大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が放映され、最も名を知られるようになったのは、もしかしたら主人公の北条義時よりもこの方。
北条時政でしょう。
女好きで脇が甘く、賄賂も平気で受け取るし、妻の頼みとあっては孫を追い込むことも辞さない。
一体この爺ちゃんは何なんだ?
ドラマを見ているときにそう思われる方も少なくなかったはず。
史実においても『どうして、そうなる???』という展開で畠山重忠を追い込み、その後ほどなくして自身も鎌倉政権の中心から転がり落ちてしまいます。
建保3年(1215年)1月6日が命日となる、北条時政の生涯を振り返ってみましょう。

北条時政/wikipediaより引用
北条時政は桓武平氏の出自?
北条時政の若い頃は、一言でいえば謎。
なんせ当時の北条氏は、時政以前もほとんど不明で、
【桓武平氏の平直方を始祖とする】
という点でこそ複数の資料で一致しますが、時政までに何代あったのかも不明ですし、時政の父(義時にとっては祖父)の名前すら諸説あって確定していません。
そんな調子ですから、彼らの出自についても、
◆代々伊豆や田方郡北条(静岡県田方郡韮山町)に住んでいた名士説
◆伊豆国の在庁官人説
と非常にあやふやです。
身分や由緒のある家ほど自分たちの記録を事細かに残すものですから、仮に、北条氏が桓武平氏の流れを汲んでいたとしても、当時はあまり身分の高くない家だったことは間違いでしょう。

桓武平氏の祖である葛原親王(786-853)/wikipediaより引用
時政は、父だけでなく兄弟関係についても不明です。
鎌倉時代の史書である『吾妻鏡』にも登場しておりません。乳幼児の死亡率が非常に高い時代ですから、おそらく幼いうちに亡くなっていたのでしょう。
では時政が成長した時期については?
『曾我物語』『源平盛衰記』などによれば、
◆永暦元年(1160年)3月、伊東祐親とともに源頼朝の監視役を命じられた
とされています。
出ましたね、伊東祐親。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではもはやおなじみ、娘の八重姫が、源頼朝の子となる千鶴丸を産み、その千鶴丸を川で殺害させた祖父です。

伊東祐親の像(物見塚公園)
この祐親とは後に対立しますが、本稿は、時政を中心に描いていきますので、いったん脇に置き、時系列で見ていきますと……。
時政は嘉応二年(1170年)4月、流刑先の伊豆大島で反乱を起した源為朝の討伐に参加していた、なんて話もあります。
為朝は、弓馬が重要視された当時の武家社会において、圧倒的強さで知られる武人。
源義朝の弟ですので、頼朝から見れば叔父に当たります。
時政が、その辺とも絡んでいたら面白いんですけど、この話が果たしてどこまで本当か、不明です。
さすがに古い時代のことだけに不確かな話も多く、先程の、伊東祐親の娘・八重姫と源頼朝の子供がバレるのも、正確な時期はわかっていません。
おそらく1175年頃の話とされ、時政周辺の時代が一気に動くのは、治承元年(1177年)から翌年にかけてのことでした。
留守中に政子が頼朝の子を……
当時、北条時政は京都大番役のために上洛していました。
京都大番役とは、地方武士に課せられた義務の一つ。
文字通り「京都で警備をしなさい」というもので、経済的負担が大きな任務でありました。
なんせ数年に渡って在京しなければならず、その間の費用は自分持ちだったからです。
留守の間に
・地元で親族が揉め事を起こしたり
・当主が京都で急死して御家騒動になったり
骨肉の争いの遠因になるケースもありました。
北条時政については、一族内での争いこそありませんでしたが、別の問題が発生していました。
なんと、今度は娘の北条政子が源頼朝とねんごろになっていただけでなく、長女の大姫も産んでいたのです!
