仙石秀久の肖像画

仙石秀久/wikimedia commons

豊臣家

仙石秀久の生涯|秀吉の下で大出世と大失態を演じた美濃出身の戦国武将

2025/05/05

慶長19年(1614年)5月6日は仙石秀久の命日です。

織田信長や豊臣秀吉のもとで武功を重ねて大名になりながら、その後、大失態を演じて追放されてしまう。

そしてその後また大名に復帰。

いくら戦国時代でも、この方ほどわかりやすい波乱万丈も他にないであろう――と、その様子が漫画『センゴク』でみっちり描かれ、戦国ファンの間でも大いに話題となりました。

決してスマートではないけれど、心を熱くさせる戦国武将と申しましょうか。

そんな漫画での描写は、一体どこまで史実に則していたのか。

仙石秀久/Wikipediaより引用

仙石秀久の生涯を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

仙石秀久 土岐氏に仕えた土豪の家に生まれ

仙石秀久は天文20年(1551年)、美濃国本巣郡中村で生まれました。現在の岐阜県本巣市付近です。

秀久の家はこの地で代々土岐氏に仕えた土豪で、父は仙石久盛。

久盛と幼少期の秀久は、土岐氏とその後釜として力を握った美濃斎藤氏に仕えていたとされます。

斎藤道三(左)とその息子・斎藤義龍/wikipediaより引用

ただし、仙石氏に関する記述は『改選仙石家譜』という信ぴょう性に疑問符の付く史料に頼らざるを得ず、以下に記す秀久の記録もそれに準じたものが多くなりますので、あらかじめご了承ください。

さて秀久といえば、やはり漫画『センゴク』が圧倒的に有名でしょう。

オツムはいささか弱いながらハートは熱く、豊臣秀吉の家臣として出世街道を駆け上がっていく。

序盤で殴り合った可児才蔵や堀秀政とは、小田原征伐でも再び協力し合ったりして、読む者の心も目頭も熱くする――。

と、非常に魅力的な内容ですが、漫画から切り離しまして、史実における秀久の幼少期から確認しておきましょう。

 


織田との戦で兄を失い家を継ぐ

前述の通り織田家に攻め落とされる前の仙石家は美濃斎藤氏に仕えており、『麒麟がくる』明智光秀のような暮らしをしていた可能性が考えられます。

ただし、仙石秀久本人は幼い時期に養子へ出されていたとされ、越前の豪族・萩原国満という人物のもとで幼少期を過ごしたようです。

彼には多くの兄がおり、本来でしたら家を継ぐ立場にありませんでした。

それがなぜ仙石家を継いだのか?

というと、当時の斎藤氏は織田氏との戦いで疲弊し、戦乱の最中、秀久の兄たちが次々と落命したからです。

秀久は急遽、本家に呼び戻され、家を継ぐ資格を得ました。

そして滅亡寸前だった主君の斎藤龍興を見限り(稲葉山城の落城時期については諸説あり)、永禄7年(1564年)には織田信長に従ったのです。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

 

秀吉の配下として共に出世を果たし

信長に仕えた仙石秀久は、すぐに豊臣秀吉の配下とされました。

秀吉が大きな出世を果たす前。

天下人など夢のまた夢という若い頃の話であり、そのころから従った秀久は最古参の秀吉家臣ということになります。

漫画では、織田信長が浅井長政に裏切られた後の【金ヶ崎の退き口(1570年4月)】で、秀吉や光秀らと共に死地から脱するシーンが、序盤の一つの盛り上がりとなりますが、史実では特に記録は残されておりません。

ただし、直後の【姉川の戦い(1570年)】で戦功を挙げ、天正2年(1574年)に近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲市)に1000石の領地を得たことから、地道に戦功を重ねていったことは間違いないでしょう。

