永井尚志という幕臣をご存知でしょうか?
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』で中村靖日(やすひ)さんが演じましたが、おそらくほとんど認知度が上がってないような気がします。
なんせ永井は、名前の読み方からして長いこと判明しておりませんでした。
現在では「なおゆき」とされている諱は、かつて「なおむね」と呼ばれることが多く、古い書籍や案内板等では、今なお「なおむね」と表記されていたりします。
名前すら読み方がはっきりしなかった彼の生涯は、まだ未開明の要素があります。
京都で慶喜の側にいた永井尚志こそ、その懐刀として様々な政策実現に尽くしました。
中でも【大政奉還】は、彼あってこそ実現できたものですが、この大決断の意図はまだ不可解な点が残されている。
2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』放映により、さらなる研究の進展が望まれる幕臣の一人といえます。
そこで本記事では、明治24年(1891年)7月1日に亡くなった、永井尚志(ながいなおゆき)の生涯を振り返ってみましょう。

永井尚志/wikipediaより引用
永井尚志 大名の長男から旗本の養子へ
文化13年(1816年)11月3日。
三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹(のりただ)に、男児・岩之丞が生まれました。
徳川家に繋がる名門・松平。
先に生まれた兄(長男)は早世しています。
ゆえに待望の男児として喜ばれるどころか、彼には大名の子とすら名乗れない宿命が待ち受けていました。
父が長いこと子に恵まれなかったため、既に家督を弟の子であり養子でもある松平乗羨(のりよし)に譲っていたのです。

奥殿藩の藩庁があった奥殿陣屋
こうなると岩之丞は御家騒動の原因になりかねません。
三歳にして両親を亡くし、孤児となった岩之丞は、江戸藩邸で育つことに。
その聡明さを買われたのか。
やがて彼は天保11年(1840年)、25歳で旗本永井家の養子となります。
徳川一門大名の子として生まれながら、旗本の養子になるという、異例の経歴はかくして始まったのです。
昌平黌で頭角を現す
名前を岩之丞から永井尚志へ変更。
それが契機なのかに、以降の永井は遅咲きの才能を花開かせていきます。
普通、藩校で学ぶ武士は、十代で才能の片鱗を見せるものです。
福井藩の橋本左内が十代にして麒麟児扱いされていたことと比較すると、尚志はかなりの遅咲き。

橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用
尚志は昌平黌(しょうへいこう・昌平坂学問所)に入ると、メキメキとその聡明さを発揮します。
朱子学を身につけるばかりではなく、影響を及ぼしつつある西洋についての見識も深めてゆくのでした。
永井尚志という人物は、その功績のみならず、出生や知識のバックグラウンドをみても興味深いものがあります。
彼のような名門エリートは、志士とは大きく異なる。
例えば渋沢栄一と比べてみたのが以下の通りです。
◆永井尚志
血統:徳川家の流れを汲む大名の子、名門
デビュー:比較的遅い。25歳をすぎてやっと目立ち始める
学問:朱子学と西洋知識。詠んだ漢詩は四百とも五百とも
◆渋沢栄一
血統:豪農
デビュー:若年から頭角を見せる
学問:陽明学、水戸学。西洋知識はあとから身につける
黒船来航後の外交を担い
嘉永6年(1853年)、幕末の分岐点が訪れます。
志士たちが激昂する一方、幕府では才能ある人材登用がなされる転機となりました。
永井尚志も海防掛とされ、日米和親条約締結に関わります。