「あれ? タイミングが違くない?」
と大河ドラマをご覧になられた方は疑問に思うかもしれません。
『鎌倉殿の13人』では、時政が大番役から帰ってきてから頼朝と政子は顔見知りになっていました。
しかし、史実において政子と頼朝がくっついた時期は、明確には定まっておりません。
本稿では『人物叢書 北条政子』(→amazon)を典拠として、この段階で長女・大姫が生まれていた設定で進めさせていただきますね。
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大姫(源頼朝と北条政子の娘)/wikipediaより引用
時政にはこのとき、大きくわけて二つの道がありました。
ひとつは、伊東祐親のように、この事実を拒絶し、娘を別れさせること。
もうひとつは、腹をくくって頼朝の一党として動くこと。
実は時政、始めは前者を選ぼうとしていた節があります。政子を伊豆国目代・山木兼隆に嫁がせようとしたのです。
しかし、当の政子が兼隆との結婚を断固拒否。
湯山権現にいた頼朝の下へ逃げたため、時政は二人の仲を認めざるを得なくなったのでした。
当時の頼朝に一家の命運を賭けるのは、相当、分の悪いギャンブルです。
そもそも頼朝が助かったのは、池禅尼や上西門院などの助命嘆願が叶った、例外中の例外と言える。
流罪が事実上の最高刑罰であり、そんな状況にある者と娘を縁付かせても、全くメリットがありません。
子供ができたと言っても、血が繋がっていく限り、平家にバレたら洒落にもならない。
「罪人との血を残すなど言語道断! いずれ平家に害をなすに違いない! 頼朝と政子の間に生まれた子供は処刑! 時政も監督不行き届きで断罪!」
なんて判断されたら、頼朝も北条も潰されて終わりでしょう。
ただし運の良いことに、このことは平家には知られなかったようで、時政に訴追が及ぶことはありませんでした。
八重の子供が男児で、政子に生まれた子供が娘だったことも幸いしたのかもしれません。
ちなみに政子は当時20歳を過ぎていて晩婚の類です。頼朝も政子より10歳上で、これまたいい歳でした。
二人がいろいろと盛り上がったのは、スリリングな要因が重なったためかもしれませんね。
そして治承四年(1180年)、ついにその頼朝が動きます。
以仁王(後白河天皇の第三皇子)の令旨が飛ばされ、8月に挙兵したのです。
石橋山の戦い
頼朝が治承四年(1180年)に挙兵したとき、北条時政は何歳だったのか?
北条一家全体の年齢を確認しておきますと……。
時政 43歳
宗時 不明
政子 24歳
義時 18歳
時房 6歳
義時の兄で当時の嫡男・宗時は生年不明ですが、当然義時よりは上でしょう。
また、時政には政子の他にも娘がいて、彼女らの年齢も不明となっています。
これに対し、源平の代表者たちは何歳だったのか?
源頼朝 34歳
平清盛 63歳
清盛は、このころまだ壮健だったものの、当時の寿命を考えればいつポックリ逝ってもおかしくありません。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
頼朝にとっては「(倒すためには)もう後がない!」ワケで、実際、頼朝が討つ前に清盛は病死してしまいました。
そのため、死後に頼朝から講和を申し出たこともあったのですが、清盛が「我が墓前に頼朝の首を供えよ」と遺言したことや、後を継いだ平宗盛の意地などもあって、講和は破談となっています。
挙兵に話を戻しましょう。
治承四年(1180年)5月、以仁王の令旨をうけた頼朝は、時政らと共に挙兵の計画を練ると、同年8月、まずは山木兼隆を討って門出の血祭りとしました。
時政にとっては、かつて娘婿候補だった相手ですので、少々複雑な心境だったかもしれません。