以降、信長や秀吉が最も激しく戦った1570~1580年頃については、織田家に関連する年表からざっと推測しますと……。

織田信長(右)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

1570年4月 金ヶ崎の退き口

1570年6月 姉川の戦い

1570年8月 石山本願寺挙兵

1571年9月 比叡山焼き討ち

1572年11月 武田信玄の上洛

1572年12月 三方ヶ原の戦い

1573年7月 足利義昭を追放

1573年8~9月 浅井・朝倉を攻略

1574年1月 長浜城を居城とする

1574年9月 長島一向一揆を全滅

1575年5月 長篠の戦い

1575年8月 越前一向一揆

1576年1月 安土城の築城開始

1576年6月 第一次木津川口の戦い

1577年9月 手取川の戦い

1577年10月 松永久秀の死

1577年10月 中国攻めスタート

1578年3月 上杉謙信が急死

1578年3月 三木合戦

1578年10月 荒木村重が離反

1579年9月 第一次天正伊賀の乱

1580年4月 石山本願寺に実質的勝利

※以下は信長と秀吉のまとめ記事

御覧の通り、これぞ信長と秀吉による「ザ・戦国時代!」という感じですね。

もちろん仙石秀久が上記すべてに関わったワケではありませんが、次に見える記録は天正6年(1578年)に4000石の加増を受けていることから、秀吉と共に出向いた中国進出の頃にはかなりの武将に成長していたことが見えてきます。

そして天正8年(1580年)には淡路洲本城の城主として5万石の領地を有する大名になったと伝わります。

 

四国攻略の尖兵隊として

4千石→5万石の昇進スピードを見るに、仙石秀久がトントン拍子で出世していたのは間違いないでしょう。

ただし、この出世を裏付ける史料は『改選仙石家譜』であり、確実にそうだと言える史料はありません。

実際、天正8年時点で洲本城を有したという記述には「早すぎる」という指摘もあり、実態は少々「盛られている」と見たほうがよさそうです。

もちろん、この先も信長や秀吉は攻撃の手を緩めませんから、秀久も働き続けます。

天正9年(1581年)に秀吉は、信長の命を受けて阿波国への攻撃をスタート。

淡路ルートを経由して侵攻する【四国攻め】に取り掛かりました。

秀久は黒田官兵衛らと共に参戦し、阿波平定に貢献します。

黒田官兵衛/wikipediaより引用

そして戦後は、官兵衛と共に洲本城に置かれ、今後の対立が想定される四国勢(長宗我部元親)に対する抑えとしての役割を期待されました。

美濃の国衆出身に過ぎなかった仙石家が、織田家の中枢・羽柴家(豊臣家)内でここまで重用されるようになったのです。

本人も驚きの立身出世だったことでしょう。

しかし……ここで重大事件が勃発します。

【本能寺の変】です。

このとき秀吉が【備中高松城の戦い】で水攻めを行っている最中で、清水宗治の切腹を見届けてから【中国大返し】で京都へ戻り、【山崎の戦い】で明智光秀を討ったのはご存知の方も多いでしょう。

一方、そのころ仙石秀久は、淡路の防御に専心、光秀派勢力の討伐に注力しておりました。

秀久が四国勢に負け、畿内への上陸を許していたら、秀吉が背後を衝かれたかもしれない――それを考えると非常に重要な役割でした。

結果、光秀を討った秀吉は【清洲会議】に臨むのです。

そしてその後、柴田勝家と織田信孝との対立が避けられないレベルにまで加熱し、その影響もあってか、秀久もいったん畿内に戻り、来るべき合戦に備えました。

 