マシュー・ペリー/wikipediaより引用
ただし、岩瀬忠震や川路聖謨らのサポート役で、翌年の安政元年(1854年)には、長崎に赴いて長崎海軍伝習所総管理(所長)に就任。
日英協約の調印が進められ、安政2年(1855年)には日蘭和親条約にも携わりました。
これまでの大河ドラマでは描かれてきませんでしたが、才智あふれる尚志のパーソナリティがおわかりでしょう。
長崎では、長崎製鉄所の創設や、カッター船建造にも関わっています。
幕府海軍は、実は短期間で格段の進歩を遂げているのですが、それも尚志のような人材に恵まれたからこそ。
彼らが無能に描かれがちな幕末ドラマは、あくまで演出とお考えいただいた方がよろしい気がします。
そんな幕府の首脳部は早い段階から「開国しかない」として外交政策に取り掛かっていました。
まずは臥薪嘗胆し、国を強くするほかない――。
欧米列強に対し武力で立ち向かうことはできない――。
と、理性的な結論に基づきながら各国との交渉を進めていたのです。
日米修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約……こうした交渉のテーブルには常に尚志の姿がありました。
ところが、です。
そんな外交のエースたる尚志を待ち受けていたのは、不毛すぎる政争の巻き添え。
江戸幕府内で一橋派と南紀派に分かれた【将軍継嗣問題】に絡んで失脚してしまったのです。
斉昭の台頭
黒船来航という未曾有の国難に、日本人は団結して立ち向かった――そう思いたいところですが、実際は違います。
「幕政の混乱は、全て景山公(徳川斉昭)が先頭に立っていた。これぞまさしく獅子心中の毒虫である」
幕臣であった大谷木醇堂(おおやぎじゅんどう)は苦々しく振り返っています。
尚志はまさしくこの混乱に巻き込まれました。
斉昭が、まず狙いを定めたのが阿部正弘です。

徳川斉昭/wikipediaより引用
阿部の「提灯持ち」と陰口を叩かれるほど取り入り、幕政に乗り込んで、幕政を震撼させるようなことを主張し始めます。
尊王攘夷を掲げ、ことあるごとに「ええい、異人を斬ってしまえ!」と暴れ出すのです。
外交、疫病、天災、不況……厳しい状況が続く中、それを悪化させる斉昭の悪影響で幕政は疲弊。
これにはもう耐えられない――と、井伊直弼が大老となり、人事において大鉈をふるいました。
13代・徳川家定のあと、将軍に斉昭の子・一橋慶喜(後に徳川慶喜)を推していた者を処断したのです。
俗に言う【安政の大獄】ですね。
安政の大獄が、倒幕の芽をつむ暴挙と誤解されているのは、処刑者の中に吉田松陰が含まれているのが大きいのでしょう。

吉田松陰/wikipediaより引用
松下村塾の面々がそう喧伝したプロパガンダが未だに通じておりますが、松陰は尋問中に老中・間部詮勝暗殺計画を突如自白したがゆえに処刑されております。
安政の大獄の本質ではありません。
この政変に巻き込まれ、一橋派とみなされた尚志は、敬愛する岩瀬忠震ともども失脚しました。
永井尚志という才人は、この後も徳川斉昭・慶喜父子によって人生が左右されてゆくのですが、その端緒ともいえる事件でした。
朔平門外の変
尚志は雌伏のときを過ごします。
熱烈な攘夷を唱える斉昭の同類とみなされたからこその不遇なのに、世間ではこうささやかれます。
「永井は夷狄と交渉した邪智奸佞の者だ。ゆえに天罰が当たったのである」
誤解ゆえに悪評がふりまかれる宿命は、このときからつきまとっていたのでした。
耐え忍ぶ尚志をよそに、世間は流転してゆきます。
万延元年(1860年)に【桜田門外の変】で井伊直弼は討たれ、

井伊直弼/wikipediaより引用
その半年後に斉昭が急死。
外交交渉で行動を共にし、漢詩贈呈をしあっていた岩瀬忠震も文久元年(1861年)に世を去るのでした。
文久2年(1862年)頃になると、一橋派への処分も徐々にゆるんできます。
松平春嶽、そして一橋慶喜が政局へ復帰。
京都町奉行に任命され、表舞台に戻ってきました。
このころ、京都は政治闘争とテロリズムの坩堝と化しておりました。
一橋派の有力者であった島津斉彬は世を去り、弟・島津久光が藩主父(国父)として京都へ。