しかし、そんな悠長なことを言ってる場合でもなくなります。
源頼朝や北条時政らは直後【石橋山での戦い】に敗れ、軍は散り散りになってしまうのです。時政は頼朝と別れ、別々に海路で安房へ向かいました。
その後、無事に頼朝と合流。
時政は義時を連れて、甲斐源氏の下へ援軍を求める使者になりました。
そして10月、武田信義を中心とした甲斐・信濃の軍と共に駿河国黄瀬川(静岡県沼津市)で頼朝らと合流。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き
時政が前線に立ったのはここまでで、以降、治承・寿永の乱(源平合戦)の間は鎌倉で頼朝の補佐を務めています。
政子の父という超重要な立場であるにも関わらず、時政に武将としてのイメージがあまり強くないのはこのためかもしれません。
なお、義時は源範頼とともに西国へ渡っています。
文治の勅許
ここからしばらく時政は“地味”な期間に入ります。
文治元年(1185年)10月、源義経に対し、源頼朝から追討の宣旨が下り、兄弟の対立が決定的なものになりました。

源義経/wikipediaより引用
頼朝や多くの武将が義経の追捕でてんやわんやしている間、時政は京都で治安維持などの仕事をしています。
厳密に言うと、時政も当初は義経追討のために上方へ行ったのですが、
「どうも、義経は京都周辺から逃げたらしい」
という情報が入り、追討よりも治安維持の役割に比重が置かれたのでした。
京では、義経寄りだった院の近臣を処分したり、兵糧米の徴収を認めさせたり、派手ではないものの重要な仕事を果たしています。
既に大番役で上洛したことがあったためか、頼朝の舅だからか、それとも吾妻鏡のヨイショなのか、
「後白河法皇も時政を頼りにしていた」
とされるほどです。
腹黒さはともかく、時政が能吏に分類されることは間違いありませんので、かえって判断が難しいところです。
また、この時期に時政の奏請によって”文治の勅許”がくだされたとされています。
守護・地頭の設置ですね。
頼朝のブレーンの一人・大江広元が以下のように発案したのが始まりだとされています。
「諸国は未だ治まっておらず、その度に鎮圧軍を差し向けるのは費用がかかりすぎます。朝廷の許可を受けた上で、各地に武士を駐在させられる仕組みを作るのがよろしいでしょう」
※ただし守護・地頭の発案者や経緯については諸説あります
時政は法皇からの覚えもめでたかったようで、文治二年(1186年)の初めには、七カ国の地頭職を与えられました。
現代では、地頭というと鎌倉幕府の役職というイメージが強いですが、これは元々朝廷の役職。
ですので、法皇から朝臣に地頭職が与えられるということは、不自然ではありません。
しかし、多くの御家人が法皇から直接任官されると、頼朝の怒りを買うのは避けられない。
そもそも、大目玉を食らった義経を追討するため、時政は上方へやってきたのですから、「法皇に気に入られるのはいいんだけど、任官を受けっぱなしにしておくと頼朝様が恐ろしい」ことは充分理解していたと思われます。
なんせ時政は文治二年の3月、七カ国の地頭をあっさり辞退しています。
その後は甥の時定や、頼朝の妹婿・一条能保に上方のことを任せ、時政本人は鎌倉へ戻りました。
曾我兄弟の仇討ち
鎌倉に戻った後、時政は自分の地元である伊豆や、駿河の守護を任されています。
頼朝の機嫌を損ねずに済んだ、ということでしょう。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
鎌倉幕府として最大の攻撃となった奥州藤原氏征伐に際しては、願成就院を建立して戦勝祈願を実施。
従軍はしていますが、戦功は伝わっていません。
立場や年齢を考えると、直接の戦功は無くても仕方ないですね。
