畠山重忠

畠山重忠を描いた月岡芳年画『芳年武者无類』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

鎌倉武士たちの憧れだった畠山重忠|時政と牧の方にハメられ悲劇の最期

2025/06/22

世の中には「何でもデキて人柄もいい」という、非の打ち所がない人が存在します。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台ですと、畠山重忠がまさにこのタイプ。

武勇を誇っても決して脳筋ではなく、人心を理解して温情厚く振る舞うこともできる。

それゆえ、当初は敵対していた源頼朝にも重用され、多くの御家人たちから支持されますが、最期は身内にムチャな言いがかりをつけられ、非業の死を迎えてしまいます。

それが元久2年(1205年)6月22日のこと。

一体何がどうしてそんな不幸な目に遭ったのか?

イチャモンをつけた身内とは誰のことなのか?

畠山重忠の生涯を振り返ってみましょう。

坂東武士の鑑と称された畠山重忠(月岡芳年画「芳年武者无類」/wikipediaより引用)

 


畠山重忠 母方は三浦一族

畠山重忠は、相模の武士ではなく、武蔵国が本拠地です。

少し細かく言いますと、男衾郡畠山荘(おぶすまごおりはたけやまのしょう)という土地で、現在の埼玉県深谷市畠山。

父は畠山重能(しげよし)、母が三浦義明の娘で、長寛二年(1164年)生まれとなります。

この三浦義明というのが、関東では有力武家の“血筋元締め”みたいな存在でして、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、かなり有力どころの子と孫がいました。

【子】三浦義澄

【孫】和田義盛・三浦義村・畠山重忠

彼らの関係をもう少し詳しくまとめたのが、以下の系図です(一部省略)。

この表ですと、畠山重忠(ドラマでは中川大志さん)と、三浦義村(山本耕史さん)、さらには和田義盛(横田栄司さん)が従兄弟関係であると一目瞭然ですね。

つまり重忠は、武蔵国の有力者である父からの基盤がある上に、母方も有力者という、生まれも育ちもほぼ完璧な状態でした。

前述の通り長寛二年(1164年)生まれですから、長寛元年(1163年)生誕のドラマ主人公・北条義時よりは1歳下。

この時点での世間的な立場は、重忠のほうが上だったでしょう。

しかし、他の坂東武者たち同様、治承四年(1180年)8月の頼朝挙兵から、重忠の運命もにわかに変わっていきます。

 


衣笠城合戦

治承四年(1180年)8月、源頼朝が挙兵。

当時の畠山氏当主は父の畠山重能でした。

しかし重能は、大番役のため京都に滞在しており、地元で指揮を執ることができず、まだ10代の畠山重忠が家中をまとめ、出陣することになります。

この時点での畠山氏は平家方でしたので、敵対関係にあった源頼朝を追討する側でした。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

【石橋山の戦い】は、畠山軍が到着する前に終了。

その途上、同じく合戦に間に合わず、引き返そうとしていた三浦軍と遭遇してしまいます。

前述の通り、三浦軍の義澄・義村父子と重忠は伯父・従兄弟の関係ですので、互いに弓を引くより穏便に済ませようという話になりました。しかし……。

連絡の不備もあって、両軍が激突!

双方痛み分けで終わり、消耗の度合いは三浦軍のほうが重かったようです。

翌日、畠山重忠は河越重頼らと合流し、三浦氏の本拠・衣笠城に攻めかかりました。

そして、母方の祖父でもある三浦義明を自害に追い込みます(衣笠城合戦)。

三浦義明と三浦義澄(勝川春亭画)/wikipediaより引用

義明は「自ら城を枕に討ち死にすることを選び、時間を稼いでいる間に一門を逃した」ともいわれていますね。

一方で「老齢で足手まといだから置いていかれた」なんて切ない見方もあるようですが、いずれにせよ孫・重忠の武勇については誇らしい気持ちもあったのではないでしょうか。

 