島津久光/wikipediaより引用
政治力抜群の大久保利通や西郷隆盛らが背後に控え、権力を握ろうとする。
しかも街には尊王攘夷を掲げ、テロリズムに飢えた志士たちがうろつく有様です。
そしてこの先、永井尚志の人生は、慶喜のために尽くすものとなります。
文久3年5月20日(1863年7月5日)に【朔平門外の変】――そう呼ばれる事件があります。尊王攘夷をとなえる公卿・姉小路公知が暗殺されたのです。
京都で攘夷テロは日常茶飯事と化しておりましたが、こと大物の公卿殺害となると只事ではありません。
容疑者とされたのは、薩摩藩士・田中新兵衛でした。
田中も【幕末四大人斬り】の一人でありますが、他の者(岡田以蔵・河上彦斎・中村半次郎=桐野利秋)と比較するとそこまで犠牲者の数は多くはない。
このことからも田中による公卿殺害事件のインパクトがわかるでしょう。
そして、この取り調べにあたったのが他ならぬ永井尚志なのですが、取調べ中に田中が自害してしまいます。かくして真相は闇の中に葬られてしまいました。
もともと開国派として評判が悪かった尚志は、不運にも犯人自害の防止失敗を糾弾され、閉門処分となってしまうのです。
しかし幸か不幸か、ほどなく尚志は政務復帰を認められます。
任ぜられたのは参与会議大目付。
そしてこの参与会議も程なくして行き詰まるのです。
一会桑政権
当時、島津久光は卓越した手腕で孝明天皇の信任を集めました。
薩摩藩内の【寺田屋事件】における断固たる対応。
はからずも起きた生麦事件から薩英戦争を経て、攘夷派のエースへ。
慶喜はそれが気に入らなかったようで、感情的に衝突。
ついには宴席で酒に酔って久光を罵倒し、参与会議は瓦解してしまうのです。

徳川慶喜/wikipediaより引用
巻き返しをはかる慶喜は久光排除を徹底すべく、【一会桑政権】を形成します。
病弱な京都守護職・松平容保は、久光のような政治力は乏しいものの、誰しも褒め称えるうるわしい性質と生真面目さがあります。
それゆえ孝明天皇の信任を勝ち得ていました。この親愛に乗っかろうと慶喜は画策したのです。
しかし、そのことが己と江戸幕府の首を絞めることとなるのですが、それはまだ先の話です。
このとき追い詰められたのは、長州藩でした。
こうした事件を経て慶喜は勝利をおさめます。
そしてこのあと、ターニングポイントが訪れるのでした。
長州藩詰問使として
元治元年(1864年)孝明天皇は、長州に怒りを募らせます。
さんざん偽勅を用いて好き放題やらかしただけでも度し難いのに、【禁門の変】では御所を砲撃し、我が子を怯えて泣かせ、京都を大火事にした。
孝明天皇は鉄槌を下すべく、長州征討を迫ります。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
慶喜はじめ幕府は、この一件でどれほど困惑したでしょう。
それまで天皇を己の権力の担保として使ってきたのに、それがかくも大きな力を持つとなると、困り果てるしかない。
永井尚志は長州藩詰問使として広島へ向かいます。
そこで長州藩は三家老の首を出し、藩主父子の罪を認め、山口城を破却。
都落ちをしていた五卿(七卿のうち一人は死亡し、一人は脱走)の引き渡しを承諾しました。
一応は目的達成となりますが、幕府は永井尚志の免職を決めます。
総督は徳川慶勝であったものの、御三家となると処断するにはあまりに重い。そこで尚志に責任を着せようとしたのです。
尚志は病気としてこれを拒否し、辞職するしかありません。
当時の幕閣にはキナ臭い空気が漂っていました。慶喜に疑惑が募っており、それゆえ尚志も疑われたともいえます。
幕閣が慶喜に疑いの目を向けたのには理由がありました。
天狗党の乱です。
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水戸藩から蜂起した一派が京都を目指して西上、幕府が討伐軍を出すほどに発展したこの大騒動。
慶喜は、朝廷と天皇に願い出て追討軍を出し、厳しい処断で天狗党を壊滅させますが、そもそも水戸藩出身の慶喜が潔白とも言い切れない。
江戸を無視して好き放題にしているのもおかしい。
果たして慶喜を信じてよいものか?
慶喜が後見職を務める14代将軍・徳川家茂すら、不信感を募らせていました。

