られて奥に入りました。

現代的な感覚で言えば将軍の母=勝ち組ですが、彼女自身が28歳の若さ(1589年)で亡くなっているため、徳川家の天下を見ておりません。

したがって秀忠の妻・お江との嫁姑問題や江戸幕府への影響はなかったでしょう。

西郷局は、美人かつ心優しい女性だったらしく、家康はもちろん家臣や侍女にも相当慕われていたようです。

近眼だったそうで、目を患った女性の支援を行っており、亡くなったときにはかつて恩を受けた女性たちがこぞって彼女の冥福を祈りに来たといわれています。

当時の平均寿命的に考えると江戸時代初期まで生きていてもおかしくはありませんが、その場合、息子・忠吉の早世を目の当たりにすることになるので、どちらにしろ哀れな人ということになってしまいますね。

まさに佳人薄命を地で行くような人生でした。

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お勝の方(お梶の方)

幼い頃から賢さで知られた人です。
最初は「お梶の方」と呼ばれていました。

彼女の逸話で有名なのは、家康があるとき、家臣たちに「一番美味いものと一番まずいものは何か?」と尋ねたときの話でしょう。

皆どちらかというと自分の好き嫌いを披露していたかと思われますが、彼女は「一番美味しいものも一番まずいものも塩です。どんなものでも塩で適度に味を調えなければ美味しくならず、だからといって入れすぎたり塩そのままでは食べられない」という実に理に適った返答をしました。ぐうの音も出ません。

その頭脳を買われてか。
関が原や大阪の役にも男装・騎乗で同行したそうです。

特に関が原のときには「この勝利はお梶がいたからに違いない! お前は今日から『お勝』と名乗れ!」と言われて改名したといわれています。

家康のテンションが上がった話とか、珍しいですね。

その他にも倹約家だったことがより家康の気に入ったらしく、家康の死後も幕閣から一定以上の尊敬を受けていました。後に春日局が台頭したときにも、お勝の方のほうが序列が上だったほどです。

江戸幕府随一のキャリアウーマンといっていいでしょう。

 

雲光院(阿茶局)

出家前は「阿茶局」と呼ばれていました。

ただし彼女が髪を落としたのは、秀忠が亡くなった後のことです。
というのも、側室の中でお勝の方に並んで家康の信頼が厚かったため、「秀忠をよろしく頼む」といわれていたのでした。

お勝の方より23歳も年上なんですが、亡くなったのは5年しか変わりません。
頭脳に加えてその健康さも家康のお気に入りだったかも。

特にこの二人が対立したとか揉めたという話はないようですから、おそらくはお勝の方が阿茶局を立てるような感じでうまくやっていたのでしょう。
頭のいい人同士ならではという感じがしますね。

雲光院(阿茶局)/Wikipediaより引用

ちなみに大河ドラマ『真田丸』では斉藤由貴さんが演じられ、徳川家康や本多正信をうならせる老獪な対応が注目されましたね。

特に大坂の陣で、豊臣方を丸め込む交渉術が巧みで。
戦国ファンの心に残っておられることでしょう。

 

茶阿局

家康六男・松平忠輝とその弟・松千代の母親です。

既婚者だったにもかかわらず土地の代官に言い寄られ、はねつけたところ代官が逆ギレして夫を殺してしまったため、娘を連れて家康に直訴したというなかなか肝の据わった女性でした。

その場で家康に気に入られ、娘と共に引き取られました。
代官はもちろん処罰されたと言います。

彼女は家康に寵愛された側室の一人です。
それなのに解せないのが、上記の「阿茶局」と非常によく似た呼び「茶阿局(ちゃあのつぼね)」名をつけられたあたりが解せません。

松千代は夭折してしまいましたが、忠輝は順調に育ち順風満帆……とはいきませんでした。よろしければ、以下の記事にまとまっておりますので、どうぞ。

忠輝は母に取り成しを頼みましたが、家康は最期まで許さず、生前の再会は叶いませんでした。
茶阿局も悲しんでいたでしょうね……。

昭和まで許されなかった家康六男・松平忠輝の不憫な人生は伊達政宗のせい?

なお、徳川家康の生涯については、以下の記事をご参照ください。

後世のイメージと違って、割と熱いお方だったことがわかります。

徳川家康が小国領主から天下人になれたのはナゼ?75年の生涯マトメ年表付

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
徳川家康/Wikipedia
朝日姫/Wikipedia

 



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