頼朝に従軍し 時政の娘を娶る

伊豆で大庭景親伊東祐親との戦いに敗れた頼朝は、海路で房総半島に向かいました。

三浦一門や北条氏も続いて渡海。

そこで千葉の有力武将・上総広常をはじめとした坂東武者を味方につけ、今度は源氏ゆかりの地・鎌倉入りを目指します。

千葉常胤(左・国立国会図書館蔵)と上総広常(wikipediaより引用)

畠山重忠は、頼朝が武蔵に入ったところで敵対ではなく服属を選び、相模に入るあたりでは先陣を務めたとされています。

河越重頼や江戸重長など。

平家方だった武士の多くがこのタイミングで源氏へ鞍替えしていますので、その流れに従ったのかもしれません。

この頃から、鎌倉での出来事に重忠の名が登場し始め、また、北条時政の娘を妻に迎えることになりました。

彼女との間には息子の畠山重保が生まれており、後の悲劇的な最期へ繋がることになります。

詳細は後述しますが、北条時政が牧の方(ドラマではりく・宮沢りえさん)に影響されていた感は否めません。

なお重忠は、時政の娘以前に、足立遠元の娘を娶っていて、息子の畠山重秀をもうけていたようですが、異母兄弟間の逸話は特にないようです。

「重忠は、側にいる者が足を崩せないほど真面目な人だった」という話があるくらいですので、家中の統率や兄弟の序列も厳しく言いつけていたのかもしれません。

 


鵯越で馬を背負い 巴御前と一騎打ち

源頼朝に従軍し、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍し始めた畠山重忠。

木曽義仲の討伐や宇治川の戦い、一ノ谷の戦いなどで、たびたび重忠の名が登場します。

木曽義仲/wikipediaより引用

義仲討伐の最中には、こんなエピソードも残されています。

・宇治川を渡る途中で馬を流された大串重親を対岸に放り投げ、そのおかげで重親が徒立ちの一番乗りになった……が、他力本願だったので敵味方ともに嘲笑した

・源義経らと共に後白河法皇へ御簾越しに拝謁した

・三条河原で巴御前と一騎打ちをした

巴御前は秋元才加さんが演じられ、青木崇高さん演じる夫(木曽義仲)と共に、薙刀の稽古をしている場面がドラマでも流されていましたね。

劇中で、畠山重忠vs巴御前の一戦を見たかったですなぁ。

ただし、一ノ谷の戦いでの“エピソード”については誰がやったとて再現は難しいでしょう。

義経らが急坂を馬で下って平家軍を混乱させた【鵯越の逆落とし】において、重忠は

馬を背負って駆け下りた

なんて逸話があるんですね。

鵯越えで馬を背負う畠山重忠/wikipediaより引用

「大事な馬に怪我させられない」とのことでしたが、現在のポニーでも約200kgの馬体重がありますので、現実的に抱えて坂を降りるのは不可能。

あくまで重忠の怪力っぷりが誇張されたのでしょう。

なお、日本馬は小さくて戦場では使えない――なんて指摘もあったりしますが、実際は甲冑武者を載せたまま、かなりの速度で走ることが可能です。

戦場でも大いに戦力になったに違いなく、以下に参考動画を付けておきますので、よろしければご参照ください。

 

武だけではない芸術の素養

畠山重忠が、他の坂東武者と大きく異なっていたのは「芸術の素養」も持ち合わせていたことでしょう。

源義経が兄の源頼朝と決裂し、愛妾の静御前が鎌倉へ連れてこられたときのことです。

文治二年(1186年)4月、静御前が鶴岡八幡宮の廻廊で舞を披露するのですが、このとき重忠は「銅拍子(どびょうし)」という楽器で伴奏の一手となりました。

静御前の舞を描いた錦絵・確かに畠山重忠も演奏しているがこのときの楽器は笛/国立国会図書館蔵

なぜ彼が楽器を扱えるのか?

