小山評定と上杉征伐

左から上杉景勝・徳川家康・石田三成/wikipediaより引用

徳川家

上杉征伐と小山評定からの家康vs三成~関ヶ原が始まる直前に何が起きていた?

2025/07/24

慶長五年(1600年)7月25日は徳川家康が小山評定(おやまひょうじょう)を開いたとされる日です。

景勝率いる上杉征伐のため会津に向かっていた徳川軍に対し、上方で石田三成が挙兵。

これに対抗するため家康が小山(栃木県小山市)で開いた会議のことであり、まだこの時点で【関ヶ原の戦い】になるとは誰も知り得ません。

しかし家康は、豊臣恩顧の武将たちに対し、

「君たち、三成とオレ、どっちにつくの? 妻子を人質に取られてるなら向こうについてもいいけど、争いが終わったときどうなるか、わかるよね?」(超訳)

なんて調子で迫ったと知られています。

あまりに劇的な会議であり「創作であろう」という見方が根強いですが、日本を真っ二つに分けた大戦の前哨戦だけに、色々な思惑があったことは間違いないでしょう。

そこで本稿では、上杉征伐~小山評定という関ヶ原前夜の流れを見ていきたいと思います。

小山評定と上杉征伐

左から上杉景勝・徳川家康・石田三成/wikipediaより引用

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

上杉征伐の始まりは直江の手紙

秀吉が亡くなった後、五大老筆頭として圧倒的に存在感を増していった徳川家康。

当初は家康と仲違いしていたわけじゃない五奉行の石田三成も、

『このままでは徳川の世になってしまう……』

と、緊張感を高めていった最中のことでした。

そんな中、東北では会津に勢力を有していた上杉景勝が、上洛の要請を無視するだけでなく、神指城(こうざしじょう)の整備や武器の搬入など、戦の準備にしか見えないことを開始します。

そして家康へ“果たし状”とも言える手紙を出しました。

直江兼続からの、いわゆる『直江状』です。

直江兼続/wikipediaより引用

直江状は「実在したの?」と真偽が危ぶまれる一面もあり、その詳細は以下の記事に譲りますが、

直江兼続と徳川家康(右)の肖像画
直江状|家康を激怒させた書状には何が書かれていた?関ヶ原を誘発した手紙

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徳川との対決姿勢を鮮明にした上杉の出方については概ね正しく、実際に家康が激昂しているところから存在自体は間違いなさそうです。

かくして景勝&兼続に激怒した家康。

上方にいた大名たちを従え、大坂から会津へ、上杉征伐へ向かうことにしました。

現代の地図で見ると

大坂城~江戸城~神指城まで749kmという途方も無い距離です。

 


徳川軍に加わった豊臣恩顧の武将たち

大軍を率いて会津へ進軍しようとする徳川軍に対し、当然、周囲は右往左往です。

直江状を受け取った時点で家康が滞在していたのは大坂。

五奉行の増田長盛や長束正家、あるいは「豊臣三中老」と呼ばれる中村一氏・生駒親正・堀尾吉晴らは必死になって徳川の挙兵をなだめようとします。

増田長盛/wikipediaより引用

しかし、もはや家康も止まりません。

上杉征伐に向け軍を整え、このとき付き従ったメンバーが後の小山会議で重要になってきます。

井伊直政、本多忠勝、榊原康政、酒井家次(酒井忠次の息子)といった徳川の主力武将は当たり前として、豊臣恩顧の武将も数多く従うのです。

◆上杉征伐に参加した豊臣恩顧の武将たち

浅野幸長
福島正則
田中吉政
池田輝政
堀尾忠氏
山内一豊
中村一忠
黒田長政
加藤嘉明
藤堂高虎
生駒一正
蜂須賀至鎮

福島正則は秀吉子飼いの代表として知られますし、

福島正則/wikipediaより引用

その他のメンバーも当人あるいは父親の代から秀吉に付き従ったコテコテの豊臣派閥ですね。

本来なら一丸となって秀吉の遺児・豊臣秀頼を盛り上げねばならない立場です。

しかし彼らの多くは三成一派に抑えきれない怒りを抱えており、この段階では家康についたのでした。

かくして慶長5年(1600年)6月16日、家康を総大将とした上杉討伐軍はついに大坂を出発します。

 