徳川家茂/wikipediaより引用
家茂は自らが幕政を行えず、朝廷の口出しに辟易とし、江戸へ戻ろうとしたことすらありました。
それを慶喜と松平容保が説得し、ようやく京都に戻らせる有様です。
長州征討軍の瓦解
長州征討は、結果的に生煮えでした。
長州藩では、恭順派と過激派がくすぶっている。あっさりと処分を引き受けた者が手ぬるいとして逆襲を狙う者たちもいました。
尚志はまたも広島へ向かいます。
このときの詰問は穏やかなものでした。ただし、それは長州藩側の時間稼ぎゆえのこと。
幕府側としても、一向に話がまとまらない。
強硬にやれ。いや、穏健に進めたほうがいい。と、話は割れるばかり。
福沢諭吉はじめ、幕臣たちはこのことを苦々しく思い出す者も多いものです。
中途半端に動くぐらいならやらなければよかった。そして、いざ動いたのならば、フランスの手を借りてでも徹底的に叩き潰すべきだった。そう回想されています。
幕府はフランスに借款を依頼しており、それが途中で中止されたことも背景としてあるのでしょう。
そう苦々しく振り返られる水面下で、ある密約がありました。
薩摩の西郷隆盛・小松帯刀らと、長州の木戸孝允らが、土佐の坂本龍馬ら立ち会いのもと、【薩長同盟】を結んでいたのです。

左から西郷隆盛・坂本龍馬・木戸孝允/wikipediaより引用
薩摩藩の首脳部にいる大久保、西郷、小松らは尊王攘夷思想に理解がある。
彼らに目を光らせていた久光も、参与会議ですっかり慶喜に愛想が尽きた。ゆえに【一会桑政権】に対抗するため、長州へ手を差し伸べたのです。
第一次長州征討で、西郷と協力していた尚志が、そんなことを知るはずもありません。
上野公園の銅像のせいか。『西郷どん』はじめフィクションで描かれるフランクな姿のせいか。明るく裏表のない人物像のある西郷隆盛ですが、なかなかの策士です。
このあと尚志は、三度目の広島に向かいます。
待っていたのは膠着し切っていた状況。
もはや長州を止めるものはありません。
ここから先は、長州による破竹の勢いでの快進撃、電光石火の章となります。
このときの高杉晋作ら、電光石火の動きは司馬遼太郎の小説はじめ、さまざまなフィクションで華々しく描かれてきました。
いわゆる「巧山寺決起」とされる事件です。

高杉晋作挙兵像(功山寺境内)/wikipediaより引用
しかし、稀代の大天才が幕府を蹴散らしたという像も、修正が必要かもしれません。
このときイギリスはじめ西洋列強は、幕府に海軍を動かさぬよう要請しておりました。戦闘時に自国船が巻き込まれては危険だという名目です。
しかし、日本からの射撃による被害は、攘夷を掲げた長州藩過激派が引き起こしてきたものであり、どうにもおかしい話です。
海軍力でいえば幕府は圧倒的に強い。
それなのに、いわば内政干渉でこの切り札を封じられたようなもの。高杉が強いといっても、いわば手足を縛った相手を殴り飛ばしていたような状態ではあるのです。
幕府という獅子の体内は、薩長の出番の前に、すでに内側から崩壊していたといえる。
関東の幕閣では、小栗忠順はじめ近代化を急速に進めていたものの、問題は京都です。
そもそも、徳川斉昭が朝廷を政治に引き込んだツケはあまりに大きいものでした。
京都の朝廷が政治に関与するようになった結果、慶喜は孝明天皇の信頼を得てリードを握ったものの、その代償があまりにも負担となった。
孝明天皇から攘夷を迫られ、板挟みとなり、政治は混迷を極めてゆくのです。
そんな中、年若い家茂は、この長州征討の最中に病没してしまいます。
慶喜は出陣を撤回。
彼には、自分の身に危険が及ぶと、途端に弱気になり、ものごとを投げ出す悪癖があると指摘されるところではあります。
【禁門の変】では颯爽としていたものの、それは最初で最後の武士の姿と言えました。
総大将が急に弱気になれば、幕臣たちは呆れ顔になるしかなく、「例の癖が始まった」と目配せしため息をついてしまう、それが徳川最後の将軍の実像でした。
血筋こそ武家の棟梁とはいえ、適性がまったくないのです。
そしてこのことこそが永井尚志ら幕臣を不運に巻き込んでゆきます。慶喜はなかなか首を縦に振らなかったものの、しぶしぶ最後の将軍となるのでした。
大政奉還
就任から二十日後――孝明天皇が天然痘で崩御しました。
嘘か、まことか、病気から回復していたにもかかわらず、急変して息を引き取ったとか、岩倉具視らの謀略による暗殺説もあります。
真相はもはや明らかにはなりません。
ただ、非常に奇怪なタイミングでの崩御には違いなく、その後、新将軍の徳川慶喜は、有力大名四侯による合議制政治を目指しました。
久光とはもはや同床異夢であることは前述の通り。松平春嶽ですら、幕府再興の望みは潰えたと感じていたほどです。
会津藩が頼りにしていた孝明天皇は崩御。
若い天皇は操りやすい。
政局は崩壊前夜……として薩摩藩上層部は「ときは今」と定めたのでしょう。
倒幕は、できるのだ!
これを久光に持ちかけると、慶喜に怒りを感じていた久光もついには承諾します。
そして慶応3年(1867年)、薩摩藩と土佐藩は【薩土盟約】を結びました。
土佐藩の後藤象二郎と坂本龍馬には、倒幕へ向けた秘策がありました。
大政奉還――土佐側から永井尚志に接触がはかられ、大政奉還に向けて道は進んでゆきます。