娘は将軍の妻であるし、もはや不動のポジション……と言いたいところですが、程なくしてピンチが訪れます。
建久四年(1193年)5月、頼朝が富士野で狩りを行ったときのことでした。
伊豆・駿河の守護であった時政は、猟場の整備を命じられたのですが、この狩の最中にかの有名な【曾我兄弟の仇討ち】が起きてしまい、時政も一枚噛んでいるのでは?と疑われしまうのです。

曾我兄弟(左が兄の曾我祐成で、右が弟の曾我時致)/wikipediaより引用
一時期は情報が混乱し、鎌倉には「頼朝が暗殺された」という誤報が届くほどで、さすがの政子も混乱。
このとき源範頼が「私がいますので、源氏は安泰ですよ」と言われて、政子は疑心暗鬼の妄執に囚われてしまいます。
「コイツ、頼朝様が亡くなられたのをいいことに、自分が将軍になろうとしているのでは!」
と考えたのです。
仮に時政が曾我兄弟の仇討ちに噛んでいて、頼朝の暗殺を狙っていたと仮定すると、範頼とも繋がっていなければ辻褄が合いません。
確かに、源氏の中で頼朝の次に年長である範頼は神輿に担ぐこともできるかもしれませんが、その場合、政子にも計画を打ち明けていなければおかしなことでしょう。
ゆえに冷静に考えれば、範頼の謀反はあり得ない。
しかし、頼朝が無事だったため、この件をきっかけに範頼は失脚へ追い込まれます。
後々、時政や北条氏が敵を排除する際は、徹底的に相手を追い詰めています。
曾我兄弟の仇討ちはあまりに突然すぎて、やはり時政は関係ないのではないでしょうか。
また、頼朝存命中の時政・義時父子は、幕府の要職である【政所】や【侍所】などに就任していたわけではありません。
おそらく
・伊豆や駿河の御家人をガッチリ押さえ
・鎌倉から見て上方方面かつ直近エリアを治める
というのが、この時期の北条氏が担っていた役割だったと思われます。
婚姻関係の強化
時政は、己のポジションを強固なものとするためか。
次々に、源氏一門や有力御家人と婚姻関係を結んでいきました。
【源氏一門】
阿野全成(頼朝の弟)
平賀朝雅
足利義兼
【有力御家人】
畠山重忠
稲毛重成
といった武士たちに娘を嫁がせています。
また、時政の息子・北条時房は、頼朝の側近である足立遠元の娘を妻にしています。

和田義盛への使いに向かう北条時房の図/国立国会図書館蔵
鎌倉近隣だけでなく、関東各地の人々と北条氏が縁付いていったんですね。
遠交近攻と言うか、このあたりから時政の陰謀家のような面が漂ってきます。
また、後妻・牧の方が京都に縁があったのも利用したのでしょう。
公家との縁戚関係もあり、例えば坊門信清の息子に時政の娘が嫁いでいることが興味深いところです。
信清は、後に三代将軍・源実朝の舅(妻の父)になる人でもあります。
時系列が前後しますが、実朝時代の時政は、実朝の祖父であり縁戚という、非常に濃い繋がりになるわけです。
頼朝の死後 一気に表舞台へ
頼朝が落馬してから亡くなるまでの間は、他の御家人たちと同様、あまり動いていません。
そこからは、自分の孫である二代将軍・源頼家や源実朝の背後で睨みを利かせていくのです。
と、ここで少し、源頼家と源実朝兄弟の育った環境を比較してみましょう。

源頼家/wikipediaより引用
頼家は比企邸で生まれ、頼朝の大恩人・比企尼の縁者に囲まれて育ちました。
一方、実朝は北条邸で、政子をはじめとした北条氏のもとで育っています。
頼家が比企氏の影響を受けすぎていると見て、実朝を北条氏に近い場所で育てさせたのかもしれません。

源実朝/Wikipediaより引用
この兄弟は年齢が10歳離れているため、その10年の間に「子育ての方針を変えよう」と思うような空気が醸成されていたとしても、自然なことです。
では、頼家時代の時政はどんな動きをしていたか?