三成、動く

家康が大坂を発つと、佐和山城で謹慎生活を送っていた石田三成はにわかに動き始めました。

大谷吉継に声をかけ、共同での挙兵を促したのです。

絵・富永商太

吉継は「無謀な計画」だとして反対しますが、決意の固すぎる三成。

もはや止めることはできず、ついに両名は立ち上がり、大名の妻子を無理やり人質に取り「逆賊・家康を討つ!」と言い始めます。

三成らは毛利輝元や宇喜多秀家らの西軍大物も引き込み、各地の大名へ打倒家康の檄文を飛ばしました。

大名の妻子の中には、三成に素直に従った者、こっそり逃げ出した者など色々いましたが、とりわけ有名なのが最後まで抵抗の末に自害したとされるのが細川ガラシャ(細川忠興の正室)ですね。

ちなみにガラシャは明智光秀の娘でもあり、戦国でも屈指の濃ゆい生涯を生きた人でした。

 

伏見城包囲の一報を聞いたのが小山だった

次々に西軍メンバーを整えた三成は早速行動に移します。

慶長五年(1600年)7月18日、家康が上方の留守居に残していた鳥居元忠の伏見城(現・京都府)を攻撃したのです。

鳥居元忠/wikipediaより引用

もともと三成たち西軍の動きは、家康のもとへ続々と連絡が届けられておりましたが、ついに伏見城を囲まれたことが家康に知らされたのが7月24日。

このとき徳川軍は会津の手前である小山まで来ており、

コトここに至って家康は腹をくくります。

上杉ではなく三成と戦うべきか――。

しかし、今、徳川に従っている豊臣恩顧の武将たちも、いざとなったら西軍になびいてしまうかもしれない。

そこで開かれたのが【小山評定】だったんですね。

 


小山評定

会議に参加した豊臣恩顧の武将とは、前述の通り上杉征伐軍に参加した武将たちで、もう一度確認しておきますと彼らです。

浅野幸長
福島正則
田中吉政
池田輝政
堀尾忠氏
山内一豊
中村一忠
黒田長政
加藤嘉明
藤堂高虎
生駒一正
蜂須賀至鎮

上記の中でも中心的存在である福島正則が率先して「家康に味方して三成を倒す!」と言ったことから、東軍参加への流れが決まったと言います。

すると山内一豊もこう続きました。

「(上方へ向かう途中の)我が掛川城を使ってください」

掛川城とは、東海道の途中、遠江国佐野郡掛川(現・静岡県掛川市)にある一豊の居城ですね。

掛川城

これがなにげに大事な申し出でした。

というのも徳川軍が、三成らのいる上方へ進軍するためためには、東海道や中山道を通らねばなりません。

その途中、もしも西軍の城主がいて徳川と対峙したら、家康としても城を陥落させねばならず、なかなか前に進めません。三成の勢力が拡大してしまうおそれがあります。

しかし、一豊が申し出たことにより他の城主も続き、結果、東海道をスンナリ進むことができたのです。

これが重要だったのは、中山道を見ればよりご理解いただけるでしょう。

徳川秀忠の徳川軍が、信州上田の真田昌幸・真田信繁(真田幸村)と戦い(第二次上田合戦)、関ヶ原の本戦に間に合わなかったことはよく知られてますよね。

真田昌幸(左)と真田信繁(幸村)/wikipediaより引用

この一戦のドタバタから、秀忠が時に無能扱いされたりします。

しかし実際は、徳川軍の主力で中山道を制圧する(真田を倒す)ために進軍していた――そんな見方が最近は有力視されているようです。

ともかく豊臣恩顧の武将の意思確認をできた【小山評定】は家康の思惑通りに進んだと言えるでしょう。

 