『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用
こうした状況を受けて、慶喜ももはや王政復古に賛同するしかありえないと悟る。
しかし、この慶喜君臣の決断は反発をうけました。
まず会津藩と桑名藩からすれば明白な裏切りです。
血を流してまで将軍に尽くしてきたのに、あんまりじゃないか!
その気持ちは理解できます。
【一会桑政権】として歩調を合わせてきたはずが、孝明天皇崩御となると途端に掌返しですから、納得できないでしょう。
薩摩の上層部も、手ぬるいと考えています。
このあたりは実に複雑怪奇であり、主戦論を回避すべく活動していた赤松小三郎を謀殺してまで、武力討伐へ向かってゆくのです。

赤松小三郎/wikipediaより引用
背後にはさまざまな思惑がありました。
一度「朝敵」の汚名を被った長州藩は、なんとしてでも敵を叩き潰したい。そんな長州藩と同盟者である薩摩藩もその意を汲まねばならない。
そもそも今後の日本がどうなるかなんて誰にもわからない一方で、彼らには反面教師がある。
長州征討で手ぬるい対応に終わってしまった幕府です。
あそこで叩き潰さなかったからこそ、長州は捲土重来ができた。
前述の通り、武力による政権交代を望まなかった赤松小三郎は薩摩藩に討たれ。
赤松と同じく武力行使を望まなかった坂本龍馬は、松平容保の命を受けた京都見廻組によって斬られてしまいます。
ただ、この龍馬の死も謎が多いのです。彼は永井尚志を深く信頼していたことがわかっています。
【大政奉還】には土佐藩上層部の意図が反映されており、それは幕府とも一致していたとも思えるのです。
龍馬の意図はどこにあったのか?
彼の命と共に消えてしまうも確かなことはあります。
龍馬は日本が一致団結して困難に立ち向かう姿を目指していた。けれども長州藩倒幕派はそうではない。自分たちだけで政治を握りたい意図がありました。
このことは明治以降、薩長閥ばかりが上層部を占める【藩閥政治】として実現されます。
明治を生きる土佐藩出身者の中には【自由民権運動】をたちあげ、こうした【藩閥政治】と対峙する道を選んだ者がいたことは確かなのです。

坂本龍馬/wikipediaより引用
避けられぬ悲運の中、永井尚志の思いは記されています。
皇国のため、徳川家のため――。
煮え切らない慶喜のもとで、政局に翻弄されつつ、それでも奔走するほかない永井尚志でした。
慶喜の逃亡
慶応4年(1868年)に幕府最後の歳があけ、【鳥羽・伏見の戦い】で幕府軍が敗走。
事態の処理にあたる尚志のもとへ慶喜が大坂から江戸へ逃亡してしまった、との一報が届きます。