詳細は不明ですが、この時代の坂東武者としてはかなり珍しいタイプであり、頼朝が見る目も違っていたはず。

頭脳の働きが際立つ梶原景時が鎌倉武士から嫌われる一方、逆に重忠が支持を得ていたのは、器用な一面はあってもあくまで「武」が中心だったからかもしれません。

もちろん重忠のように非の打ち所がない武士であっても、時代の過渡期ですから、順風満帆とはいきません。

土地や権利などを巡る問題は、たびたび見舞われました。

そのうちひとつが、彼の性分や御家人同士の関係をよく表しています。

時は文治三年(1187年)。平家が滅び、まだ鎌倉幕府ができたばかりの頃です。

このとき地頭を務めていた伊勢国沼田御厨で、代官が狼藉を働き、その責任を重忠が負うことになりました。

重忠は千葉胤正のもとに預けられました。

こういった処罰のやり方は度々ありましたが、いわば生き恥とも言える刑罰であり、誇り高き重忠は絶食して自ら命を断とうとします。

報告を受けた頼朝は、重忠の才覚を惜しんで赦免を決定。

これにて一件落着かと思われたところで、再び梶原景時が出てきます。

重忠が一族とともに地元・武蔵へ戻ったことを「謀反の疑いあり」と勘違いし、それを頼朝へ報告してしまったのです。

 

私は起請文を出す必要はない!

源頼朝は、御家人たちを集めて意見を募りました。

すると小山朝政が重忠を弁護し、他の者もそれに同意。

おそらく頼朝もそのように考えていたのでしょう。

すぐには兵を動かさず、小山市の一門でもある下河辺行平が、畠山重忠への使者に立ちました。

しかし重忠のような武士にとっては「謀反を疑われた」という時点で不名誉なことです。

怒り悲しんで自害しようとしていたところを行平がどうにか止め、「ここで自害するより、鎌倉できちんと申し開きをしたほうが良いでしょう」と説得したため、重忠は思い直して鎌倉へやってきました。

不思議なのは、ここで取調べをしたのが梶原景時だったこと。

梶原景時/国立国会図書館蔵

そもそも重忠を謀反疑惑を頼朝に訴えた人物ですから、重忠の態度も頑なになってしまいます。

景時は、重忠にこう告げました。

「異心がないのならば起請文を差し出されよ」

「自分には他意がなく、言葉と心に相違がないから、起請文を出す必要はない!」

こうなると完全に平行線。

景時も、これ以上のゴリ押しは得策ではないと考えたのか、その場では多くを語らず、頼朝へ報告しました。

すると、頼朝は何も言わずに重忠と行平を呼び、褒美を与えて許したといいます。

行平も共に呼んだのは「よく重忠を説き伏せて連れてきた」というような判断を示すためでしょうか。

なんとなくモヤモヤしたものは残りながら、一応この騒動は収まります。

 

景時と重忠の取り調べ

藤原泰衡と奥州藤原氏を討つ――文治五年(1189年)夏の奥州合戦で畠山重忠は、先陣を申し付けられました。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用

そして迎えた【阿津賀志山の戦い】で、三浦義村や葛西清重らが抜け駆けをしようとします。

当然これは褒められたものではありませんから、重忠の郎党が見咎めて報告したところ、重忠は全く焦った様子なく答えます。

「正式に先陣を仰せつかったのは自分だから、功績は我が隊のものになる」

こうした理想の上司的な振る舞いが、御家人たちの支持を集める要因かもしれませんね。

同じく奥州の戦では、再び景時との逸話があります。

奥州藤原氏の当主だった藤原泰衡の家来・由利維平の取り調べをしたときのことです。

当初、彼の取り調べにあたったのは景時でした。

しかしここでも景時が”お役所仕事”という感じの対応をしたため、維平を怒らせてしまい、ろくな証言が出てきません。

頼朝にその報告が行くと、今度は重忠が取り調べをするよう命じられます。

「勝敗は時の運というもので、貴公が敗軍の将として今ここにいるのは少しも恥ではない」

重忠は、八郎のプライドを重んじた態度で接し、話を進めると、気を許したのか、維平も答えます。

「先程の男とは雲泥の違いだ」

そうして取り調べに応じたのだそうです。

この件では重忠と景時が直接ぶつかったわけではありませんが、互いに嫌な印象は残ったでしょう。

 