長宗我部相手の四国征伐

柴田勝家vs羽柴秀吉による【賤ヶ岳の戦い】。

秀久は参戦しておりません。

『賤ヶ嶽大合戦の図』(歌川豊宣)/wikipediaより引用

淡路へ戻って四国勢に睨みを利かせていたのです。洲本城主になったのは、このときがキッカケだったのでは?とも考えられています。

ただし、長宗我部氏との間に起きた【引田の戦い】では敗北を喫しており、長宗我部元親との間にある「因縁」は、このときから始まっています。

その後は、秀吉が着手した四国攻めに参加。

長宗我部の軍勢に対して10万とも言われる大軍が四国へ向けられると、秀久は宇喜多秀家・蜂須賀正勝・黒田官兵衛らとともに2万3000の軍勢で讃岐へ上陸しました。

・伊予
・阿波
・讃岐

三方向から攻められた長宗我部元親はここにあえなく降伏し、

長宗我部元親/wikipediaより引用

四国の覇者だった領地は土佐一国にまで減封されてしまいます。

一方、その恩恵にあずかったのが秀久で、彼は讃岐国の大半を領有する国持大名にジャンプアップ。

以後は高松城(一説には聖通寺山城とも)に入り、いまだ敵愾心旺盛な島津氏に睨みを利かせる存在となりました。

こうして見ていくと、秀久の出世は極めて順風満帆。

古参の家臣であるという点を割り引いても、名族ではない生まれでここまで来れたのは、秀吉の功績に大きく貢献していたと考えるべきでしょう。

秀久は、漫画『センゴク』でもそうであるように、どんな場面でも基本的に最前線で体を張る役割を任され、内政よりも武勇型の人物であったことも想像がつきます。

当然、当人にもその自負はあったでしょう。

しかし、皮肉にもこの自信が、自身と長宗我部の未来に影を落とす「あの戦」につながったのではないでしょうか……。

 

九州へ渡った四国勢は初めから危うかった?

順風満帆な人生を送っていた秀久は天正14年(1586年)、九州攻めの先鋒を担う四国勢の軍監として派遣されました。

【主な四国勢】
長宗我部元親
長宗我部信親
十河存保(そごうまさやす)

【軍監】
仙石秀久

この軍勢は、結果論とも言い切れない秀吉の手配ミスでありましょう。

なぜなら彼ら四国軍は出発前から「対立」することが必至の面々。

元親と秀久の因縁について先に触れた通りだけでなく、十河存保(そごうまさやす)と長宗我部元親の間にも過去に対立がありました。

いわば「敵対の三角関係」ともいえる顔ぶれであり、後の大惨事も予見できるものだったのです。

九州へ渡海した秀久らの先鋒隊は、案の定、軍事判断で対立しました。

当時、島津氏の猛攻に晒されていた大友義統(大友宗麟の息子)は彼らに救援を要請しましたが、兵力に大きな差があったことから元親は味方の加勢を待つように主張します。

大友義統/wikipediaより引用

一方、秀久は即座の救援を提案。それに存保も乗ったことで元親の意見は受け入れられませんでした。

秀吉も、原則としては救援を待つように指示していたのです。

にもかかわらず秀久が功を焦ったのは、やはり元親との関係性があると思います。

もし、元親の主張を受け入れてスムーズに進軍できれば秀久の面目は丸つぶれです。逆に自身の立案で戦に勝てば、功績は増すばかり。

ここまで順風満帆な生涯を送ってきた秀吉直属の“エリート武将”ならではの増長があったのかもしれません。自信も度が過ぎれば過信に変わるというか……。

ともかく秀久・存保の意見が通り、いざ島津との衝突へ!

【戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)】の始まりです。

 


戸次川ですべてを失う

いざ島津との戦闘を始めた四国軍。

味方の少なさもあって、大苦戦を強いられました。

島津軍が、彼らの代名詞ともいえる【釣り野伏(敵の正面には少ない兵力を残し、油断した相手に左右から襲い掛かる戦法)】を繰り出した際、元親・存保の反対を押し切って強攻した仙石秀久の判断にも問題があったと言われます。

それだけではありません。

味方の陣営が危機的状況に陥ると、なんと戦を強行したはずの秀久が、戦地を脱し、残された部隊が大混乱に陥ったのです。

結局、十河存保と長宗我部信親が討たれるという大失態。

元親は、将来を見込んでいた後継ぎを亡くすという痛手を負ってしまいました。

長宗我部信親(落合芳幾・作)/wikipediaより引用

秀久の行動は、当然ながら秀吉の逆鱗に触れました。

所領を没収されたうえ高野山に追放されるという、極めて重い処罰が下されたのです。

かくして戸次川の戦いは、秀久の判断によって関わったすべての人が不幸になる後味が悪い合戦となりました。

個人的に「どうしようもない」と言われる戦国武将は擁護したい派の私ですが、このときの秀久ばかりはちょっと擁護が難しいレベル。

ただ前述の通り、そもそも深い因縁がある者同士を組ませた秀吉の「人事責任」も問われなければいけないとは思います。

 