福島や池田らが岐阜城に攻めかかり

上杉征伐を予定していたところで三成の挙兵。

そこから小山評定を経て進路を変更――。

そう決まった徳川軍は、前述の通り、二手に分かれて進むことにしました。

◆中山道部隊
→徳川系武将の主力

◆東海道部隊
→家康旗本と豊臣恩顧の武将

そして結果的に【関ヶ原の戦い】に発展するのですが、実は、最初から「関ヶ原で戦おう!」だなんて決まっちゃいません。

家康もいったんは江戸に戻って様子見します。

そもそも小山評定で徳川に従った豊臣恩顧の武将たちは、本気で西軍と戦う気があるのか?

いざとなったら裏切るのではないか?

と、確証が持てません。

そこで福島正則や池田輝政を煽って、西軍の織田秀信(三法師)と戦わせたのが【岐阜城の戦い】になります。

 


対上杉には最上や伊達、次男の秀康で備える

福島らの奮闘により、豊臣恩顧の武将たちが本気でヤル気だということはおおよそ見えはしました。

が、家康にとっての懸念はそれだけじゃありません。

背後にいる上杉も恐怖です。

徳川軍が上方へ向けて引き換えしたと知ったら、江戸へ進軍してくるかもしれませんし、さらに関東では、佐竹軍も反徳川の姿勢を見せていました。

家康としても打つ手がないワケじゃありません。

上杉に対しては、最上義光や伊達政宗らの東北大名に牽制させるだけでなく、宇都宮城にも次男の結城秀康を置いて防備を固め、佐竹に対しても目を光らせるようにしました。

伊達政宗(左)と最上義光/wikipediaより引用

結果、東北では

上杉
vs
最上・伊達

という【慶長出羽合戦】が起きたり、他の全国エリアでも東軍一派と西軍一派に分かれてドンパチやらかすなど、まさに日本中が真っ二つにわれたのです。

このことからも関ヶ原の戦いが単なる「家康vs三成」でないことがわかります。

では全国では一体どんな戦いが行われていたのか?

少しだけ見ておきましょう。

 

全国でも行われていた関が原にからんだ合戦

戦国大名を東西真っ二つに分けた関ヶ原の戦い。

全国ではどんな戦いがあったのか?

北からざっくりとリスト化いたしました。

※各合戦の詳細が描かれた記事のリンクも掲載されています

 

【東北】

◆慶長出羽合戦

(東)最上義光&伊達政宗
vs
(西)上杉景勝

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【北陸】

◆浅井畷の戦い

(東)前田利長
vs
(西)丹羽長重

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【東海】

◆岐阜城の戦い

(東)福島正則・池田輝政
vs
(西)織田秀信(旧・三法師)

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◆安濃津城の戦い

(東)富田信高
vs
(西)毛利秀元

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【近畿】

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(東)細川幽斎(細川藤孝)
vs
(西)小野木重勝・前田茂勝

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◆大津城の戦い

(東)京極高次
vs
(西)立花宗茂

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【九州】

◆石垣原の戦い

(東)黒田官兵衛
vs
(西)大友義統

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教科書の【関ヶ原の戦い】では「家康が勝って江戸幕府の下地ができました」としか言いません。

しかし、日本を真っ二つに分けた戦いですから、全国規模で見ると、こんなにも広い範囲で戦が起きていたんですね。

まさに天下分け目です。

中には【杭瀬川の戦い】のように西軍が勝った戦闘もあったり。

杭瀬川の戦い
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上記のガラシャをはじめとして妻子たちの動きもまた、個性のうかがえるエピソードがたくさんあるので、調べれば調べるほど面白い戦でもあります。

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【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
関が原の戦い/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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