この時期を一言で言うと「一気に偉くなりすぎ期間」と言えます。
前述の通り、頼朝存命中の時政は、朝廷では無位無官、かつ幕府の中でも役職には就いていない状態でした。
しかし、頼家が将軍を継いで数カ月後に【十三人の合議制】入りを果たしてから、一気に政治の場面に登場する回数が増えてきます。
その象徴ともいえるのが、頼家時代になってから、時政が正月の椀飯(おうばん)を献じるようになったことでしょう。
実は「大盤振る舞い」の語源ともなった風習で、家臣が主人へ節句などのごちそうを献上するものでした。
現代での大盤振る舞いは、主人が客にごちそうを振る舞うことですが、椀飯は逆なんですね。
特に、元旦の椀飯は重視されていましたので、頼家の時代になってから時政がそれを務めるようになったということは、
「頼家様の家臣筆頭は時政!」
というアピールになるわけです。
ちなみに、頼朝の頃は千葉常胤や三浦義澄が元旦・2日に椀飯を献じていました。
彼らはそのまま繰り下がったような順番になっています。
これはおそらく、頼朝と頼家がそれぞれ時政を違う立場として扱っていたからでしょう。
頼朝は、舅である時政を儀式の場において”家臣”として扱っていなかったのではないでしょうか。
一方、頼家は、祖父をあくまで家臣として扱いつつ、元旦の椀飯を任せることで面子を保たせようとしたのではないか……というわけです。
正解はわかりませんが。
ちなみに、正月三が日の椀飯は、北条泰時の時代に北条一門がすべて務めることになります。
おおざっぱにいうと、正月の椀飯回数と北条氏の権力の強まりは、比例関係にあると考えていいでしょう。
比企氏の権力弱体化をどう進めるか
さすがにここまで来ると、比企氏との対立が深まっていきます。
ただし、簡単には手を出せません。
この頃の鎌倉幕府は、頼朝の急死から慌ただしく頼家への継承が行われ、梶原景時などの排除もあって、ようやく運営が安定してきた時期です。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
いきなりドンパチを仕掛けては、先に手を出したほうが不利になる。
そこで時政は、しばらくの間好機を待ちました。
幸か不幸か、そのチャンスはさほど時を置かずにやってきます。
建仁三年(1203年)8月、源頼家が重病にかかってしまったのです。
それがどんな病気だったのか?
吾妻鏡の記述からではなかなか判断が難しいのですが……高熱が出て、意識を失うことが多かったということは確かなようです。
周囲の人々が同じような病状になっている気配がないことから、伝染病の類ではないでしょう。
いずれにせよ時政にとっては千載一遇の好機。
これを機に、比企氏の権力を弱めようと考えます。

比企能員の邸跡地に建てられた妙本寺(能員の息子・能本が日蓮に献上して開山)
といっても、いきなり全ての力を奪ってしまえば、武力衝突になるのは必至ですから、時政としては、相手を怒らせ先に手を出させ、それを「将軍に仇成す不届き者」として、他の御家人たちと共に討ちたいところです。
そこで、こんな方針を打ち出しました。
「頼家様のご容態が思わしくないので、もしもの事を考えておかねばならない。
本来ならば嫡子の一幡様が相続するのが筋だが、まだ幼いので、まずは関東二十八ヵ国の地頭職を相続してはどうか。
西国三十八ヵ国の地頭職については、もう少し年長で弟君の千幡様に継いでいただこう」
千幡とは、後の実朝のこと。
一幡は数え6歳で、千幡は同じく数えで11歳でした。一幡はさすがに早すぎますが、千幡のほうは元服させてもおかしくない年です。
そこで時政には、
「千幡に一旦すべてを相続させて、一幡が成長次第、権力を返させてはどうか」
という提案をするルートもありました。
敢えてそうしなかったのか、一応は比企氏の顔を立てようとしたのか、はたまた他の思惑があったのか。判断が難しいところです。
比企能員の変
この提案に対する比企氏の反応は、ある意味で時政の予想以上だったでしょう。
一幡の母・若狭局を筆頭に、
「分割相続などとんでもない! 一幡が全て相続するべきです!!」
とゴネまくって、さらに意識が戻った頼家にこのことを知らせました。
頼家も頼家で、母の実家にはあまり良い印象を抱いていませんから、こちらも大激怒。