ちょっとした口論が謀反という讒言へ

その後の畠山重忠も、やはり厚い信頼を得ていたことがわかる行動が記録されています。

源頼朝が上洛する際の先陣を務めたり、在京中の護衛を務めたり。

建久10年(1199年)1月13日に頼朝が亡くなり、源頼家の時代になると、重忠は北条氏に若干近づきます。

源頼家/wikipediaより引用

北条氏と比企氏がぶつかった建仁三年(1203年)【比企能員の変】では、北条氏の命を受けた多くの御家人同様に討手となり、比企氏を滅ぼしました。

十三人の合議制に、重忠の名がないのは不思議かもしれません。

13人のメンバーは、彼よりも年長、かつ広い土地を持っている御家人が選ばれたためであり、軽んじられたわけではないのでしょう。

同じく三浦義村も13人に入っていません(北条義時は入っていますが頼朝との関係の深さからでしょう)。

北条時政や義時との関係も悪くなかったと思われます。

しかし元久元年(1204年)11月、思わぬところからトラブルが降りかかります。

この頃、三代将軍・源実朝の正室を公家から迎えるため、何人かの御家人が京都で諸々の交渉にあたっていました。

そして坊門家との縁談がまとまり、いよいよ輿入れ準備……というところで、それは起きました。

上洛していた重忠の息子・畠山重保と、北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅との間で、ちょっとした口喧嘩が起きてしまったのです。

周囲の執り成しもあり、その場は口論だけで済んだのですが……朝雅がこれを牧の方へ告げ口し、彼女が憤慨したことから話がこじれてきます。

牧の方は時政に

「重忠が謀反を企んでいるに違いありません。先手を打たなければ!」

と讒言し、兵を動かすよう勧めたのです。

平賀朝雅は、新羅三郎義光(源義光)に繋がる源氏一門の血筋です。

源義光像(摂津国寿命寺蔵)/wikipediaより引用

時政と牧の方の娘を正室としていて、それを言うなら畠山重忠の妻も時政の娘でした。

時政にとっては同じ婿なんですね。

それでも牧の方を優先するほど、彼女に入れ込んでいたのでしょう(まさにドラマでもそんな風に描かれましたね)。

 

愛甲季隆の矢に当たり

元久二年(1205年)6月。

地元に戻っていた畠山重忠に急な報せが届きました。

「大変なことが起きたので、急いで鎌倉まで来てほしい」

事情を知らない重忠は、僅かな兵を率いて地元を出立。

しかし、二俣川で幕府の討手と遭遇し、事の経緯を悟って最期まで抵抗します。

そして愛甲季隆の射た矢にあたって討ちとられ……。

享年42。

なんとも後味悪い最期ですが、朝廷に近い慈円が記した『愚管抄』でも、鎌倉幕府の公的な記録である『吾妻鏡』でも、重忠の評価は非常に高くなっています。

前述したように、伝説や物語での登場も多い人物です。

おそらく「謹厳実直」「質素」といった”鎌倉武士”のイメージは重忠からきているのでしょう。

また北条義時とも仲がよく、義時が父の北条時政から重忠討伐の命令を受けたとき、大いに反対。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)

結局、義時は、牧の方に押し切られ、不運にも重忠は討たれ、その首を前にして義時が大いに嘆いたと言います。

この牧の方は、北条に何かと災いをもたらすような行動もあり、時政と彼女の最期については、以下の記事で詳細を御覧ください。


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【参考】
国国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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