小田原攻めを期に復権し、小諸城主に

高野山に追放された秀久は、すぐに謹慎が解けることもなく苦難の日々を過ごしました。

再起のチャンスがやってきたのは戸次川の戦いから約4年後。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉が関東の北条氏へ攻め込んだ【小田原征伐】が勃発すると、秀久はかつての家臣たちを集めて秀吉のもとへと参上しました。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)

このときは徳川家康のとりなしもあって出仕を許され、持ち前の武勇を生かして戦場でも活躍したと伝わります。

戦後にはかつての罪を許され、旧領回復とならなかったものの信濃国小諸の地に5万石の領地を与えられました。

秀吉としても、最古参の秀久に対して懐かしく愛しい気持ちがあったのでしょう。

戸次川の戦いでの失態を考えると、5万石というのはいささか大盤振る舞いな気もします。

単に懐かしさとかだけではなく、信頼できる部下が一人でも多く欲しかったというのもあるのかもしれません。

その後の秀久は、主に城の普請工事で活躍し、文禄・慶長の役に拠点となる名護屋城、秀吉隠居後の住まいになった伏見城の築城に貢献します。

なお、この伏見城築城に際して「天下の大泥棒」と呼ばれた石川五右衛門を捉えたという伝説が残されています。

石川五右衛門/wikipediaより引用

もちろんこれは単なる伝説に過ぎないのですが、秀久という人物が「大泥棒を捉えられるほどの武勇を誇る人物」として認識されていた可能性を示しており、やはり軍事的なセンスは確かなものがあったのでしょう。

 


家康に接近し秀忠をかばう役目も

しかし秀吉の死後は、秀久も戦国武将らしい行動に出ます。

豊臣方につくのではなく、先の縁もあってか徳川家康に急接近。

関ヶ原の戦いでは小諸城主として、上田城に拠点を置いた真田昌幸・真田信繁親子の備えとして機能しました。

また、彼らとの戦に苦しんだ徳川秀忠隊の殿軍も務め、関ヶ原の遅参で激怒された秀忠の擁護も担当したと言われます。

徳川秀忠/wikipediaより引用

こうした事情から特に秀忠に気に入られ、彼が将軍になると外様大名ながら譜代大名に近い境遇で重用されたといいます。

初代信濃小諸藩主に位置づけられた秀久は城の整備などを行い、慶長19年(1614年)5月6日に生涯を終えました。

享年64。

秀久の生涯を振り返ってみると、やはり「戸次川さえなければ…」と言いたくなってしまいます。

秀吉最古参の家臣として武勇に優れていたことはもちろん、大名復帰後の時流を読む力には確かなものがありました。

しかし、戸次川での失態はあまりにも大きく、現代に至るまでほとんど注目されない戦国武将であったのです。

そんな不遇な状況を一変させたのが漫画『センゴク』ですね。

いくら失敗しても挫けない――。

不屈でありながらユーモラスな人物像として描かれた秀久は非常に魅力的であり、今なお同漫画は戦国ファンを喜ばせています。

ただ残念なことに、史実面から細かい考察を加えた『仙石秀久人物伝』の書籍がありません。

史料の量からして難しいのかもしれませんが、歴史出版社の皆様にはぜひともテーマに選んで欲しい。

そんなミステリアスな仙石秀久であります。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

斎藤道三の肖像画
斎藤道三の生涯|二代に渡る下剋上で国盗りを果たした美濃のマムシ63年の軌跡

続きを見る

斎藤義龍の肖像画
斎藤義龍の生涯|父の道三に負けず劣らず 信長の攻撃を退け続けた実力とは

続きを見る

斎藤龍興の浮世絵
斎藤龍興の生涯|美濃を追われ信長へ執拗に反撃を繰り返した道三の孫

続きを見る

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

豊臣秀吉の肖像画
豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る

続きを見る

【参考文献】
『改選仙石家譜』
『日本大百科全書(ニッポニカ)』
『国史大辞典』
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
WEB歴史街道「戸次川の戦い~長宗我部元親・信親の無念」(→link

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

-豊臣家

目次