「時政を討て!!」
比企氏にそんな許可を与えてしまいます。ところが、です。これを隣室で政子が聞いていたものですから、さぁ大変。

北条政子(江戸時代・菊池容斎画)/Wikipediaより引用
政子は時政に知らせました。
時政は、何も知らないフリをしつつ、仏事にかこつけて比企氏の当主・能員を自邸へ呼び寄せました。
能員もアヤシイとは思いつつ、仏事と言われれば物々しく構えていくこともできません。
そこで疑いをかけられないよう、特に武装せず平服で時政邸へ向かったのですが……時政からするとしてやったりだったでしょう。
剛の者を配して待ち伏せ、あれよあれよと言う間に比企能員を討ち取ってしまうのです。
命からがら逃げ延びた能員の従者が、事のあらましを比企氏の邸に知らせると、一族は立てこもって徹底抗戦を選びます。
対して、政子がこう呼びかけたとされます。
「比企氏は将軍に逆らう不届き者!!」
結果、有力御家人は政子方につき、追い詰められた比企能員は一幡とともに滅びました。
残った頼家は、政子に諭されていやいやながらも鎌倉から修善寺に移って引退。
時政からすると、最高に近い状況になったわけです。
しかし、時政の誤算がひとつ出てきます。
直後、元服を慌ただしく済ませた実朝が将軍職を継ぎましたが、彼は時政が思っていたほど”お飾り”になるタイプではなかったのです。
政所別当の座につき権力をガッチリ
源実朝は、将軍に就いた直後から、父である頼朝の事績などについて積極的に学び、周囲にもこれをよく知っておくよう働きかけていました。
また、自分の妻を選ぶにも、政子が御家人の娘から選ぶよう勧めたのを断り、公家の姫を迎えたいと自己主張しています。
これらに対して、時政が反対・賛成したというような記録はありません。
既に政子と北条義時、そして大江広元などの幕閣と呼べる人々が実朝をバックアップする体制が出来上がっていたため、時政が意見をねじ込める状態ではなかったのかもしれませんね。
政子や義時にしても、実朝を頭から押さえつけようとしたフシはなさそうです。
「この子は頼家よりは将軍に向いていそうだから、少し思うままにやらせてみよう」ということで、姉弟の合意があったのかもしれません。
これは正直な話、記録に残りづらい範囲のことであり、想像の域を出ません。
しかし、実朝が政策などについて自己主張をしたときに、母や叔父と大きく対立したという記述がみられないことからすると、大きく外れてはいないのではないでしょうか。
といっても、時政は実朝の時代になってから政所別当の座についたり、諸国の御家人の領地を安堵する文書を発行したり、押さえるべきところはガッチリ押さえています。
元久元年(1204年)、息子の義時が従五位下・相模守に就任。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵
翌年には、その弟・北条時房が従五位下・遠江守に叙任され、北条氏の立場が一段と強くなっていきます。
時政や政子の力もさることながら、北条氏全体が幕府の顔といっても過言ではない状態になったのです。
そんな時政の運が傾いてきたのは、晩年期に入ってからでした。
同時期は「後妻の実家に流されすぎ」あるいは「子供たちの言うことを聞かなさすぎ」といえます。
時政最初の妻(=政子や義時を産んだ女性)もまた伊東祐親の娘でした。
詳細な残ってないため、なんとも判断がつきかねるのですが、早いうちに死別していたようです。
そして後妻として娶ったのが、”牧の方”と呼ばれる女性です。
牧の方は、実は平清盛の継母である池禅尼の姪にあたります。その縁から具体的にどうこう……ということはなかったようですけれども。
彼女の生年についてはよくわかっていません。
時政が保延4年(1138年)生まれとされており、愚管抄には「時政が若い妻を娶った」と書かれていることから、おそらく牧の方との年齢差は10歳以上あったでしょう。
ドラマ鎌倉殿の13人と同じ設定ですね。
となると、牧の方の生年は1148年以降だとみるのが妥当かと思われますが、当時の社会通念からすると、もっと離れていたとしても珍しくはありません。
時政と牧の方の仲は良かったそうですが、牧の方と継子である政子や義時たちとは微妙だったようで……。