大坂から船で脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年)/wikipediaより引用
側にいた彼ですら置いていかれた、あまりに突然の東帰でした。
慶喜が入った大坂城は天下の名城であり、武器食糧も十分にある。幕府海軍がまるごと残っているからには、海からだって攻撃できる。
ここに籠城すれば形成は変わったかもしれないのに、なぜ!
大坂城代を突如任された会津藩家老・山川大蔵は馬上で嘆きました。
「天運が去った!」
いや、それでも、きっと東で戦うはずだ――と、尚志は信じていました。
逃亡直前、慶喜は大演説をぶっています。
千騎が一騎になってでも、死力を尽くして戦うべきだ!
そう宣言した武家の頭領が、おめおめと逃げるなんて、ありえるはずがないと思っていたのです。
東へ戻る慶喜に、拉致同然に連れ去られた松平容保は尋ねました。

松平容保/wikipediaより引用
あれほど勇敢な演説をしながら、なぜ逃亡したのか?
慶喜は「ああでも演説しないとどうにもならない」とかなんとか苦しい言い訳をしています。
容保は断腸の思いで会津藩兵を残してきました。
その容保相手にすら、慶喜はのらりくらりと言い訳をしていたのでした。
榎本、土方らと共に箱館戦争に参戦
困惑しつつ尚志は紀州を経由し、江戸を目指します。
戻って妻子との再会は果たせたものの、うろつく敵の目を逃れ、尚志はさらに東を目指すほかありません。
奥州を経て、蝦夷地へ向かい、旧幕府政権の首脳になった中に、箱館奉行・永井尚志の名もありました。
榎本武揚や土方歳三とともに、彼は北の大地にいたのです。

榎本武揚(左)と土方歳三(右)/wikipediaより引用
戊辰戦争の締めくくりとなる箱館戦争。夢が散った尚志は、江戸改め東京の監獄に入れられました。
他の幕臣はまだ三十代であるのに、尚志はすでに54歳です。
たくあんと握り飯だけの食事。
十日に一度の入浴。
獄死者も出る劣悪な環境で、明治5年(1872年)の釈放まで二年半を過ごしました。
そのあと五年ほど新政府に出仕します。還暦となるころには職を辞し、清貧の余生を過ごします。
慶喜は永井尚志との面会を避けた
尚志には、果たせぬ願いがありました。
明治11年(1877年)、尚志は駿府の慶喜を訪れます。
すると慶喜は、面会すらしようとしなかったのです。
対する渋沢栄一は
「自分とは面会し歓待するのに、永井尚志は会えなかった」
と記しています。

慶応3年(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用
しかしこれを「慶喜から栄一に対する親愛の証」と、単純に捉えてよいものでしょうか。
永井尚志に対する慶喜の冷淡さや気まずさがあると同時に、名門幕臣よりも自分が上だと自慢したい、そんな渋沢栄一の自己満足にすら感じてしまうのです。
永井尚志は誠意にあふれ、恩義を忘れませんでした。
岩瀬忠震の追悼を続け、岩瀬三十回忌を催した明治24年(1891年)、静かに息を引き取りました。
享年76。
外交官として功績を残し、幕末を生き抜き、大政奉還の立役者でもあり、箱館戦争まで戦った永井尚志。
激務の中でも漢詩を詠み続けたすばらしい教養もありました。
慶喜の懐刀として矢面に立ち続け、【大政奉還】で大きな役割を果たすも、歴史の陰に隠れてしまったような永井尚志。
彼が2027年『逆賊の幕臣』で高評価されるかどうか。難しいと言わざるを得ません。
江戸で近代化を進める小栗忠順と、京都における永井尚志は距離が空いています。実際の地理的な距離だけでなく、政治的な意味でもそうなります。
小栗たちからすれば、政治闘争にかまけ、近代化の足を引っ張る厄介なものの一人になるのかもしれません。
とはいえ、小栗らが理解していないはずもありません。
将軍後見職であり、のちに将軍となってしまった慶喜に、彼が逆らえるわけもないことを。
永井尚志が榎本武揚と共に、北に転戦したと耳にした小栗たちはどんな顔をするのでしょうか。
彼の中にある消えぬ武士の思いを察するのか。はたまた今更そうしたところで遅いとため息をつくのか。
彼が大河ドラマに登場するとなれば、【大政奉還】の政治的な意義もさらに研究と理解が深まることでしょう。その時を楽しみに待とうではありませんか。
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【参考文献】
高村直助『永井尚志:皇国のため徳川家のため』(→amazon)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
他






