大河ドラマ『豊臣兄弟』の第12回放送で竹中半兵衛と会話をしていた外国人を覚えているだろうか?
宣教師のルイス・フロイス――。
彼こそ戦国時代に来日したキリスト教宣教師の中で、最も多くの記録を残したポルトガル人宣教師であり、織田信長や豊臣秀吉をはじめとした大名についても言及している。
そこでは一体誰がどんな風に評価されたのか?
今回は織田信長についてのルイス・フロイス評を見てみよう。

信長は長身痩躯で髭が少ない
フロイスによる最も有名な織田信長評は、1569年の書簡に記されたものである。
「華奢な体格で髭は少なく、声がよく通った」という身体的特徴から、思索の傾向、周辺の人々に対して厳格かつ尊大であったことなどが記されている。

織田信長/wikimedia commons
この評価は長年「当時の信長を最も正しく表している文章」として定着。
しかし同時に「信長は宗教や偶像・占いに否定的である」と記されているため、かつて信長には「無神論者であり、伝統の破壊者であった」という評価もついて回った。
実際の信長の行動はどうか?
既存の寺社や宗教を否定はしていない。
例えば、尾張の熱田神宮をはじめ、伊勢神宮や竹生島などへの参詣、あるいは石清水八幡宮や伊勢神宮の修繕に式年遷宮の復活など。
多大な貢献を果たしており、京都では頻繁に寺院で宿泊もしている。
フロイスが敬虔なキリシタンであったため、宗教に対する信長の信仰の度合いを厳しく査定していたのではなかろうか。
あるいはキリスト教以外の信仰だけに素直に認められなかったのかもしれない。
信長を表す10の特徴
以降、もう少し信長の性格などについての記述を細かく見てみよう。
・軍事訓練を好み、極度に好戦的であった
信長が37歳の頃と記しており、それが正しければ元亀元年(1570年)頃のこと。
浅井長政・朝倉義景・石山本願寺・長島一向一揆など、いわゆる「第一次信長包囲網」の真っ最中だった。
確かにこの年は浅井長政に裏切られて「姉川の戦い」が勃発しているだけでなく、その後も三好三人衆との「野田・福島の戦い」や「宇佐山城の戦い・志賀の陣」など、年がら年中、合戦だった。
それまでも美濃攻略や尾張統一など、家督を継いでからずっと戦い続けていて、その後も同様に合戦の毎日。
好戦的でないと生き残れなかったという一面もあるだろう。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
・戦術はきわめて老練だが、性格は非常に性急であり激昂する
・家臣の忠言には従わないが、畏敬されていた
思いついたら家臣の言う事など聞かずに即行動!というのは様々な場面で見られる。
例えば永禄三年(1560年)桶狭間の戦いでは「敵に発見されます!」という忠告を無視して移動し、その後、運よく今川義元にぶち当たって勝利を得た。
上洛後、足利義昭が三好三人衆に襲われた本圀寺の変でも、一報を聞いた瞬間に飛び出し、岐阜から京都まで2日間で到着。
付いてこれた家臣はわずかという状況だった。
戦場で前へ出て鉄砲で撃たれ、脚をケガしたこともあるほどだ(以下はその参照記事)。
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天王寺砦の戦いで信長撃たれる!雑賀衆の怖さ|信長公記136~137話
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他にも非常に興味深いことが以下のように記されている。
・侮辱されたら懲罰せずにはいられないが人情味や慈愛も持ち合わせていた
・酒は飲まず食も節制している
・睡眠時間は極端に短い
・だらだらした前置きを嫌う
・低い身分の家臣とも親しく話をする
・身分関係なく相撲を取らせるのも好き
・憂鬱な面影もある
豊臣秀吉の凄まじい出世などを見てもわかるように、フロイスから見ても信長は「身分は関係ない」というスタイルだった。
非常に好ましい一面であるが、同時に「だらだらした前置き」を嫌うなどは、要は「言い訳は要らんから、さっさと結果だけ出せ!」ということでもあり、部下としては非常に辛いだろう。
後に佐久間信盛や林秀貞などの宿老クラスが次々に追い出されているのを見ると、まさにその通り。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikimedia commons
ショートスリーパーのようで仕事量も半端じゃなかったのだろう。
とことん家臣としては辛くなる上司かもしれない。
「憂鬱な面影もある」というのは、なんだか人間ぽくて良いが、自分にも厳しかったからだろうか。
民衆の評価
では、市井の人々は織田信長をどう評価していたのか?
フロイスの著書『日本史』では、その点も書かれているので要点だけまとめて抽出してみよう。
・各地の勢力の中で最も恵まれていた
・最も豊かで強大であった
・関税や通行税など各種の負担を軽減してくれた寛大な人物
・信長が主君であることを人々は喜んでいた
長島一向一揆の宗徒2万人を虐殺したり、比叡山焼き討ちを強行したり、一般的に市民の間でも“恐怖”のイメージが先行しそうだが、さにあらず。
武将集団である宗徒との争いに対しては別の見方をしていたようで、民衆は信長に対し、恐怖だけでなく政策への賞賛も抱いていた。

本能寺の変後
フロイスは信長の行動を「傲慢」と評することもたびたびある。
しかし、全般的には好意をもって見ていた。
本能寺の変の後ですら「無惨で哀れな最期」と記しながらも
「極めて稀な優秀さ、大いなる賢明さをもった統治者であったことは否定できない」
と記しているのだ。
信長はキリスト教へ改宗はしていない。
しかし、好意的姿勢を貫いており、その点から高い評価になっている可能性がある。
なにしろ後に「禁教令」を敷いた豊臣秀吉については、その直後からありとあらゆる罵倒表現がなされているのである。
その差は歴然としている。
なお、フロイスについては別記事「ルイス・フロイスの生涯」を併せてご覧いただきたい。
参考文献
ルイス・フロイスほか『完訳フロイス日本史 (2(織田信長篇 2))』(2000年2月 中央公論新社)
五野井隆史『ルイス・フロイス 人物叢書 』(2020年2月 吉川弘文館)
【TOP画像】織田信長/wikimedia commons