畠山重忠の乱
なんとなく悪い空気が漂う中、元久年間に事件が起きます。
この頃、牧の方の娘婿・平賀朝雅が京都警備のために上洛していました。
朝雅は後鳥羽上皇の覚えもめでたく、御所にも出入りしていたといいます。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
そして元久元年に伊賀で平家の残党が兵を挙げると、上皇は朝雅に追討を命じました。
首尾よく終わり、上皇から朝雅に伊賀が与えられ、代わりにそれまでの伊賀守護・山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)はクビにされました。
朝雅はこれで強気になったのでしょうか。
討伐に行かなかった御家人の所領を勝手に没収したり、上皇から右衛門佐の官職をもらったり、目に余る行動を始めます。
そしてこの朝雅、デカイ事件を起こします。
幕府草創期からの功臣・畠山重忠の息子である畠山重保と口論し、不満を抱いて牧の方に讒言したのです。
牧の方は、さらに時政に向かって「重忠・重保父子は、幕府に叛乱を企てているのです!」と讒言。
時政は、これを真に受けたのか、重忠を邪魔だと思っていたのか、真意は不明ながら息子たちに重忠討伐を命じるのです。
北条義時や北条時房はビックリ仰天。
重忠は日頃の言動にも問題がなく、むしろ人望が厚いタイプでした。
息子の口論程度の理由で討つなどということとは、縁が遠いどころか全く無い人なのです。
当然ながら義時や時房は時政を諌めます。
しかし、牧の方やその兄から「お前は継母の言うことは聞けないというのか」となじられ、やむなく討伐に参加した……とされています。
かくして畠山重忠は鎌倉に呼び出され、その道中で討たれることになりました(畠山重忠の乱)。

畠山重忠(月岡芳年画『芳年武者无類』)/wikipediaより引用
なお、事件の一年以上前に「時政が重忠に討たれた」という出どころ不明の噂が京都で流れていたようです。
つまり、その頃の京都でも
”時政・朝雅と重忠の関係が良くないらしい”
という認識があったということになります。
牧氏事件からの死
北条氏の人々が常人であれば、ここで家が真っ二つに割れ、それぞれに御家人がついて幕府の存続すら危うくなったかもしれません。
しかし、さすがに北条政子や北条義時は違いました。
時政が牧の方とともに、実朝を廃して朝雅を将軍に担ぎ上げようとすると、彼らは一致団結して逆に時政を排除したのです。
命まで取らなかったのは、せめてもの情けでしょうか。
この騒動は【牧氏事件】とか【牧氏の変】あるいは【平賀朝雅の乱】と呼ばれ、時政は出家して、地元の伊豆北条に戻りました。
その後はおとなしく仏門に帰依していたものか、吾妻鏡に全く登場しなくなります。
そして建保三年(1215年)1月6日、北条時政は腫れ物が原因で亡くなりました。
牧の方は、時政の隠遁について行ったとされていますが、その後は娘の嫁ぎ先である京都に行っていたようです。
安貞元年(1227年)1月に、京都で時政の十三年忌供養が行われたという記録があります。
★
時政を切り捨てたおかげで、北条氏は鎌倉幕府における権力を保持、そして拡大できたと見ることもできます。
もしも時政が、政子と義時を処分したり、あるいは政子と義時が対応を変えていったら、その後の鎌倉幕府はかなり違った姿になっていたでしょう。
北条時政が源頼朝に賭けた度胸。
親を切り捨てて家を取った北条政子と北条義時。
根底にある芯の強さや度胸、勝負運をみると、よく似た親子だったのかもしれません。
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【参考】
国史大辞典
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(→amazon)
日本史史料研究会『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon)
上横手雅敬『鎌倉時代-その光と影』(→amazon)
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)





